♫第五話 時魔女の夜会とゲートキーパーのヒメカンゾウ❶❷
❶
--暦を司る神さまを時神としてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人やカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ--
魔女の夜会
八卦島。横浜市金沢区にある人工島。その入口に当たる自然岩礁には満月の夜に開門するマジカルゲートが存在する。静かな入り江の片隅にぽっかりと開く不思議な岩屋。波打ち際には、月がその姿を水面に映す美しい景色だ。
その満月を背景に多くの箒にのった時空世界の魔女、すなわち『時魔女』がゲートを目指して飛来してくる。今宵の『時空白魔法サバト』の会場がこのゲートの奥にある亜空間に存在するからである。
勘解由小路歌恋も今宵の月夜、友人の時魔女、エリーナと一緒に箒を操ってこの会場を目指していた。上手く金沢の海岸線に着地をする歌恋とエリーナ。
「ねえ、何処に箒を置くんだった」とエリーナ。
「確かあ、あのたばこ屋さんの脇にある納戸だったわ」
歌恋はそう言って、木造の古い納戸の扉を開ける。ギギッという軋み音で開いた扉の中には、各地からの時魔女が乗ってきたであろう複数の箒が格納されていた。
「ほおらね」
得意げに笑う歌恋
「了解」
エリーナは自分の箒をその納戸に入れる。
歌恋もそれに続くと、白魔法サバトの会場に繋がる念動ゲートを探し始める。
都市開発され尽くしたこの町の小さな一画、海岸沿いに残っている小さな岩場を目指す。相変わらず月の光が、潮の香りを伴ってあたりに夜の雰囲気を醸している。
「ここだわ」と歌恋。
するとその入口にあるゲートの横から声がした。
「おい、そこの時魔女」
二人は思わず辺りをキョロキョロと見回す。特に人影らしきものは見当たらず、困惑の表情を浮かべる歌恋とエリーナだ。
「ここじゃ、ここじゃ。なに、何処を見ておる」
「声はすれども、姿は見えぬ……うぐっ」
エリーナの台詞に「その先は乙女は言うべからずね」と歌恋は羽交い締めにして、後ろから手でエリーナの口を塞いだ。
ぐわっと歌恋の腕を無理矢理はぐと、「なんでよ?」とエリーナ。
「声はすれども姿は見えぬ 君は深山のきりぎりす、でしょう? 山家鳥虫歌だわ」と言う。風流な俗歌壇が自然といそしむ詩歌の総称である。もちろん、歌恋はそれの替え唄である落語でお馴染みのアレを言うと思って口を封じたのである。※
「何をもめておる。わらわの声が聞こえんのか」とご立腹の女性の声が地面すれすれから聞こえていた。声の主は自分を無視して二人コントでもやられている気分だった。
二人は問答を止めて、サバト会場に通じる岩屋の入口脇に目をやると、月明かりに小さなお姫様がしゃんと立っているのが見えた。
「かぐや姫?」
「親指姫?」
両者のイメージするモノは当たらずと遠からずと言った姿だった。背丈は十センチほどの赤姫衣装を身に纏い、キラキラの簪を刺した島田髪の女性を見つける。
「あら可愛い」
歌恋の言葉に「ふん、そんなことは言われなくても分かっている」とふんぞり返る。少々扱いづらいお姫様である。
「お前たち、時魔女であろう?」とお姫様。相変わらず、簪にキラキラの装飾を揺らして高貴な口調で訊く。
「ええ、まあ」
「わらわはもともと時のゲートの番人を兼ねた念動隧道のゲートキーパーだった者だ。ところが長い年月の末、今では大河戸御厨のゲートは川底に沈み、わらわは土砂と一緒に埋め立て地に運ばれ、子どものいたずらで横浜の南、この地におさまったのじゃ。全く、人間どもは、阿漕なまねをする」
ため息に、あきらめがついた表情で、軽く愚痴ってから、
「どうじゃ、わらわを桜ヶ丘の多岐老公の元に連れて行ってはくれんかのう?」と姫。
エリーナと歌恋は顔を見合わせて、
「多岐老公はいま桜木町にはいらっしゃらないんです」と返す歌恋。
「なんと! 老公も音もそこにはおぬとな」
歌恋は優しく微笑むと、
「多岐老公は現在浜松の弁天島近くの一軒家、もとのご実家にお戻りで、奥様の音さんが眠られている街にいます」と頷く。
「音はもうこの世に……」
姫の言葉に、「はい。もう随分前になります」と応じる歌恋。
「うむむ……」
顎に手をやり俯く姫。
「私たちはこれからサバトがあります。それが終われば、またここに戻って参ります。その時に改めてお話をお聞きしますのでしばしお待ち下さい」
会釈をすると、歌恋たちはそのままサバトの会場へと続く岩屋を、奥へ奥へと進んでいった。
ホワイトサバト
岩屋、すなわち洞窟の奥はそのまま廊下になっている。この光景を見たら、ここが洞窟の奥にあるとは思えない普通の建物の内部のようだ。
「ホワイトサバト、ってなんで白夜会っていうの?」とエリーナ。
「ああ、一般的な魔女の夜会とは区別するため、そして魔法使いが間違って入り込まないように、区別しているそうよ。私たちはあくまで暦人であって、魔法使いではないわ」と歌恋。
「なるほど」
「それにね。魔女の夜会は、決して人間たちにとって幸福をもたらすような物でもないの。黒魔術と言われる分野の披露もするから、あくまで人間社会に善をもたらすために存在する暦人のポリシーに反することではないという主張のために白という色で区別しているそうよ」
歌恋の説明に、「相変わらず、あんた博識だね」とエリーナが納得していた。
大きな扉が目の前に現れると、そこに『ホワイトサバト会場』という貼り紙がしてある。
恐る恐る、ゆっくりとその背丈の数倍はある鉄の扉を押してみる歌恋とエリーナ。
『ギギーッ』っという鈍い音とともに、光が二人を包む。きらびやかなパーティ会場を目の当たりにした二人は驚く。
さっきまでの殺風景な場所とうって変わって、シャンデリアに登壇場、各テーブルに盛りつけられた料理の数々。立食式ではあるが、結構なご馳走がテーブルにところ狭しと置かれている。
「何で今回はこんな豪華なの?」とエリーナ。
「確かにね。いつもならお茶とケーキ程度の筈。なにがどうなるとこんな結構な立食パーティになるのかしら?」
歌恋も不思議に思ったのか、辺りを見回す。メンバーはいつもの見慣れた時魔女の面々だ。
ステージ上にスポットライトが当てられると、司会進行役の暦人が登壇する。彼はステージの上から時魔女の面々をぐるりと見渡すと、マイクのスイッチを入れて話し始めた。
「あれ? マイクさんがマイク持っているね」とエリーナ。これはダジャレでは無い。普通の文章だ。
そう、見慣れた顔。表参道のライブ喫茶『ひなぎく』のオーナーにして、時魔女の束ね役のひとりでもあるマイク花草だった。
「今宵満月の晩。皆さんの箒が導いてきたのは金沢八景の岩屋。そして今日はスペシャルゲストである時神の神使でもある『時の翁』氏であります。今日は魔法の媚薬、魔法の秘薬の類いを皆さんにご紹介したい、とのことでわざわざここまでおいで下さいました」
そう言ってマイクは、舞台の上手に視線を向ける。
「どうぞ!」
相変わらずの紋付き袴に高下駄で登場してきたのは、サバトには不釣り合いな和装の老人、『時の翁』だった。彼は端のテーブルに歌恋がいるのを確認すると、目配せのように微笑んだ。まるで『久しぶりだね』とでも言いたいように。
登壇した時の翁はステージと客席の間に置かれたテーブルを指して話を始めた。
「ご紹介に与りました時の翁といいます。時空の狭間、亜空間に住んでいるために時を数えない体質になりました。即ち不老不死。ただし、老人になってから不老不死になったので、この白髪の格好がずっとの私の姿と言うことになります。正確には千年ほどの寿命を頂いていると聞いています。それが本当なのかは千年たってみないと分かりません」
どっと客席の時魔女たちの笑いを誘う。
