3. 八月二十五日 「運命の出会い」はトーストをくわえて
「はあ、引っ越してきてからもう一週間か」
美良乃はニッカ―に唯一存在するカフェでカフェモカを飲みながら、ぽつりと呟いた。
客席が十程度しかない店内には、店主が先祖代々受け継いでいるという椅子やテーブル、ソファなどが置かれていて居心地がいい。
美良乃は窓際のひとり掛けソファに座って、ベーコン、トマト、レタスが挟まったBLTサンドイッチを頬張りながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
レンガ造りの建物が多いニッカ―の下町は、1900年ごろの景観を今も保っているそうで、眺めているだけでも楽しいのだ。
そろそろ八月も終わりに近づいているが、まだまだ暑い日が続いている。ニッカ―の夏は東京と同じくらいの気温と湿度だが、東京のように住宅が密集した大都会ではないので、まだ過ごしやすく感じる。
ここ数日はバイトの面接に行ったり、次の学期から大学に通う方法について調べたりと忙しく過ごしている。家には退職した祖父母が常にいるので、たまにはクローイーに車を借りてこうしてひとりの時間を過ごすのもいい気分転換になる。
(バイトして、お金を貯めて、近いうちに自分の車も買わなちゃいけないな。町に来るのに毎回おばあちゃんの車を借りるのも気が引けるし)
サンドイッチを食べ終えて、そろそろ帰ろうかと考えていた時、店のドアに取り付けられたベルのカランコロンという音が聞こえた。
何気なくそちらに視線をやると、若い男が入店してきたところだった。サングラスをかけているので顔だちはよくわからないが、すらりと背が高く均整の取れた体型をしていて、デニムと黒い長袖のシャツというシンプルな装いにも関わらずどこか品がある。艶やかな黒髪は肩のあたりまで伸びていて、首の後ろでひとつに纏められていた。
彼は軽く手を上げて店主に挨拶すると、迷うことなく店の一番奥のソファに向かって歩いていく。
(あ、やば)
男がソファの前まで行ったところで、美良乃は慌てて彼から視線を引き剝がした。あのソファに座ると窓の方を向くことになり、美良乃と目が合う可能性がある。
この地域では目が合った相手にはにっこりと笑いかけるのがマナーであり、笑顔を作るのが苦手なうえに、無言で目を逸らすことに慣れた美良乃にとってはかなりハードルが高いのだ。
カップに残ったカフェモカを飲み終え、席を立とうとして誰かの視線を感じた。
ふと顔を上げると、先ほどの男がソファに腰かけながら、口と目を開いてポカンと美良乃を見ていた。どうやらサングラスは外したようだ。
(えっ、何? まさか口の周りに何かついてる?)
視線を手元に下げて、ペーパーナプキンで口を拭う。ナプキンの表面には口紅が少々ついている程度で、他に汚れらしきものは見当たらない。
「ハーイ」
突然近くで声がして、ビクリと肩を震わせる。
視線を上げると、壁際のソファに座っていたはずの男がいつの間にか美良乃の目の前に立っていた。
(うわあ、すっごく綺麗な人)
長い睫毛に縁取られたブルーサファイアのような瞳、すっと通った鼻梁に、薄すぎず厚すぎない完璧な唇。「イケメン」というより「綺麗」という言葉がしっくりくるような顔立ちだ。
思わずまじまじと男の顔を見つめていると、彼は突然声を上げた。
「オウ!!」
右手の甲を額に当てて天を仰ぎ、コルセットをきつく締め過ぎたヨーロッパ貴族のご令嬢のごとく、ふらりとその場に頽れる。
「えっ!?」
美良乃は何が起こったのかわからず、床に倒れた男を呆然と見下ろした。
(えっ!? き、気を失ったの!?)
