第二王子の告白を断った一途な公爵令嬢は、追放先で本当の愛と再会する
これはソフィアが6歳の時、そうだ初めて父親から婚約の話を持ち出された時だった。
相手の名前なんてほとんど覚えてない。でも確か一緒にピクニックに行って、夏の日差しの中を散々連れ回された。
赤髪で色白で小太り、お世辞にもカッコいいとは言えない歳上の男の子。しかも、あろうことか公爵令嬢であるソフィアを持ち上げて赤子にするように持ち上げてぐるぐると振り回したのだ。
*
そして日々はすぎ、風が冷たく感じられてきた頃。
「俺は絶対にソフィーを幸せにする! 何があってもそばにいる! だから、俺と婚約してほしい」
ソフィアの華奢な手を鷲掴みにされ、はめられたのはサイズの合っていないただの指輪。
ソフィアなのに『ソフィー』と呼ばれ、紳士のしの字もないような態度はまるでソフィアを公爵の令嬢だとは考えていない。
物語の結末のような、ロマンチックさなど微塵もない素朴な申し込み。
なのに、なのにすごく嬉しくて、でも恥ずかしさが勝って逃げ帰ったのを覚えている。
彼とは、それ以来会っていない。
お父様もお母様も、彼の話をすると嫌な顔をしていた。
でも、あの夏の甘美な経験はソフィアの胸の中にずっとある。
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翌月に戴冠式を控えた王国の第二王子、アレン・ユークリッド様の誕生日パーティには国中の大貴族が集い、会場はお祝いムードで包まれていた。
華やかなドレスで着飾った貴族たちと、それを照らす巨大なシャンデリア。
誰もが会話に花を咲かせている。
ソフィアの父、ザカリウス公爵のもとには彼が紋章院の大臣へ就任したことを聞きつけた貴族たちが集まっていた。
その横に、ソフィアもいる。
「すまないがこれから娘と話がある。挨拶はまた今度にしていただけますかな」
公爵の声は、穏やかなのに圧があった。貴族たちは愛想笑いを浮かべて霧散していく。
「いいかいソフィア。アレン王子との婚約は一族の名誉だ。お前も、そろそろ前を向いて生きるべきなのではないかな。......辛いのはわかるさ。権力争いに巻き込んですまない」
公爵は沈んだ顔でそう諭す。
「......はいお父様。ですがご氏族のため......なのですものね」
王国で最も権威のある紋章院の大臣となった父の顔に泥を塗るようなことはできない。ソフィアは顔に笑顔を貼り付けて頷き、父の反応を窺った。
公爵に少し笑顔が戻る。
『なんだよその作り笑顔。他の奴らには通用するかもしれないけど、俺には通用しないぜ? 俺の前では本音で笑えよな!』
ソフィアを公爵令嬢としてではなく、ひとりの少女として扱ってくれた赤髪の少年の言葉が脳裏をよぎった。
......やっぱり、貴方以外誰も気づいてはくれませんよね。
司会者に呼ばれ、ソフィアは重い足取りで壇上へと上がる。
壇上にはここ数ヶ月ソフィアを何かと気にかけていた本日の主役、アレン王子がいた。
階段を登り切り、中央へと連れてこられたソフィアの前でアレン王子が静かに膝を折る。
「ああ、愛しのソフィア姫。貴女と出逢えたのはきっと神の思し召し。我が妃となり、ふたりでともに新たな時代を築こうではないか」
静まる会場。ソフィアも、覚悟を決めた。
「ごめんなさい」
ソフィアがアレン王子の告白を断ると誰も予想していなかった......とは言い難い。
王子はソフィアに耳打ちするように顔を近づけてくる。
「ま、待つのだ。もう戴冠式が近い。ソフィアだって『王妃選定の原則』は知っているだろう? それに、ザカリウス公爵が後ろ盾となってくれなければ俺は父から権力を奪いきれないんだ」
ソフィアは、幼い頃に読んだ『王立法典』を思い出す。『王妃候補選定の原則』は、貴族の血統を王家に取り込むことで権力闘争による内戦を防ぐための制度だった。だが、王族の家格が低下した今となっては形式だけの儀式とされ、家庭教師でさえ『貴族の虚栄心の名残』と笑っていた。
王子は新たな王国をつくると息巻いているのに、結局は旧来の制度にこだわっている。
それに、ソフィアに見出しているのは自らの権力を盤石にするための家柄に過ぎないのだ。
顔を真っ赤に染めソフィアの腕を荒く掴んだ王子の手を、そっと払いのけた。
「それでも、私は王子と結婚する気はありません」
ソフィアは金髪碧眼、博識であり幼い頃から婚約の話が途切れたことはない。今まで名だたる名家の令息が彼女に婚約を申し込み、無様に散っていった。
