42. 十一月十一日 モンスターショー【7】
モンスターショー、吸血鬼五十マイル競走直後です。
催眠術のコンテストが行われているテントの中に移動しようと歩き出した美良乃の腕を、ルイが後ろから掴んで引き留めた。振り返ろうとした途端に視界がぐるりと回転し、気が付いた時にはルイの背後に庇われるようにして立っていた。
「ルイ、どう――」
どうしたのかという言葉は、前方から聞こえてきたハスキーボイスに遮られた。
「――これは、これは、サンティアゴ伯爵じゃないかい」
視界一杯に広がるルイの背中に緊張が走ったのを、美良乃は見逃さなかった。
「やあ、カサンドラ。やはり君も来ていたか。――久しぶりだね」
「ああ、久しぶりだともさ、色男」
鼓膜にじっとりと沁み込んでいく声に、首の後ろの気が逆立った。そろりとルイの背中から覗き見れば、ルイから十数歩離れた位置に女が立っていた。
背の高い女だ。紅がかった黒髪はウェーブをつけて耳を隠すようにセットされていて、雪のように白い肢体は、髪と同じ色合いのタイトなロングドレスに覆われている。胸元は大きく開いていて、三重のパールのロングネックレスが豊満な胸の谷間でつるりとした光沢を放っている。細い肩には白い毛皮を羽織っており、全体的に大正時代に流行したモダンガールを意識したようなファッションに見える。
カサンドラは、二十センチはあろうかという長いシガレットホルダーを使ってタバコをふかしていた。気怠げに丸い煙を吐き出すと、紅い双眸を眇めて美良乃を見据えた。
「おやまあ。美味そうな人間を連れているじゃないさ」
紅い唇が弧を描く。鋭い牙が下唇に引っ掛かっている様が妙に艶めかしい。
「哀しみ、怒り、疑念……そして少しばかりの恋ねぇ。ふふ、何とも堕としやすそうな小娘だこと」
――堕としやすそう。
それは美良乃の心に棘のように突き刺さった。刺さった個所からじわじわと不安が滲み出て、全身に広がっていくような錯覚に陥る。
「僕たちに何か用かい、カサンドラ?」
ルイは後ろ手に美良乃の腕を掴んだ。気が立っていて力の制御ができないのか、彼の節くれだった指が腕に食い込んで鈍い痛みが走る。
「小腹を満たすにはぴったりだねえ。その娘あたしにおくれよ」
「冗談も休み休み言っておくれ。彼女は僕の大切な人だ。――手を出せば君でも容赦しない」
カサンドラはくつくつと嗤う。伏し目がちにタバコを燻らせ、「おやまあ、怖いこと」と嘯いた。
肘までの手袋をはめた手でゆったりとタバコの灰を落とすと、カサンドラは牙を剥き出しにする。美しい顔が憎悪に歪んだ。
「……いい気になってられんのも今のうちさ、伯爵」
噛みつくように言い捨てて、カサンドラは忽然と姿を消した。
完全に彼女の気配が遠ざかったことを確認すると、ルイは美良乃を振り返った。掴んでいた腕を解放されて、美良乃は安堵の息を吐いた。
「僕の同族が失礼したね」
「あの人と、仲が悪いの?」
無意識に腕を摩っていると、ルイは眉尻を下げ、優しく美良乃の腕を取って袖を捲り上げる。
「犬猿の仲と言っていいだろうね――ああ、何てことだ」
ルイに掴まれた箇所は指の形に赤くなってしまっていた。彼はそこに口づけを落とすと、情けないくらいにしょんぼりと項垂れた。
「痣になってしまうかもしれない。君の美しい肌に、僕は何てことを」
「わざとやったわけじゃないんだから、気にしないで」
「君は優しいのだね。どうかお詫びをさせてほしい」
「本当に、大丈夫だから。あの人から庇ってくれたんでしょ?」
ルイは美良乃の肩に両手を置き、真剣な面持ちで顔を覗き込んできた。
「いいかい、吸血鬼の瞳が紅い時は、決して目を合わせてはいけないよ。催眠術をかけられる可能性があるからね」
吸血鬼の瞳は通常、人間と同じ茶色や青、ヘーゼルなどだが、吸血する際や催眠術を使う際など、吸血鬼の本能が強く作用すると紅色に光るらしい。
「そういえば、以前ヴァイパー族の毒を吸い出してもらった時のルイの瞳も、紅く光っていたね」
ルイは気まずそうに視線を逸らした。
「あ、あれは……。君は毒の影響で猜疑心に塗れ、パニックに陥っていたからね。落ち着かせるためと、吸血する際の恐怖心を和らげるために、仕方がなかったのだよ」
「うん、それは、理解してる」
「一刻を争う事態だったとはいえ、同意もなく行ってしまって申し訳なかった」
あの時ルイが催眠術をかけなければ、ルイは窓を叩き割って部屋に入ってくるしかなかったし、悲鳴を上げて抵抗する美良乃から血を吸わねばならなかったはずだ。どう考えても階下で就寝中だった祖父母を起こしてしまうし、要らぬ誤解を与えかねなかったのだから、ルイの決断は正しかったと思う。
「大丈夫だから。気にしてないよ」
「しかし……」
美良乃は自分の話し方がぶっきらぼうで、態度もぎこちない自覚がある。そのため、自分の感情が相手に伝わらずに誤解され、幾度ももどかしい思いをしてきた。
どうしたら本当に気にしていないと伝えられるだろう。美良乃は恐縮しきったルイの顔をじっと見上げながらしばし逡巡した。
(言葉で伝わらないなら、行動で示せばいいのかな?)