ハッと我に返り、慌てて男の傍らにしゃがみ込んだ。
「え、だ、大丈夫ですか!?」
ぐったりしている男の顔を覗き込む。頬がバラ色に染まっているが、熱中症か何かだろうか。カフェの店主に何か冷やすものをもらおうと立ち上がると、がっしりと手を掴まれた。
驚いて振り返ると、男は潤んだ瞳でうっとりと美良乃を見上げていた。
「君の……」
「えっ?」
「君の名前は……?」
「み、美良乃、です」
有名なアニメ映画の題名のようだと思いながら名乗る。
男はミラノ、と口の中で繰り返した。
「エキゾチックで素敵な名前だね。僕はルイというんだ」
「あ、ありがとう……」
美良乃の名前はイタリアのミラノが由来なので、エキゾチックかと言われると少し疑問に感じる。中西部の英語だと、ミラノは「ミラン」に近い発音になるので、美良乃の名前がイタリアの都市と同じだと気付く人は今までいなかったけれど。ちなみに、父と母がミラノに旅行した際に授かった子だからという妙に生々しい理由でつけられた。
「この辺りでは見かけないけれど、遊びに来たのかい?」
床に倒れたまま話し続けているが、具合が悪いわけではないのだろうか。
困惑しながらも、美良乃は律儀に返事をする。
「いえ、最近日本から引っ越してき」
「日本だって!?」
ルイは美良乃が言い終わる前に驚愕の声を上げた。
「僕は何て失礼なことを! 少々待っていてくれるかい!?」
言うなり、彼はポカンとしている美良乃を置いて、慌ただしくで店を出ていった。
「……何だったの、あれ?」
美良乃はふらふらとひとり掛けソファに腰を下ろした。窓の外を覗き込んでも、ルイの姿は見当たらない。
(どうしよう。待っててって言われたけど、どれくらい待てばいいの。っていうか、わたしに何の用なの、あの人)
少し、いや、大分様子のおかしい人だったように思う。新手のナンパかもしれないし、大人しくこのままここで待っている義理もないだろう。
店内にいた数人の客はちらちらと美良乃の方を見ている。不本意に注目を集めてしまい、恥ずかしさのあまり顔が熱くなった。今のうちに逃げようと立ち上がると、ルイが店に戻って来てしまった。
彼は何故か食パンを口にくわえながら美良乃の方へ小走りに近づいてくる。
「いっけな~い! 遅刻、遅刻~!」
ルイは流暢な日本語で言うと、美良乃の前でわざとらしく転んだ。食パンがぽてりと床に落ちる。よく見ると、こんがりと焼き目のついたトーストだった。
――何だろう、この既視感は。
「えっと、え……?」
反応に困って視線を泳がせていると、ルイは颯爽と立ち上がり、キリリとした顔で宣う。
「先ほどは大変失礼したね。日本では、運命の人に出会うときは、口にトーストをくわえて相手にぶつからないといけないんだろう?」
「――は?」
――少女漫画の読み過ぎではないだろうか。しかも、何故か最近のものではなく昭和か平成初期の。
彼の荒唐無稽な思い込みに、目が点になっている自覚がある。おまけに「運命の人」と言わなかっただろうか。
顔から一気に血の気が引いていく。
――こいつは、ヤバいやつだ。
(いやいやいや、無理無理無理無理無理無理無理無理!!)
ドン引きしている美良乃をよそに、ルイは指の先をこねくり回しながら恥ずかしそうに喋り続けている。
「ここで会ったが百年目だね! どうだろう、今夜食事にでも」
どう考えても言葉の使い方を間違えているうえに、二度と関わり合いになりたくない。
美良乃はじりじりと後退った。
「わ、わたし、もう行かないと」
「では、連絡先を交か」
「さようなら!!」
美良乃は一目散に店を飛び出した。先に支払う形式のカフェで本当に良かったと心の中で店主に感謝を捧げる。
店の前に駐めてあったクローイーの車に飛び込んでエンジンをかけ、滑るように走り出す。バックミラー越しにカフェの前で立ち尽くすルイの姿が見えたが、気のせいだと思うことにした。
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