しかしまさか、容姿端麗で剣豪を唸らせるほどの剣術を身につけている『赤髪の貴公子』ことアレン王子をフるとは。
「なぜだ、俺は今まで散々貴女に尽くしてきた。贈り物も、ザカリウス公爵が紋章院の大臣となれたのもすべては貴女のために......博識な君に劣らないよう勉学にも励んだのだぞ?! なのに、なのになぜ!」
激昂するアレン王子に対して、ソフィアは表情ひとつ変えることなく答える。
「私は王子と一緒になる気はないのです。私には、すでにこの身を捧げると誓った相手がおりますので」
確かにソフィアにとってアレン王子は、思い出の中の想い人に兄弟と言われても不思議ではないほどに似ていた。
赤くてツンと立った髪。少し肥えていてソフィアのことを乱雑に扱うあの少年に。
しかし、アレン王子が好きなのはきっとソフィアではなくザカリウス公爵令嬢なのだ。
眉をひそめる王子。気圧されそうになって、その少年かもらった指輪をぎゅっと握りしめる。
ソフィアはアレン王子にそれ以上何も言わずに壇上から下りた。
「待てソフィア・ザカリウス! 俺の申し出を断ったお前に俺の国にいる権利はない! 騎士ども、さっさと連れて行け」
アレンの震えた声が会場中に響く。
振り返ったソフィアに、アレン王子の危険な眼差しが揺れ動いた。
「は、早く連れ出せ! 命令に反いた者はもれなく全員を追放する!」
振り翳される権力に、ようやく壇上に控えていた数人の騎士たちが動き出す。
ソフィアのまわりを屈強な王国騎士たちが囲み、ソフィアの華奢な両腕を強く掴んだ。
「離して! お父様、助けてください!」
どれだけソフィアが足掻いても屈強な騎士たちの力には敵うはずもない。
ずるずると引きずられて行く中、ソフィアの父、ザカリウス公爵が声を上げた。
「第二王子、あまりにも横暴が過ぎますぞ! 我が娘もまだ心の迷いがあるだけ。少しだけお時間を――」
「黙れ! ザカリウス。貴様らの爵位など、俺の一声で泡と消えるのだぞ」
公爵は震える拳を隠し言葉を紡ぐ。
「ならば紋章院の大臣を辞退いたします。ですのでどうか、娘だけは......」
その言葉に、一瞬だけ王子の目が揺らいだ。
「黙れ。と言っているのだが」
剣を構えた騎士たちに囲まれ、ザカリウス公爵は唇を噛む。
それがソフィアが王宮で最後に目にした景色だった。
生まれてから18年、この歳になって2度目の挫折をソフィアは経験することとなった。
この王国における国外追放はいわゆる流刑である。
ソフィア自身、自分がどこに連れて行かれているのかはわかっていない。
乗ったこともないようなボロボロで、多量の荷物が積んである幌馬車。
荷台に乗せられ、不整地でもまったく速度を落とさず昼夜を問わず突き進む。手足を硬い縄で縛られたソフィアは、音を立てて不規則に揺れる荷物がいつ自分に倒れてくるのかという不安に身を震わせることしかできない。
そして当然のようにろくな食事は与えられず、与えられても駅で馬を替える時間に濁った水とパンクズを少しだけ。
それも家畜の餌やりのように地面に這いつくばって食べなければいけないのだ。
少しでも異議を唱えれば低俗な騎士に口を無理やり開かされ、水もパンも関係なくすべてを放り込まれる。
......なぜ自分がこんな目に。
お気に入りだった水色のドレスは泥にまみれ、宝石の類は傷つきくすんでいる。
でもきっと、優しい父なら自分を助けるために動いてくれているはず。いつ射すかわからない一筋の光を信じて、ソフィアはすべてをグッと飲み込んだ。
*
幌馬車で運ばれて着いたのは王宮からもそう遠くはない、家族で何度か訪れたことのある貿易港。石畳の街にどれも似通った形の建物が建ち並び、王国の国旗が掲げられている。
幌布の隙間から見える外の景色は昔の記憶と何も変わらない。なのに......。
「――ああ。あの奴隷船でいいんだよな? 『追放貴族は奴隷商人に処遇を任せる』。華やかな暮らしからの転落、まあ、貴族なら自業自得か」
「いいからさっさと終わらせるぞ。奴隷臭くてやってらんねえよ」
騎士たちの話し声。程なくして荷物とともにソフィアは石畳の上に下ろされた。
『奴隷に頼る貿易など、早く辞めればいいものを......』
いつしか父がため息混じりに呟いた言葉が蘇る。
巨大な甲板から船の中へと連れてこられる。そこには錆びた鉄格子で区切られた大部屋に鼻を突くような臭いと重たい空気が漂っていた。
中には溢れんばかりの人。そしてその誰もが痩せこけ、まともな服なんて着てはいない。ある人はすすり泣き、ある人は虚な目をして動かない。
これが......奴隷船なの?