恐る恐るルイの肩に両手を滑らせた。背伸びをして彼の首の後ろに腕を回し、自分の方へと引き寄せる。身体が密着すると、ルイの香水の匂いが鼻腔いっぱいに広がった。
ルイは突然のことに身体を強張らせていたが、子供を宥めるように彼の広い背中をぽんぽんと軽く叩いてやると、次第に力を抜いていった。長い腕を美良乃の背中に回してぎゅっと抱きしめてくる。ほうと吐き出された彼の息が熱い。
「君の方からハグをしてくれるなんて、今日は僕にとって最高の日だよ」
「ちょっと大げさじゃない?」
「大げさなものか。今日は『美良乃から初めてデートに誘われ、あまつさえハグしてもらった記念日』にしよう。国民の祝日にしてもいいくらいだ」
「スケールが更に大きくなってる……」
苦笑して、美良乃はルイの肩越しにカサンドラが消えた場所を眺めた。
――『何とも堕としやすそうな小娘だこと』
耳の奥に、彼女の声が蘇る。清水に墨汁を一滴垂らしたように、胸の中が澱んでいく。
(わたしは、本当に、このままルイと関係を進展させていいんだろうか……)
大勢のファンに囲まれているルイを見た時の不安がまたしても蘇ってくる。彼は本当に、自分のことを選んでくれるのだろうか。選んでくれたとして、それは簡単に喰えそうだからという理由からではないのだろうか。
――内側に詰まっているこの面倒な気質も全て受け入れた上で好きになってほしいと思うのは、我儘なのだろうか。
気付くと、美良乃はルイを押し返すようにして身体を離していた。
サファイヤのようなブルーの瞳が困惑したように揺れる。
「――美良乃?」
「催眠術のコンテスト、始まっちゃうよ?」
美良乃はひび割れた笑顔を浮かべると、ルイの手を引いて歩き出した。
一度気になってしまうと、そのことばかり考えてしまうのは自分の悪い癖だ。上の空で観覧した催眠術のコンテストの内容はあまりよく覚えていない。ルイも時折こちらを窺うような視線を投げかけてきたが、特に何かを問うことはしなかった。
何となく気まずい空気は夕方自宅へ帰るまで続いた。
「今日は誘ってくれてありがとう」
美良乃の自宅の前で車から降りると、ルイは玄関までエスコートしてくれた。
「わたしこそ、一緒に行ってくれて、ありがとう。ブレスレットも、嬉しかった」
二人の間に重い沈黙が降りる。
何か言わなくてはと焦る思考の一方で、何を言ったらいいのかさっぱり思いつかない。
もう家に入ってしまおうかと思ったところで口を開いたのはルイだった。
「先ほどのカサンドラのことだけれど」
彼は視線を足元に定めたまま、言葉を選ぶようにゆっくりと続ける。
「彼女と僕は、少々因縁があってね……。もしかすると、今後君に接触してくるかもしれない」
眼裏に酷薄そうな笑みを湛えたカサンドラの顔が蘇って、美良乃は小さく震えた。
それに気付いたのか、ルイは悲しそうに顔を歪めた。
「僕の問題に巻き込むことになって、すまない」
彼は壊れものを扱うように慎重に美良乃の右手を取ると、手の甲に唇を寄せた。
「明日にでも、アリア嬢に吸血鬼避けの護符を注文する予定だが、万が一のこともあるかもしれない。くれぐれも、カサンドラと目を合わせないように気を付けてくれたまえ」
「吸血鬼避け……?」
ルイは重々しく頷く。
「それを肌身離さず身につけておいてほしい。――僕も君に近づけなくなるが、その間にカサンドラの監視を続けるから、安心してくれたまえ」
しばらくの間、ルイとは会わなくなるようだ。それに安堵したのか失望したのか、美良乃は自分でも分からなかった。
「会えなくても毎日メッセージを送るよ。たまに電話して君の声を聞いてもいいだろうか?」
「うん、分かった」
美良乃が頷くと、ルイは嬉しそうな、切なそうな、何ともいえない表情を浮かべた。堪えきれないといった風に美良乃を掻き抱くと頭頂部にキスを落とす。
ドキンと心臓が跳ねた。
「好きだよ美良乃。それだけは、忘れないでほしい」
ルイは今一度美良乃を抱きしめる腕に力を込めると、静かに身体を離した。
「おやすみ。良い夢を」
「うん。おやすみ。ルイも良い夢を」
自室の窓から走り去る車を見送りながら、美良乃は唇を噛んだ。
――ルイの『好き』が吸血欲ではなく恋情だと、信じきれない自分がいる。
「わたしはこれから、どうしたいんだろう……」
溜息と共に零れ落ちた言葉には困惑が色濃く滲んでいた。
モンスターショーはこれで完了です。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




