第2章
鼻をつく消毒液の匂いと、やけに糊の効いたシーツの感触で、俺は現実へと引き戻される。
あの戦いから、三日が経っていた。
場所は王都近郊にある、勇者パーティー専用の宿舎。
豪華な天蓋付きのベッドの上で、俺は全身に巻かれた包帯を眺めながら、深いため息をついた。
魔力欠乏による倦怠感と、全身の打撲がまだ痛む。
だが、そんなものより、心が重かった。
「英雄の凱旋、か。笑わせる」
独りごちて、窓の外に目をやる。空はどこまでも青く、平和そのものだ。
あの死闘が、まるで嘘だったかのように。
コンコン、と控えめなノックの音。
返事をする前に、扉が開かれる。
「アルク、体の調子はどうだ?」
入ってきたのは、俺の相棒である聖騎士カイルだった。
陽光を反射して輝く白銀の鎧は、今日も今日とて一点の曇りもない。
その真面目すぎる性格が、鎧にも乗り移っているかのようだ。
「見ての通り、包帯まみれの病人だ。少なくとも、次の戦場に出れる状態じゃない」
「わかっている。君にはゆっくり休んでほしい。だが、一つだけ頼まれてくれないか」
カイルは俺のベッドサイドに椅子を引き寄せ、真っ直ぐな瞳でこちらを見つめる。
その瞳は、正義と誠実の色に満ちている。
昔は、その真っ直ぐさが頼もしいと思っていた。
だが、今の俺には、それが少しだけ、息苦しい。
「戦果報告だ。エルザ・ナイトメアとの戦闘記録を、正式な書類として提出する必要がある。君の報告書がなければ、我々の戦果が正式に認められないんだ」
ほら、来た。
俺は内心で悪態をつく。戦果、報告書、正式な手続き。
こいつの頭の中は、いつだってそういうものでいっぱいだ。
「大したことじゃない。いつも通り、ド派手な魔法を撃ち合って、相打ち。それだけだ」
「そんなはずはないだろう! あの峡谷が半壊していたぞ。君たちがどんな魔法を使ったのか、彼女がどんな新しい手を使ってきたのか、詳細な記録がなければ次からの対策が立てられない」
対策、対策、対策。
次、次、次。
俺たちは、いつまで「次」を続ければいいんだ?
俺はカイルとの会話を半ば放棄して、再び窓の外に視線を向けた。
宿舎は小高い丘の上にあり、眼下には王都に続く街並みが広がっている。
そこには、俺が命を懸けて守っているはずの「日常」があった。
パン屋の煙突から、香ばしい匂いと共に煙が立ち上っている。
市場では、商人たちの威勢のいい声が響き渡っているんだろう。
洗濯物を干す母親と、その周りをきゃっきゃと笑いながら走り回る子供たち。
手をつないで歩く、若い男女の姿も見える。
彼らは、魔法なんて使えない。
魔王軍が攻めてくれば、なすすべもなく殺されるだろう。
だから、俺たちが戦う。俺たちが、その平和を守る。
――本当に、そうか?
俺は、本当に彼らを守りたくて戦っているのか?
いつからか、戦うことが目的になっていやしないか。
魔女を倒すこと、魔王軍を殲滅すること。
その先に、一体何がある?
俺が欲しいのは、勝利の栄光なんかじゃない。
あの、パン屋の親父が焼く、素朴なパンの味だ。
市場の喧騒の中で、訳のわからないガラクタを値切る楽しみだ。
名前も知らない誰かと、くだらないことで笑い合う、そんな時間だ。
「アルク? 聞いているのか?」
「……ああ、聞いてるよ」
俺は生返事をしながら、心に決めた。
もう、たくさんだ。
英雄なんて、誰か他の奴がやればいい。
「報告書は、後で適当に書いておく。少し、疲れた。一人にしてくれ」
「……わかった。無理はするなよ。君は我々人類の希望なんだからな」
カイルはそう言って、少し心配そうな顔をしながら部屋を出ていった。
人類の、希望。
その言葉が、ずしりと重い枷のように、俺の肩にのしかかる。
その夜。
俺は壁にかけられた戦闘装備に手を伸ばす。
「破壊の魔導師」のために特別に誂えられた、黒を基調としたローブ。
魔力伝導率を極限まで高めたミスリル銀の装飾。
数々の魔法が付与された、もはや国宝級の代物だ。
俺はそれを、何の未練もなく脱ぎ捨てた。
まるで、分厚い皮膚を一枚、剥ぎ取るような感覚。
驚くほど、体が軽い。
代わりに、クローゼットの奥から、使い古した旅人の服を引っ張り出す。
丈夫なだけの、何の変哲もないシャツとズボン。
こっちの方が、よっぽど俺にはしっくりくる。
荷物は最小限だ。
革袋に、なけなしの金貨と、保存食をいくつか詰め込む。
杖も、魔導書も、魔法のアイテムも、全て置いていく。
これからの俺に必要なのは、そんな大層なものじゃない。
最後に、机の上に一枚の羊皮紙を置いた。
そこには、たった二行だけ。
『しばらく休暇をもらう。
探さないでくれ』
書き置きなんて、気休めに過ぎない。
カイルのことだ。血眼になって俺を探すだろう。
だが、それでも良かった。
俺はもう、誰の期待にも応えるつもりはない。
窓枠に足をかけ、夜の闇へと身を乗り出す。
ひんやりとした空気が、火照った頬に心地いい。
眼下に広がる街の灯りが、まるで俺を誘っているかのようだった。
「待ってろよ、俺のスローライフ」
誰に言うでもなく呟き、俺は音もなく地面に降り立った。
目指すは、人里離れた辺境の地。
地図で見た、誰も知らないような、小さな村。
英雄「破壊の魔導師」アルクは、今夜、死んだ。
ここから始まるのは、ただの男、アルクの、静かで平和な第二の人生だ。