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『ごめん、仕事が入って、遅れて行くことになりそう』
『大丈夫だよ、先に入っているね』
先刻送った携帯のメッセージアプリを閉じて息を吐いた。
地下鉄の乗り換えも便利な大きな駅から徒歩五分。新しい建物の匂いにアルコール消毒と、蘭の花の香りがする待合室で待つこと一時間。幼馴染との約束の時間は三十分過ぎていた。取引先で携帯を触り続けるのも憚られて、俺はただじっと腕時計を見つめている。
数分前に親子が会計を済ませて帰っていったので、そろそろだとあたりをつけてから七分経った頃だった。
「朝井くん、待たせちゃってごめんね。急患で」
紺のスクラブ白衣の医者が頭をかきながら申し訳なさそうに言った。
彼は中嶋先生という。年は多分一回りくらい上で、感じのいいハキハキとした男性だ。
彼との約束の時間は診察時間の終わる頃。受付が閉まるか否かそんな時に、滑り台から落ちたという子どもを抱えた母親が駆け込んできた。母親はかなり取り乱していて、受付の看護師が受け付けるか否かを迷っていたところ、顔を出した中嶋先生が「一旦診察しよう」と嫌な顔せず受け入れたのだった。
緊急ならば、オペ室のないこの病院ではなく救急車を呼ぶべきではと思ったが、緊急性のないことの確認が必要だったようだと長い待ち時間の間で気がつく。
トリアージというものなのだろう。
よくよく観察すれば出血もしておらず、子どもは泣いたような涙のあとはあったがケロッとしており、念のため受診という形になったようだ。
「いえ、中嶋先生の問診の様子を少し見学させていただきましたし、正常に検査機器が動いているのをみられて良かったです。今後ともよろしくお願いします」
俺は、医療機器やら楽器やら、精密機械を幅広く取り扱っている大手メーカーに勤めている。名刺の朝井研磨という名前の上には営業課と印字されていて、新人はまずは営業課へという会社の方針に耐える事二年。本来なら開発志望だったが仕事にも慣れ、最近ようやく取り付けた契約だ。
自分の企業名の入った蘭の植木鉢は一番いい位置に置いてもらっている。
「改めて、開業おめでとうございます」
「君のおかげで準備も捗ったよ」
「お力添えできたなら、よかったです」
「お父さんにもよろしくね、と言ってもあんまり会わないだろうけど」
自分の父親は総合病院の内科医で、彼の研修はその病院に行っていたそうだ。
父とも面識があり、目元と福耳なところが似ているとのことで気がついたらしい。
「医局に飾ってある君の五歳の誕生日と高校卒業式の写真しか見たことなかったのにわかったのすごくない?」
と中嶋先生は笑っていた。
話を聞いたとき二枚ともどんな写真か見当がつかない。母親は小ニで出ていっているし、親子仲も良好とは言えないのを察してかそれ以上の話題はなかったのだが。
今思い起こすと、高校卒業の写真はかんなママが気を利かせて両親に送ってくれたのかもしれない。卒業式の日程を父親に連絡してないことがバレて、急遽かんなママとパパとかんなが学校や仕事を抜けて駆けつけてくれた。
「私立って卒業式が早いのね。うっかりしていたわ。でもかんなの卒業式と日程が違ったからみんなで来れてよかった」
卒業式が終わる頃を見計らって校門で待ってくれていたから、その時かんなと写真を撮ったような気もする。その日のうちに携帯にデータが送られてきた気がするけど、保存したかの記憶もないし、父親の職場にあるというその写真は一生見ることはないと思う。
『今向かってる』
かんなに携帯で作っておいたメッセージを送信した。
病院から出てスーツのままだけれど、かんなと申し込んだゲームの座談会会場に向かう。
流石に間に合わないけれど、限定グッズも貰えるらしいので、いかなくてはいけない。
かんなはそういうグッズは保存用がなかったら使えないタイプだから、もらっておいた方がいいはずだ。
電車で三駅ほどなので、そんなに遠くはない。コツコツと革靴を鳴らしながら早歩きで向かっていく。
ICカードを改札に通して、もう着くと連絡しようとした時だった。
『緊急地震速報です、緊急地震速報です。強い揺れに注意してください』
持っていたスマートフォンがけたたましい警告音を鳴らす。
その警告音は街ゆく人の携帯からも聞こえて、辺りの人が一斉に携帯に注目した時だった。
ドッという地面が割れるような音の後、グラグラと地面が揺れる。
すれ違う人が足を止め、誰かが悲鳴をあげた。
「地震だ!」
何かが崩れ落ちる音が響き、咄嗟に周りに倒壊物になる恐れのあるものがないかを確認して、しゃがんで揺れが収まるのを待った。
ほんの一分くらいだろうか。地面の揺れは無くなったけれど、電線は揺れている。
「ね、あれ停電してない?」
すれ違ったカップルが、ビルの方を見て言った。
