♫第三話 飯倉山の隧道はもみじ、山桜、梨の木を結ぶ-桜が秘めた物語-(上)・(下)
--暦を司る神さまを時神としてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人やカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ--
常総の飛鳥時代とその後の相馬御厨
今回の舞台となる場所、常総。すなわち今風に言えば、『ちばらき』である。千葉県と茨城県の総称だ。その境界に位置するのが利根川。この地域は古代の昔は巨大な汽水湖が存在していた。即ち、当時の関東平野の四分の一、その湖だった部分である。橋立のように点在した陸地は、ここかしこで入り江のように入り組んだ湾に挟まれ、陸地とはいえない湿原池やぬかるみのある湿地だった箇所も多い。荒川、利根川、太日川(時代によって河道が変わる江戸川・渡良瀬川に値する流れ)が互いに絡み合い、どれが本流かも分からないような土地。それが当時の葛飾周辺の実体。
翻って、今の利根川河口部。当時は絹川(鬼怒川)の河口部。大きな汽水湖は広大でゆっくりと流れていたとも伝わる。今の霞ヶ浦や北浦、手賀沼、牛久沼、印旛沼、水郷地区の湿地は、その大きな汽水湖の水抜き後に残った一部に過ぎないともいわれている。確かに他の地域に比べると湖沼や河跡湖が多く残る。そしてそのかつての「香澄流れの海」と呼ばれた汽水湖は鬼怒川と小貝川(子飼川)を取り込んで、海と湖の境界、湖の河口部のひとつだった銚子周辺の橋立部分に至った。その水面はゆっくりと流れる大河だったので「流れの海」や「流れ湖」と呼ばれていた。
その香澄流れの海の湖畔にあったのが、現在の柏市や我孫子市。そして今の利根川で、当時は絹川の本流が湖に流れこむ汽水湖畔近くにあったのが松戸や土浦、取手である。今回のお話はそんな千葉の県北、茨城の県南、常総の大都市柏と松戸に広がっていた伊勢神宮の御厨、相馬御厨の時空御師たちにひっそりと伝わる時空世界の未解決問題が解決に動いた奇跡のお話である。
この地域には飛鳥時代から伝わる郷土の桜伝説がある。「麿王と桜姫の山桜伝説」である。「茨城県の桜 常陸国一千三百年の桜史(参考資料https://sakuraibaraki.localinfo.jp/posts/8404288/)」に書かれたあらすじはこうだ。大化の改新前夜のこと、蘇我入鹿が傍若無人に我が物顔でまつりごとを掌握してた時代。聖徳太子の皇子、山背大兄皇子をも滅ぼし、その息子である通称「麿王」は逃れるために、幼少期のつてを辿って東国に落ちのびることになった。許嫁である桜姫を置いての別れの旅だった。そして後日、その愛しい皇子を追って桜姫は、侍女楓と東国へと下る旅に出た終焉の地が当時の大きな汽水湖のほとりというわけだ。そしてこれがその言い伝えの全容である。
この地理条件と民話を念頭に、物語の舞台は現代へと移る。
ギャルな櫻子
「櫻子、ちょっとここへ」
櫻子は『父さんのあの顔、ちょー、マジい時のヤツ。やべっ、朝から説教、激ムリー』と心曇らせる。
立派な洋館住まいの父娘は、母親の先立った家で生活をしている。父親の香澄流春夫は病院通いの合間を縫って娘のこれからの身を案じていた。というのも、今すぐにではないにせよ、医者から病状の完全な回復は見込めないとの旨を知らされていた。故に体が自由なうちにこの家に伝わる役割を娘に話さなくてはいけないと一念発起したのだ。父からすればかなり勇気を出しての決断だ。
キャンディーを舐めながら勉強部屋から出てきた茶髪の娘、それが櫻子。櫻子の「櫻」の字は、旧字体の俗に言う「かいざくら」文字を当てている。「人より半歩だけ上に行きなさい」という半音上げるシャープの意味と、奇抜な美しい音階が奏でられるようにという母の願いで、音符の「嬰ハ長調」などに使う「嬰」の字が入れてある。ピアニストだった母の思いだ。いまでも亡き母の部屋には愛器だった鍵盤楽器クラビコードが機織り機と一緒に並んでいる。
「んー、今外出の用意してんだけど。チョーめんどいんですけど」と頭を掻きながら父の前で食卓の椅子に座り胡座をかいた。
その所作を見た春夫は、「櫻子、女の子がスカートで胡座なんてみっともないですよ」と言う。
「うわあ、キター! チョーめんどい。時代錯誤。マジ、イミフ!」と嫌そうに頬杖でそっぽを向いた。
この少しズレた少女は、十八歳。四月から西総文理大学に通う女子大生だ。まだまだ高校生気分の抜けない甘ちゃんな彼女だ。親から言わせれば、既に秋口になろうという季節、そろそろ大学生としての自覚を持って欲しいところだ。
「で、なに? アタシ、これから舞衣香とランチ。秒で支度中なんだけど」
春夫は素直に頷くと、思いの丈を吐露するように穏やかに言った。
「お父さんな。もしかするとお母さんのところに行く日がそう遠くないことがわかった。西総病院で昨日先生にそれを伝えられたよ」と切り出す。
「なに脅し? 三文芝居?」
端から冗談としか捉えていない櫻子。言うことを聞かせるための親の方便と捉える。
その彼女の前に診断書をビュッと突きつける春夫。
「冗談のわけないさ」
慌ててその診断書を鷲掴みにして自分の方にたぐり寄せる櫻子。
「はああ? マジ?」
その内容を見てさっと顔色が変わる櫻子。凝視する診断書を握る手が小刻みに震え始める。
「おとうさん、いなくなっちゃうの? マ! マジこまる! ガチヤバって感じ」
あまり伝わらないギャル語であるが、彼女は決してふざけているわけでは無い。今風の言葉づかいではあるが、その口調とは裏腹に彼女の困惑した顔はかなり真剣だ。
「それでお父さんが元気なうちに、我が家の先祖代々の役割と、お前の宿命というものを伝えないといけないんだ」