幼い頃から知識としては持っていた。王国の南西部にある大規模な農場や鉱山で働いている人々のほとんどは奴隷でまかなわれていると。
そして、王国は奴隷の一部を他国へ売り払う奴隷貿易でかなりの収益を上げているということ。
文献で見た通りの惨状が、目の前に広がっていた。もしかすれば、ソフィアを奴隷商人だと勘違いをして襲ってくる人がいるかもしれない。
なのに今、目の前には無数の奴隷がいる。その中でただ1人、薄汚れたドレスを着たソフィアだけが不自然に目立っている。
奴隷たちの視線が突き刺さり、ソフィアの背に冷や汗が流れた。震える太ももを抑え、唇を噛んで睨みかえす。
弱みを見せれば何をされるかわからない。
船の壁に背中を預け、できる限り奴隷たちから距離を取る。
「全員、直ちに整列しろ!」
急に開いた扉から続々と騎士が入ってきた。彼らは奴隷を整然と並べさせ、自分たちもその横に整列する。
そして、また開いた扉から今度は着飾った中年の夫妻が入ってきた。
男は葉巻を咥えていて、整列した奴隷たちの顔を鋭い目で見ながらフロアを練り歩く。
「あら貴女。奴隷じゃあなさそうね?」
気がつくと、すぐ近くに貴婦人がいた。
「あらあら。貴女が追放されたザカ......ザカリウス公爵のご令嬢ね」
柔和な声で話しかけてくる。でも、どう考えても相手は奴隷商人。ソフィアは少しでも遠くへ後退りした。
貴婦人は穏やかな表情でソフィアの全身をくまなく見る。それはまるで、値踏みをする商人の風貌だ。
「......懐かしい目をしてるわね。まあそんなに警戒しないでちょうだいな。貴女は貴族なのだから、奴隷になんかしないわよ。貴女は私にとって”客人“なのよ」
頭の中を見透かしたような話し方。するとそこへ、葉巻を咥えた男が駆け寄ってきた。
「おいホーミー! そいつは追放された令嬢じゃないか。落ちぶれた貴族なんかに優しくしたら商会の評判が悪くなっちまうだろ」
「あらあら。ごめんなさい?」
葉巻の男はそれだけ言うと扉に向かって歩き出す。ホーミーと呼ばれた貴婦人も、ソフィアに一瞥してあとをついて行った。
商人が出て行った部屋には、何人かの見張りの船員と多数の奴隷が一緒にいる。
ソフィアは多くの奴隷が集まっている中心部ではなく、前側の端に寝転がっていた。
船の床は硬くて冷たい。
指輪を握りしめてギュッと目を閉じる。
6歳の夏。赤髪の少年と過ごしたあの夏が脳裏に蘇ってきた。
『ソフィー! 俺の前では貴族の娘じゃなくて、ありのままのソフィーを見せてくれよ!』
木陰まで走らされて、息を切らしたソフィアに少年が笑う。ふたりを追う従者が情けない声をあげ、ソフィアも声をあげて笑った。
『俺、ソフィーの笑顔が好きだ。それに、ソフィーは真面目な顔より笑顔の方がずっと似合ってるぜ』
あれから12年。辛い時はいつだってこの言葉を思い出している。彼の言葉が、いつだってソフィアを”公爵家のご令嬢“から解放してくれた。
船の揺れに身を任せ、ソフィアは呟く。
「また、貴方に会いたいわ」
*
「おい、起きろ。ホーミー様がお呼びだ」
もう少しで眠りに着けそうだったのに、気怠そうな見張りの船員に起こされて部屋の外へと連れ出された。
窓いっぱいに広がる海。日が沈ずみ、柔らかい月の影を白波がチラチラと反射している。
大きく、ゆっくりと揺れる船。それに合わせて聞こえてくる船体に波が当たる音。
見たことのない景色につい見惚れてしまう。
「あらあら。ご令嬢は航海は初めてかしら?」
また、いつのまにか貴婦人が横にいた。
