1. 八月十八日 居場所を求めて
その日、美良乃は住んでいた東京を離れ、祖母が住んでいるアメリカの中西部へ移住してきた。
空港から一歩出ると、夏独特のムワッとした風が美良乃の長くて真直ぐな黒髪を吹き上げた。日本で聞きなれたものとは少し違うトーンの蝉の歌声が耳を打つ。
(相変わらず、何にもない)
空港の前には湖が広がり、その周辺は整備の行き届いた公園になっている。アメリカ中西部ネブラスカ州の中では一番大きな街の外れに建設された空港にも関わらず、見える範囲に高い建物はひとつもなかった。
日本で友達に「ネブラスカ州」と言っても「何処??」と必ず聞き返されるほど無名の田舎だ。国のほぼ真ん中にあり、「アメリカのへそ」と呼ばれている州のひとつ。
「車の準備ができたから行きましょうか、美良乃」
背後から聞こえた声に振り返る。銀に近い白髪を短く切りそろえ、よく日焼けした顔を皺くちゃにして微笑んでいる白人女性は、美良乃の父方の祖母、クローイーだ。
美良乃が頷くと、クローイーは感無量といった様子で抱きついてきた。
「ああ、これからあなたと暮らせるなんて、夢みたいだわ! 何でも相談に乗るから、困ったことがあったら言ってね」
アメリカ人である美良乃の父は大学を卒業後、千葉県の公立小学校で英語教師の助手として働いていた時に美良乃の母と出会った。二人は結婚してからも日本に住んでいたが、美良乃が三歳になった時に離婚している。
父はその後、他の日本人女性と結婚したため、姉や美良乃とはあまり交流がなかったが、クローイーとは頻繁にビデオチャットをしたり、姉と二人で夏休みにアメリカへ遊びに来たりしていた。
それでもクローイーには美良乃たちしか孫がいないため、随分寂しい思いをさせていたようだ。近所に住んでいれば好きな時に会いに行けたのに、と泣かれたこともある。
「ありがとう、おばあちゃん。わたしも嬉しいよ」
ピックアップトラックと呼ばれるゴツめの軽トラのようなものに乗り込んで、地平線の彼方まで伸びるハイウェイをひたすら真直ぐ走っていく。ラジオからはクローイーの好きなカントリーと呼ばれるジャンルの音楽が流れ、換気のため少しだけ開けられた窓からは、ネブラスカ州の特産品であるトウモロコシ畑に撒かれた肥料の強烈な臭いがした。この匂いを嗅ぐと「ああ、おばあちゃんの家に来たんだな」と感じるから皮肉なものだと思う。
広大な畑と放牧された牛という風景をぼんやり眺めていると、時差ボケのせいか次第に眠気が襲って来る。
――ここでなら、わたしは居場所を見つけることができるのだろうか。
眠りに落ちながら、美良乃は数週間前のことを思い出した。
ー*ー*-
「クリステンセンさんってさ、ちょっと変わってるよね」
バイト先のホームセンターの休憩室に入ろうとした時、不意に同僚の声が耳に入った。
美良乃は掴みかけていたドアノブから手を放して立ち竦む。
――離れなくちゃ、立ち聞きしたって、何一ついいことはないのに。
頭ではそう分かっているのに、足が床に凍り付いたように動かない。
「ああ、あのハーフの人でしょ?」
「すごい美人だけど、話し方はぶっきらぼうだし、付き合い悪いし、何か怖くない? こないだお客さんからクレーム入ったでしょ、愛想が悪いって」
「ああ、入ってた! 休憩時間もずっとスマホいじってるか、どっか行ってるしね。あたしらと話すのがそんなに嫌なのかね?」
「美人だからってわたしたちを見下してるんじゃない?」
同じレジ打ちを担当しているアルバイトの二人だった。必要最低限の話しかしたことがないが、以前から美良乃に対してあまりいい印象を持っていないことは薄々感じていた。
美良乃は何とか床から足を引きはがして踵を返す。
(あなたたちと喋りたくないわけじゃない。何を話せばいいのか、どんな態度をとればいいのか、わからないだけなのに……)
――大丈夫、傷ついてなんていない。こんな陰口は慣れている。
足早に歩きながらも、じくじくと痛む心を必死に宥める。
(それに、自分のこと美人だとも思ってないし、他人を見下してなんかいない)
二重でぱっちりした薄茶色の目、通った鼻筋、父親が白人なので色白で、手脚も長い。美良乃は幼い頃から美人と言われて育ったが、得をしたことなど一度もなかった。少なくとも、美良乃は美人は損であると感じている。
世間で言うところの平凡な見た目の人が向けられる期待値が50だとして、内面を知っていくうちに「意外に仕事ができる」とか「思ったより料理が上手い」などで数値が上がることが多いように思う。
だが、見た目がいい人は始めから期待値がMAXの100に設定されているというのは、何も美良乃の思い込みだけではないはずだ。外見が整っているのだから性格も良く、優秀だろうと勝手に期待されて、実際の中身を知ると「思ったより勉強ができない」とか「思ったより運動神経悪いんだな」など減点方式に数値が下がっていくのだ。
「残念な凡人」なんて言葉は聞いたことがないが、「残念な美人」や「残念なイケメン」いう言葉はしょっちゅう聞くではないか。それがどれほど世間が見た目のいい人に期待しているのか如実に表しているというものだ。
その一方で、美人だからお高くとまっていて性格が悪いだろうとか、皆にちやほやされていい気になっているに違いないといった、先入観による妬み嫉みも実に多い。先ほどのバイト仲間の反応は、明らかにこちらのパターンだろう。
美良乃は大きな溜息を吐いた。
――好きでこんな見た目に生まれたわけじゃないのに。
(ここも居づらくなっちゃったな。もう辞めちゃおう……)
美良乃は人と衝突した際、上手く立ち回るのが苦手だ。悪意に満ちた言葉を投げかけられるとパニックになって言い返せなくなるし、一度傷つけられたら、その人とは二度と関わり合いになりたくないと思ってしまう。その結果、高校を卒業してからの二年間でバイトを変えたのは片手では足りないほどだった。
家に帰ったら、早速別のバイトを探さなくては、と考えて、急に何もかもが嫌になった。
――どうして自分は他人と上手に関わることができないのだろう。
受け入れられない悲しさと、理解されない虚しさが一気に去来して、目の前が歪む。
女子トイレに駆けこんだ途端、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
ここではないどこかへ行きたい。自分ではない誰かになりたい。
居場所が、欲しい――。
ー*ー*-
「美良乃、トイレは行かなくて大丈夫なの?」
クローイーの声に、美良乃はハッと目を開いた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。窓の外は午後の七時だというのにまだ明るい。
祖父母の住んでいるニッカ―という町までは空港から車で二時間かかるが、すでに半分の道のりをこなしたようだ。町と町の間には店などなく、車でも数十分の距離がある。ガソリンを補給したついでに、今のうちガソリンスタンドのトイレを使った方がいいだろう。
「うん、行っておく。ちょっと脚も伸ばしておきたいし」
美良乃は眦に浮かんでいた涙をそっと拭うと、トラックの外へ出た。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。