「宿命?」
初めて聞く自分の家の系譜に櫻子は不思議そうな顔をした。そもそも今時の娘を画に描いたようなお気楽娘。その彼女、すなわち櫻子に先祖代々脈々と受け継がれてきた家の教えなど『猫に小判』に等しいのである。
「この家は、古くから相馬御厨のタイムゲートを管理する暦人御師の家なんだ。お母さんは、栃木の寒河御厨からウチにお嫁入りに来る際にはその奥義を身に付けてきたんだよ」
「奥義?」
これまた二十一世紀には聞き慣れない単語だ。秘技とか奥義とか、って現代の使い方では『得意技』のような意味に取られがちだ。だが春夫の言う、今のこの場合は、その家に伝わるお家芸、すなわち門外不出の道具とその使用法や秘伝の知恵などを意味する。
ズレ具合のいい顔で挙動不審な表情の櫻子。だがすぐに我に返って、両手で自分のほっぺを軽くパンパンと叩く。
「ってか、時代劇かよ? 言葉、アピれてないし!」
理解できないのか、する気がないのかは不明だが、依然動揺しまっくていることは否めない櫻子の表情。だが彼女の使うヘンテコなギャル語を理解している春夫は親の鑑である。
「お母さんは寒河御厨の暦人御師の家に生まれてね、僕と結婚するまで、例幣使街道近くの奥まった場所ある神明宮のタイムゲートを管理する御師だった」
「タイムゲートって何? 御師って何? ってかお父さんやばくね」
目を細めて煙たい顔の櫻子。
「まあいい。そのうちだんだんと分かるよ。まずお父さんからのお願いだ。弓を習い始めて欲しい。和式のヤツだ。別に本格的で無くてもいいんだ。ただ射れるようになれば」
「弓道ってこと?」
「うん」
「何のために?」
「それは長くなるから近いうちにちゃんと話すよ」
「うん」
「次に織機機を使って織物を織れるようになってほしい」
「あのお母さんの部屋にあるヤツ?」
「そう」
「何のために?」
「それも弓の件と一緒に話すよ」
「最後が我が家の倉に置いてある青銅の鏡を毎日綺麗に磨いておくこと」
「お父さんがいつも黄色になるまで磨いているヤツよね。サボると緑色になっちゃうヤツ」
「うん」
「なんで?」
相変わらず春夫は、「全てもう少ししたら説明するから」と言う。
「あとは?」
「いや、この三つかな」
「ふーん。やれんじゃね。多分」
「多分じゃ困るよ」
「そっか」
「あ」と思い出したように春夫は言う。
「なに?」
前のめりの姿勢で、耳を傾けて聞こうとする櫻子。耳には大きなピアスが揺れている。
「一日も早く櫻子が素敵な頼りがいのある優秀な旦那さんと結婚すること」
父の言葉に櫻子は「けっ」と言ってそっぽを向いた。
十八歳の娘に結婚など遠い未来に思えるのだろう。
「ナイワ。優秀なのは、アタシのとこにはこなくね。アタシぶら下がって大学合格したくちだし」
己を謙遜しているのか、恥じているのかは定かでは無いが、自慢口調で平然と醜態をさらす櫻子。
「まあ、今日は急いでいるようなんで、それだけを伝えるよ。ゆっくり時間のあるときにその理由を言うから」と言って、春夫はいつものように優しい顔で笑った。
櫻子は言葉の消化不良をおこしながらも、舞衣香との約束のために家を背に歩き始めた。
浜松町
駅前の再開発が始まった浜松町は空港行きのモノレールの起点でもあり、昭和の東京を思い出させる町並みが残る場所だ。高度成長期の息吹がそのまま凝縮されている。
駅を出て放送局前のファミレスで待ちあわせをしている太舞衣香。この付近に住む女子大生だ。香澄流櫻子とは同じ大学の同期である。二人ともこの四月から入学したばかり。
舞衣香はこの先の十五号線沿いの芝乃大神宮の鳥居前にある和菓子屋の娘。橙餅で有名な和菓子屋だ。今日は櫻子に自分の恋バナを聞いて欲しくて待ちあわせしている。ちょうど東京に用事があると言うことで櫻子が用事を終える午後から昼食を取りながらの駄弁り会というわけだ。
「ちゃっおー!」
いつものようにギャル気分の抜けない櫻子がファミレスの席で、舞衣香を見つけると駆け寄ってきた。
向かいの席に座るとウェイトレスがメニューを渡しにやって来る。だが櫻子はメニューをジェスチャーで断ると、タブレットのオーダーを指さして「こっちから注文しておく。日替わりランチ、ライスと珈琲で」と言った。ウエイトレスは軽く微笑むと、席の前に来ることも無く一礼して踵を返し厨房に戻った。
態勢を整えると櫻子は「舞衣香、待った?」と水を飲みながら問う。
「ううん、五分前ぐらいだからそんなに待ってない」
大きな目のショートカット。一見、みた目、舞衣香はボーイッシュな感じをするが、言葉遣いや仕草は櫻子よりもよっぽどガーリーな雰囲気だ。ジャンパースカートにヘアバンド。大人女子を目指し始めた女子大生という感じで、ギャルの抜けない櫻子とは対照的である。
「舞衣香、ここ地元だっけ?」
櫻子の問いに、
「うん。先祖代々」と答える麻衣香。
難しい顔で腕組みをする櫻子。
その様子を見て舞衣香は「どしたの?」と首を傾げる。
「マジ、その言葉イミフ。ナイワー。ガチうっざ、って思う」
「?」
なんだか分からず、『何で突然、私、ギャル語でディスられた?』と思う舞衣香。
その奇妙な表情に気付いた櫻子。他意の無いことを伝える。
「ああごめん。ウチのお父さんに、今日出がけに『先祖代々』ってワードの直撃くらってさあ、なにげに地雷ワードだった」と笑う。
「そうなんだ」と納得の舞衣香。大して自分に関係ないことが分かると一安心である。
「で? 誰が誰を好きだって?」
お昼近くになって、客の数も多くなりざわつく店内で、出された水を再び含んでから櫻子が言った。
真っ赤になって、頬に手を当てたまま舞衣香はモジモジしている。
「わたし……が、辞典くんを好きなの」
「ことのり……くん? 誰?」
目が点の櫻子。初見、いや本人をまだ目の当たりにしていないので初出が正しい。その初出の男子を尋ねる。