俺も同じように目をむける。大きなビルは、耐震構造故か、揺れを逃すようにゆったりと小さく揺れていた。そのビルは目的地の、幼馴染がいるビルだった。確かに、窓から見える全部の明かりが消えている。
「今震度五くらいなかった? やばくない?」
「こういう時どうするんだっけ? 現金と水の確保?」
「避難の前に携帯の充電が先かも」
「また強い揺れが来るかもしれないね」
近くのカップルがそう話している。
今日に限って、仕事が長引いた。待ち合わせに遅れてしまった。なんだか嫌な予感がする。幼馴染のかんなに電話をかけようとする指は、誰かの大声で止まった。
「安全を確保してください!」
声の主は停電していたビルの警備員のようだ。
ビルの自動ドアが開かず、中から手動で開けていた人が、ビルから飛び出してきたのだ。
耐震構造はされているだろうが、ビルの中でも揺れを感じたらしい。出てくる人の表情はみな強張っていて、緊急事態を物語っている。
避難する人たちの中にかんなの姿はなかった。
「余震に気をつけて避難してください!」
警備員が叫んでいる。ゾロゾロと避難していく人の中にジェムストーンのロゴのついた袋を持っている人がいた。座談会に参加した人々に違いないと目を凝らしたが、それでも、かんなの姿はない。
「なるべくビルから離れてください」
立ち尽くしていた俺に、警備員が声をかける。
「あの、知り合いがまだ中にいるようなんです」
「じきに皆さん外に出られます。あなたも早く」
警備員は通路を開けろと言わんばかりに促した。警備員の視線の先には近くの公園への避難看板がある。
でも避難している場合ではないと直感した。
「すみません、確認してきます」
「避難勧告が出ています、戻ってください、おにいさん!」
警備員を振り切って、俺は走った。エレベーターが止まっているので、人の波の切れ目をぬって非常階段を駆けあがる。
座談会の会場はビルの最上階。何階建てのビルかなんて考える間もなかった。
十何階もの規則的な段差を上り切って、ようやく階段が途切れた。重い防火扉を開けて、小奇麗な広い廊下に出ることができた。エレベーターの前の壁には座談会はこちらというポスターがあり、その矢印に沿って足を進める。
階段を駆け上がって早くなった鼓動と不安が相待って、心臓の音が大きく感じた。
「かんな!? 環菜!!」
ここ数年で一番大きな声を出しながら、目につく扉を全部開けて、人がいないかを確認していった。
ほとんどの部屋はがらんとしていたが、一番奥の部屋に人の気配を感じて、環菜がいて欲しいようなもうどこかに避難して欲しいような、そんなぐちゃぐちゃな気分でドアを開けた。
「かんな!」
部屋の奥に、人影があった。
かんなだ!
小さなコックピットのなかのマッサージチェアのようなゴツい椅子に、ゴーグルをつけて横たわっている。眠っているのか、意識がないのかと駆け寄って肩に触れた時だった。
「ダメです! 今触らないで!!!」
入ってきた扉の方から、ゼーゼーと肩で息をしながら、たくさんの電子機器を持った男が入ってきた。
「は、あなた、だれですか? かんなは、なんで寝てるんですか?」
「今、選択を間違えたら彼女は二度と目覚めないかもしれません」
男は汗をかいていて、自分と同じように階段を上がってきたのかもしれない。スーツのジャケットを脱いで、かけていたずれた眼鏡を押し上げた。それから持ってきた電子機器を丁寧に並べながら、俺に言う。
「まずは落ち着いて、コードから手を離して」
「は、」
男は、俺を刺激しまいとゆっくり言葉を発した。あたかも、俺が強盗のような、そんなそぶりだ。
「参加されるはずの、岩田環菜さんの……お知り合いのかたですよね」
「はい、朝井、朝井研磨です」
「私は主催者の、真咲です」
真咲という男は、俺の横を通ってカンナの座っている椅子の傍まで来た。持っていた機器を、環菜のゴーグルが繋がっている機械に繋ぎながら話している。
「彼女は最新機の体験中、さきほどの地震に遭いました。ご存じとは思いますが、このビルは今停電しています。しかしこのゲーム機には緊急電源が備わっており万が一に備えてありました。地震の際も安全装置が働いて強制ログアウトになったはずなのです」
「でもそれができなかった? 彼女はいま意識はないですよね?」
「本来であればゲームの世界から意識がこちらに戻るはずなのに、何故かログアウトができない状態になっています。そもそもログアウトできない状態になるはずはない。このゲームにそもそもそんな強制力はないのです」
真咲はカチカチと繋いだキーボードを叩きながら、低い声で呟く様に言う。
「なんで…っ」
「今、私が対処できること、緊急で原因を解明するプログラムを作成しています。ゲーム開発部にも片っ端から招集をかけました。なんとか、します」
「なんとかって、もしなんとかならなかったら」
かんながいなくなる? たかがゲームのせいで?
