35. 十一月五日 迷子の仔猫ちゃん
美良乃が暮らす祖父母の家は農業と牧場を営んでいる。庭と牛を放牧しているエリアは繋がっているため、その敷地は広大だ。庭の北側には先日森の賢者が出没した防風林が、南には収穫が終わったトウモロコシ畑が、地平線まで広がっている。
予定が何もない日、美良乃は朝食を終えてから庭に出てベンチに座り、コーヒーを飲みながら何もない地平線をただぼんやり眺めることにしている。
「ううっ、寒っ!」
気温五度の中、障害物のない平野を吹き抜ける風は冷たい。美良乃は着ていた上着の襟を掻き合わせた。忙しなかった東京の生活を考えると、庭先で季節の移ろいを感じながらのんびりするこの時間がとても贅沢なものに思えてくる。
コーヒーを飲み終えると、歌を歌いながら敷地を散歩する。どれだけ大声で歌っても誰にも迷惑がかからないので気楽だ。ひとりカラオケし放題なのである。
日本にいた頃は、趣味とストレス発散を兼ねてたまにひとりでカラオケに行っていたが、ニッカ―周辺には日本のようなカラオケボックスがなく、バーでDJに自分の歌いたい曲をリクエストし、客全員の前で歌うスタイルとなる。美良乃には極めてハードルが高い娯楽となっているため、渡米して以来、本格的なカラオケには行っていない。
美良乃が揚々と歌いながら近づくと、庭と牧場の境目で水を飲んでいた牛たちが迷惑そうな顔をして遠ざかっていく。もしかすると彼らだけは美良乃の歌声に辟易しているのかもしれないが、文句を言われないので良しとする。
牛からの胡乱気な視線を甘んじて受け止めていると、敷地の入口の方から車のタイヤが砂利道を進んでくる音がした。誰かが訪問してきたのだろうか。
砂利道を下って来たのは、いかにも高級そうな黒いスポーツカーだった。サンフランシスコやロサンゼルスでハイウェイをかっ飛ばしていそうな車は、牧歌的な景観の中にあるとやたらと浮いて見える。
「あれって、ルイの車?」
美良乃は自分の身体を見下ろす。くたびれたスウェットパンツにクローイーが農作業をする時に羽織っている上着、おまけにスッピンである。どう考えてもデートしている相手に見せていい状態ではない。
「もう! 何でこういう時に限って来るの!?」
スマホを確認してみると、いつの間にかルイから近所に来たから、顔を見ていきたいというメッセージが入っていた。どうやら大声で歌っていたせいで受信音に気が付かなかったようだ。
ルイが車から降りてくる直前に、美良乃は急いで上着のフードを目深に被った。
「やあ、僕の女神!!」
爽やかな笑顔を振りまきながら降りてきたルイは、黒いコートに細身のデニムパンツと、誰に見られても恥ずかしくない装いだ。ずるい。
彼は美良乃を引き寄せて軽いハグをすると、蕩けるような笑顔を浮かべた。
「今日も君は美しいね。食べてしまいたいくらいだ」
「ありがとう……」
正直、こんなみっともない姿を褒められてもちっとも嬉しくないのだが、反論することでもないのでスルーしておく。
「近くに用事があったの?」
「仕事の関係で隣町まで行くのだが、そこのハイウェイを通りがかったものでね」
言いながら、ルイは顎で祖父母の畑の西側にあるハイウェイを示した。
「それじゃあ、あまり時間がないのかな? コーヒーでも飲む?」
「では、いただこうかな。ところで、君はとても歌が上手いのだね」
「えっ!? 聞こえてたの!? 結構な距離があったと思うんだけど?」
「僕は耳がいいからね。君の家の林の近くまで来たら透き通るような美声が聞こえてきたので、てっきり林の中に天使でもいるのかと思ったよ」
「天使って」
大げさな賛辞に、美良乃はいたたまれなくなって視線を彷徨わせた。
「うう……。そうだ! コーヒー! 家の中で飲む?」
「もし良かったら庭を案内してくれるかい?」
「じゃあ、コーヒーを持ってくるね」
美良乃は熱くなった頬を両手で隠しながら家に引っ込んだ。コーヒーメーカーのスイッチを入れ、来客用のマグカップを食器棚から引っ張り出す。コーヒーが淹れ終わるまでバスルームで最低限の身だしなみを整えた。