「さて右端のものからご紹介していきましょう。これは皆さんがよく使う魔法水晶です。この水晶は中に入れる物質によってその効能が変わることはご存じですね。その横に銀杏の実を置いてあります。この銀杏は何処の銀杏でもよいというわけではありません。御厨の時空ゲートの前に生えたイチョウの実でないといけません。この二者を融合したものが銀杏水晶という呪術アイテムになります。主な効能は他のアイテムと組み合わせて、結界術などに使われます」
新参の時魔女たちはしきりにメモを取っている。また前に赴いてテーブルに載ったそのアイテムをスマホなどで画像におさめている者も多い。
「次に横にあるのは、もう静態化したマンドレークです。ギリシアの山中で採れる良質のマンドレークはご存じの通り、地面から引き抜くときに大きな叫び声をあげます。この声を聞いた者は運が悪ければ、あの世行きです。かならず耳栓などを用意してから採集作業をして下さい。その後乾燥させ、毒抜きをしたこれの効能は万能薬となります。秘薬中の秘薬といいます。植物自体の言い伝えとしては、一説には「えん罪」によって処刑された男性の男根、男液から生えるとも言われているので、かつての処刑場の絞首台や磔刑場に生えているといわれてきました。真偽の程は定かじゃありません。そして万能の中でもとりわけ媚薬として中世欧州で用いられ、身持ちの堅い女性を手に入れるために魔術師が使用したと言います。今は主に惚れ薬として、軽い魔法の媚薬で使われます。くれぐれも悪意のある人間に渡らぬようお願いします」と説明をした。
歌恋にとってこの程度のことは書くまでも無く、知識の範疇なのでただ聞くだけだ。
「その隣にはコウモリの丸焼きがあります。コウモリは魔女の使い魔であることが多く、中世では魔女の家を見つける道具にされました。コウモリが多く住み着いている家を特定して魔女をあぶり出したのです。その魔法を浴びたコウモリの丸焼きを煎じて飲むことで、魔法使いになる事が出来ます。これも何処のコウモリでも言い分けではなく、使い魔としての役目を終わったコウモリが、その役目に就き、魔女の子どもに与えられその霊力を高める食材に使われます」
時の翁は更にその隣の「命の水」を指さす。
「いわゆるアクアビーテ。っと言っても、現在の西洋の蒸留酒ではなくて、本当の魔法の水です。今ではウイスキーやブランデーをそう呼ぶ場合もありますが、それではありません。完全に霊威のこもった水です。そしてその隣がイースターエッグ。これがフレッシュマンの皆さんには重要です。勿論、見かけはイースターのお祭りで見かける卵ですが、これはいわば魔法界、亜空間のGPSなのです。教会のゲートを潜るとき、今日のような満月で赤い月、白い月が出たときにこの卵に行きたい年号を書くと、その時代に連れて行ってくれます。暦人とカレンダーガールの違いはここです。託宣が無くても自力で時間を旅することが出来るのです。しばしここでアイテムの見学会としましょう」
一斉に時魔女たちはイースターエッグの回りに集まって、横に書いてある呪文をノートに書き写している。歌恋とエリーナは、当然既知事項のため席を離れない。「何を今更」という気分だ。
すると人混みの中で時の翁は、歌恋たちの元に歩み寄ってきた。
「お嬢さんたちには、過去に何度もお使いの物ばかりで、珍しくはないものですね」
「あら、オジサマ」と歌恋。なにやら意味ありげな笑みを浮かべる。
「この会場の入口に迷子の姫様がおられます。その姫様をお望みの場所にお連れ頂けますでしょうか?」
「岩屋の前に咲いているヒメカンゾウの精のことでしょうか?」と訊ねる歌恋。
「もう、お会いになりましたか。実は身の上は御自身でお話なると思うのですが、あのヒメカンゾウと行方不明のヒメユリは一対で亜空間の霊気に当たっていないと枯れてしまいます。出来ればタイムゲートや念動隧道の入口に植え替えて頂けると嬉しいのです。この時魔女の岩屋では霊気の種類が違うらしく、小さくなってしまいます」
「なるほど」とエリーナ。
「それで親指姫の大きさなのね」と歌恋も納得した。
二人が既に顔を合わせていると分かると時の翁は安心したようで、壇上に戻っていった。
会場を後にしたエリーナと歌恋は、出された食事を口にすること無く、親睦会も欠席すると一目散に入り口で待つ赤姫のもとにやって来た。
「お待たせしました」
苛立ち顔の小さな姫様は、おかんむりのようで、切れ長のまつげを更に張り詰めたような顔つきで、
「遅いでは無いか。わらわを待たせるなど無礼であり、不届き千万。お仕置き、叱咤に値するぞ」と言う。
「まあまあ、そんな美人さんが、目をつり上げていてはいけません。美人が台無しです」
例のゆっくり、スローペースの歌恋が穏やかにたしなめる。
褒められた姫は、バツも悪げに、
「まあ、そう言うこともあるという、例え話じゃ」と赤くなって俯く。
「ところでな。この話を先におぬしらにしておくのじゃが、時の翁、少々世迷い言のようなことを言っておって、気がかりに思う」
姫の言葉に、
「いかがしましたか?」と訊く歌恋。
「きゃつはな。『迷い人』の邑を亜空間にこさえると言っておった。勿論盗み聞きをしたのは申し訳ないが、時空世界の一大事なので、時巫女か、どこぞの暦人御師にそれを伝えねばならぬ。しかもその場所がわらわの元いた場所、大河戸御厨の亜空間なのだ。その昔、大河戸には亜空間河岸が存在していたが、度重なる水路変更で今や何処にその入口があるのかすら分からぬ始末。そんな場所をどうやって探し当てるのか、不気味じゃ」
歌恋は思案のポーズで、眉を曇らせる。頭の整理が追いつかない。頭の中が螺旋のようにぐるぐるしている。
『うー。おじさま、また訳の分からないことを……』
納屋から箒を取り出すと、姫の回りの土ごとビニル袋に詰める。
「姫様、いまから暦人御師の家まで飛んでいきますから袋から出ないで下さいね」と歌恋。
「夏見さんのところに行くのね」とエリーナ。
「うん。この時間なら、もう起きていると思うから。御師の中で、一番朝早くから起きている人は夏見さんなの。相談しに行くわ」
歌恋の言葉に、「じゃあ、近所だし、私も付き合うわね」とエリーナ。
東の空は水平線のあたりが白く、そして紫色からオレンジ色にその周辺の色も変わる。夜明けが来る。姫はその姿を植物の中に戻すと、
「夜明け後はわらわはエネルギーを消費するので、花の中におる。声だけで対応するが悪く思うな」と赤姫。
「分かりました。飛びますよ」
箒に跨がった歌恋とエリーナは急上昇して、桜木町の夏見邸へと空を駆け抜けていった。
夏見粟斗はピアニスト角川栄華の夫である。朝日の昇った直後に歯みがきをしながら庭を眺めていた。
「夏見さん!」
箒に載った時魔女が二人、夏見邸の庭に着地する。
「おうおう。我が家は飛行場じゃ無いよ」
夏見のつまらないジョークを気にも留めず、間髪入れさせないまま、歌恋が、
「時の翁がなにかを始めるという情報を頂きました。時魔女のサバトで小さな姫様が教えてくれたの」と伝える。
夏見は半分困った顔をしながら、
「そいのは、オレじゃ無くて時巫女に言ってくれないかな? オレ、面倒ごとは嫌いなんだけど」と庭の流しで口をすすぎながら返す。
「また、そんな事言って。暦人御師でしょう? その辺まではあなたのお役目ですよ」
歌恋のもっともな言い分に返す言葉も無く、あきらめ顔で、
「御師なんて引き受けるんじゃ無かった。多霧のおばさん、恨むぞ」とぼやく夏見。
首に掛けたタオルで口元を拭くと、
「まあいいや。どうぞ中に。庭から入ってくる客人は初めてだ」と呟いて、二人を室内に案内しようとした。
その時、「萱草姫? 萱草姫? 近くにいるの?」とエコーの効いた響く声が庭の奥から出ている。
ビニルにくるまったヒメカンゾウも声を出す。
「百合姫ねえさん、ここにおいでですか?」
「萱草姫なのですね?」
「はい」
精霊の不思議な会話に三人は足を止めた。
本来姿を現さない、と言っていたあの赤姫が、さっきとは異なり等身大の大きな姿で庭先に出てきた。すると庭の奥には黄色のスジが入った白い着物の美しい姫が現れた。
