52. 十二月一日 カサンドラの襲撃【3】
前回のざっとしたあらすじ:
カサンドラに攫われた美良乃。途中までリンクスが顕現して護ってくれたのですが、吸血鬼の男に血を吸われてしまいます。美良乃を救出に来たルイは彼女の出血を見て激怒。カサンドラを追い詰めます。
「――お前、死ぬ覚悟はできているのだろうね?」
普段の陽気なルイからは考えられない地を這うような低い声に、背筋を冷たいものが流れた。外から入り込んだ冷気のせいもあり、身体の中心から細かい震えが全身に広がっていく。
「くっそったれが!! あの雌豚ごとお前を地獄に送ってやる!!」
カサンドラが無茶苦茶に両手を振り回した。鋭い爪がルイの上着を引き裂く。
「雌豚だって……?」
薄明りの中、ルイの紅い双眸が眇められた。
カサンドラの首を掴む手に力が入ったのか、メキメキと嫌な音がする。
「ぐえぇっ……!」
カサンドラが空気を求めて頤を上げる。己を喉を締め付けるルイの手の甲を幾度も引っ掻いた。
――その時。
「ああん! んもうっ、ルイちゃまったら、アタシたちを置いて先に行っちゃダメって言ったじゃないのぉ!!」
張りつめた空気を霧散させるような声がして、納屋の入り口に二つの大きな人影が現れた。ウインドチャイムのような涼やかな音色が響き渡り、きらきらと金の粒子が混じる光の玉がいくつも宙に浮かんで、薄暗かった納屋が明るくなる。
そこにいたのはダニエルとフェルナンドだった。背中に妖精の翅を顕現させたフェルナンドは、美良乃を見つけると駆け寄ってくる。
「美良乃ちゃんは任せたわよぉ、フェルナンド。さて、と」
ダニエルは拳を鳴らしながら、納屋の隅で気を失っていた男の吸血鬼の方へゆったりと歩を進めた。
「人間に手を出すような悪い子は、星にかわっておしおきよっ!」
どこかで聞いたような決め台詞と共に男に飛び掛かると、あっという間に拘束してしまった。
美良乃の前にしゃがみ込んだフェルナンドは、彼女を柱に縛りつけていた縄を切ってくれた。
「大丈夫か?」
「ちょっと首が痛かったけど、もう大丈夫……。それより、フェルナンド」
「ん?」
「リンクスが、わたしを護って……、き、消えちゃって……ううっ」
美良乃は苦しそうに身を捩っていたリンクスを思い出して眦に涙を浮かべた。
洟を啜った美良乃に、フェルナンドは感情の伺えない声で「ああ」と呟いた。
「気にするな。魔力が尽きてタトゥーに戻っただけだ」
「し、死んじゃったわけじゃない……?」
フェルナンドはフッと口角を上げた。
「言ってみれば、あいつは単なる絵だからな。攻撃されたら魔力は削られるが、死ぬことはない」
――ああ、良かった。
美良乃の全身から力が抜けていく。膝に額を押し当てて、長い長い息を吐いた。
「リンクスに何かあったら、どうしようって思ってた。本当に、よかっ、た」
フェルナンドはフッと小さく笑い、コートの内ポケットからガーゼと消毒液を取り出した。
「ルイが止血したようだが、念のため応急処置をするぞ」
「うん……、ありがとう」
消毒液を染み込ませたガーゼがひやりと冷たいが、ルイの唾液に麻酔作用があったせいか、痛みはない。美良乃は大人しくフェルナンドに身をまかせた。
「この野郎っ!!」
フェルナンドの肩越しにカサンドラがルイに向かって足を蹴り上げたのが見えた。それを機に、ルイとカサンドラの姿が掻き消える。二人とも超高速で動いているようで時折絹を裂くような悲鳴と殴打音がする。
「な、何が起きてるの?」
「カサンドラとルイが取っ組み合いになってる。――そろそろダニエルが止めないとまずいかもしれ」
フェルナンドが言い終えないうちに、部屋の中央の柱にカサンドラが叩きつけられ、ベキベキと柱が折れた。カサンドラはそのまま地面に転がり落ちる。身体のあちこちから出血し、唇からも血が一筋滴り落ちていた。
柱が折れた衝撃で、天井から細かい埃や干し草の屑が降ってきた。
ルイはカサンドラの前に姿を露わすなり、彼女の鳩尾を力任せに踏みつけた。
「ああっ!!」
苦悶に顔を歪ませるカサンドラを、ルイは表情の抜け落ちた顔で見下ろす。フェルナンドの魔法の光に照らされ、作り物めいた美貌がやけに蠱惑的に見えた。陶器のように白い頬には返り血なのか、赤黒いしぶきが飛んでいた。
ルイは手に持っていた何かを無感動に放り投げた。指先も血で濡れている。彼はそのまま上体を屈め、煌々とした紅い瞳でカサンドラの顔を覗き込んだ。
「牙を二本とも失うのはどんな気分だい?」
「クソッ! ふざけんじゃないよ! あたしがあんたみたいなのに負けるわけが」