「......はい。『ハルク船長の航海日誌』を読んだ程度で」
「あらあらあら〜。どう? 自分の目で見た感想は」
ホーミーさんも窓の外を眺めている。
「絵で見るよりもずっと綺麗で、驚きました」
「それはよかったわ。少しは気分が晴れたかしら?」
ソフィアはこの不本意な長旅で、初めて人の善意に触れた気がした。
「はい。多少ですが......」
何がおかしかったのか、貴婦人ははしたなく声をあげて笑い出す。ソフィアも、最初は訝しく思っていたがあまりに笑うのでつられて笑った。
「あ、あの! ホーミーさんはなぜ私を気遣ってくださるのですか?」
ようやく笑いのおさまった婦人は、息を整えながら少し考えていた。
「もう15年以上ね。サガスが奴隷貿易に手を出したの。私は止めたわ。でもね、奴隷貿易を続ければ王国のお抱え商会になれるからって、サガスの願いを私は受け入れた」
ホーミーさんは遠い目をしている。
「3年続けた頃かしら。国外追放される赤髪の男の子を王国からの依頼でこの船に乗せたの。その子はすっごく物憂げにしていてね、それが可哀想で主人には内緒で外の景色を見せてあげたのよ。その時の彼の顔と言ったら、さっきの貴女くらい目を輝かせていたわ」
赤髪の男の子。ソフィアに告白したあの子も赤髪だった。
「あの子も、貴女も、先が長いじゃない? だから、国外追放で心を閉ざしてほしくないのよ」
ホーミーさんの声は、ふわふわとしているのにしっかりと芯がある。
「ありがとう......ございます」
「あらあら〜せっかくの可愛い顔が台無しよ?」
しっとりとした質感のハンカチで、ホーミーさんが涙を拭ってくれた。
*
翌朝。ホーミーさんとそのご主人様が来るので奴隷が列に並んでいる。
「けっ......商品にもならないくせに、少しは役に立って欲しいもんだな」
入り口の近くに立っていたソフィアに、男は吐き捨てて奴隷の元へと歩いて行った。
「あらあら。サガスも貴女のことを気に入ったみたいね」
ホーミーはそう言うが、ソフィアにはあの態度のどこが自分を気に入っているのかいまいちわからない。
「あの、ホーミーさん。私に何かできることはありませんか? 雑用でもなんでも、こなしてみせます!」
「あらあらあら! いい心意気ね。じゃあ、何を任せようかしら――」
「......痛い!」
ソフィアは曲がった針で制服を縫っていたが、遠くの空に気を取られて針が指に刺さってしまった。
あの雲の形......嵐になるかも。
「あらあら......き、気にしないでいいのよ? 貴族のご令嬢ならやったことがないものね」
ホーミーのフォローが、逆にソフィアの心を削る。
「ごめんなさい。ちょっと空が気になってて」
屋敷にいた頃は、従者たちに出来ることは自分でもできると思い込んでいたのに。
「空? いつも通りにしか見えないけれど」
ホーミーも窓を覗いていたが、首を傾げるばかりでソフィアの抱いた違和感には気がつかない。
「おいホーミー。まだそんなやつと......」
「あら? ダメだったかしら」
突然入ってきたご主人と、ホーミーさんの間に不穏な気配がした。
「ち、違う。『ハルク船長の航海日誌』を読んでたんだろ? それに今、空が気になるって」
「あらあら〜貴方、乙女の会話を盗み聞きしていたのね?」
楽しそうなホーミーさんと、「早くしろ!」と言い残して出て行くご主人。
「わかりました!」
ソフィアはホーミーに送り出され、足早に男へついて行った。
艦橋に上がると、暖かくて湿った風が吹き荒れているのが肌でわかる。