「ウチの近所の喫茶店のケーキ職人なの」
「ケーキ職人?」
「うん」
「舞衣香ちゃんちも菓子屋だよね。菓子屋繋がり?」
櫻子はさっぱり分からない話の流れに、傾げた首を更にひねった。
「ううん。幼なじみの近所のお兄ちゃんでね。正確には彼のおばあちゃん家がウチの近所で、そのおばあちゃんのお店を継いだんで今は本当の近所になったの」
「へえ、そんなマンガのようなお話もあるんだねえ」
頬杖ついて彼女の話を真剣な眼差しで聞く櫻子。
「それでね、告白……大学生になったし……」
「やるじゃん! 秒殺、OKもらえる自信があるんだ」
「ううん。それはないんだけど、もう耐えらんなくて、こんな苦しい思いするのなら、いっそフラれて楽になりたい、って思っちゃって」
『なになに? このマンガみたいな展開。恋する乙女、みっけ、みたいな』
櫻子は舞衣香の気持ちが本物なのがひしひしと伝わってくるの分かる。アーパー気分の自分には無い真剣で実直な恋愛の類いである。
「それでね、恋愛経験豊富な櫻子ちゃんに告白の方法を聞きたいな、と思って」
「え?」と固まる櫻子。外見はこんなだが、中身はねんねな櫻子。次のリアクションに困っている。
『アタシ恋愛経験豊富なんて言って無いし。ガチヤバだよ。コクる方法なんて、こっちが訊きたいっての』と櫻子は思ったが、ツバを飲み込んで、言葉も飲み込んだ。
『モントル』にて
フランス語で時計を意味する「モントル」。飯倉御厨、芝乃大神宮にあるタイムゲートを管理する年輩の暦人御師である角川アスカがオーナーを務めるケーキショップだ。神社のすぐ横にある。
「ちょっと待って、櫻子ちゃん、まだ心の準備が」
「なに激甘なこと言ってんのよ」
襟首をつままれて、引っ張られている舞衣香。荒っぽい手法でいち大告白という名のイベント決行になった。
他にやり方が思い浮かばない櫻子は、単に強行突破という手段を選んだにすぎない。その本音は彼女自身も分かっている。
『だってアタシが恋愛なんて分かるわけ無いじゃない。アタシだって誰とも付き合ったこと無いのに。何で恋愛マスターみたいに思われているのよ』
櫻子もモヤモヤ気分は抜けない。店の真ん前まで来たところで、店のガラス窓越しに、舞衣香の知り合いの男性が店内にいることに気付く。
「あれ? 何で?」と首を傾げる舞衣香。
「何?」
櫻子の言葉に、「知り合いがいるの。大学の先輩。辞典君とどういう関係?」と不思議そうだ。
「客じゃね?」と櫻子。
「まだ開店前なの。開店前ということは、業者か、関係者か、知人だわ」
「なるほど」
見ればさらにもう一人、見知らぬ訪問者がいる。ロングスカートにピンクのエプロン、ゆるふわカールの女性だ。なにやら三人で頷いたりもしている。
とりあえず舞衣香は、慣れた入口の扉を開ける。
そして開口一番、「こんにちは」と舞衣香の声が店内に響き渡る。それに続いて、後ろで軽くお辞儀の櫻子。
「印旛先輩! どうしてここに?」
「ああ、舞衣香ちゃん、偶然だね」
見た目二十歳過ぎぐらいの好青年だ。明らかに二十代後半と訊いていた辞典とは違う人物である。それは櫻子にも分かった。ウエストポーチをショルダー風に縦に引っかけて、Tシャツに半袖シャツを羽織った格好だ。
「誰?」と櫻子。
舞衣香は彼の前に立ち、櫻子に紹介する所作をして、
「同じ大学の印旛麿緒先輩。商学部なの。千葉の鎌が台市に住んでるのよ」と伝える。
「こんにちは、舞衣香の友人の櫻子でーす」
櫻子はいつも通りの気さくな挨拶をする。取り方しだいでは軽くも見えるのだが。
すると彼は「君、面白いね。いつもそんな感じなの?」と品のあるアクセントで櫻子に尋ねる。
初めてそんな返しをされる人種と直面して、怯んだ彼女は少したじろぐ。いつも自分の周りにいる男性とは違うからだ。父親も品良く話す方だが、それとも少し違う。若くして品の良いというのは、少女マンガの王子様系キャラである。少し前の時代のマンガなら花の背景、今時ならカケアミ背景のシャボン玉と行ったところであろうか? まあ、王子様登場の場面である。その瞬間に櫻子はドキドキで瞬く間に恋に落ちた。
『ヤバい、アタシ』とパタパタと顔を手で扇ぐ。
「えーと。ぜんぜん余裕の挨拶って感じっす」
平静を保ったフリで照れ隠しの櫻子。
「あはは、そうなんだ」
軽く笑う麿緒。笑顔が眩しい彼に、一瞬戸惑ったが、誤魔化しついでに櫻子もこれに乗じて笑った。
「ふひゃはは」
すると麿緒は「君、仕草がとても可愛い女性だ」。そう言って鼻の頭をツンと人差し指で突いた。
女子校育ちの櫻子には免疫の無い行動だ。彼女は演算に失敗したコンピュータの様に、頭の中はエラーとショートの状態で全身が火照ってしまう。
「なっ!」
言葉はそれしか出ないが、心の中では演算回路のコマンドが『ガチ、一目惚れ! アタシの方が恋愛相談だよ』という結果を打ち出して、彼女の行動は不自然な動きが止まらない。挙動不審な軽いノリのギャルという姿がそこにあった。
付け加えるように舞衣香は「印旛先輩って、弓の名手でね。弓道サークルの会長やっているよ」と櫻子に言う。
そこで櫻子は今朝の春夫の言葉が蘇る。『弓の名手』が脳裏に反響している。そして同時にこの王子様への『きゅーん!』という心の雄叫びが頭のどこかで鳴るのが聞こえた。既に頬は赤く、目はハートマークである。
「弓道、マジすか?」
あまりの弓道への食いつきに驚く舞衣香と麿緒。少し後ずさりしながら、「う、うん」と頷く磨緒。いまいち櫻子の距離感がつかめない。
一歩前に出る櫻子、更に後ずさりする麿緒。櫻子はこんな性格だが、意外にも父親の願いを聞いてあげる用意はあった。まあこの場合は恋に乗じた「渡りに船」のセンが強そうだが……。