「付喪神?」と言う夏見に、白い姫は、優しく首を横に振る。
「夏見さん、いつも美味しいお水や養分の多い土の入れ替えをして下さってありがとう。タイムゲートの近くにいると霊威も安定して快適です。私はこの庭に、多岐老公のお招きで植生していた百合姫と言います。元は大河戸御厨の亜空間水路に入るためのゲートキーパーをしていた精霊です。そこに今ついた萱草姫と左右でゲートを守っておりました。私たち二人が揃った場所が亜空間水路のゲートになります。ですので本日より、この桜ヶ丘のお屋敷は、亜空間水路の河岸となります。桜ヶ丘河岸と呼ばせて下さい」
いろいろな情報がいっぺんに出てきた夏見は朝一番の爽やかさから、無理矢理、一気にややこしい問題に取り組むモードに直面させられた。
「大河戸御厨って、あの水路、河道変更によって、どこだか分からなくなった御厨のタイムゲートのあったところですね」と夏見。
「はい」
百合姫の言葉に、「その河道変更でタイムゲートが水没した場所に埋まっていたとは?」と訊ねる夏見。
「はい河道変更の前の日に、かつての角川家の人間が、青砥家と夏見家の面々で集まって、私と萱草姫を別の場所に植え替えしてくれたのです。それで私は芝の角川家の庭に鉢植えで暫く置いて頂きました。それから何百年もたって、多岐老公は角川文吾さんに願い出て、私をもらってくれたのです。そしてこの地に、ちゃんと地面に植えてもらえました」
百合姫の言葉に、「私の方はあやうく土砂と一緒に運ばれるところでした。船橋でやはり暫く鉢に植えてもらったのですが、運悪く近所のいたずら小僧の仕業で、その子どもの引っ越しと一緒に横浜に運ばれました。仕方なく、その子が飽きるまで庭先にいましたが、ある夜、その家に住む付喪神に頼んで霊気のありそうな場所に植え替えてもらったのです。それが時魔女たちのサバトの会場に通じる金沢八景にある岩屋の横でした。でもわらわはハマカンゾウでは無いので、潮風がまともに当たるのは辛かった。ようやくそこのお嬢さん方に訳を話して、ここに連れてきてもらったというわけです」と萱草姫は赤い着物で袖を口元に話し終えた。姿が大きくなると、まるで成長したように大人の仕草で話す赤姫。
「なるほど」と夏見。
「で、その話と時の翁の話はどこでどう、ぶつかるんですか?」
夏見の言葉に、
「わらわとそこにいる白い百合姫が一緒に植生された場所には異次元に入るゲートが開く。正確に言えば、亜空間河岸が出来るのです。それはすなわち亜空間が広がる場所も作られると言うことです。その廃墟が大河戸にもあります。その亜空間の一部に集落をつくって、『迷い人』たちの居住空間、すなわち邑にしようと言うのでしょう。二株を一緒に持って越谷付近の大河戸に植生をさせれば、河岸と河道がふたたび開く可能性がある」と言う赤姫。
「今知りましたが、それはあり得る話です」と百合姫。
「その根拠は?」
夏見の問いに応えたのは意外にも歌恋だ。
「それは私が教えられます。昨夜のサバトの最中でした。今回の夜会にはなぜかゲストに時の翁が来ていたんです。アイテムの紹介などやっていました。その休憩時間に『この会場の入口に迷子の姫様がおられます。その姫様をお望みの場所にお連れ頂けますでしょうか?』とか『もう、お会いになりましたか。実は身の上は御自身でお話なると思うのですが、あのヒメカンゾウと行方不明のヒメユリは一対で亜空間の霊気に当たっていないと枯れてしまいます。出来ればタイムゲートや念動隧道の入口に植え替えて頂けると嬉しいのです。この時魔女の岩屋では霊気の種類が違うらしく、小さくなってしまいます』と言って、私に執拗に植え替えを勧誘しておりました」
腕組みの夏見は「たしかに……。百合姫の所在は既にバレている気もする。更にここに赤姫が来たと言うことは、まんまと時の翁の考えた策略にのっかていることになるなあ」と肯く。そして声には出さなかったが、『こいつは面倒ごとに巻き込まれそうだな』と少し不安な気分にもなり始めていた。
「夏見さん、この萱草の赤姫、あのヤマユリの隣に植えても良いかしら?」と歌恋。
ボーッとしていた夏見は、彼女の声に我に返る。
「ああ、いいよ」
心ここにあらずという表情で夏見は、『この出入り口に何らかの興味を持ってやって来るはず。まだ多岐老公がここに住んでいると時の翁は思っているのだろうか?』とこの家の大家であり、前の居住者である多岐廉太の状況を考え始めた。そして先手を打たないとやっかい事が増えそうな気がした夏見は、まず多岐老公と多霧の時巫女に知恵を借りることにした。その返事はふたりとも少し時間がかかってから、思いもよらぬ人物の登場を導くことになる。時の翁も頭の上がらない人物の登場だ。だがその抑止は、年月を越えて、まだ暫く後のことになる。
「じゃあ、とりあえず正式にこの花の精であるお二人をこのお庭に迎え入れたいと思うのですが、その際になにか古からの習わしなどがあれば先にご教示願いたい」と夏見はポケットの偏光グラスを取り出してかけた。朝陽が眩しい時間帯だ。
「習わしでは無いのですが……。亜空間河岸に流れる川、異次元の太日川というかつての表の世界を流れていた川です。今は伏流となって、亜空間を流れています。その河岸から船を使うのに必要なモノがあって、それは伊勢の鍛冶屋である小宅家、多野の夏見東家、そしてストックを持つのが飯倉の角川家です。どこかで『水弾きの鏡』を手に入れないと、折角の水路があっても宝の持ち腐れと言うことになります」
白い百合の化身、お姫様はそう言うと、横の赤姫も無言で頷く。
「水弾きの鏡?」
「そうです」
百合姫はがっかりした様子。御師たる者それを知らないのはモグリとでも言いたそうだ。
「無知でスミマセン」と頭を垂れる夏見。
「話は聞きました」
歌恋の後ろから声がする。
ネグリジェ姿の栄華が朝風にその裾をはためかせながら立っていた。
「栄華さん?」
声を揃えるエリーナと歌恋。
その横で「わーお、ウチのお嫁さま色っぽい」と茶化す夏見にツカツカと歩み寄り、彼の両頬を引っ張って、
「そういうわけの分からないことを言う口は、どのお口ででしょうね?」と夫婦漫才のようなお約束が始まった。
「すみまひぇん」と夏見。
栄華は皆の方を見て頷いた後、
「お話は聞かせて頂きました。私はもと飯倉御厨の御師で、角川家の者です。そのお話に心当たりがあります」と紅白のお姫様たちに優しく微笑んだ。
つづく
※「声はすれども姿は見えず ほんにお前は屁のような」は明治期から戦前に講談や古典落語で巷に流布したという見解が主流らしい。
❷
メッセージ
「なあ、栄華よ、あの納屋にある『水弾きの鏡』でさあ、おじさんの船を動かすように粟斗に伝えておくれよ」
祭り半纏に白い服で身を包み、ゴム長に手ぬぐいを腰にぶら下げている。いつものように釣り船に設置された生け簀の前で、イワシの稚魚に餌を与えているのは、既に他界したはずの彼女の大伯父である角川文吾だ。
「なに? オジサマ? 聞こえないってば」
栄華は右手を伸ばすが、笑顔で餌粉を生け簀に撒きながら、レンズを引くようにスッと彼女から離れていく文吾。
「粟斗に船を動かすように、ってな。ちゃんと『水弾きの鏡』を、船の船尾のポケットに……、その鏡を入れてだぞ!」
小さくなっていく文吾の姿に手を伸ばしながら、呼びかけるように目を覚ました栄華。
目覚めれば自分の家の寝室、ダブルベッドの隣には寝ているはずの夫、夏見粟斗の姿はなかった。
「ううん。粟斗さんは早起きねえ」
時計に手を伸ばして、細目の眠たい表情で針をのぞき込む。
耳を澄ますとなにやら庭先から会話する声が聞こえる。夫の夏見、歌恋、エリーナのようだ。でも知らない声が二人ほど混ざって聞こえる。
「誰かしら?」
彼女は元の場所に時計を戻した。、まだ午前五時前だ。