ソフィアの読んでいた航海日誌は、元学者のハルク博士が自らの構築した気象理論が正しいことを証明するために行なった航海の記録だ。
細部まで描き込まれた雲の絵と、体験した人にしかわからない些細な風や波の変化を写実的に書き出した文章。
幼いながらに何度も読み返したからわかる。
「もうすぐ嵐が来ます。それも今向かっている方角からです」
「本当か? そこまで大きな雲は見えないが」
海の上では、豊富な水分と遮られることのない日の光で急激に雲が成長するそうだ。
船長は机上の海図をしばらく眺め、顔を上げた。
「......いいやわかった。進路を風下にとれ!」
船員の一糸乱れない操作で巨大な帆が轟音をたてて動きだす。舵が切られて船体が急速に進路を変えた。
遠くの方で雷が轟き出したのは、進路を変更してからすぐのことだった。
「お前のおかげで嵐を避けられた。感謝する」
「そんな、お役に立てたのなら嬉しいです」
ソフィアを蔑んでいた鋭い目が少し和んだ......気がする。
「あんな難しい本、どこで読んでたんだ」
相変わらず声は鋭いが、サガスが初めてソフィアに興味を持ってくれたのが少し嬉しかった。
「初めは挿絵が好きで読んでいました。まるで本当に海に出たみたいで、それが楽しかったんです――」
「そうか、話してくれてありがとうな。明日からもお前の知識、存分に披露してくれ」
船長の言葉は、ホーミーさんと同じように優しい。
「はい!」
*
祝砲とともに船が港へと入る。この数日間、ソフィアはサガスのもとでホーミーに助けられつついろんな仕事をしていた。
今からソフィアが暮らす町は貿易都市ハンケルというらしい。王国よりずっと南にあって、一応は王国の管理下にあるが実質は独立状態なのだとか。ここに運ばれた奴隷は今度は陸路で大陸内の大国へと売り飛ばされる。
ホーミーさんが言うには、追放者がハンケルに流されるのは自力で王国に帰って来れないようにするためなのだとか。
「ホーミーさん、サガスさん、本当にありがとうございました」
「あらあらなんだか寂しいわね〜。でも、何があっても貴女の人生よ? 追放者だとか元貴族だとか、今のソフィアには関係ないのだから」
「お前の持つ知識量、思考力は絶対に武器になる。諦めるな」
ホーミーがポケットから取り出した小さく折り畳まれた紙を、ソフィアの手にギュッと握らせる。続いてサガスから金貨を数枚受け取った。
「何から何まで本当に、お世話になりました」
ソフィアは深々と礼をして、2人に背を向ける。
見たこともない土地へ、一歩を踏み出す。
まずは町を見て回った。
大小様々で茶色がかったクリーム色の建物が所狭しと並び、通りには風に靡く色とりどりの三角形の旗がひしめきあっている。
ソフィアがいた王国とはまったく違う景色。
ホーミーさんに色々とハンケルについて教えてもらってはいたが、いざ歩いてみると茹だるような猛烈な日差しが体力を奪っていく。
ソフィアは知識こそあるが、屋敷で本を読んでばかりだった彼女に暑さ耐性などまったくない。なんとか建物の影を見つけて、だらしないとは思いつつも地にお尻をついた。
「ねえ君、こんなところでどうしたの?」
灼熱の石畳にへたり込んだソフィアの前に、赤髪の男がしゃがみこむ。日に焼けた肌に粗末な麻の服。優しい表情なのに鋭い目が、ソフィアを値踏みするように見つめる。
どこか懐かしさのあるような顔――
『話しかけてくる男は、全員獣だと思いなさい』
遠い昔を思い出そうとしたが、先にホーミーさんの言葉が頭をよぎった。