「アタシ、そのサークル入って良いっすか?」とぐいぐい押す櫻子。一応、困ったフリをしてスカートの裾を持ちながら身体をクネクネさせているが、外から見たらアプローチはグイグイに見える。分かりやすいタイプだ。その彼女らしからぬ様相。見る人が見れば、「お前、何か悪いモノでも食べたのか?」とツッコまれそうな行動だ。
麿緒はようやく驚きを抑えて、
「勿論、入れるよ。ウチの大学だよね」と笑う。
「西総文理大の生活文化学科です」と言う櫻子。そして「学生証見せた方が良いですか?」と言うと、
「いや、後で良いよ。覚えておくよ。とりあえず連絡先をもらえれば大丈夫。皆に言ってから連絡するよ」
「はい」
彼は自分の手帳を一枚破くと「ここに住所と電話、学部と学科を書いておいて」とテーブルに置いた。
櫻子は頷いて、自分のポケットからペンを取り出して連絡先を書き始める。
ふと見ると皆が集まったテーブルの中央にはなにやら古文書のような絵札が置かれている。
「古地図ですか?」と舞衣香。
辞書は「うん。ちょっとね」と笑いながらそそくさとその紙を折り直して閉じた。
「一勘書房の島さんがね、僕が古地図ファンだっていったら売ってくれた江戸期頃の地図なんだ」と辞典はその地図を袋に入れた。
「へえ」と舞衣香。
そして「辞典さんって、地図なんかが好きだったんだ」と続ける。
辞典はぎこちない笑いで「うん。最近の趣味なんだけど」と言う。
「随分と渋い趣味を持ったのね」
それに合わせるかのように麿緒は「それを知った僕が是非に、と見せてもらいに来たんだ」と嬉しいそうに言った。
「印旛先輩も古地図ファンなの?」
「うん、そうだよ」とどこかぎこちない返事をした。
そのゆるふわ系の女性は「私は通りかかったら、島さんに届けて欲しいっていわれて、その地図を持ってきた人なの」と空々しいが美しい笑顔で言う。
会話に入れない櫻子と舞衣香。
「今日は日が悪くね?」と櫻子は切り出す。
「どういうこと?」
「なんかこの雰囲気だと取り込んでいる最中って感じ」
「まあ、そうよね」
「ここで告るって、チョー空気読めないヤツってレッテルはられそう」
普段空気の読めない櫻子にしては、かなり空気を読んだ感想だ。
「たしかに」
舞衣香は頷いて、小声で「今日のところはお暇しましょう。うちに来て。すぐそこなのよ。お茶とお菓子出すから」と計画中止の旨を二人は合意に至った。
「辞書くん。また出直してくるので、あとでまた遊びに来るね」と舞衣香。
辞書は気にしながらも「うん。ちょっと取り込み中でごめんね。またね」と言って、店のレジ横にあるクッキーの詰め合わせ袋をポンと舞衣香に渡す。
「えっ?」
「よかったら、後で二人で食べてね」
「いいわよお」と言う舞衣香に、軽く笑顔で「良いって」と頷く辞書。
躊躇いながらも「じゃあ、ごちそうさま」と舞衣香。
「あっざーす」と櫻子は嬉しそうにお辞儀をした。彼女なりの敬意の表しかただ。
一頻りすると、櫻子と舞衣香は店を出る。
それと入れ替わるように店内奥にある亜空間書庫の出入り口から夏見と栄華が『モントル』店内に現れた。そして舞衣香は自宅の店先でお茶を出してから櫻子を駅まで送ると辞典の店に戻った。
夏見に相談
「あ、夏見さん、良いところに来ました」
嬉しそうに、ゆるふわおねえさんの歌恋が駆け寄る。
今さっきの麿緒以上にたじろぐ夏見。言わずと知れた歌恋の行動。何かと理由をつけて夏見に意地悪をすることが多い。
「何なに?」
後ずさりの夏見。
一歩前に出る歌恋。
「念動隧道のお話がしたいの」
意外にも真面目モードの歌恋。
「念動隧道?」
拍子抜けとともに夏見のふにゃふにゃな声。ところが当の夏見はその言葉に聞き覚えはなかった。みるみる彼は顔をしかめる。眉間にしわを寄せて難しい顔の夏見。
「あらあ、ご存じないのね」と歌恋は残念そうな顔。
「ごめん、まだまだ若輩者で」と素直に謝ると、何故か歌恋は嬉しそうに、
「もう、じゃあ、私が特別に教えてあげますわ。しかなたいですね」と言って、元気に胸を叩く。かなり嬉しそうだ。
『相変わらず、粟斗さんに馴れ馴れしいのよねえ、歌恋ちゃん。悪い子じゃないんだけど、アヤメちゃんと違って少し悪意も感じるし……』と心の中は少しだけ揺れる栄華。
「実は後で案内するんですけど、かつての飯倉御厨であった紅葉沢、東京タワー下の芝公園内にあるんですけど、その水辺のほとりにトランスポーティングゲートが存在しているの」
歌恋の説明に思い当たる節があった夏見は、「聞いたことがある。文吾さんが言っていた『ひととき隧道』のことだ。秋の紅葉の時期だけその入口、ゲートが開くってヤツだね」と返す。
「ピンポーン! ひととき隧道って名前でも呼ばれているって、聞いたことあります」
親指を立てて笑顔の歌恋。
客用のテーブルの上に置かれた古地図を見て夏見は、
「それに関係ある古地図かな?」と尋ねる。
歌恋は「はい。一勘書房の島さんから預かったモノです」と答える。
「また島さんは、問題が出そうなものを我々に託すなっての」と頭を抱える夏見。
見れば、江戸内海、即ち東京湾の辺りに藤色の印で飯倉山と書かれた山とその麓に紅葉沢という地名が書かれている。そこから桜の原と香澄流れの海のほとりにある草原まで藤色の道が描かれている。
「飯倉山は今の芝公園だね。古墳のある辺りから元神明の辺りを指すはずだ」
「うん」
「そこから霞ヶ浦のほとりまで一直線で『ひととき』、即ち二時間で行けるトンネルってことか? 時代が時代なら江戸内海と香澄流れの海の間に橋立のように存在した細長い陸地だね」
眉唾物という顔の夏見。なぜなら歩いて二時間で千葉や茨城に行けるのならスカイライナーも特急トキワ号、筑波エキスプレスもいらない。
「流石、夏見さん。話が早いわ」