そんなこと、あっていいはずがない。
「安全性のテストは何度もしていました。現代の家庭用ゲームで、こんなこと起こり得るはずがない。原因はわからない、完全クリアのエンディングを迎えるしか方法が思いつかない」
言っている意味がわかりますか?と、真咲の目が訴えかける。真咲の目は冗談を言うなんて要素はなく、その言動が真実であるということを物語っていた。
完全クリアとは、ジェムストーンのコレクション機能のアルバム用の写真を集めるという機能だ。
完全クリアをすると、『ゲームを続けますか?』というセリフが出てきて、それを『いいえ』にするとセーブデータが消えるという都市伝説があった。都市伝説と言われているのは完全クリアが難しくて誰もたどり着けなかったからだ。
「私が中に入って原因解明と救助を務めます。もし、戻って来れなかった場合は、救急車を呼んでください」
真咲は、プリントを見ながらカタカタとキーボードを鳴らしてテキパキとゲームの中に入る準備をしているようだった。
びっしりと文字の書かれたプリントは、ゲームの設定資料だった。小さい頃かんなと何度も何度もゲームをプレイして、手探りで攻略法を探していた、そのゲームの資料。
コントローラーを握って、テレビの画面を見るあの頃のかんなの横顔が浮かぶ。
攻略本をずっと取っておいたのは、かんなと二人で過ごした時が自分の人生の中で一番輝いている宝石みたいな時間だったからだ。
「俺が行きます」
「え?」
「俺がゲームをします。エンディングを迎えるって、ベストエンディング以外はゲームが続いてしまいますよね?」
「そうなります……ね」
「俺はこの装置のことを知らない。けど、ゲームは何度もしたことがあります。だからあなたが外でサポートしてくれた方が完全クリアの可能性が高まる。もしその前に目覚めたり、原因がわかって脱出できたりすればそれに越したことはないし」
外からは救急車のサイレンの音が鳴り響く。地震で怪我をした人が多いのかもしれない。
すぐに救急車を呼んだとしても待たされる可能性もある。
だったら、まずは自力で解決を試みたほうがいいのかもしれない。医療だって解決にはならない可能性もあるのだから。
「念のため、私の父が務める病院と、信頼のおける脳外科医の名刺を置いておきます。環菜がどんな状況かはわからないけど、今はただ眠っている様に見えます。タイムリミットは多く見積もって五時間。呼吸や心拍の停止などの命の危険が見られた場合はすぐに救急車を呼ぶなど、通報してください」
「いいのかい」
「はい」
脱水症状を防ぐために、渡されたペットボトルのお茶を飲んだ。
それから環奈の頬に触れ、温かい肌の感覚にひとまず胸を撫で下ろす。
体温はきちんとあり、呼吸も今のところ安定しているようだ。
真咲といくつか打ち合わせをする。
「連絡手段が欲しいので、例えばあなたからの指示はポストに届くようにして欲しい。こちらからの要望を聞けるシステムを作ったりできますか」
「開発チームが来たら頼んでみます。ただそのような変更が彼女にどのような影響を与えるかわかりませんし、いつになるかも、そもそもできるのかも分かりませんが」
「大丈夫です。一番は彼女の安全です」
真咲が用意したもう一つのゴーグルを受け取って、深呼吸した。走って上がった心拍数は落ち着いていて、緊急事態というのに頭は妙に冷静だ。
「本当にいいのですか?」
真咲が低い声で聞く。
不安と怒りが心を冷やすけれど、やるべきことをやるしかないのだ。だって。
「彼女は世界一大切な人なので」
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