「何なのよ、こんな朝早くから」と目を擦る。まだ夢と現実の区別がついていない。頭もまどろんでいる。爽やかな朝陽がのぼる直前の凜とした空気が感じられる。
ネグリジェのままで起き上がると、彼女は縁側のサンダルを足に引っかけた。
敷石を伝って、皆が集う場所、縁側から庭先に回ることにしたのだ。
『あれは精霊か付喪神って感じの姿だわ』
栄華は思った。遙か彼方だが、見覚えのない紅白の和服で庭先に立っている女性の姿が見えた。
そして栄華は会話の聞こえる距離まで近づくと、物陰で立ち止まってそのまま皆の様子を窺うことにした。
「じゃあ、とりあえず正式にこの花の精、神であるお二人、いやお二柱をお望み通りに我が家のお庭に迎え入れたいと思うのですが、その際になにか古からの習わしなどがあれば先にご教示願いたい」と夏見はポケットの偏光グラスを取り出してかけた。ちょうど朝陽が差し込んできたのだ。彼らの会話は栄華の場所までしっかりと聞こえる。
「習わしでは無いのですが……。亜空間河岸に流れる川、異次元の空間には、未だに太日川というかつての表の世界を流れていたバーチャルな川が実在、存在しています。今は伏流となって、亜空間を流れている川です。その亜空間河岸を使って、水路を船で移動が出来るのですが、その推進動力に必要なモノがあります。いわゆるマジカルガジェットで、それが古代に使われてた銅鏡、鏡なのです。その鏡は伊勢の鍛冶屋である小宅家、多野の夏見東家にあります。そしてストックを持つのが飯倉の角川家です。どこかで『水弾きの鏡』を手に入れないと、折角の水路があっても宝の持ち腐れと言うことになります」
白い和装の女性が言う。横の赤姫も無言で頷く。
「水弾きの鏡?」と知らない風の一同。
「そうです」
百合姫はがっかりした様子。暦人御師たる者、それを知らないのはモグリとでも言いたそうだ。
「無知でスミマセン」と頭を垂れる夏見。だがその表情は何か含みがある。知っているようにも見えた。
『はっ、さっきのオジサマが夢で語りかけてきたヤツね。私、少女時代に、オジサマの家であの水をはじく鏡を見せてもらったことがあるわ』
栄華は、さっきの夢が早速の託宣であることに気付く。次の瞬間栄華は皆の方に向かって歩き出した。
「お話は聞かせて頂きました」
歌恋の後ろから声をかける栄華。
ネグリジェ姿の栄華が朝風にその裾をはためかせながら立っていた。
「栄華さん?」
声を揃えるエリーナと歌恋。
その横で「わーお、ウチのお嫁さま色っぽい」と茶化す夏見にツカツカと歩み寄り、彼の両頬を両手でつまみ、引っ張って、
「こんな真面目な場面で、そういうわけの分からないことを言う口は、どのお口でしょうね?」と夫婦漫才のようなお約束が始まった。
「すみまひぇん」と夏見。
栄華は皆の方を向き直すと頷いた後、
「お話は聞かせて頂きました。夏見の妻栄華と申します。私はもと飯倉御厨の暦人御師で、角川家の者です。そのお話に心当たりがあります」と紅白のお姫様たちに優しく微笑んだ。
栄華はそう言って寝間着のまま、少し場所を移動する。ちょうど皆の一歩前に出て来た位置だ。
「私、今さっきそれを言付かる夢を見ました。いいえ、今となっては、見せられてしまったような気分になっています。託宣なのかもしれません」
「どゆこと?」
エリーナは持っていた箒を家の塀に立てかけながら言う。
「私の大伯父は角川文吾といいます」
その言葉にヒメカンゾウの精は瞳を大きく見開き、懐かしいような表情を見せる。それは百合姫の方も一緒だった。
「そなた、文吾の末裔か」
「はい、直系ではないですが、傍系の親族です。以後お見知りおき下さい」
「うん、悪くない展開じゃ。つい、さっき文吾の意識がわらわの心を通っていった。匂いで分かるのじゃ。おそらく、亜空間河道の中に文吾の思いが形となって残っているのやも知れん。それが親族のおぬしの心に連動したのだろう」
「大伯父が私に夢の中で言っていた『水弾きの鏡』は、今でも大伯母アスカの住む飯倉の家にあるはずです」
すると全てを悟ったように柔らかな笑みを浮かべるとヒメカンゾウの姫は、「頼んだぞ」と言う。全てを口にする必要がないと判断したようだ。
「あと、こちらからもお訊きしたいことがあります」
「なんじゃ?」
「答え合わせです。お二人が私たちに依頼しなければならない事態の説明とその背景です」
その言葉に「文吾並みに的を射た問いかけじゃナ」と感心する赤姫。
二柱のゲートキーパー
「これはきちんとお話ししなければなりませんね」と白百合の姫。彼女は、押しの強い赤姫に比べると、しっかり者といった風に見える。
だがそれに肯くと「それはわらわが言いましょう。お姉様」と買って出たのは姫萱草の赤姫だった。
「おぬしらはわらわと百合姫のお姉様が、何故ゲートキーパーの役目を司るか分かるか?」
「さあ?」と歌恋。対して無言の栄華。
赤姫はニヤリと笑う。
「答えは簡単だ。そもそも大和の全ての河川は、その昔、堤防などと言う土手の類いは存在しない流れじゃった。それ故、降雨による過剰な水のたまり池、氾濫原を必要とする流れだった。その大きなモノが香澄流れの海じゃ。何人たりとも手を加えさせない自由な流れの川と水のたまり場じゃった。だが時が進み、人の手が加わりすぎてしまい川は、有機物として生きるのを止める。ただ人口河道を水が流れるようになった。そうならないように、かつての利根川と渡良瀬川の流れを絶やすことなく、豊満な水資源を流しているのが亜空間に流れる太日川なのじゃ。川の霊威は流れを変えると弱まる。本来は利根川と渡良瀬川の水は江戸湾にそそがねばならぬ尊きの水。その役目を仰せつかるために江戸湾に面した桜ヶ丘にわらわと百合姫のお姉様は呼ばれたのだ。新たな流れとそこを往来する亜空間の河岸を作るべく」
これに百合姫、すなわち白姫も頷く。
「氾濫原?」
いつの間にか水玉のワンピースドレスに着替えてきた栄華が不思議そうに聞き慣れない顔で訊く。
「フラッドプレイン。水溜原野のことだ。日本だと、かつて太日川と利根川、荒川の流れにそって存在した河川敷内の貯水スペースさ。同じような増水での氾濫が多かった木曽三川の下流などにも存在した。要は巨大な水溜スペース用の湿地原野だ。ある意味今流行のスーパー堤防もこの理論を含んでいる。環境や地勢を学ぶ人たちの間でここ昨今見直されているビオトープ工法の隣接知識だ。そもそも自然の川に敷地などない。増水すれば川幅は増えるし、渇水時はなくなる。自然の摂理だ」
夏見の説明が入る。
「うむ」
赤姫は夏見が理解できているようで安心して頷く。そして続ける。
「そうじゃ。河川というのは一定数の水の量を超えると、そもそも河道を逸して、堤防などを決壊させて、その外側に水たまりを作るモノだ。それはどんな水の流れにも言えること。坂地なら水はたまらずに一気に流れて行ってしまうが、盆地部や下流域には一定の水が自然に貯水される。それが琵琶湖や霞ヶ浦のように大きな水たまり、すなわち湖沼を作る要因となる。窪地の湖は、富士五湖のような火山活動の堰止め湖とは異なる低湿地に水が集積される地勢から来る湖沼の出で立ちじゃ。そこは肥沃な土地も多く、田畑に、特に水田に向いた土地だった。だから昔の民は、水害の少ない、それでいて肥沃な場所、水田となる適地周辺の一段高くなった台地に集落を置いていた。その氾濫原や湖沼は亜空間にも存在しており、肥沃な湿地の場所が大河戸御厨付近にあったのじゃ。だから大川戸付近の亜空間は異次元空間の氾濫原なのじゃ」
栄華は少し分かったようで納得した。
「その地上からは行くことが出来なくなった大河戸の原野に、この亜空間の水路を使えば行くことが出来るというわけですね」と栄華。
「うむ」
「そして文吾さんはそのことを知っていたので、船で密かに大河戸に通っていた、って感じかな?」
おおよそを察した夏見が言うと、赤姫は静かに頷いた。
「大伯父はそこで何をしようとしていたのかしら?」