「ふふっ、無様だね、カサンドラ。地を這う姿がお前にはお似合いだよ」
ルイはニタリと口の両端を吊り上げ、カサンドラを踏みつけたまま、踵でグリグリと抉った。
「がぁっ……!」
「ふふふ……」
苦痛に顔を顰めるカサンドラに、ルイは酷薄な笑みを深める。
いたぶるのを愉しんでいるかのような様子に、美良乃は戦慄した。
――『吸血鬼っていうのは捕食者なだけあって、本来は残忍な性質なんだよ』
少し前にフェルナンドに言われたのは、こういうことだったのだと、美良乃はその時初めて理解した。
美良乃は震える手でギュッとコートの胸元を握りしめる。
(ルイ、まるで知らない人みたい……)
――怖い。
全身を血潮が駆け巡り、段々と呼吸が荒くなって、目の前が白く煙った。
「はいはい、二人とも、そこまでよ!」
ダニエルが子供を叱るような声音で二人の脇に立つ。注意を集めるように指を鳴らした。本当は両手を叩きたかったのだろうが、生憎と片手には先ほど拘束した男の吸血鬼の首根っこを捕まえているため、できなかったようだ。
「――邪魔をしないでくれるかな、ダニエル」
ルイはカサンドラを覗き込んだままの姿勢で淡々と言う。
「邪魔してるのよぉ! それ以上は過剰防衛になるから、自警団の団長としては許可できないわ。拘束して、自警団の規則に則って処分しましょ」
「しかしこの女はこともあろうに僕の最愛の人を雌豚などと呼びくさったのだよ断じて許すことができないね捻り殺されても文句は言えまい」
「めちゃくちゃ早口だし、おまけにひと息で言うから怖いわぁ。落ち着いてちょうだい」
「僕は至って冷静だとも」
「美良乃ちゃんが怯えているわよ」
ルイはハッとしたように上半身を起こすと、美良乃を振り返った。
「美良乃っ!」
「とにかく、カサンドラを縛り上げましょ。フェルナンド、ルイちゃまと交代してくれる?」
「ああ」
フェルナンドはひとつ頷くと立ち上がった。ダニエルがカサンドラに猿轡を噛ませ、三人がかりで捕縛すると、ルイは一瞬で美良乃の前に現れて膝をつく。
「僕としたことが、ごめんよ」
美良乃は食い入るようにルイの顔を見つめた。紅い殺気に塗れていた彼の瞳は普段のブルーサファイヤに戻っている。
(あ、いつものルイだ……)
美良乃は小さく安堵の息を吐いた。緊張が解けると無性に彼に縋りつきたい衝動に駆られる。
だがしかし、こちらに向かって伸ばされたルイの手が血に塗れているのを見て、思わず肩が跳ねた。
「やっ……!」
気付いた時には、ルイの手を払いのけていた。指先が痺れるような感覚に我に返る。
(わたし、今、何をした?)
美良乃は自分の失態に気付いて血の気が引いた。
「あっ……、ご、ごめ」
ルイは傷ついたように眉を寄せ、唇を噛んでいた。美良乃へ伸ばしかけた手を引いてグッと拳を握る。
「――すまない。怖がらせてしまったね」
力なく笑うルイの姿に、美良乃の胸がギュッと痛んだ。
(わたしはルイの気持ちを疑って距離を置こうとしていたのに、ルイはわたしを助けに来てくれた)
ルイは自警団の副団長だ。被害者が美良乃でなくても、人間がモンスターのいざこざに巻き込まれれば率先して助けに来ただろう。しかし、どうでもいい相手だったらこんな風に取り乱さなかったのではないか。
――ルイは、本気で自分を想ってくれているのだ。
家でも学校でも職場でも、美良乃は誰かと親しくなることが怖かった。心を開いて本当の自分を曝け出すと失望され、突き放される。相手の心が離れていく度に深く傷つき、いつの間にか他人を拒絶するようになっていた。だって、二度と傷つきたくないから。最初から受け入れなければ傷つかないで済む。そんな恐怖とは裏腹に、誰かに受け入れられたい、ここにいてもいいのだと思える居場所を渇望し続けてきた。
そんな中、己の矛盾に葛藤し、もがき苦しんでいた美良乃の世界に圧倒的な存在感をもって飛び込んできたのがルイだった。彼は遠慮の欠片もなくグイグイと美良乃の心の中に押し入ってきて、そのまま居着いてしまった。
本当は自分にこんなにも強い興味を示してくれたことが嬉しかったくせに、美良乃は「こんなに強引だから、受け入れても仕方ない」と言い訳をし、受け身のまま二人の関係を進めてきた。
そしてモンスターショーの一件で不安になって、美良乃は逃げだした。本当は自覚している以上にルイのことが好きで、だからこそ裏切られた時に負うであろうダメージに慄いたのだ。傷つきたくなくて、また拒絶することで心を守ろうとしていた。
こうして狼狽えているルイを見て、ようやく彼を信じることができた。仮に彼が演技をしているのだとしてもいい。それでも彼を受け入れたいと思えた。
