落武者の恋【10】
コートニー視点です。
落武者はそれ以降もふらりとコートニーの前に現れるようになった。気付いたらそばにいる、と言うべきだろうか。仕事から帰宅するとリビングのソファに寝転んで、アリアやダニエルと一緒にテレビを観ていたりするのだ。かといって、彼は決してコートニーの許可なく私室に入ったりもしない。
最初は何か企んでいるのではないかと警戒していたが、彼は特に何を言ってくるでも、求めてくるでもなく、ただ部屋で二人でゲームをしたり、食事したり、酒を飲んだり。時にはただ同じ部屋にいて、読書したりスマホをいじったりと、各々好きなように時間を過ごし、一定の時間が経過すると帰っていく。
いつしか視界のどこかに落武者の黒い翼があるのが当たり前になっていた。
当初、彼からコートニーに触れてくることはなかったが、近頃では何となくそういう雰囲気になると肌を重ねることもある。しかし、行為後も彼がコートニーの部屋に泊まっていくことはない。ベタベタしすぎず、それでいてよそよそしくもない適度な距離を保ってくれるのが心地いい。
偶に落武者の出没頻度が多すぎて鬱陶しいと感じる時もあるが、彼は常日頃からコートニーのことをよく見ているのだろう。こちらが何も言わずとも彼の方からしばらく連絡すらも断って放置しておいてくれ、ほとぼりが冷めた頃にふらりと戻ってきてくれるのだ。
そうして冬を越え、春が来て、夏が過ぎ、秋が訪れ、季節が巡るたび、ふとした時に考えるのだ。
――この人は、本当にこんな中途半端な関係で満足しているのだろうか。
しかし、それを訊いてしまったら、何もかもが終わってしまう気がする。
彼が本当は現状に不満を持っていたとしたら?
それをきっかけに、二度と訪ねて来てくれなくなってしまったら?
気付けば隣にある温もりが失われることを想像するだけで、心にぽっかり穴が開いたように寂しくなる。
(いつの間にこんなにも大切な人になっていたのかしら)
コートニーは怖いのだ。彼の本音を聞くことが。彼が離れていってしまうことが。
しかしこの関係に名前をつけることで、工場で量産されるクッキーよろしく、自分以外の他人が作った枠に押し込められるのではと怖かった。「恋人なんだから、ああして欲しい」、「配偶者なのだから、こうするべきだ」と責められることを想像するだけで息が詰まりそうになる。
だから結局、何も求めないでいてくれる落武者に甘え、ずるずると曖昧な関係を続けている。
落武者が頻繁にコートニーに会いに来るようになってから一年半が経過した、ある秋の日のことだった。
「名を、呼んじゃくれねえか?」
「え?」
自宅の裏庭でまったりと秋の風を堪能していると、落武者が徐に切り出した。
「某の本当の名前。真名を……コートニー殿に呼んで欲しい」
落武者はゲーム上で名乗っている名であることは聞いていたが、彼はこれまで、コートニーはおろか、仲のいいルイに対しても本当の名前を名乗ったことがなかった。
天狗にとって、真名はとても重要なもので、むやみやたらに他人に教えていいものではないという。
コートニーは小さく息を呑んだ。こうして時間を共に過ごすようになってから、彼がコートニーを特別な存在であると匂わせるのはこれが初めてのことだったからだ。
以前なら、その特別扱いに居心地の悪さを覚えたのかもしれない。しかし、今は歓喜に鼓動が速まるばかりだった。
頷くと、落武者は目元を緩めた。
「某の名は――」
耳元で囁かれたのは、心地よい響きの名前だった。静かな湖面に一滴水を垂らしたように、言霊がじわじわと身体の中心から波紋を広げて指の先まで浸透していく。
「これは……。あなたの魔力なの?」
「天狗は魔力を持っていねえが、神通力を使うからな。魔力に似たような波長の精気をしているのかもしれねえ。誰かに真名を呼ぶ許可を与える時、神通力を使って直接肉体に権限を付与するからな……不快だったか?」
コートニーは勢いよく頭を振る。
「ううん。むしろ心地よいくらいだった」
「そいつは良かった。もしかしたら、もう何回も身体を繋げているから、俺の神通力に馴染んでいるのかもしれねえな」
「ちょっと!」
羞恥に頬を染めながら睨め付けると、彼は切れ長の目を三日月形に歪めて悪戯っぽく笑う。それを見て、ずっと心に引っかかっていたことを訊ねるなら、今がその時なのではないだろうかと考えた。
「……ねえ」
「ん?」
「ずっと訊こうと思っていたんだけど」
「うん」
「あなたは、今の状態が嫌じゃないの?」
約束はない。誓いもない。ひとつ屋根の下に暮らすこともなければ、隣で目覚めることもない。
いつでも終えられるし、一生続けても問題ない。そんなじれったくて、不安定で、曖昧な関係。