庭に戻り、ルイと共にコーヒーを飲みながら歩く。生憎とすでに寒い時期なので、夏に見られたような色彩豊かな花々は枯れてしまっていて、何とも物悲しい。
「おや?」
ルイは庭の西端にある物置付近で足を止めた。
「どうしたの?」
「あそこに尻尾があるのだよ」
ルイが指差した先にはトラックが数台入るような大きなガレージがある。中には代々チャドの家に伝わる農具や故障したトラックなどが放置されているのだが、その中の一台、1950年代にチャドの父親が購入したというターコイズブルーのトラックの下に、何やら赤茶色のふさふさしたものが見える。
「猫かな?」
目を凝らしてみると、それはサイベリアンやノルウェージャンフォレストキャットのような長毛種の猫の尻尾に似ていた。二人がゆっくり歩み寄り、トラックまであと数歩という距離まで近づいた時、それは怯えたようにビクリと震えた。
「ヒッ!!」
人間の子供のような甲高い悲鳴が聞こえたかと思うと、尻尾は勢いよく奥の方へと引き込まれた。
「えっ? 子供がいるの?」
祖父母の家には美良乃たち三人以外は住んでおらず、今日はルイ以外、誰も訪ねて来ていないはずだ。美良乃は慌てて地面に膝をついてトラックの下を覗き込む。
トラックの中央付近、ちょうど美良乃の手が届かないような位置に、キラリと光るものが二つある。どうやら人間の子供ではなく、猫のようだ。
「さっきの悲鳴は君かな? おいで猫ちゃん。怖くないよ」
美良乃がチッチと舌を鳴らしながら手招きすると、シャーと威嚇する音が聞こえた。
「警戒されてるみたい……」
ルイも地面にしゃがんでトラックの下を覗いた。
「いや、あれは猫ではないね。ネコ科の獣人だ。まだ子供のようだね」
「えっ!? 何でうちの敷地に?」
「もしかすると、親とはぐれたのかもしれない」
ぎょっとする美良乃をよそに、ルイは獣人の子に向かって手を差し伸べた。
「匂いで分かると思うが、僕は人間ではないから安心したまえ。さあ、こちらにおいで」
トラックの下の双眸が瞬いた。美良乃には暗くてよく見えないのだが、ふさふさした尻尾が警戒するように左右に大きく揺れたのが分かった。
「僕はモンスター自警団のルイだよ。君の保護者に連絡してあげるから、まずはそこから出てきてくれないかい?」
「――ママがいってた、ヴァンピャイヤのおうじしゃま?」
「ママが僕を王子様って言っていたのかい? それは光栄だね!」
ルイの名前に聞き覚えがあったのか、小さく呟く声が聞こえた。獣人の子はこちらの出方を窺うように、そろそろとトラックの下から這い出てくる。
それは、金髪に夏の空を思わせるブルーの瞳を持った子供だった。年は二歳か三歳といったところか。ズボンを穿いているので美良乃には性別の区別まではできなかったが、ふっくらとした頬とぷくっとした唇の何とも可愛らしい子で、頭には尻尾と同じ赤茶色の猫耳が生えている。
「おや、君は確か、トーマスのところの末っ子ではないかな?」
獣人の子はルイの顔を凝視しながら頷く。
「お名前は言えるかな?」
「しゃら」
「サラか。可愛らしい名前だね」
「かっ! 可愛い!!」
舌足らずな話し方に心を打ちぬかれた。美良乃が悶えていると、サラは怯えたように顔を背けてルイの脚にしがみついた。不審者だとでも思われたのだろうか。結構ショックだ。
「おやおや、随分おててが冷たくなっているね、お姫様。だっこしてもいいかい?」
サラはルイを見上げながら両手を広げた。
よく見れば丸い頬も小さな鼻も赤くなってしまっている。
「わたし、温かいココアを持ってくるね」
美良乃は慌てて家に駆けこむと、子供が飲めるくらいの温度のココアと、昨晩の夕食の残りだったブルーベリーマフィンを持って庭に戻った。
ルイはサラを庭のベンチに座らせて、美良乃から受け取ったマフィンをちぎって渡す。彼女は初めは警戒していたもののお腹が減っていたのか、思い切ったように口に入れた。
「おいちい!」
パッと顔を輝かせ、夢中で残りのマフィンを食べた。ココアもコップを両手で持ってゆっくり飲んでいく。
(何この子! あり得ないくらい可愛い!! 天使なの……!? ああ、動悸息切れが!)