しかし、ようやくルイを信じる決意ができたのに、美良乃は彼を傷つけてしまったのだ。
「僕に触れられるのは嫌だろうから、フェルナンドに頼んで家までおく」
ルイが躊躇いがちに口を開いた瞬間、美良乃は反射的に彼に抱きついていた。
「みっ、美良乃!?」
「――っご、ごめんなさい」
「君が謝ることなんてなにもないのだよ」
美良乃は首を横に振った。ルイを怖がったことだけでなく、彼の気持ちを疑っていたことに対する謝罪でもあったからだ。
ルイはおずおずと美良乃の背中を撫でる。本当に触れてもいいのかと迷っているようだった。
「あんなところを見せてしまったからね。君が僕を怖がるのも無理はない。さあ、僕に抱きつくと汚れてしまうよ」
――そうじゃない。
普段はひょうきんに振舞っているルイの冷酷な吸血鬼としての本性を垣間見て、衝撃を受けたのは事実だ。美良乃は平和な世界で生きてきて、殴り合いの喧嘩ですら滅多に目撃しないのだ。命を奪うことすら厭わない本気の戦いを目の当りにして、恐怖を覚え、他人の血を見て取り乱すのは自然な反応だろう。暴力的なシーンを目撃してしまったことで一時的なパニックに陥ったのだ。
美良乃とルイは知り合ってからまだ日が浅い。しかし、本来の彼はこんな風に自分を気遣ってくれる優しい人だと知っている。だからこそ、今回の一件で彼を嫌悪することなどない。
――どうしたら、それを彼に伝えることができるだろう。
必死に思案していると、やんわりとルイに肩を押されて、美良乃は堪らず声を張り上げた。
「バカッ! 抱きしめてよっ……!!」
ルイの両手がピクリと反応する。
美良乃はルイの胸に額を擦りつけた。こんな言い方しかできなかった自分にうんざりする。鼻の奥が痛くなって、両目に涙がせり上がってきた。
「怖かったんだから、ごちゃごちゃ言わずに、抱きしめて……!」
涙でぐしゃぐしゃの顔を上げれば、目を見開いたルイと視線が交わる。彼はくしゃりと顔を歪ませると、両腕でしっかりと美良乃を抱き込んだ。
「――すまない」
「あ、謝らないで……。怖かった……、本当に、怖かったんだから」
嗚咽混じりに訴えれば、情けないほど優しく返してくれる。
「うん、怖かったね」
「助けに、来て、くれて、あ、ありがとう」
「当たり前だよ」
ルイは感に堪えないといった風に熱い吐息を漏らすと、美良乃を抱く腕に更に力を込めた。頭頂部に何度も唇を寄せ、キスの雨を降らせる。
「君のためなら、僕は地の果てでも駆けつけるよ」
「ルイ……」
身の内から熱が溢れてくる。この想いをどうやって伝えよう。どう伝えたら、真直ぐにルイに届くのだろう。
美良乃の想いを汲んだのだろうか、白皙の美貌がゆっくりと近づいてきて、視界を覆いつくした。鼻先同士が触れ合うと、美良乃は無意識のうちに目を閉じていた。
温かくて柔らかいものが唇に触れた。ルイの香水の匂いが鼻腔を満たし、全身の力が抜けていく。
(何だかすごく安心する……)
頭がフワフワして、物凄く気持ちがいい。
チュッという音を残して唇が離れていくのが残念でたまらない。美良乃はゆっくりと目を開き、縋るようにルイを見上げた。
至近距離で見つめてくるルイの瞳が潤んで、本物のサファイアのようにキラキラと輝いている。どちらからともなく再び顔を寄せ、何度も啄むようなキスを繰り返した。
「コホン」
どれくらい経った頃だろうか。無遠慮な咳払いが聞こえて、夢心地だった美良乃は我に返った。慌ててルイから離れると、肩にカサンドラを担ぎ上げたダニエルが、空いている方の手を頬に当てて、困ったように微笑んでいた。
「いい雰囲気のところ、ごめんなさいねぇ。でもここだと寒いし、こいつらも自警団の拘置所に入れないといけないから、移動しましょ?」
「は、はい……。すみません」
美良乃は火を吹きそうなほど熱くなった顔を両手で覆った。
「おっと、お待たせしてしまったね、ダニエル。では、行こうか美良乃」
言うなり、ルイは美良乃の膝裏を掬い上げて横抱きにする。
ちらりと見やれば、彼は蕩けるような笑みを浮かべて美良乃の顔を覗き込んでいた。頬は上気してほんのりバラ色に染まっており、壮絶な色気を放っている。
(ひいいいい!! そ、そんな顔で見ないでぇ!!)
美良乃はドキドキ高鳴る胸をギュッと押さえ、視線から逃れるように俯いた。
カサンドラは何故ルイを憎んでいるのか、次回に続きます
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




