8. 九月二日 6フィートアンダー【3】
「紳士淑女の皆様、お待たせいたしました! 今宵もあなたのハートを盗みにやって来た! 頭脳明晰、ブルーサファイアの瞳、花も恥じらうパーフェクトな吸血貴公子!! ルイ・ド・クルール・サンティアゴ~!!」
DJのアナウンスと共に、ズンチャズンチャと芸人の出囃子のような音が鳴り響いた。
螺旋階段の上のカーテンがサッと左右に開かれ、中から黒髪の男が飛び出してきた。スポットライトが強すぎて、美良乃が座っている位置から顔はよく見えない。
「きゃあああ!! ルイ様~!!」
「抱いて~!!」
たちまち黄色い悲鳴が沸き起こる。
ルイは「ははは」と爽やかに笑いながら、颯爽と螺旋階段を降りてくる。青いスパンコールがこれでもかと縫いつけられたジャケットを着ているので、彼が動くたびにキラキラと光を反射して目が痛くなるくらいだった。
「あの人、誰? 芸能人か何か?」
美良乃は顔を顰めながらアリアにそっと耳打ちした。
「ルイ様よ。ルイ・ド・クルール・サンティアゴ伯爵っていって、この界隈では有名な吸血鬼よ。このバーのオーナーなの」
「ん? ルイ?」
何処かで聞いた名前だと考えて、カフェで出会ったおかしな男もルイという名前だと思い至った。
(いや、まさかねえ……。ルイって珍しくもない名前だし。でもアメリカに身分制度ってないはずなんだけど、何で伯爵?)
美良乃は空になったカクテルグラスを手で弄びながら、ダンスフロアに降り立ったルイを見やった。人混みに紛れて姿はよく見えないが、背が高いようで、黒い頭がゆっくりと動き回っているのが分かった。ダンスフロアにいる女性たちの興奮具合から、どうやら彼はあちこちに挨拶しながら移動しているようだ。
何か、非常に嫌な予感がする。今すぐ人混みに紛れよう。
「ねえ、アリア。何か飲みたくない? 買ってくるよ。何がいい?」
「そうねえ、それじゃあ――」
「美良乃!?」
背後で聞こえた声に凍り付いた。オイルの切れたブリキのロボットみたいにギシギシとぎこちない動きで振り返ると、驚愕したように目を見開いたルイが立っていた。
(やっぱり、カフェで会った人だった……)
もはや自分がどんな表情を浮かべているのかも分からないほど動揺している。
ルイはブルーサファイアの瞳とスパンコールをキラキラ輝かせながら、足早に歩み寄ってきて、懐から何かを取り出した。
「ここで会ったが百年目――!!」
吃驚するほど大きな声で叫びながら、両手で持ったそれを美良乃に向かって勢いよく差し出してくる。周囲にいた客の視線が一斉に美良乃に向けられた。
「ひいっ!」
美良乃は目の前に突き出されたそれに視線を落とした。どうやら名刺のようだ。
恐る恐る受け取ると、「塁毒規則 三亭顎 ルイ・ド・クルール・サンティアゴ伯爵」と書かれている。
「えっと……?」
ルイは自信たっぷりに髪をかき上げながら宣う。
「日本では自分の名刺を渡すのが礼儀なのだろうっ!? 僕も君に再会することを予想して、作ってみたのさ! どうだいっ、かっこいいだろう!?」
――お前はどこかのサラリーマンか。
美良乃は出かかった言葉を吞み込んで、名刺を見つめた。
漢字は当て字にしているようだ。塁はまだいいとして、ド・クルールの部分が分解されてしまっている。
毒って。微妙に中学生が考えつきそうだと思うのは、美良乃だけだろうか。
しかも「ルール」の部分に当たる「規則」はすでに当て字でもない。完全に日本語に訳されてしまっている。
(おまけに、三亭顎って……。落語家みたい)
引き攣りながらも何とか笑顔を向けると、ルイはうっとりと美良乃を見つめ返してきた。
「ああ、今宵も君は月の女神も尻を捲って逃げ出すくらい美しいね」
「……どうも」