美良乃はサラを怖がらせないよう、そっと背を向けて呼吸を整えた。
「さて、お姫様。どうしてこんな所にひとりでいるのか、この王子様に教えてくれるかい?」
自分で王子様と言っているあたりがいかにもルイだが、サラはお腹がいっぱいになったのか、眠そうに目を擦っている。今のうちに事情を聴いた方がいいだろう。
「うんと、パパとママと、しかしゃんにあいにきたの」
「鹿さんに?」
「うん。あのね、しかしゃん、おいしいよ」
美良乃とルイは顔を見合わせる。
ネブラスカ州では鹿やヘラジカ、キジ、七面鳥などの狩りが盛んだが、狩猟が許可されている土地と時期が決まっていて、許可証が必要になる。
「この時期だとヘラジカの狩猟が解禁になっているはずだね。確かトーマスの親戚がこの近所で牧場を営んでいるから、そこへ狩りに来てはぐれてしまったのかな?」
ルイはスマホでサラの両親に連絡を入れた。ルイが推測した通り、近くの親戚の家に来ていたらしい。二人は電話を切ってすぐに迎えに来た。
サラは母親の姿を認めるなり、一目散に走り寄った。
「ママァ!!」
「サラ! 心配したのよ!」
しっかりと抱きしめられて安心したのか、サラは大声で泣き出してしまった。見知らぬ土地で独りぼっちだったのだ。どれほど心細かっただろうと思うと、美良乃の眦にまで涙が浮かんだ。
「お母さんと会えて良かった……」
何度も礼を言って去っていく一家を見送りながら、美良乃がポツリと零すと、ルイは彼女の肩をそっと抱き寄せた。
「君は子供が好きなのだね」
「うん。子供と話すのは苦手だけどね。見てるのは好き」
「大丈夫。ああいうのは慣れだからね。自分の子供なら、問題なく会話ができるようになるさ」
ルイはうっとりと息を吐いた。
「美良乃の子供は可愛いだろうなあ……。僕としては四人は欲しいのだけれど、君はどう思う? 二人は人間で、二人は吸血鬼がいい」
「いっ、一体何の話をしてるの!?」
二人きりで会うようになってまだ一ヶ月も経っていないというのに、一足飛びに子供の話を始めるなんて、気が早すぎる。一気に顔に熱が集まった。
「ふふっ、冗談さ。今のところは、ね」
美良乃は余裕の笑みを浮かべるルイを横目でじっとりと睨んだ。
「――何はともあれ、ルイがいてくれてよかったよ。ありがとう」
美良乃ひとりだったら、サラも警戒したままトラックの下から出てこなかっただろう。
「お役に立てて光栄だよ、僕の女神。――おっと、もうこんな時間か。行かないと」
「引き留めちゃってごめんね」
「僕が好きでしたことさ。また近くに来たら寄ってもいいかい?」
「――今度はもう少し早めに知らせて欲しいかな。こんな格好を見られるのは恥ずかしいし、お化粧だってしていないし」
ルイはきょとんと目を瞬いた。
「素顔も眩しいくらいに美しいのに、気にすることはないのでは?」
「そっ、そういう問題じゃない」
好きな人の前では綺麗でいたいという女心は世界共通ではないのだろうか。
「……でも、ありがとう」
「ああっ、恥じらう君も最高だよ……!」
ルイは感無量といった風に美良乃をぎゅうぎゅう抱きしめる。
「も、もうっ!! ほら、仕事なんでしょ? 早く行った方がいいよ」
美良乃はルイを彼のスポーツカーに押し込んだ。
「夜にまたメッセージを送るよ」
「うん。またね」
ルイはウィンクとキスを投げて寄越すと、颯爽と車を走らせて敷地を去っていった。
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