第3章
王都を抜け出して、ひたすら歩くこと数日。
俺はついに、目的の場所を見下ろす丘の上に立っていた。
「……ここか」
眼下に広がるのは、まさしく絵に描いたような田舎の風景だった。
なだらかな緑の丘に囲まれた、小さな盆地。こぢんまりとした藁葺き屋根の家々が寄り添い、その周りには豊かな畑が広がっている。
畑の間を縫うようにして流れる小川は、太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
風が、土と草の匂いを運んでくる。
遠くからは、牛か何かののんびりとした鳴き声が聞こえた。
これだ。これこそ、俺が求めていた光景だ。
戦いも、魔法も、英雄の責務も、ここにはない。
あるのは、ただ静かで、穏やかで、退屈なほどの平和。
「最高じゃないか……」
自然と口元が緩む。俺は丘を駆け下り、期待に胸を膨らませながら、村への一本道を進んだ。
村の入り口には、「ようこそノドカ村へ」と書かれた、手作り感満載の木の看板が立っている。
いい。この寂れた感じが、またいい。
俺が村に足を踏み入れると、畑仕事をしていた村人たちが一斉にこちらを向いた。
その視線は、好奇心に満ちている。
「おや、見かけねえ顔だな」
「旅の方かい?」
一人の恰幅のいいおばちゃんが、人の好さそうな笑顔で近づいてくる。
「ああ。少し、この村で世話になれないかと思ってな」
「まあ、そりゃあ大歓迎だよ! 何もない村だけど、ゆっくりしていきな!」
おお、なんて温かい歓迎。この素朴な優しさが染み渡る。
「あんた、ずいぶん長いこと歩いてきたんだろ? 喉が渇いてるんじゃないかい。そこの井戸の水でも飲んでいきな」
「本当か? 助かる」
おばちゃんが指さす先には、石造りの立派な井戸があった。俺は感謝を述べ、意気揚々と井戸へと向かう。
そして、固まった。
……井戸?
どうやって使うんだ、これ。
目の前には、滑車にかけられた一本のロープと、その先についた木の桶。
俺は腕を組んで、目の前の構造物を分析する。
なるほど。おそらく、この桶を井戸の底まで下ろし、水を汲んで、引き上げる。
そういう構造だろう。理論はわかった。
問題は、実行方法だ。
俺は恐る恐るロープを掴み、桶を井戸の中へと下ろし始める。
ゴットン、と鈍い音がして、桶が水面に達したようだ。
よし、第一段階はクリア。
次に、この桶に水を入れる必要がある。
どうする? 魔法か?
いや、ダメだ。俺はもう魔法使いじゃない。
ただの旅人アルクだ。
俺はロープをガチャガチャと揺らしてみる。中で水が跳ねる音がする。
これでいいのか?
そして、最後の難関。引き上げだ。
俺は渾身の力を込めて、ロープを引っ張る。
「……お、重い……」
マジかよ。水ってこんなに重いのか。
俺の腕は、魔法の行使には最適化されているが、物理的な筋力は赤ん坊同然だ。
全身がプルプルと震え、額から汗が噴き出す。
「にいちゃん、何やってんだい?」
「水を汲んでいる!」
「いや、桶がひっくり返ったままだよ?」
見ると、水面から引き上げた桶は綺麗に逆さまになっており、汲んだはずの水は一滴残らず井戸の中へと帰っていた。
「……」
俺は無言で天を仰いだ。
ダメだ。生活能力が、幼児レベルどころかマイナスだ。
こんなことで、俺のスローライフは大丈夫なんだろうか。
「わはは、面白い若者じゃのう」
朗らかな笑い声と共に、一人の老人が現れた。
好々爺といった風貌で、腰は曲がっているが、その眼光は妙に鋭い。
「村長のタローじゃ。お主、旅の者かい?」
「あ、ああ。俺はアルク。しばらく、この村に滞在させてもらえないだろうか」
「かまわん、かまわん。見ての通り、何もない退屈な村じゃがな。ほれ、水くらい汲んでやろう」
タローと名乗った村長は、俺が四苦八苦していたロープをいとも簡単に操り、なみなみと水の入った桶を軽々と引き上げてみせた。
そして、木のコップに注いで渡してくれる。
「すまない……助かった」
「気にするな。都会の若者は、井戸の使い方なんぞ知らんじゃろうて」
俺は冷たい水を一気に飲み干す。乾いた喉に、命の水が染み渡る。
その時だった。
「きゃーっ! 大変よ!」
村人の一人が、畑の方を指さして悲鳴を上げた。
そちらに目をやると、信じられない光景が広がっていた。
畑の一角にある、リンゴの木。
その一本だけ、異常な速度で成長している。
そして、その枝についていた一つのリンゴが、ぐんぐん、ぐんぐんと巨大化していくではないか。
「ま、魔法りんごが暴走してるだ!」
「このままだと、畑が潰されちまう!」
村人たちが慌てふためく。
リンゴは、あっという間に家ほどの大きさになり、自重に耐えきれなくなった枝がミシミシと音を立て始めた。
俺は、即座に状況を理解した。
あれは、魔力が異常凝縮した結果だ。
何らかの原因で、土地の魔力が一点に集中し、あのリンゴを触媒にして暴走している。
解決策は、簡単だ。
指先一つで、ごく小規模な破壊魔法を放てばいい。
リンゴに宿った余剰魔力の概念だけを、ピンポイントで破壊する。
そうすれば、リンゴは元の大きさに戻り、畑も無傷だ。
だが――ダメだ!
俺はもう、魔法は使わないと決めたんだ!
ここで魔法を使えば、俺がただの旅人じゃないとバレてしまう。
スローライフ計画が、初日にして頓挫する。
「うおおおお……!」
俺は頭を抱えて葛藤する。目の前で起きているトラブル。
それを解決できる、圧倒的な力。
だが、使えない。
なんてことだ。
スローライフってのは、こんなにもどかしいものだったのか!
俺が一人でうんうん唸っている間にも、魔法りんごは限界まで膨れ上がり、今にも破裂しそうに赤く光っている。
「ああもう! 俺は、平穏に暮らしたいだけなんだってのに!」
俺の心の叫びは、パニックに陥った村の喧騒に、虚しくかき消されていった。