「絵の島の時の一件もそうだが、人知れず何か阻止して、平和を守っていたようにも思う」と夏見。
栄華は無言で肯いた。
亜空間河岸と銅鏡
赤姫と白姫に亜空間河岸に続くゲートを開けてもらった夏見は、おそるおそる、一歩ずつ目の前にある階段を降りる。大理石製の輝く階段だ。古代の人たちが作った当時の最先端技術を結集した船着き場だ。水の流れはそれ以前からあったのだろう。地下伏流水と亜空間の入り乱れた世界だ。その存在とは逆に、その清らかな水の流れる船着き場は、ピカピカに磨かれたプラットホームのような石畳が水辺に続く。
夏見、栄華は、なみなみと流れる清らかな水を見つめている。
「これが亜空間河岸と亜空間水路、伏流水が亜空間に流れ込んで作る神秘の水路か。確かに霊威のようなモノを感じる」
夏見の言葉に、
「念動隧道のときも驚きましたけど、伏流水が亜空間でこんな水路を作っているというのも凄いですよね」と栄華。
「問題はかつての相馬や多野、飯倉、あるいは梁田の御師たちが、どうやってこの水路を行き来していたかということだ。特に文吾さんだけど……」
「それに何の意味があるのです」と栄華。
「それは多分、時の翁の計画阻止というメインの仕事の他に、御厨同士の役割や暦人御師の間で語り継がれてきた謎や業績に辿り着く痕跡を知りたいのよね、夏見さん」
代わりに応えたのは歌恋だった。
「流石だね。暦人の英才教育の家柄は伊達じゃ無い。勘解由小路家の家訓かな?」と笑う夏見。
「わたしがこれらの伏流水や亜空間隧道の存在から読み取れること、その意義。ひとつはこの亜空間の太日川が存在する意味です。だって、それは旧利根川水系と渡良瀬水系の水質、いわば河川のアイデンティティ。これらの河川とは、もともと水系が異なる絹川・子飼川水系との違いは何だったのか? 強いていえば、かつて江戸内海と香澄流れの海という二つの湾に流れこむ水の流れには、相容れないなにか、時の流れが存在していたということね。太古のロマンと霊威の変遷が読み取れるって感じかしら? 理由がありそうと睨んだ。そこには何万年も前のフォッサマグナや中央構造線も関係していると予想が立つ、そんな感じね」
歌恋の言葉に共鳴するように夏見の眉がピクリと動く。なにか思うところがありそうだ。
それを気にもせず、歌恋は続ける。
「近世になって、それを人の手による治水工事で一本の河川にしてしまった渡良瀬川、利根川、絹川。それらの河道を一本にした幕府の治水事業はインフラ整備という意味では成功したし、素晴らしかった。でもそれが出来る前に、既に大和時代の役人の手によって見いだされた念動隧道という二つの分水界を越えるための越境交通路があり、それを暦人たちの手によって管理させていた。そこに何かの意味もあるはず」
歌恋の言葉に「うん。つまり江戸湾と香澄流れの海は、水の種類が違っていて、本来混ぜないでいればかなりの霊威を発揮する潮目だったってところかな?」と夏見。
「はい。でもそれが交わってしまった現代の水路では、霊威を使った移動が出来ないと言うことですね。そして渡良瀬水系の水を取り込んでいたはずの念動隧道は、手水代わりの役目を果たしていた太日川を失い、穢れてしまい物の怪の巣窟に化した」と頷く歌恋。
「即ち、地上の川は引力と浮力のみの物理的起因で船を動かすって事だけしか出来なくなり、おとぎ話に出てくる霊的ななにかで動かすことは出来なくなった、ってことだね。具体的に言えば、エンジン動力などの物理的な動力源と霊的な『水弾きの鏡』を使う魔力の動力源の違い」と夏見は歌恋の推測をなぞる。
「ええ」と頷く歌恋。
「あの……。そろそろ私も話して良いかしら?」
「何でしょう? 乳酸菌飲料の奥さん」
水玉模様の服を着た栄華に向かっての夏見のジョークに一瞬、渋い顔を見せた栄華は、舌を出してプイッとしながらも、そこは無視して話し始めた。
「飯倉の伯母様の家でね、ボートを見たことがあるの。それも和船の木の船。その昔、文吾おじさまに、この船は何で進むの、って訊ねると、『鏡が水をはじくんだよ』って教てくれたわ。おそらくさっきゲートキーパーの花たちが言っていた『水弾きの鏡』では無いかと思います」
思わず得られた栄華による貴重な情報に、歌恋と夏見は顔を見合わせた。
「そんな船があの家に?」と夏見。
「ええ、裏の納戸に。多分まだあると思うの。そして船の後ろには円盤形の何かを当てはめるようなポケットが作られていたわ。そして今はもう庭の花壇になってしまっているけど、その部分に昔は煉瓦造りの門扉があったの。オジサマが小舟をかついでその門扉に入って行くのを幼少期に何度か見たことがあるわ」
栄華の言葉に歌恋と夏見は顔を見合わせる。きっとゲートキーパーが植えられていた時期があり、あの家の庭から亜空間河道に入れた時期があったということだ。そしてその小舟の造りも気になる。
「銅鏡をそこに納める、鞘仕掛けになっているんだ。そして飯倉にもかつては船着き場があったんだね」と夏見。
「今見ての通り。ゲートキーパーの居場所が変われば、亜空間河道の入口も変わるのじゃ。念動隧道と違って、鏑矢で季節を変えなくとも、ゲートキーパーさえいればいつでも入れるのがこの河岸の利点じゃ」と赤姫。
歌恋は興味深く赤姫の言葉に頷く。
「銅鏡のお話ね、原理はなんとなく分かるわ。いくら霊的とは言え、物理的な仕組みも加味している筈。水をはじく銅鏡が推進力となって、延々と水を弾きながら船を前に進めていく仕掛けね。水と銅鏡は磁石のN極とN極のように反発して、まるでスチロールのオモチャの船が反発して、弾きあうから水面を前進できる感じね」と歌恋。
「あとドライアイスで推進する船とも似ているわ」とエリーナも付け足す。
歌恋の言葉に頷く夏見。
「それでその『水弾きの鏡』を手に入れれば、ここから昔の太日川を溯れるって算段だよね。大河戸の異変にも駆けつけることが出来るよ。でもどんな銅鏡なんだろう。そしてどうやってその船を手に入れよう」
実感のわかない夏見の言葉だ。
すると栄華は、
「とりあえず飯倉のアスカおばさまに相談してみましょう」と頷いた。
おおよその移動手段と亜空間河道の流域が想像できたところで一応の決着と相成った。
磁場と神社と地学
しかし夏見は顎に拳を当て思案のポーズで物思いに耽る。どうやらさっきの歌恋の言ったフォッサマグナと中央構造線が脳裏のどこかに引っかかっているようだ。
その仕草を見た栄華は、彼の本気度が上がっていることを悟る。
そして歌恋に向かって、
「歌恋ちゃん、ウチのダンナサマに暫く声かけちゃダメよ。いま思考集中で脳内のデータを吟味している最中だから」と諭す。
「何それ?」
彼女の問いに、栄華は、
「彼は暦人や時空世界のルールを推測、推理しているときは、あのポーズでヘンテコな仮説を吟味しているの。決まってあのあと、『よし、分かった!』って右拳を左手にあてて叫びますよ。それが彼流の答え合わせ」と笑う。
「へえ、そうなのね。夏見さんが推理するの珍しいのかな?」
少し興味ありげな歌恋だ。
「ああ、八雲さんや山﨑さんがいると複雑なモノは彼らに全部丸投げして、任せちゃうものね。基本、性格的に自分から前に出て行かない性格みたい」と笑う栄華。
心中で思い当たる節がある歌恋。
『そっか、私といるときって、いつもヤマさんたちと一緒のことが多いから、ナッツはあまり重要なことは口出ししないし話さないんだ』
何度も小さく点頭して、頷く仕草の歌恋。いやナッツと呼んでいるので彼女の心は今、もう一人の自分である杯佐和である。
「答え合わせの時は大体ああいう感じよ」と栄華。
歌恋は心中、『さすが夫婦だわ。少し羨ましい』と思ったが言葉にはせず、作り笑顔で応えていた。自分の知らない夏見の姿を妻である栄華は、沢山知っていることを思い知らされた。
それから数分後、栄華の言葉通り、夏見は右手の拳を左手の掌にあててポンと音を出すと、