鮮やかな解釈術に店のオーナーである辞書は「夏見さん、解読作業早すぎ。今晩の自分の宿題にしようかなと思っていたのに、あっという間に解いちゃった」と笑う。
「何年暦人御師やっていると思っているの」と笑う夏見。
「お見事です」と栄華も賛辞を贈る。
「では実際に行ってみますか、その紅葉沢に」と歌恋。
「何で?」と夏見。
歌恋は意味ありげに、
「だってこのゲートは秋の紅葉の時期しか開かないんですもん。実際に勉強のために、今後の参考として視ておくべきだわ」と笑顔で言った。
栄華は「そんな一年にワンシーズンしか使えないゲートに使い道があるのかしら?」と首を傾げていたが、そこには大きな絡繰り仕掛けがあって、実はこの絡繰りには香澄流家と印旛家が関わってくるとは、まだつゆも思わぬことだった。
芝公園
一般に芝公園というと、増上寺や浜松町の町を囲むように細長く続く公園である。その中央にシンボルのように東京タワーが存在している。
歌恋に促されるように坂道を登った先に、緑の生い茂る空間が見える。その隙間を縫うように遊歩道が作られている。そこを横切って、公園内の奥に進む。やがて夏見と栄華は芝公園内の紅葉沢と呼ばれた沢の岸辺に辿り着いた。
「うーん。ここですねえ」と歌恋。
見れば水のたまり場、池の上に太陽光を反射したように光輪が浮かび上がっている。
「あの光輪の中央部が的になります。なんか扇の影が出来るそうです」
「的?」
当然のように歌恋の口から出てきた『的』という言葉に、夏見と栄華は顔を見合わせて、眉をしかめた。
「どゆこと?」と栄華。
栄華の疑問に「あの光輪に多霧の時巫女からもらった鏑矢を通すんです。いわゆる破魔矢ってヤツです。すると奥にあるあの岩が通り抜けられるようになるそうです」と歌恋。
「どこでそんなことを? 貰った絵地図に書いてあったっけ?」
栄華の問いに「ううん。これは勘解由小路家の幼少期の暦人覚え書きっていう家訓にあって、覚えさせられるのよ」と相変わらずのゆっくりペースで話す。
「凄い。暦人世界の英才教育ね」と自分とは段違いに時空世界のことを幼いときからたたき込まれてきた歌恋の生い立ちに驚く栄華。
「まあ、勘解由小路家は、御師とはまた違い指示を出す家柄なので、いろいろとオレたちの知らないことをよく知っているんだ」
夏見も感心した顔で言う。
歌恋はまんざらでも無い顔をしている。どうやら夏見からマウントを取ったことが嬉しいようだ。
ひとしきりすると、歌恋が続ける。
「その破魔矢、すなわち鏑矢を射る資格がある家が相馬御厨御師の家柄なのよ」
「じゃあ、ここにいる……」と栄華。印旛麿緒を見る。
「そう、印旛麿緒君ね」と頷く歌恋。
「麿緒君はそのことについて何かを知っているの?」
すると麿緒は、
「我が家では、その季節が来たときだけ使える念動隧道の場所に移って道を使います。だから桜の季節は土浦や大河戸などで、夏は我が町、鎌が台の梨園なんです。でも秋にこの飯倉の入口が存在していたことは知りませんでした。各シーズンに一本だけ多霧の時巫女さんが、我が家に破魔矢と破魔弓を置いて行ってくれるんです。その季節だけ念動隧道を使って、うちの父は時の理力を失った出口の補修や隧道の浄化を行っているそうです」と答える。
「そうですってことは君はやっていないの?」と歌恋。
「はい、父だけが自分で弓を引いて、ゲートを開けて入っています。いろいろと難しい条件があるので僕にはまだ早いと言われていました」
「なるほどね」と歌恋。
横で話を聞いていた夏見は、
「話の腰を折って悪いんだが、とりあえずこのゲートを実際に使ってみるというのが今回歌恋ちゃんがモントルに来た理由だったんだろう」と訊く。
「そうなの。何でも一勘書房の島さんがね、また白浜さん、きっと時の翁がこの隧道の一部で何かを企てているって言ってきたの。それで夏見君に橋渡しを、って……」
「でも、オレじゃどうにもならないよね。相馬御厨の仕事だし、破魔矢がないのでは如何せん」
夏見の言葉に、
「そう、その通り。破魔矢と破魔弓を多霧の時巫女から貰わないとダメなのよ。射手も必要なのは勿論。それともう一つ、念動隧道に入ると言うことは禊ぎを得るためのアイテムが必要になるわ。それは芝乃大神宮の縁日じゃないと手にはいらない代物なのよ」
「ウチの管轄の神社の縁日? 晩夏初秋のだらだら祭りのこと?」と栄華。もと飯倉御師の故に、栄華はあの神社周辺の時空関連のガジェットは知っている人だ。
「流石、栄華さん、そうよ」と歌恋。
朝陽や夕日と月が輝きを競う朝焼け、夕焼け時に実行するにはいくつかの準備、アイテムが必要なことを伝えたのだった。
「そこで特別な時空関連の人々に配られる千木筥があるのよ」
「ああ、芝乃大神宮さんは、例大祭で役員には特製の千木筥を配るわ。確か生姜関連のアイテムが入っていたはず」
飯倉御厨の御師を数年とは言え、任されていた栄華、そこそこの経験と知識は備えている
「そう。そこで配られた特別な時空関連の家には、紫色の和紙に包まれた千木筥を毎年必ず貰っている家があるはずなの。その家が貰う生姜飴と護符を持たないと念動隧道に入ってはいけないという言い伝えがあるのよ」
そこで舞衣香は、「私、思い当たる節があります」と挙手した。
「そう言えば、我が家の貰う千木筥は紫色の和紙というか風呂敷というか、それに包まれています」
一方の麿緒も、思い当たる節を口にする。
「父はいつもゲートを開けるときに何かを口に含んでから行きます。普通にのど飴かと思って別段気にもしていなかった」
「時空ゲートやタイムゲートには私たちには分からない多くの不条理が存在するわ。そういった忌み的なものの魔除けと考えられるの。それらを昔からの言い伝えをもとに知識としてガジェットやアイテムを操ることによって、今も相馬の御師は時空の平和を守っているのよ」と歌恋。