――手放したくはない、でも責任は持ちたくない。そんな風に考えてしまう自分は狡くて身勝手極まりない。
いつかそう問われることを予期していたかのように、落武者は切れ長の目を微かに細めた。
「この宙ぶらりんな状態が嫌だとは思ってねえ。コートニー殿が望むなら、ずっとこのままでいてもいいと思ってる。――でも、強いて某がどうなりたいのかを言うなら」
彼は天を仰いだ。秋の青空を背景に、オレンジや赤に染まった木の葉がさわさわと風に揺れ、一枚、また一枚と葉が落ちてゆく。
「某はコートニーにとって、空気みてえな存在になりてえな。そばにいるのが当たり前すぎてドキドキしたりはしねえけど、一緒にいると落ち着いて、離れると寂しい。そんな存在になれているといい」
彼はコートニーの瞳を覗き込む。その黒曜石の瞳に幸せと愛しさが滲んでいるのを見て、キュッと胸が甘く疼いた。
それまで、彼が敬称を取ってコートニーの名を呼ぶのはベッドの中でだけだった。
泣きたくなるような、それでいて嬉しいような、えも言えぬ感情がじんわりと広がって、コートニーは息を漏らした。
「……他の人みたいに、確実な言葉や誓いが欲しいとは思わない?」
落武者はしばし逡巡した。ややあってから小さく頭を振る。
「確かに、寿命がそれほど長くない種族、その中でも特に雌は、子供を産める期間が限られているから、いつ気持ちが離れていくとも分からない相手と、何の保証もない関係を長々と続けるのは不安だし、不満も膨らむんだろうな」
「……そうね」
何年も付き合って同棲もした彼氏に結婚を仄めかしても了承してくれず、結局別れた女性の話はよく聞く。
「だが、某は雄だし、天狗だ。うんざりするほど永い時間があるからな。そういった本能的な焦りはほぼ無いに等しい」
永遠に等しい時を生きる彼は、何もコートニーと無理して子供をもうけなくとも、百年後でも二百年後でも、その気になれば伴侶を探すことができる。
落武者は明るく笑って、頭を掻く。
「某は気が遠くなるくらい昔から生きてっから、ずっと古い価値観を持っていたんだが、幸せってのは人の数だけ形があるし、その人の性に合った付き合い方があるんだって、コートニーに出会って気付いたんだ。誰に認められなくても、某とコートニーの双方にとって心地よい関係なら、それでいいんじゃねえかなあ。少なくとも、某は今、めちゃくちゃ幸せだぜ」
節くれだった長い指が頬を滑る。くすぐったくて肩を竦めると、彼はクツクツと笑いながら顔を近づけてきた。形のいい親指で黒いマスクを顎まで引き下げると、コートニーの唇に彼の少しかさついた柔らかな唇を重ねた。
彼の真名同様、マスクの下に隠された顔も、コートニーだけが知っている。唇から伝わる温もりと共に、仄暗い優越感がじわじわと身の内に広がっていった。
「わたしの狡さを許してくれるの?」
「狡いっていうのとは違うんじゃねえか? 人には誰しも、越えて欲しくない一線てもんがある。コートニーは自分にとって何が許容できて、何ができないのか提示しただけだ。それを知った上でも尚、そばにいることを選んだのは、他の誰でもない某だ。コートニーは一度だって、理不尽を全部呑み込んで自分のそばにいろなんて言ったことはねえじゃねえか」
コートニーが言葉に窮していると、落武者は「それに」と苦笑した。
「コートニーが狡いというなら、某もそれなりに狡いと思うぜ? 某は踏み越えちゃならねえ線のギリギリ半歩手前くらいで一旦踏み留まったように見せかけて、違和感を抱かれねえ程度に、毎日一ミリずつ領域に侵入したようなもんだ」
「ええ。気付いたら、一緒にいるのがとても自然に思えるようになっていたわ」
「ゲヘヘッ! 某たちは、狡い者同士なかなかお似合いだと思わねえか?」
「ふふっ。そうね。……ねえ。わたしも、今とても幸せだわ」
鼻先を触れ合わせると、落武者はフッと微笑した。
「そいつは嬉しいねぇ」
彼は指先で優しく彼女の唇をなぞり、熱のこもった瞳で希う。
「呼んでくれ、コートニー。この唇が某の名を紡ぐところを見たいんだ」
コートニーは躊躇いがちに口を動かした。
「――」
呼んだ名は、神通力が作用しているのか、自分の耳には届かなかったが、彼にはしっかりと聞こえたようだ。蕩けるような笑みを浮かべ、チュッと唇に吸い付いてくる。
「もう一度……」
「――」
「もう一度……」
コートニーだけが知る秘密の名前は、キスの雨の中に溶けていった。
これで落武者とコートニーのお話は終わりです。次回はおまけとしてルイと美良乃のバレンタインがどんなだったのかを書きたいと思っています。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