「よし、分かったぞ」と勢いのある声で叫ぶ。
「何が分かったんですか? ダンナサマ」と笑顔の栄華。
すると夏見は偏光グラスの向きを人差し指でただしながら、嬉しそうに、
「この河道と念動隧道の向きと意義の在り方さ」
「河道と念動隧道? その二つは関係あるの?」と口元を人差し指で押さえて思案のポーズで傾げる栄華。
「大ありだよ」
「教えてくれますか? ダンナサマ」
栄華がそう言うと、「良いですとも、奥様」と笑って夏見は話し始めた。
「簡単であり複雑な日本地図のパズルさ」
「簡単であり複雑?」
眉間にしわを寄せる栄華。ナンセンス文学のような支離滅裂と思える表現に戸惑う。
「大河戸御厨の位置にも関係してくるんだよ。赤姫さんと白姫さんが土砂に紛れた理由にもなるし、日本最大の平野である関東平野の生い立ち、渡良瀬川と利根川河道、信濃川河道、ひいては長野の諏訪湖の生い立ちにもつながる理屈なんだ」
「大きく出ましたね」と笑う歌恋。どうやら彼女も夏見の理論にうすうす気付いたようだ。対して栄華とエリーナはポカンとして、さっぱり見当もつかない様子。もっとも多くの人たちはみんな彼女たちと一緒だろう。到底夏見の思考まで達しないで終わる。
だが、躊躇の顔色も窺える彼は、「いや、まだ仮説に過ぎない」と謙虚に言い直す。
「ううん、私もそれはアリだと思う。太古の昔の話でしょう? ナウマンさん」と歌恋。
「君も気付いているんだね」
無言で頷く歌恋。
「で、続きを教えて下さる?」と栄華。
「はい」と言ってから夏見は「この亜空間河道と念動隧道は、フォッサマグナと中央構造線の東端にある柏崎千葉構造線に沿ったもの、なぞったものだ」と持論の序の部分を披露し始めた。
「水分の土地からこんどは、中央構造線? 柏崎千葉構造線? なにそれ?」
エリーナは夏見にすがる目で問いかける。まるで地学の授業を聴いているようだ。ちんぷんかんぷんである。
「中央構造線は英語でMedian Tectonic Line、略してMTLっていうんだ。その成り立ちは簡単に言うけど、要は海に浮かんだ二つの島同士、すなわち陸地同士が地殻変動によって、日本列島で衝突してくっ付いた痕跡なんだ。接合部分の痕跡の両側は土や岩の種類が違っていて、そこを境にして、地層を調べると構成する土や岩盤が西側の地層と東側の地層、すなわち内帯と外帯という地層になっている。明らかに別々の地面から成り立っているのがわかる。その大陸側を、そこの境目では、何億年も前から隆起や地震、地下活動が頻繁に起こって来たんだ」
「地理や地学の勉強ね」と栄華。
「そうだね。ジオグラフィックの分野だ。でも小松左京さんの『日本沈没』という小説の原因解明にも使われているくらい昔から知られている地層の歪み、接合部分なんだ」
「結構なお勉強ですね。頭パンクしそう」とため息の栄華。
「ははは。そう言いなさんな」と宥めてから夏見は始める。
「分かりやすい方から行くよ。日本列島って、古くからある大きな神社の建っている場所はプレートや地層の境目であることが多い。そこで土地の神さまに静まって頂くことも、日本の神社の創建の目的としている場合が多いからだ。その中央構造線上にも実は香取、鹿島の両神宮、諏訪大社、伊勢神宮といった大きな神社が位置しているんだ」
「そうなの? 地軸のズレみたいなモノかしら?」と栄華は首を傾げる。
「うん、そういう見方をする人もいる」
そう言ってから夏見は、
「今のは横に走る中央構造線のお話なんだけど、今度は縦断する線の話もあるんで、そっちの話。本州をど真ん中で日本海から太平洋にざっくりと切っている線だ」と仕切り直しする。
「そもそも日本列島の本州って、海峡を挟んだニュージーランドの北島、南島のように二つの島だったと言われている。その海峡部分の西岸が糸魚川静岡構造線、東岸が柏崎千葉構造線ってわけ。その間の谷だった海峡部分をフォッサマグナと言っている。ラテン語だ。この部分を軸に本州は『く』の字に曲がっている。ちょうど関東平野のある場所だ。関西中国地方は東西、東北地方は南北に延びて関東で向きが変ている。そのフォッサマグナの東側の海岸線の関東平野付近はおおよそ利根川と渡良瀬川に沿った部分なんだ。太古の昔は群馬と栃木で海水浴が出来たのかもね。その間の海峡に火山灰や河口堆積物がたまって平らでなだらかな陸地が出来た。その湿地にちょうど合致するように江戸湾と香澄流れの海がある。海峡の残骸がその二つの内海って訳だ。すなわち海峡は自然の堆積物で陸地となり、現在の本州を為している陸地は、トンボロ、陸けい島だった二つの島はひとつになったんだ。その海峡を埋め立てられたなだらかな平地がさっき言った日本最大の平野、関東平野ってわけさ。その先端部分に水抜きしないで水たまりの湿地、湿原だったのが香澄流れの海の原型さ。人間の登場するずっと前は、現存する文献に残っている大きさ以上の、さらに数倍の広さの面積を持つ汽水湖だったようだよ」
「へえ」と栄華とエリーナ。
「そのフォッサマグナの命名者が明治期のお雇い外国人、ナウマン象の発見者であるハインリヒ・ナウマンなのさ。歌恋ちゃんはそのことに気付いたんだな」
夏見の言葉に「やっぱり歌恋ちゃんは才女ね、私のようなピアノ馬鹿とは違うわ」と尊敬の眼差しで歌恋を見る栄華。
「えへへ」と照れ笑いの歌恋。
『参ったなあ。あーしは杯佐和って名乗っていたギャル上がりのあばずれなんだけど。こうも素直に恋のライバルにリスペクトされちゃうとこまるし……。やれやれ』
歌恋の内心は純真無垢な栄華には敵わないという気持ちになっていた。
そんな二人の心中を察することも無く、夏見は続ける。
「そして中央構造線は、それよりも前の時代、日本列島のほぼ半分が大陸の一部になっていて、もう一方は南方に浮かんでいた列島だった時代。それが地殻変動で大陸から切り離されて日本海を造り、南方の島と合体した時の接合部分が中央構造線っていうんだ。それがほぼ中央高地から太平洋ベルト地帯、紀伊半島、四国の太平洋側、そして熊本の阿蘇まで結んでいる線なんだ。一部中央山地の部分だけは浜松から内陸に入って諏訪湖の辺りに至って、関東に回帰した辺りでフォッサマグナと交差するのさ。この紀ノ川と四万十川はその中央構造線の上を流れて、宮川や櫛田川、ほぼ特に松阪の月出地区や伊勢神宮外宮の付近を通って、そのまま浜名湖を通って、諏訪湖に至るライン。こちらも川や湿地の連続だ。三重の宮川河口付近は三角州や氾濫原の宝庫だったそうだ。そうやはり湿地だね。おまけに伊勢の近くは地殻変動の度に流れが変わる派川が存在している」
「浜名湖の周辺も似たような感じですものね。先史時代なら、いわば大きな氾濫原汽水湖だわ」と歌恋が付け加える。
「うん」と夏見。
栄華もようやく二人が言いたいことが分かったようで、
「つまり横軸の中央構造線と縦軸のフォッサマグナっていう溝の東側のもと海岸線を軸としたところに、この亜空間河道の太日川と念動隧道がピッタリと合致して走っていると言うことなのね」とまとめる。
「大正解」と夏見。「そしてその二つの亜空間通路の十字路、交差点が大河戸付近ってことさ。これまた亜空間の氾濫原、貯水平野ってわけだ」と加えた。
「まさに霊威が強く、時間のたまり場になってタイムゲートが作りやすい場所、ってすぐに想像つくわ」と歌恋が加えると、夏見は無言で頷く。
「また繰り返すけど、この中央構造線上には、何らかの霊威が宿り易い場所が数多く散見できる。だからその上には多くの神社があるのが、霊威の証し、その証拠という訳か。さっき教えてくれた諏訪大社、鹿島神宮、伊勢神宮、熊野大社と驚くほどの霊威が散見される場所ね」
改めて夏見の推論をなぞる歌恋の言葉に皆が頷く。
「あくまでオレの単なる推論ではあるが、検証材料を組み合わせると、そんな結論が導き出せると言うことさ」
夏見は穏やかに言う。
「聖なる道、聖なる河道は、中央構造線とフォッサマグナの東岸に沿って作られているという事実ね」