夏見と栄華は顔を見合わせて、「知らなかった」と目をパチクリさせた。そして「じゃあ、季節を紅葉の時期に合わせて、その紫色の千木筥に入った生姜飴と多霧の時巫女の持つ鏑矢が手に入らないと、いくつかのガジェット存在と気象条件が重なって初めてあのゲートは使えるようになるってことか?」と夏見は厄介なモノに関係したな、というヤレヤレ顔で肩をすくめた。
「だけどな」と夏見。
「なんですか?」
含みのある夏見の口調に眉をしかめる歌恋。
「相馬御厨と言えば、あれだろ? 知っているよね、歌恋ちゃんは……」
この口ぶりは暦人の間では有名な話だ。
「ああ、継承者問題ですか?」
「うん」
「まあ、麿緒君の前ですし、今日はそのことは……。ね」と歌恋。
夏見も頷くと「まあ、そうだな。後にするか」と口を濁した。
栄華、麿緒、舞衣香は首を傾げて「?」という顔をしている。
話を打ち切るように歌恋は「さあてと、……」と声を出す。
「と言うことで、明日の朝、多霧の時巫女さんが鏑矢を持ってここに来てくれる予定なの。現地集合でよろしくね、みなさん」
歌恋の言葉に、夏見、栄華、麿緒は頷くと芝の丘を後にして、浜松町方面に歩き始めた。
香澄流家
「たっだいまー」
いつものように櫻子の声が玄関を響き渡る。
玄関奥のキッチンから顔を出して父親の春夫がフライパンを持ったまま、エプロン姿で「おかえりー」と返事する。
「おとうさん、ちょ、なにやってんのよ。寝てないと」
春夫の元に玄関から駆け寄る櫻子。
「大丈夫だよ、別に今すぐ倒れるわけじゃないんだ」と元気な声の春夫。
「そりゃ、モチ、わかってっけど、あんまりムリされっと、あーしが困るじゃん。だから用事済んだらマッハで帰ってきたんだから!」
「ははは、櫻子は優しいねえ」
嬉しそうな顔で春夫は彼女の言葉に頷く。
櫻子はキッチンの壁に掛けてあるエプロンを素早く身につけると、食事の支度に取りかかった。
ステンレスの調理台に並んでいるのは、豚肉、アスパラ、じゃがいも、タマネギ、ニンジンときのこだ。
「お父さん、これシチューを作ろうとしていたの?」
春夫はエプロンを外しながら、「あたり! すごいね。よく分かった」と返事する。
「何年、お父さんの手料理を食べてきたと思っているのよ。具材でだいたいわかるよ」
まな板に向かって包丁を動かし始める櫻子は、春夫に話し始める。
「お父さん、私、今日ね、弓道サークルに入ったんだ。なんかね、印旛先輩っていうサークルの部長さんと知り合って、入れてくれるって」
その言葉に春夫は眉をひそめる。だがここは知らんぷりを通している。
「印旛君?」
「そう。同じ大学で、自宅が鎌が台らしいんだ。練習もその近くにある弓道場なんだって」とトントンとまな板の音を響かせながら話す櫻子。
「へえ……」
明らかに空々しい顔で頷く春夫。
「その彼は何か他に言っていた?」
「ううん、何で? お父さん知り合いかっての? イミフだわ」
「いや、知るわけないでしょう」と笑う春夫。
「ったりまえじゃん! ウチの大学の先輩と知り合いだったらウケるう」
春夫の言葉に無邪気に笑う櫻子。だが春夫のほうは明らかに何かを知っている風だった。だが呑気娘の彼女にはそんな春夫の様子は伝わっていなかった。
鎌が台の印旛家
「ただいま」
いつものように大きなお屋敷に響き渡る麿緒の声。
「あら、おかえりなさい。晩ごはん食べるでしょう?」
「うん、弓の手入れをしたらね」と言うと、荷物を食卓の上にポンと置いて、麿緒は二階にある自分の部屋へと上がった。
母親は印旛霞である。覚えている方も多いだろうが、第二話のキーパーソンだった人だ。彼女は麿緒の荷物から飛び出している手帳を見て驚く。
『霞ヶ浦市静の海三丁目 香澄流櫻子 西総文理大学 生活文化学科 一年』というはみ出したメモを見つけたのだ。
「香澄流の家の子?」
難しい顔で霞はそのメモを見ている。
「かあさん! どうした?」
植木いじりをしていた印旛加太織が縁側からキッチンにやってくる。とっさに霞はそのはみ出しているメモをカバンに押し込んだ。
「いいえ。なんでもありません。麿緒が帰ってきましたよ」とにこやかに答える。
「またこんなところにカバンを出しっぱなしにして」と笑う加太織。植木鋏を物置にしまうためキッチンを通り抜けていった。
上機嫌で通り過ぎた加太織の表情に安堵すると、大きくため息をつく霞。どうやら彼女、何か思うところがあるようだ。
ゲートオープン
翌朝、舞衣香を含めて昨日のメンバーが揃う。まだ日の出前。東の空が薄明かりに白みかけてきた時刻だ。やがて藍色からオレンジ色へと変化して朝焼けを迎える手前のわずかな時間を待っている。
一般的には朝陽がのぼった光線に反応するゲートが多いが、このゲートも同じく丘の斜面にあるため東京湾側の平地に向かって開けた地形の特性を持つことから、メインで使われるのは朝陽の時間だ。即ち朝陽の陽光が水面に反射して、時空のねじれた環境と反応することでゲートが現れる仕組みになっている。また一部は東京タワーの展望階のガラス面もそれに一役買っているという見解もあるが、正確なところは誰も分からない。
前日同様、辞典は店の営業があるので、ここにはいない。がっかりしているのは舞衣香だけである。
「あの、昨日リクエストのあった千木筥がこれです」
集まった暦人たちに舞衣香が提示する。
「ありがとう」と栄華と歌恋が応じる。
下駄のように段重ねになった小箱は、荒縄で封じられている。藤の花をあしらった美しい和紙に包まれて、江戸情調を今に伝えている。確かに紫色の紙風呂敷に包んである。本来は祭りに配られる縁起物の千木筥には豆が入っていて、ぶら下げて歩くとカラカラと音のするモノ。また女性の願いを叶える縁起物といういわれも希に聞く。