「......放っておいてください。貴方に教える義理はありません」
ソフィアは男を睨みかえす。
それに対して男はニヤリと笑い、手を差し伸べた。
「まだ喋る元気があるなら放っておけないな。立てるかい?」
「あ、あっちに行って......」
差し出された男の手を最後の力で叩き遠ざける。しかし逆に、ソフィアの手は男に掴まれてしまった。
「この指輪......」
ソフィアの指にはめられた指輪に男の目が止まる。だが、彼はすぐに視線を逸らし、ソフィアの腕を引っ張った。
「離してください! 誰か...助けて......!」
精一杯の大声を出して助けを呼ぶ。通りを行き交う人々がふたりの周りへと集まりだした。
「おい貴様! そこで何をしている」
騒ぎを聞きつけて遠くの方から衛兵が数人走ってくる。
「ま、待ってくれ! 誤解なんだ!」
ソフィアに話しかけてきた赤髪の男は、衛兵に取り押さえられながら必死の形相で言い訳をしていた。だが、衛兵は聞き入れる耳を持たずに彼を連れていく。
「よろしければ貴女もご同行を」
当然、ソフィアも一緒に連れて行かれた。
*
空が赤く染まり出した頃。ソフィアと赤髪の男は衛兵の詰所から解放された。
どうやらこの男は町の中では有名らしく、ソフィアを誘拐しようとしていたわけではないと早々に結論づけられた。
なのにこの時間まで拘束されたのは、この男に“人望”があったからだ。作物の値段が上がるだの下がるだの、庶民的な話。
そして、結局ソフィアはこの男についていくこととなった。
「ただいま戻りました」
「あらテレンス、おかえり...ってえ! 何、その子?! ようやくあんたにもお嫁さんが!」
恰幅のいいおばさんが、テレンスと呼ばれた男の方へと近寄ってくる。
「い、いやそうじゃなくて......話すと長くなるんだよ」
青年の斜め後ろに立っているソフィアは、顔を真っ赤に染めて下を向いていた。
「あらあら。じゃあ後でゆっくり聞こうかしら? で、ふたりとも汚れてるから先にお風呂に入ってきてちょうだい」
おばさんがエプロンの裾で手を拭いながら家の中へ入って行った。
青々とした作物が植えてある庭と、石造りの小さな家。
「じゃあお風呂に入ってくれ。こっちだ」
赤髪の青年はソフィアの手首を掴み、家の中へと案内する。
「あの...私自分で歩けます」
「ん、ああすまない。昔の名残で」
......名残? ソフィアが覚えた違和感を解消させることもなく男は進んでいく。
案内されたお風呂は、ソフィアがいつもはいっていた公爵邸のお風呂と比べればもはや桶同然の代物だった。
しかし湯船に浸かってしまうと、屋敷や王宮のお湯よりもぬるぬるとしていて気持ちがいい。傷にはかなりしみるけど。
「お着替えはここに置いてるからね! サイズは大丈夫だと思うけど、合わなかったら言いなさい」
おばさんの元気な声が聞こえる。
「あ、ありがとうございます!」
着替えを用意してもらって感謝したのなんて初めてかもしれない。ソフィアにとって、大貴族にとって、それは当たり前だったから。
お風呂を出て体を拭く。タオルの感触がゴワゴワとしていて気持ちよくはない。
用意してもらった着替えはというと......ソフィアの慎ましい胸には少々大きい下着と、全体的にやぼったい見た目の色あせた庶民服。
お父様の付き添いで狩りに行った時ですらもう少ししっかりとした服であったのに。
「おーい。食事が冷めるから早く出ておいで」
さっきの赤髪の声。早く着替えないとっ?!