女神なのに「尻を捲る」という表現が嫌だと思いつつも、適当に返事をした。
美良乃の反応がいまいち良くないことに気付いたのか、ルイはサッと青ざめた。
「あっ、失敬!! 日本の女性は美しいと言われるより、『おもしれー女』と言われた方が嬉しいんだったね!」
彼は「僕としたことが!」、と反省しているようだが、その認識は多分間違っている。
コホンと咳払いして、気を取り直したようにルイは流し目を送ってくる。背中に無数の星とピンク色のバラの幻が見えるのは、気のせいだろう。
「美良乃は今夜も、おもしれー女だね!」
「……はあ」
「ねね、美良乃、あんたルイ様と知り合いなの?」
アリアは好奇心を抑えられない様子でこっそり訊いてきた。
「知り合いっていうか、この前、下町のカフェで話しかけられたの」
アリアはへえ、と頷きながら、美良乃から数歩離れた位置で何やら不思議な動きをし始めたルイを眺めた。
彼は身体の側面を美良乃の方へ向けて、後ろへスイスイと流れるように足を運んでいる。
どこかで見たことがある動きだ。
「……あれって、ムーンウォークじゃない?」
「あ、そうだ、ムーンウォーク!……でも、何でいきなり?」
ルイはムーンウォークで左右二往復ほどしてから今度は両手を広げて交互に振り上げだした。表情は至って真剣なところが余計に不気味さを増す。
――自分は一体、何を見せられているんだろう。
美良乃は固唾を呑んでその奇怪な動きを見つめた。
「あの……さっきから何してるの?」
「何って、求愛のダンスだよ!!」
「……あの、鳥がするやつ?」
「あれ? もしかして、人間の男は女性に求愛のダンスを贈らないのかい?」
「……どこかの国のどこかの部族の男性ならするのかもしれないけど、少なくとも日本人男性はやらないかな……」
ルイは何やら「あれ、僕の記憶違いかな? でもSNSにも動画が上がっていたし」などとブツブツ呟いている。
「ルイ様って、美良乃にひと目惚れでもしたの?」
「よくぞ訊いてくれたねっ! そうとも、僕はトーストをかじりながら美良乃にぶつかるという、運命的な出会いを果たしたのさ! 僕たちは番になる運命なのだよ!!」
「いや、運命的じゃないから! 出会った後に無理やり演出したんでしょ!?」
美良乃はとうとう堪え切れずに声を張り上げた。ルイはポカンとしたが、すぐに顔を綻ばせた。
「ああ、マイエンジェル! 怒った君も美しい……、いや、『おもしれー』よ!」
「おもしれーとか言われても嬉しくないから!」
「そうかそうか。では、ここで会ったが百年目、僕と連絡先の交換を」
「交換しないし、前からずっと気になってたんだけど、使い方間違ってるから、それ!」
美良乃はドサッと音を立てて座席に座って眉間を揉んだ。どっと疲れが押し寄せてくる。
重い溜息を吐いた美良乃に気付いたのか、ルイはサッと後退した。
「おおっと、押しすぎると嫌われてしまうねっ。今日のところはここまでにしておいてあげよう!」
「……悪役が逃げ出す時の捨て台詞じゃない」
「ではまた会おう! 美しいレディーたち。素敵な夜を!」
ルイは美良乃に向かってバチコーンとウィンクをかますと、踵を返して人混みの中に消えていった。
完全にルイの背中が見えなくなったのを確認して、美良乃はぐったりとテーブルに顔を伏せた。あの男は人の精気でも吸っているのだろうか。目を開けているのも辛いほど疲れ切っていた。
「……何だか、濃厚な誕生日になったわね?」
アリアは苦笑した。
美良乃はそろりと顔を上げる。空っぽのカクテルグラスを持ち上げた。
「飲もう。飲まずにやっていれないよ、まったく」
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。