ただしここにある時空関係者の太家に渡されるモノは、特別な逸品であるため、普通のモノとは異なる点も多い。その証拠にこの中には豆は入っていない。この時点で全く意味合いが違うのが理解できる。器のみ同じものと言うことになる。
時空念動の浄化のために必要な生姜飴と護符が入れられているのだ。しかしここ何百年ものあいだ、この護符を使う機会はなかったようだ。太家の中に扱う者もいなかった。そのことを歌恋は知っていた。
歌恋は舞衣香から千木筥を受け取ると、
「私が開けても良いかしら?」と確認する。
「勿論です。そのためにお持ちしました」と舞衣香。
歌恋はゆっくり微笑むと、
「では」と荒紐をほどいて箱の最上部を開けた。
すると小粒の個別包装になった生姜飴が二十粒ほど入っている。
歌恋は「ごめんなさい、ちょっとこの箱を持っていてね」と舞衣香にいうと、上の箱を預けて二段目の箱を開けた。
こんどはそこに和紙に包まれた木札が入っている。いわゆる護符である。伊勢の最高神の御分霊でもあるおまもりだ。
「きっと暗い隧道の中を、この札は陽光のように光で照らしてくれる意味を持っているのね。邪悪なものを寄せ付けない役目のものね」と栄華は持論を唱えた。
すると「ほぼ合っているわ。さすがもと飯倉御師の栄華ちゃんね」と嬉しそうに応える歌恋。
そんなアイテムの確認作業の中、夏見だけが明後日の方を向いている。何かを感じているようだ。そして暗闇の茂みの中を指さした夏見。
「そろそろおばさん、出てきたら?」と笑っている。
そこには静御前のような、垂髪、白小袖、紅長袴、白水干、立烏帽子の姿で現れた多霧の時巫女が立っていた。
薄笑いを夏見に向けて「相変わらず夏見は、私の気配を察するのが早いなあ。そんなに私が好きか?」と言う時巫女。
「けっ」と胸ポケットにしまっていた偏光グラスを取り出すと、そのままかけて、
「出来ればオレは、同じ時巫女でも串灘さんに会いたいねえ」と肩を窄めた。
「うん、串灘か……。じゃ伊勢に行かないとなあ」と意味深に笑う。その手には破魔矢と破魔弓を持っているのが分かる。
多霧の時巫女は、一行の中に袴姿の印旛麿緒がいることに気付き、
「おぬしが相馬御師の印旛家の者か?」と尋ねる。
麿緒は初めてのことに「はい」とだけ答えると困ったように夏見に援助の視線を向けた。
「正確には相馬御厨御師のひとつ印旛家の弓の使い手、印旛麿置くんだ」と夏見は彼の肩に手を置く。
「そうだったな。相馬御厨はもうひとつの御師家があるんじゃった。これは失礼した。夏見、良く覚えていたな?」
時巫女の言葉に、
「関わってはいけないモノの一つとして、脳裏にインプットされているのさ。元来いざこざは苦手でね」と言う。
「まあ、そうじゃな。おぬしは面倒ごとは回避する傾向にあるからなあ」とほくそ笑んだ時巫女。
そのまま破魔弓と一緒に破魔矢を三本、時巫女は麿緒に授けた。
「今日の朝陽ののぼる瞬間に、あの水面の奥に光のゲートが出来る。そのゲートの中央に扇形の影が現れる。その扇形の影にこの鏑矢を打ち込むのだぞ。さすれば、飯倉の時空念動のゲートは開く。三本とも外すとこのシーズンは中に入れない。今年は諦めるが良い。またゲートを開けることが出来たら、その時に各自で千木筥の護符を携帯することと、口には千木筥の生姜飴を含むことを忘れるな」
「了解だ、おばさん」
夏見の言葉に、
「夏見、鏡を見ろ。お前ももう完全なおじさんじゃ」と無邪気に嬉しそうに笑ったまま、時巫女はインターレースのファイルのように薄くなって空間から消えてしまった。その笑顔は『言ってやった』というどや顔になっていた。
三本の矢
小さな池の畔には藪の突き出た部分がある。その茂みの脇には石灯籠が置かれていた。石灯籠の横にはうっすらと一条に光が差し込み始めている。
「時間が近づいているわ」と歌恋。
その言葉を受けて頷くと、麿緒はまず鞄から白い手袋を出した。そしてその上にゆがけを着ける。ゆがけは鹿の革で作られた手袋のようなモノで、親指の根元に弓の弦を引っかける木片が入った道具である。
彼はゆがけの手首部分でぐるぐると紐帯を巻いて装着を終える。
次に近くの塀に弓を当てると体重をのせて、しならせてから弦を下部にある突起部分の本弭に引っかけた。準備は万端である。
一同が見守る中、麿緒は静かに岸辺にある大きな踏み石の前に仁王立ちをした。肩幅ほどに開いた足で安定感を得るためだ。ぼんやりと現れ始めている扇形の影。それに対して垂直に立っている麿緒。そして深く深呼吸をする。
キラキラと陽光を反射して水面に光の輪が踊る。そんな池の片隅、築山の藪になっているため踏み込めない岸辺の脇に扇の形をした影がくっきりと姿を現した。
「あれね」と歌恋。
「本当だ。歌恋ちゃんも初めてなの?」と栄華。
「うん、実物を見るのは初めて。昔の絵では見たことあるのよ。あのまんまの絵だわ」と返す。
舞衣香は不思議な自然現象のマジックショーに大きく目を見開いている。
「す……すごい」
そんな彼女たちの会話も届かないほど弓矢に集中した麿緒。袴姿で大きく射法八節に準じて綺麗な体で弓を引き始めた。
鏑矢は通常の矢と違い、鏃が野菜のカブのような丸い形をしている。その分放つときの重心を考えて、普段よりも上向きの角度で射なくてはならない。地面に対して緩やかな放物線を描くようにしながら的を狙うのである。
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、二荒の権現、宇津宮大明神、那須の湯泉大明神、 願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ……」
「那須与一だな」と夏見。
「そうね、きっと彼にあやかって的を射たいのね」と歌恋も頷く。
固唾を呑む瞬間である。