「水の流れって、地層の隙間を利用して流れるから、浸食や岩盤の性質ですぐに見抜けるって訳か。科学の勝利みたいね」
「まあ、この非科学的な目の前の現象を、どこまで科学に当てはめられるかといったところだ。そこに暦人たちの過去の使用目的や痕跡を加味して結論を導き出さないといけないね」
「でも一理ありそう」と栄華。
「なので余談何だけど、いやまだ未確認事項なんだけど、この亜空間水路。この辺は太日川の河道をなぞっているけど、もしかしたら実は宮川や櫛田川に行くことが可能じゃないかと踏んでいるんだ。海にそそがずに河道がループしている気もするんだ。きっとそれを知っている暦人もいるはずだ」
「亜空間の山手線ね」と栄華。
「結構な解明に繋がる発見だわ。ある意味、このことを考える機会を私たちにくれた時の翁には感謝かもね」とあきれ顔でウインクするエリーナ。
「なるほど……暦人や太古の民たちはこの地球の地盤を上手く呪術に利用して念動の道を作り上げてきたと言うことだわ。それが小さな実証材料をもとに仮説が立てられるのね。お見それしました、ダンナサマ」と栄華は素直に夏見にお辞儀をした。
照れ隠しにそっぽを向く夏見。それを微笑ましく思うエリーナ。
付喪神
ふと見ると河岸の船着場の桟橋のところで、必死に流されないようにしがみついている何かがいる。夏見はそれに気付いた。
流れのすぐ横に行くとそれは付喪神だった。
「どしたん?」
しゃがみ込んで桟橋の柱にしがみついている子どもの姿をした付喪神。
「おいおい。呑気に見ていないで、岸に揚げておくれよ」
自分が藁にもすがるような状態と思う付喪神と、実体を持つ付喪神には仮の姿は特に危ない目に遭わない事を知っている夏見の認識の違いだ。
仕方なく、夏見は「はいよ」と言って手をさしのべた。
深緑の絣の着物を着た童子姿の付喪神は陸の上で仰向けに寝そべった。
「ああ、助かった。極楽だ」
夏見は「大袈裟だな」と笑う。
「いや、冗談じゃ無いよ。本当に。出口が分からなくなった飯倉から流れて、ようやくここに辿り着いた。海まで行ったらおいらの本体も塩害で腐食してしまうよ」
「この流れは海には行かないよ。多分ループしている」と自信たっぷりに答える夏見。
「お前は暦人か?」
付喪神の質問に「桜ヶ丘御師の夏見っていうんだ」と名乗る。
「ほう、夏見ね」
腕を組んだ童子は何か思うところがありそうだ。
「ところでお前さん、なんの付喪神なんだい?」
しゃがみ込んで、童子の耳元で訊く夏見。
「水弾きの鏡の付喪神だ」と童子は言う。
「え?」
夏見が言葉を返す前に栄華がその童子に気付いた。
「あらタックン?」
「やあ、栄華」
その気さくに呼び合う二人に夏見は不思議な顔をした。
「お知り合いですか?」と夏見。
「ええ、彼は飯倉のアスカおばさまの家に住む付喪神です」と言う。
「なんで、そのアスカさんの家の者がここにいるんだ?」と不思議そうに付喪神を見る夏見。
「だから流されてきたんだって言っているだろう」
繰り返す付喪神タックンの言葉に、
「そうじゃなくて、横浜の近くを流れる今さっきいた河岸、亜空間河道にいるのか、って事だよ」と夏見は返す。
「ここの流れは、急に今朝作られた横浜への流れを含む太日川への支流、大河戸で香澄流れ方面への水路と分かれている。フォッサマグナの東端だ」
付喪神はそこそこ、この水路のことを知っていた。
「そういうことを初めて会った人間たち、暦人に教えるようにと時神さまに仰せつかっている」
「時神さま直々にか?」と夏見。結構驚いているのがわかる。
「ああ、大河戸の手前で僕の元をかすめてお通りになった。その時に頼まれたんだ。優しいお言葉だった」
「凄いな。付喪神には見えるんだもんな。時神さまのお姿が」と感心する夏見。
「まあな。でもそれは託宣や伝言、言付けを頂く時にしか見えない。だからずっと見えないお前たちへの伝達役に過ぎない。流されたのもこのための必然かもな」
当たり前のようにタックンは伝える。
「そうか。するとオレが赤姫や白姫と会ったのも、ある意味では時神さまが作った運命やご縁であり、必然というわけだな」
歌恋の顔を見ながら頷く夏見。
「そういうことね」と歌恋は頷く。
「あともう一つ、時神さまからの言付けがある。時神さまは、その出会った暦人に『青く咲く白い花』を見つけなさい、って伝えて欲しいとのことだ」
「青く咲く白い花?」と皆が声を揃える。
「謎かけか? 青く咲く花とかけて白い花と解きます。そのこころは?、ってか」
夏見は眉間にしわを寄せた。
腕組みをして悩む一同。
夏見が感心していると、栄華は彼自身に興味があるようでタックンに訊ねる。
「タックンの本体は、今『モントル』にあるの?」
栄華の質問に、「いや『モントル』の店内ではないよ」と軽く否定するタックン。
「えっと『モントル』って、確か飯倉御厨の御師が営む浜松町にある講元宿のケーキ屋よね」とエリーナ。
「うん」と夏見。
「なんで? だってあなた時計の付喪神でしょう?」と栄華。信じて疑わない様子。
ところが栄華の言葉にタックンは驚いた顔をすると、「マジか。栄華、お前、相変わらず本当にポンコツがなおっていないなあ」と首を横に振って、だめ出しの顔をした。付喪神に呆れられる栄華の姿に皆は笑いを堪えた。
「えっ、違うの? だってあなたいつもお店のケーキの残りを美味しそうに食べては、時間ばかり気にしていたから、てっきり時計の付喪神だと思っていた」
栄華は勝手に決めつけていたようで、あきれ顔のタックンは「アホ」と一言栄華に放つ。なかなか毒舌な付喪神だ。
上半身を起こして、足を抱えると、「やれやれ」と面倒くさそうに話し始めた。
「まさか、僕は時計じゃない。僕は鏡、銅鏡の付喪神だ」とまたしても軽く否定してふんぞり返る姿勢を見せる。その仕草に時計よりも鏡の付喪神の方が偉いとでも言いたそうだ。だがここにいる全員がそんなことは誰も思っていない。そして銅鏡というワードに、勿論皆は反応した。
「ええっ? あなた鏡の付喪神だったの? あの家に百年を超える鏡なんてあったかしら?」
思いもよらぬ発見に、驚く栄華。誰が何処の付喪神でも、暦人はそもそも深く気にしていない。
「相変わらず、間抜けな栄華。しょうが無いから僕の正体を教えよう。姿形は北極星太陽鏡という銅鏡で、僕は特別な霊威が込められて水をはじく力を持っているんだ。そしてその力を衰えさせないようにたまに本体から抜け出して、この聖なる川の水に浸かりに来るんだ。いわばお前たちが言うところの禊ぎだよ」
「北極星太陽鏡って、内行花文鏡の派生系のあれか?」と夏見。
「そうだ。お前は栄華よりは少しだけ脳みそがありそうだな」
夏見は困ったように「おい、これ褒められているか?」とエリーナに訊く。
エリーナも困った顔で、「一応……かな? でも口悪い」と苦い顔で答える。
「何だって、この亜空間河道でそんな水浴び……」と夏見。自分の疑問点はさておき、とりあえず話を進める。
「馬鹿だなお前、暦人のくせにそんなことも知らないのか?」
再びふんぞり返って夏見を見下すように続ける。
「霊威のこもった銅鏡は、魔鏡にならないように、善の心を保持するために聖なる川の水に時折浸っているのさ」
「結構口悪いな。この小僧」と夏見も少々煙たい顔をしながらも「その聖なる水が太日川なのか?」と訊いた。
「まあね、亜空間を流れているから、この川の水は穢れにやられていない……」と言ってからタックンは、腕組みをして、しかめっ面をしている。
「……の筈だったのだが、どうも大河戸の辺りから下流が最近乱れ始めている。正確には欲望のかけらが水に溶け込見始めた。少々ではあるが穢れ始めた。誰かの野心が水に溶け込んでいた」と悩み顔をするタックン。
そのタックンの言葉に、夏見と栄華は顔を見合わせる。歌恋もエリーナと向き合って頷く。
「ねえタックン。それってどうすれば良い?」
