第4章
あれから、三日が経った。
例の巨大魔法りんご事件は、結局、村人たちが総出で解体し、アップルパイやらジャムやらコンポートやら、ありとあらゆるリンゴ料理に加工して、三日三晩の宴会を開くことで解決した。
ちなみに、俺はその間、ひたすら薪割りをさせられていた。
もちろん、斧の使い方がわからずに、一本も割れなかったが。
そして今、俺は村の畑のど真ん中で、一本の農具を手に途方に暮れている。
……クワ、だったか?
タロー爺さん曰く、これで土を耕すらしい。
理屈はわかる。
だが、実践が伴わない。
「う、うおお……」
渾身の力を込めてクワを振り下ろすが、硬い地面に弾き返され、腰に激痛が走る。
ダメだ。こんなもの、魔法で地面そのものを破壊した方がよっぽど早い。
いやいや、ダメだ。
俺は農夫になるんだ。
これは、スローライフのための試練なんだ。
俺は自分に言い聞かせ、再びクワを握りしめる。
腰が痛い。腕が痛い。全身の筋肉が悲鳴を上げている。
こんな重労働、ドラゴンとの三日三晩の死闘よりキツいんじゃないか?
「やってられるか、こんなもん……」
俺が弱音を吐き、クワを放り投げようとした、その瞬間だった。
空気が、変わった。
ピリッ、と肌を刺すような感覚。風が止み、鳥の声が消える。
目の前の空間が、まるで陽炎のように、ぐにゃりと歪み始めた。
「……ッ!」
俺の体から、農作業の疲労が一瞬で消え去る。
腰の痛みも、腕のだるさも忘れ、全身の細胞が警鐘を鳴らす。
この魔力の流れ、この世界の法則が軋む感覚。
俺は、これを、骨の髄まで知っている。
これは、時空魔法。
それも、使い手は世界にただ一人。
俺はクワを捨て、臨戦態勢に入る。
農夫アルクの仮面は剥がれ落ち、破壊の魔導師としての本能が、全身を駆け巡る。
まさか。ありえない。
なぜ、ここに?
歪んだ空間の中心が、まるで裂け目を開くように、パカリと割れる。
裂け目の向こうには、星々が流れる宇宙のような、およそこの世のものとは思えない光景が広がっていた。
そして、そこから、すぅっと一人の人影が現れる。
月光を溶かして紡いだかのような、美しい銀の長髪。
夜空の星々を閉じ込めたかのような、神秘的な紫の瞳。
その姿は、俺がこの世で最も憎み、最も知り尽くした、宿敵のもの。
「エルザ……ナイトメア……」
俺の口から、絞り出すような声が漏れる。
時空の魔女は、畑のど真ん中にふわりと着地すると、ゆっくりと顔を上げた。
その紫の瞳が、俺の姿を捉える。
「アルク……フェルナンデス……」
彼女もまた、信じられないものを見るような目で、俺の名前を呟いた。
時が、止まる。
俺たちの間に、数秒間の、しかし永遠にも感じられる沈黙が流れた。
風の音も、土の匂いも、全てが遠のいていく。
目の前にいるのは、殺し合ったばかりの宿敵。
ただ、それだけが、絶対的な事実として俺の脳を支配していた。
なぜだ?
なぜ、お前がここにいる?
ここは、世界の果てのような辺境の村だぞ。
勇者パーティーの誰も、魔王軍の誰も、知るはずのない場所だ。
俺が、俺だけの安息の地として、ようやく見つけた場所なんだ。
罠か?
俺がここに来ることを予期して、待ち伏せていたのか?
だとしたら、あまりにも用意周到すぎる。
俺の行動と思考を、完璧に読み切っていないと不可能だ。
俺が警戒レベルを最大に引き上げ、いつでも破壊魔法を放てるように神経を集中させた、その時。
エルザが、奇妙な行動に出た。
彼女は俺からふいと視線を外し、きょろきょろと周囲を見回し始めたのだ。
「……?」
のどかな畑。小さな家々。遠くに見える、牛。
そして、足元に転がっている、俺が投げ捨てたクワ。
彼女の美しい顔が、困惑に歪んでいく。
その表情は、俺が十七回の戦いで一度も見たことのない、完全に素のものだった。
「……畑? ここは、人間の集落、ですか? 兵士の姿が見えませんが。防壁も、監視塔もありません。こんな無防備な場所で、あなたは何を?」
俺は、彼女の言葉の意味を瞬時に理解できなかった。
俺は、エルザの格好を改めて観察する。
いつもの禍々しい魔女の戦闘装束ではない。
彼女が着ているのは、俺と同じような、質素だが丈夫そうな旅人の服だった。
背中には、小さな革のリュックを背負っている。
そして、俺は自分の格好を見る。
泥だらけのシャツとズボン。手には、さっきまでクワを握っていたせいで、土がこびりついている。
……まさか。
いや、そんな馬鹿な。
天文学的な確率だ。ありえるはずがない。
だが、彼女の瞳には、敵意も殺意もない。
ただ、純粋な「なんで?」という疑問符だけが浮かんでいる。
その瞬間、俺たちの思考は、完全にシンクロした。
「「なぜ、お前がここにいるんだ(いるんですか)!?」」
俺とエルザの、心の底からの叫びが、ノドカ村ののどかな畑に、見事にハモった。
互いに、相手が自分と全く同じ目的で、この世界の果ての、名もなき村に「逃げてきた」という、信じがたい結論に、同時に辿り着いてしまったのだ。
俺の……俺だけのスローライフ計画が。
開始からわずか三日、最も会いたくない闖入者の登場によって、音を立てて崩れ去っていく。
「……勘弁してくれ……」
俺の悲痛な呟きは、青く、どこまでも高く澄み渡った空に、吸い込まれて消えていった。