「返事がないけれど大丈夫か――すまない!!」
扉が開き、鮮やかな赤髪の男と目があった。
み、見られた。絶対に、絶対に見られた。誰からも隠し通してきた柔肌を、船の中でも守り切ったというのに、こんなところで。
ソフィアは自分の顔が熱を帯びているのがすぐにわかった。
「こんな傷だらけの身体...お母様にも見せられませんのに......」
口から零れた独り言に、ハッとする。らしくもない。ソフィアは自分の頬をリズムよく2度叩いた。
ワンサイズ大きい服たちを着てて、顔の赤みが取れたことを確認して扉を開ける。
「さっきはすまない。でも、そのくらいの傷なら何ら恥じることはないさ」
その一言で、ソフィアは卒倒した。
*
背中の痛みで目が覚めると、硬いベッドの上にいた。
「すまない。本当に覗く気はなかったんだ」
テレンスが掠れた声で申し訳なさそうに謝る。
「ど、どこまで見たのですか」
「え、いや、そのー。少しだけ?」
ソフィアは布団の中へ潜る。
顔が熱を帯びてしまうのがわかる。こんなに無礼な人なのに、なぜこうも気にしてしまうのだろう。
ぐぅ〜
この状況でも、無情にお腹は鳴った。
「お腹空いてるんだろ? 持ってきたから温かいうちに食べなよ」
「......いただきます」
野菜まみれのシチューにパサパサなパン、申し訳程度の薄い紅茶。今までソフィアが食べてきた料理からすれば不味いに決まっている。
しかし、今の彼女にはすべてがおいしく感じられた。横でソフィアが食べているのを見ているテレンスも、ニコニコとして満足げだ。
「そう言えば名前を言ってなかったな。俺はテレンス、君は?」
「私はソフィア・ザカリウスです」
「ソフィア...ソフィアか。やっぱり君が――」
テレンスは咀嚼するように何度も何度もソフィアの名前を繰り返す。
「え、ええ」
そこへさっきの恰幅のいいおばさんがソフィアの手紙を手に、部屋へと入ってきた。
「あなたが持ってた手紙、ホーミーの字だね。こいつを拾った時も、彼女の手紙付きだったんだよ」
ソフィアが目を丸くすると、赤髪の青年の静止を無視してカーリーが話を続ける。
「12年前、テレンスは廃位されて追放された貴女の国の第一王子だったんだよ。雨の中ボロい服着て、手紙と歪んだ指輪を握りしめて私のところへ転がり込んできたんだ」
赤髪の男が、テレンスが、廃位された第一王子?
「カーリーさん、そ、それ以上はっ!」
「えっと......『ソフィー』だっけね? 寝ても起きても毎日呟いてたんだよ」
咄嗟にテレンスを見る。男はソフィアから目を逸らし、赤面していた。
つながる点と点。ホーミーさんが話していた赤髪の少年はいつかのテレンスで、そのテレンスが、あの日の少年だったなんて。
「変わらないわね〜。しかもまた厄介ごとを私に預けるだなんて」
そう言いながらカーリーさんは手を叩いて笑っていたが、ソフィアは俯き、テレンスに顔が見えないようにして涙を拭う。
テレンスがここで過ごした12年間は、ソフィアには想像できないほど波乱に満ちたものだった。
剣術と政治学しか習っていなかった王族の彼が、鍬を持って農作業に励み、最初は耕すだけで数日間動けなくなった。
そして、ようやく実った作物をただ同然の価格で悪徳な商人に奪い取られて経済の勉強を始めた。
毎日毎日市場へ足を運び、季節ごとの値段の変動を調べて作物を育てる。
ある年は嵐で、ある年は害虫の大量発生で、出稼ぎを余儀なくされたこともあった。
「テレンス様......そんなことも知らずに私は、私は――」
言いかけるソフィアを、テレンスが制する。
「それは違うよ。俺の心にはいつだってソフィアの笑顔が光っていた。だから、今日の俺がいるんだ」
*
王都の夜より、ずっと静かで暗い夜。空には数多の星が輝き、水平線の近くに見える船の小さな光。
「寝れないか?」
庭先から見える景色に見惚れていると、後ろからテレンスの声がした。
「はい。まだ何か夢なんじゃないかって、そんな気がして」
流罪となり幌馬車で運ばれ奴隷船に乗り、この町でテレンスと再会した。
「夢じゃないさ。君はちゃんと今を生きてる。しばらくは辛いだろうけど、諦めないことが大事だって......ホーミーさんが言ってただろう?」
ソフィアに笑いかけるテレンスの顔は、幼い日の面影を感じさせる。
「――あの日の約束、覚えてますか」
聞こえないならそれでいい。そのくらいの小さな呟きだった。
「ああ。もちろんだとも」
雲に隠されていた月がその姿を見せる。月光の優しい光に照らされ、ふたりは自然と惹かれあった。
*
しばらくすると、父ザカリウス公爵から手紙が届いた。
『ソフィア、息災ですか? 王国ではアレン王子の戴冠式がなんとか終わりました。それと王子はソフィアに謝罪をしたいと申し出ています。ぜひ、今度王都に――』
ソフィアは、そこで父からの手紙を閉じる。
隣であくびをしているテレンスのふやけた顔を見て、押入れに手紙をしまった。
「私の居場所は、ここなのです」