21. 十月十二日 毒を食らわば心まで【1】
ヴァイパー族の毒に侵された美良乃。バーバラの要請でルイが駆けつけます。
何かが固いものを叩くコツコツという音で、美良乃は覚醒した。
錆びついたシャッターのように動きの鈍い瞼を何とか持ち上げる。辺りは真っ暗で何も見えない。美良乃は数秒間、自分が何処にいるのか分からずに混乱した。
忙しなく思考を巡らす間も、身の内では様々な感情が花火のように打ち上がっては消えていく。胃の腑をかき混ぜられているような不快感と倦怠感も伴い、じっとしていることが困難で、無意識のうちに両足を揺らしていた。
(ここは……。おばあちゃんの家のわたしの部屋? 何があったんだっけ……。そうだ、確か、ヴァイパー族の毒で……)
夢の中の出来事が脳裏に蘇った時、再びコツコツという音が聞こえた。
鉛のように重い身体を何とか起こして音のした方を向くと、窓の外に人影が見えた。
「ヒッ!!」
驚愕と恐怖に、喉から押しつぶしたような悲鳴が漏れた。
美良乃の自室は二階にある。おまけに窓の外にバルコニーはないため、人が窓にへばりつくとしたら、窓枠くらいなものだ。只人には不可能だろう。
――『目が覚めたら、あーたの家にルイちゃまがおいでになりますから、部屋に入れてあげてくださーませ』
バーバラに言われたことを思い出し、恐る恐る窓に近づくと、くぐもった声が聞こえた。
「美良乃、僕だよ。入れてくれるかい?」
――窓を開ければ、血を吸われる。
夢の中では一旦受け入れたことだが、いざとなると恐ろしくて堪らない。ガクガクと震えながらその場に凍り付いたまま、窓の外のルイらしき影を凝視した。
「怯えないで、大丈夫だよ。早くしないと手遅れになる。入れておくれ」
柔らかいがどこか焦りを含んだ声が鼓膜を揺らす。
緊張で喉がからからに渇き、唾を呑んでも一向に湿る気配がない。
「大丈夫、怖がらないでいい」
美良乃は一歩、また一歩と窓辺に寄った。震える腕を何とか持ち上げ、窓の鍵に手をかけた瞬間。
――『ルイ様にとって、あんたなんて家畜と同じなんだよ』
あのヴァイパー族の女に言われた言葉が耳に蘇り、手が止まる。
(――本当に、ルイはわたしを助けようとしているの?)
心の奥に根を張って成長した猜疑心が、今まさに大輪の花を咲かせようとしていた。
バーバラは結婚相談所を経営していて、ルイはその顧客だ。ヴァイパー族に襲われたのをいいことに、二人が美良乃を騙して血を差し出すように仕向けていないと言い切れるのだろうか。いや、もしかしたら、あのヴァイパー族の女すらルイが仕掛けた罠なのかもしれない。
鼓動が速まり、背中に冷たい汗が流れた。
灯りがないせいで黒い影の塊のように見えるルイを凝視したまま、美良乃はゆっくりと後退った。ルイの焦れたような声がする。
「美良乃っ!」
「わたしが簡単に騙されると思ってるんでしょ?」
「――何だって?」
「わたしに近づいてきたのは、血を吸うためなんでしょ? 何も知らない馬鹿な女なら、気がある素振りをすれば、簡単に落とせると思ったんでしょ!?」
歯の根が合わないほど身体が激しく震える。背中を丸めて、己を敵から護るように両腕を抱え込んだ。
「絶対に、騙されないんだから。わたしは、あなたなんかに、絶対に……」
譫言のように繰り返していると、ルイが重い息を吐く音が聞こえた。
「できれば、この手は使いたくなかったんだけれどね。――仕方がない」
不穏な気配に顔を上げると、暗闇の中に紅い二つの光が浮かんでいた。怪しげなその光に視線が絡めとられた刹那、思考に霞がかかったようになり、バクバクと飛び跳ねていた心臓が落ち着きを取り戻した。
「美良乃、窓を開けて、僕を中に入れるんだ」
無機質な声が静寂を切り裂いた。
(窓を……開ける……)
頭はぼんやりとしたまま、身体が勝手に動き出す。言われた通りに窓を開けると、ルイが身体を滑り込ませて部屋の中に入ってきた。
「よくできたね。いい子だ」
コツコツと靴音を響かせながら数歩近づいてくると、彼は美良乃の目の前で立ち止まった。
「美良乃、僕の目を見るんだ」
命じられるまま頤を上げた。頭一つ分高い位置にある双眸は蠱惑的な色を纏ったまま、静かに美良乃を見下ろしている。
「僕は今から君の血を吸うよ。けれどもこれは、君を蝕んでいる毒を吸い出すための、いわば医療行為だ。君は僕に騙されたわけでも、誘惑に屈したわけでもない。いいね?」
ゆっくりと頷くと、ルイはそっと美良乃の手を取り、一歩一歩床を踏みしめるように、ベッドへと誘う。
「さあ、ここに座って」
美良乃は促されるままベッドに腰を下ろした。衣擦れの音がして、指が頬に触れた。美良乃の肌より若干温度が低く、ひんやりとして心地よい。
ルイは美良乃の頭を少し傾けさせると身を屈める。首筋に柔らかいものが触れたかと思うと、熱く湿ったものが下から上へ肌を這った。
「……ごめん、気持ち悪いかもしれないけれど、吸血鬼の唾液には麻酔作用と止血作用があるから、我慢しておくれ」
「……うん……」
唾液と聞いても、それが何を意味するのか理解する前に、意識から霧散していく。