「浄玻璃鏡を使えば毒抜き、即ち汚れを祓うことが出来る筈だ」
「浄玻璃鏡?」と栄華。
「聞いたことだけはある」と声を揃える夏見と歌恋。
「どこにある?」
夏見の質問に、
「それが分かれば、おいらが自分で祓っているよ」とお手上げのポーズ。
いきなり『水弾きの鏡』と『浄玻璃鏡』という二つの鏡の名前を耳にした彼らは、、暦人として新たなるステージに入ってきたような気持ちになった。
「まあ、暦人に出来るのは、その穢れの原因を確かめてそれを取り除くことだな」と言う。
「要は人為的な部分なので、それをなくせば、川の水は清らかさを取り戻すということか?」
「そうだ」
ここにいる全員が腕組みをして、難しい顔のまま立ちすくんでいた。
白姫と赤姫
それから数日後、栄華と夏見は浜松町の大伯母、アスカのところに行く約束をした。
出がけの前の朝に、夏見は自宅庭先のヒメカンゾウとヒメユリの元に行く。朝陽が上りはじめた時刻だ。
「起きているかい? 二人の姫様」と夏見。
「呼んだか、夏見」
赤姫が眠たそうに像をなして、ゲートの前に現れた。
「これから飯倉に行って、『水弾きの鏡』と『浄玻璃鏡』について教えてもらおうと思っているんだ」と伝える。
「うむ。いいことじゃ(です)」と二人は声を重ねる。
「先日、大河戸の水が穢れ始めているという話を付喪神から聞いたんだけど、あり得るのか? それも確かめないといけない」
「ふぁああ、そうじゃな、教えておこう。わずかだが邪念のような気が感じられる。しかしそれの実体は分からん。一般論として、わらわの知る限りでは、なんだが。亜空間水路にはアヤカシは出ないというセオリーがあるんじゃ。それは聖なる水が注ぎ込まれて絶えず流れているからだ。いわば手水舎の水が流れているようなモノだ。穢れを持つ物の怪の類いは、瞬時に清められてしまい、あの空間には住めないのじゃ。それに対してそなたは知っているみたいじゃが、念動隧道は物の怪のたまり場じゃナ。手水のない空間ということで、穢れっぱなし。なので中を通過する時に、芝乃大神宮の飴を舐めて通ったのを覚えているか? 浄化飴じゃ」
目を擦って優しく答える赤い衣のヒメカンゾウの化身。
「ああ、覚えているよ」
赤姫は目を細めて頷くと、
「亜空間の流れに穢れが出ると言うことは、その場所に長居している人間や物の怪が沢山いると言うことだ。人間の邪念が集まれば、川の水も亜空間もその邪な心で穢れる、すなわち大量な人数が大河戸の周辺に潜んでいるという事じゃナ。それは川の水が穢れれば、聖なる霊力も減少し、『水弾きの鏡』の霊威が弱まり運行に支障を来す。……じゃろう?」と含み笑いを夏見に向けた。
「なるほど、分かりやすい説明をありがとう」
「お前は心に影があるくせに、素直で清らかな男だ。暦人御師になったことも、多岐老公の後任をしていることも納得じゃナ」と赤姫。
そして、「ああ、白のお姉様がなんか言いたげなので替わるぞ」と言って、赤姫は姿を消し、ヒメユリの姿が映し出された。
「私からはこれだけです」
そう言ってから「これを持ってお行きなさい」と自分の胸元に抱えていたアイテムを見る白姫。
そして夏見の両腕の中に抱えるように、一冊の古文書が渡された。
「古文書?」と夏見。
「そう。『霊威草図鑑』です。夏見さんがお持ちになるのが相応しいでしょう。魔法の書でもあります。大河戸の入口付近の船着き場にはおそらく木材の搬入をするための準備が始まっています。その辺りが時の翁が見つけた河岸跡です。くれぐれも亜空間河道の中で揉め事は起こしてはいけません。水が穢れると大変な事になります」
眉をひそめて、重大な言葉として伝えるヒメユリ。
「わかりました」と夏見。
「それともう随分とお分かりのようですが、大河戸という土地は、念動隧道と亜空間水路の交差点になっています。フォッサマグナと中央構造線の交差点でいうことです。おそらくあなた方人間が地学という学問で得ているフォッサマグナの東端、柏崎千葉構造線と中央構造線の交差点、時間的亜空間においてはきわめて不安定な場所なのです。仮にですが時の翁がそのような場所に時の迷い人の集落を作れば、かつての我々のように土砂に流されたり、浸水に悩まされます。あそこは亜空間河道の氾濫原、決して空き地ではありません。そこに植生した植物たちは霊威を持っているのです。ましてや人の住むような土地ではないのです。一刻も早く時の翁の野望を阻止して下さいね」
夏見は彼女の瞳を優しく見つめると無言で頷いた。そして百合の白姫もその姿を消した。
「粟斗さん、もう行きますよ、玄関に来て下さい」と家の中から栄華の声がする。
「うん、今行くよ」
粟斗はゲートキーパーの二柱に軽く会釈をすると家の前に向かって歩き始めた。
「出生時代判別鏡。もしそれを手にできるなら今回の件は全て丸く収めることが出来るかも知れないのだが、お前たちにはムリかもなあ。一応は伝えておくぞ。その鏡は青銅で作られた三角縁神獣鏡のかたちをしている。この鏡を人物に当てるとその人物が本来住んでいた時代の元号が映し出されるものだ。昔、文吾さんは『迷い人』を沢山抱え込んでいた飯田橋の画商に頼まれてそれを使っていたぞ」
「飯田橋の越後さんか……懐かしいな」と夏見。独り言のように頷く。
そう言ってからも『水弾きの鏡』の付喪神は栄華のチンクエチェントの後部座席で説明する。
「そういう鏡もあるのか?」
「まあ君たちにはまだ早い代物だけど、頭の中に刻んでおくとよい。何かの役に立つときもあろう。今回飯倉まで送ってもらうお礼だ。暦人として精進せいよ」
「ああ、そうするよ」
栄華の愛車だが、ハンドルを握るのは夫の夏見だ。第一京浜を緩やかに走る。
何せ、彼の愛車カプチーノはツーシータ。スポーティーな二人乗りの軽自動車である。三人以上の時は決まって栄華の愛車を使うことになるのだ。ただ後部座席にいる付喪神が道交法基準に値する対象なのかはいまいち理解不能なのだが。
「ところであの白姫と赤姫たち、大河戸でなく、お前の家の庭、桜木町で再会したんだな」
「ああ、どちらも偶然横浜に流れ着いたようなモノだ」
夏見の言葉に、
「僕が流されたことは、あの二柱の霊威が弱まっていたことにも起因するんだ。ゲートキーパーの二柱が同じ場所に植わってくれれば亜空間河道の流れは安定する。いままで氾濫も無く流れていたのが不思議な位なんだ。ただあの忌々しい穢れた大河戸の船着き場周辺を除いてね」と言う付喪神。
「なるほど」
「もしかすると、お前たちの家の庭に導かれたとすれば、これはもっと大きな何らかの託宣が働いている可能性もありそうだな。お会いしたときに、時神さまはそのことはなにも仰っていなかったけど」と含みの表情で仮説を立てる付喪神。
「まあ、どんな理由があるにせよ、時神さまはあのヒメカンゾウと白百合の姫を我が家に置いておきたかったと言うことだ。それ以上は実証材料がないので、推測や思い込みにしかならない。もう少し時間がたてば、時神さまが亜空間河道をオレたちに教えたかった謎も一緒に解明するよ。次の託宣を待つことだ。まずは、芝のアスカさんのところで、お前さんのいう鏡の動力源の使用方法を教えてくれ」
「ああ、そうだな。何にせよ、あの二柱が再会できてよかった。不安からの解放だな。まさに萱草の花言葉である『悲しみを忘れる』となったな」
「まあ、花言葉を知っているなんて、ロマンチストな付喪神さんね、タックン」と笑う栄華。
そういうと「おい、栄華。お前、結婚してちょっとはまともな託宣解釈できるようになったかと思っていたが。どうもこのつかみ所の無い軟弱男にその辺のことはおんぶにだっこじゃ無いか。それで文吾のような立派な暦人御師になれると思うなよ」とタックンは辛口コメントを栄華に向けた。
「テヘペロ」
自らコツンと頭を軽く小突く栄華。
その様子を見て「ダメだこりゃ」と夏見とタックンはバックミラー越しに目線を合わせて、肩を落とした。
了