第1章
「――もう、うんざりだ」
俺の口からこぼれたのは、勇者パーティー最強の魔法使い、通称「破壊の魔導師」アルク・フェルナンデスにはあるまじき、あまりにも情けない本音だった。
空気が悲鳴を上げ、大地が砕け散る。
視界の先、銀髪を夜風になびかせ、凛として立つ一人の魔女。
元魔王軍最強にして、俺の生涯における唯一無二の宿敵。
「時空の魔女」エルザ・ナイトメア。
互いに満身創痍。魔力はとっくに枯渇寸前。
それでも、俺たちは睨み合っていた。
これで、十七回目の対峙だ。
「まだやりますか、破壊の魔導師。いい加減、諦めたらどうです?」
澄まし顔で言い放つエルザの声は、空間そのものを震わせる。
時空魔法の使い手である彼女は、常に自らの周囲の空間を掌握している。
一見、ただ立っているように見えて、その実、足元は異次元に固定され、手元は別の空間に接続されている。
常人ならば、彼女に触れることすら不可能だろう。
「そっくりそのまま返すぜ、時空の魔女。いい加減、俺に破壊されてくれ」
俺は軽口を叩きながら、指先に最後の魔力を集中させる。
チリチリと空気が焦げる匂い。
俺の専門は、森羅万象、ありとあらゆる概念を「破壊」する魔法だ。
存在を消し、法則を砕き、因果律すら断ち切る。
――だというのに。
どういうわけか、この女にだけは、それが通用しない。
「お互い、しぶといですね」
「全くだ。いい加減、どっちかが倒れりゃいいのにな」
皮肉を込めて笑い合う。だが、その目は笑っていない。
互いの次の一手を、コンマ一秒の誤差もなく読み切ろうと、神経を極限まで研ぎ澄ませている。
十七回。十七回も、俺たちはこうして殺し合ってきた。
最初のうちは、互いに未知の相手だった。
俺の破壊魔法に、エルザは驚愕の表情を浮かべた。
彼女の時空魔法に、俺は初めて肝を冷やした。
だが、回数を重ねるうちに、奇妙なことが起き始めた。
互いの手の内が、手に取るようにわかるのだ。
エルザの左の眉がピクリと動く。
――来る。時間停止だ。
俺は思考のコンマ一秒前に、カウンターの破壊魔法を起動する。
俺の周囲に展開される時間停止の術式そのものを、発生と同時に破壊する。
「させません」
「させるかよ」
時間が軋む音。停止しかけた世界が、俺の破壊によって無理やり正気を取り戻す。
その反動で、空間に亀裂が走った。
だが、エルザは揺るがない。時間停止が防がれることなど、百も承知。
彼女の本当の狙いは、俺がカウンターに意識を向けた、その一瞬の隙。
「『次元断絶』」
虚空から、空間そのものが刃と化した不可視の斬撃が、俺の首筋に迫る。
常人なら、いや、並の魔法使いなら、自分が死んだことすら理解できずに絶命する一撃。
だが、俺は十七回、この女と戦っている。
「『概念破壊・空』」
俺の呟きと同時、斬撃が存在した座標そのものが「無」に書き換わる。
エルザの魔法は、当たるべき対象を見失い、虚空へと消えた。
「……チッ」
舌打ちが聞こえる。どうやら、今度こそ決まると思ったらしい。
甘いんだよ、エルザ。
お前がその魔法を放つ直前、ほんのわずかに魔力の流れが左に偏る癖、とっくに気づいてるんだ。
だが、それは彼女も同じこと。
「あなたの悪い癖。カウンターが決まると、一瞬だけ息を吐く」
しまった、と思った時にはもう遅い。
俺の足元の地面が、忽然と消える。
時空魔法による空間転移。
落下する俺の眼前に、超圧縮された空間の弾丸が三つ、寸分の狂いもなく撃ち込まれる。
「ぐっ……!」
咄嗟に防御障壁を展開するが、間に合わない。
俺の得意とする破壊の障壁は、あらゆる攻撃を原子レベルで分解するが、発動にコンマ一秒のタイムラグがある。
その弱点を、この女は知り尽くしている。
衝撃が体を突き抜ける。
血反吐を吐きながら、俺はそれでも無理やり体勢を立て直し、落下しながら反撃の魔法を編み上げる。
「しつこい!」
「お互い様だ!」
俺の指先から放たれた破壊の光線が、エルザの創り出した時空の盾に激突する。
そこで、まただ。
また、あの奇妙な現象が起きる。
俺の破壊魔法と、彼女の時空魔法。
本来、水と油。決して交わるはずのない二つの系統。
それがぶつかり合った瞬間、ありえない調和を奏で始めたのだ。
破壊の力が時空の歪みを増幅させ、時空の歪みが破壊の力を異常な範囲に拡散させる。
ただの激突が、相乗効果を生み、連鎖反応を引き起こす。
結果として生まれたのは、絶望の峡谷そのものを揺るがすほどの大爆発。
俺たちの足元の大地が、ごっそりと抉り取られ、巨大なクレーターが出現する。
「……はぁ、はぁ……」
「……ぜぇ、ぜぇ……」
爆風と土煙の中、俺とエルザはクレーターの両端に吹き飛ばされ、膝をついていた。
どうなってやがる。
俺の魔法は、対象を「消す」ための力だ。こんな派手な爆発を起こすような、大雑把なものじゃない。
エルザの魔法だって、空間を「操る」ための精密な術のはずだ。
なのに、俺たちが戦うたび、二人の魔法が組み合わさるたび、こんな風に予測不能な大災害が起きる。
まるで、俺とエルザという二つのピースが揃った時だけ、とんでもないパズルが完成してしまうかのように。
「もう……終わりにしませんか」
エルザが、か細い声で言う。その顔は疲労で青白い。
「ああ……そうだな。終わりにしよう」
俺も同意する。
もう限界だ。
体も、精神も。
この戦いに、意味なんてあるのか?
この女を殺して、英雄として讃えられたいのか?
違う。
俺が欲しいのは、そんなものじゃない。
ただ、静かに暮らしたい。
魔法のことなんて忘れて、朝起きて、畑を耕して、夜は星を眺めて眠る。
そんな、ごく普通の、退屈な毎日。
――スローライフが、したい。
心からの願いが、口をついて出そうになった、その時。
俺とエルザは、同時に顔を上げた。
これが、最後の一撃。
残った全ての魔力、全ての存在を賭けて、互いの最大魔法を叩きつける。
「『終焉を告げる黒き陽』!」
「『世界を閉じる刻の牢獄』!」
俺の放つ、全てを無に帰す破壊の球体。
エルザの放つ、因果律ごと対象を封印する時空の檻。
人類最強の矛と、魔族最強の盾が、今、激突する。
勝敗は、つかない。
予想通り、二つの究極魔法は互いを完全に打ち消し合い、凄まじい光と衝撃波を撒き散らした。
世界から音が消え、色が消え、俺の意識もそこで途切れた。
……。
……。
どれくらい時間が経ったのか。
ああ、そうか。また引き分けだったか。
霞む視界の中、俺は見た。
瓦礫の中に倒れ伏し、同じように疲労困憊の表情で、空を見上げている銀髪の宿敵を。
その瞳は、ただ、静かな空を映していた。
その瞬間、俺は確信した。
この女も、俺と同じだ。
もう、戦いなんて、うんざりなんだ。
俺は、英雄になんかなりたくない。
ただ、平穏なスローライフがしたいんだ。
俺は固く、固く、決意した。
こんな戦場、今すぐにでも抜け出してやると。