大きな手が美良乃の後頭部と肩に添えられると、すぐそばでルイが緊張したように唾を呑む音が聞こえた。
「――いくよ?」
言うなり、首に何かが押し当てられるような圧迫感と、体内から液体のようなものが溢れ出る感覚がした。痛みはない。
鼓膜がごくり、ごくりと嚥下する音を拾うたび、首に押し付けられた唇から振動が伝わってくる。
身の内に巣くっていた感情が潮が引くように消えていく。徐々に倦怠感も治まって、美良乃は知らず知らずの間に安堵の息を吐いていた。
どれくらいそうしていただろうか。数分にも数時間にも感じられたそれは、突如として終わりを迎えた。首筋に押し込まれていた何かが、皮膚を引っ張るようにして抜かれる。直後、再びぬるりと肌を舐め上げられ、美良乃は小さく身震いした。
「もう、大丈夫だよ……」
囁いた声は何かを堪えるように震えている。
ルイは美良乃の肩に額を預けるようにしてもたれかかった。荒い息を整えるように何度も深呼吸をする。彼は額に汗をかいているのか、触れている部分のパジャマの布地がしっとりと湿り気を帯びた。
ぼんやりしていた思考が突然クリアになって、美良乃は目を瞬いた。
「えっ……。ちょっ、ちょっと、大丈夫? もしかして、あなたにも毒が」
美良乃の血液を介してヴァイパー族の毒を摂取してしまったのだ。身体にいい訳がない。
「いいや、僕たち吸血鬼には、どんな毒も、効かないよ」
「そうなんだ? 良かった……」
ホッとしたのも束の間、ルイの口からとんでもない言葉が飛び出した。
「ただ、吸血行為は性欲を刺激す」
「いやあぁ!!」
美良乃は力任せにルイを突き飛ばすと、ベッドから慌てて飛び上がった。
部屋の照明をつけると、ベッドの上で黒髪を乱し、とろんとした目で美良乃を見上げるルイが視界に飛び込んできた。上気した頬といい、潤んだ紅い瞳といい、とんでもない色気を放っている。
(ひいいい! そんな目で見ないで!!)
美良乃の顔が瞬時に熱くなった。羞恥心が極限に達し、衝動的に叫んでいた。
「バカ!! 変態!! 最低!!」
ハッとして口を押さえても後の祭りだ。口から出してしまった言葉はなかったことにはできない。
――ルイは自分を助けてくれただけなのに。
(ああ、まただ。また酷いことを言っちゃった。わたしって、どうしてこうなんだろう)
顔を歪めて俯く。自分が情けなくて、眦に涙が浮かんできたが、唇を噛んで堪える。
「本当に、その通りだね。レディにこんなところを見せてしまって、申し訳ない限りだ」
力なく笑うルイに、罪悪感と自己嫌悪で胸が締め付けられた。
「何で……」
「ん? 何だい?」
「何でよ! 何で怒らないの!? わたし、助けてくれたあなたに酷いこと言ったんだよ!? ……自分でも最低だって分かってる。でも感情的になると止められなくって、他人を傷つけてばっかり……」
「美良乃……」
美良乃は涙で歪んで見えるルイの顔を睨みつけた。
「なのに、何で怒らないのよ! 怒って、嫌いになればいいでしょ! わたしだって、自分のことが大嫌いなんだから! お前みたいな奴はうんざりだって投げ出せばいいじゃない! お母さんだって、友達だって、皆そうしてきたんだから!」
いきなり激昂した美良乃に、ルイは驚愕したようにポカンと口を開いて彼女を見上げていたが、やがて小さく苦笑してベッドから立ち上がった。照明を受けてキラキラ光る瞳の色はいつの間にかブルーサファイアに戻っていた。
彼は壊れものでも扱うように、そっと美良乃の手を取った。咄嗟に振り払おうとしたが、流石は男性と言うべきか、吸血鬼というべきか、美良乃ごときの力ではびくともせず、逆にしっかりと握り込まれてしまった。
「美しいバラには棘があるだろう? 君はツンツンした棘で、必死に自分を守っているんだね。僕はそんな君の棘も含めて、全てが美しいと思っているよ」
「棘が刺さったら痛いじゃない! 傷だらけで、血だらけになるじゃないの! それでもいいって言うの!?」
美良乃の反論に、ルイは恍惚とした表情を浮かべて天を仰いだ。
「嗚呼! 君の棘で血だらけになるなんて、どんなご褒美だい!? 考えただけでぞくぞくするよ……。君の美しい棘に与えられる痛みはさぞ甘美なのだろうね……」
「変態か――!!」
「フフッ。まあ、そうカリカリするものじゃないよ。まだ少し毒の影響が残っているようだね」
ルイは美良乃の膝裏を掬いあげると、ベッドの上に座り、美良乃を自分の膝の上に横向きに座らせた。身を捩って逃れようとしても、がっちりと抱き込まれて身動きがとれない。しばしの攻防の末、折れたのは美良乃の方だった。
ルイは美良乃を自分にもたれさせる。諦めの境地に達した彼女が抵抗しないでいると、彼は嬉々として長い黒髪を指に絡めて弄びだした。
「毒を食らわば心までと言うだろう? 同じ毒を食らったよしみで、聴かせてくれないか。どうして君が自分のことを嫌いになってしまったのか」
長くなってしまったので分割します。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