ピュッと矢羽根の空気抵抗音が水面に向かって走り出す。だが扇の的を越えて築山の上に矢が消える。
「ああ」
舞衣香の残念そうな顔。
動じることなく再び二本目を引き始める麿緒。
彼の目には水面の扇の的しか見えないようだ。
ギギッと弓を引く、軋んだ音が辺りに響く。
麿緒は頬で矢の照準を合わせるべく、調整を行う。そのまま一瞬にして彼の右手がバネのように弾けて矢を放した。
再び矢羽根の空気音が流れていく。
今度はやや扇の的の下のほうに行き、築山の岩肌にぶつかって、カチンっとカブラ部分の木の割れるような音が響いた。
「うう」
舞衣香は知らずのウチに手で握り拳をつくり、汗ばんだその掌には焦りと緊張が自分のことのように感じている。
相変わらず微動だにしない麿緒。
『これは当てる』
心中で初めて、無から欲する願をかけた。
皆の見守る中、三本目、最後の矢が彼の頬に触れる。
軋みの音も、照準角度も全てを無にして的だけに集中している麿緒。
光の束が導くように何かを感じた彼は「今だ!」と心中でタイミングを合わせると、引き手を勢いよく放す。
放物線を描いた三本目の矢は見事に扇形の影の中を通過した。すると、背後の岩盤の岩肌、その壁が大きく光って、渦を巻き始める。見たことも無い七色の光の輪である。
「すげえ」
夏見は初めて見る念動隧道のゲートに圧倒されていた。
「綺麗ね。花火みたいだわ」と栄華。
「さすが印旛家の長男ね」と歌恋。
「先輩、格好良い、櫻子ちゃんに見せてあげたかった」と舞衣香。
皆がそれぞれの思いをめぐらせている中で、そのゲートから反対岸にいる彼らの元に光のタラップが伸びてきた。
「これって?」という栄華に、
「ゲートへの誘導路だわ」と歌恋。
夏見は、「護符と生姜飴大丈夫だな?」と確認する。皆は頷くと、その光の道を一歩、又一歩とゲートに向かって歩き始めた。
「一体この念動隧道、何処に向かっているんだ」と夏見。
「相馬御厨の方に向かうらしいの。しかも二時間ほどで千葉の鎌が台に達するそうよ」
歌恋の答えに、
「じゃあ、麿緒君は帰りの電車賃が浮くね」と夏見。
「またそう言う、どうでも良い事言って、本当に夏見さんはイカレポンチね」と夏見の口癖で夏見に応酬した。
「まずは全員でこの隧道を歩いて行こう」と夏見。
舞衣香は「初めてです。私の家は確かに暦人の家系なのですが、こう言うゲートを潜るような仕事はしないんです。暦と呼ばれる書物を編纂して、それを暦人御師の各家に配るのをやっています。だから実際のタイムトラベルや超常現象に出くわすことはなくて」と驚きを隠せないようだ。
(続く)
櫻子の気持ち
「ごちそうさま」
櫻子の父、春夫は手を合わせると朝食のご飯茶碗をシンクに浸す。一足先に食べ終えている櫻子は、ジョギングパンツ・スタイルのままで、リビングのソファーに寝転んでマンガを読んでいる。
春夫は珈琲をカップに注ぐと、櫻子の前のローテーブルに置いた。
「はい、珈琲ですよ」
櫻子はマンガから視線を少しだけ父親に向けると、
「サンキュー」と俯せのまま足をばたつかせる。
「ねえ、お父さん、チョッパヤに、とりあえず今、我が家の秘密とやらを聞いておくわ」と起き上がって櫻子は春夫の顔を見る。
「そうか」
珈琲をすすりながら春夫は頷く。
「なかなかこう言う時間もないしねえ」とカップを手にする櫻子。
真面目な顔で春夫はゆっくりと噛みしめるように言う。
「この話はSF小説のようだけど本当に起こりうる話なので馬鹿にしないでちゃんと聞いてね」
「オッケーっしょ」
意外に真面目に応える櫻子。
「我が家のご先祖様は櫻姫の妹君、吉野姫という飛鳥時代のお姫様に遡るんだ。山背大兄皇子のお子さんで麿王という都落ちした朝廷の血筋の人がいた。大化の改新前に敵対する勢力に追われた麿王様を慕って、許嫁の櫻姫はお伴の楓嬢と妹の吉野姫と一緒に、彼を追いかけて東国に落ちたということだ。そして時代が下って、この地で藤原系の者と一緒になった吉野姫の系譜は、平安以降、伊勢御師の伝令で『時の勘解由使』を務めていた国司から、時代を飛び越えて世の安定を任される暦人御師の称号を頂くんだ」
「時の勘解由使って何?」
「大王さまと伊勢の大宮司様に変わって、暦人や時の役人を任命する人だよ。表の中央政府の役人で勘解由使っていう役職があるんだけど、彼らは国司などを任命し、赴任先を考慮するんだ。いわばこれの暦人版って感じだね」
「今もいるの?」
「うん、いるよ。もし僕の代わりに櫻子がこの相馬御厨の暦人御師に任命されるときは、そのお姿を見ることが出来る。宙を飛ぶ牛車にひかれて月の見える方角からやって来るよ」
「何かおとぎ話の世界じゃん」と笑う櫻子
「そうだねえ。お父さんもおじいちゃんから初めて聞かされたときはそう思ったよ」と頷く春夫。
「続けて」と櫻子。まるで物語をせがむ子どものように、目を輝かせながら父親の話を聴き入っている。
「そこで我が家はその櫻姫の家系と麿王の家系が分離した状態で暦人が存在していることに気付くんだ」
「なんて?」
「実はのちに相馬御厨の暦人御師の家がもう一軒あることを知るんだね。それが鎌が台にある印旛家なんだ。あっちは麿王さんの家系でね。いずれ両家は一緒になるからと、時の勘解由使がこの広い相馬御厨を分割統治させるために二軒の御師家を指名してしまったんだ。それが明治維新の時に発覚して、タイムゲートが二つあることを知る。そのタイムゲートを守る家も二軒あることが発覚したんだ。だけど、この複雑な状況に加えて、麿王が身の危険を避けるために使っていた『念動隧道』のゲートキーパーの役割も両家に付託されていた」
「ふーん」
「それでこの相馬御厨の暦人御師は二つの家が存在しているんだ。そして何かにつけその維新前後に両家の問題がこじれて、周りの暦人御師を巻き込んだりしていざこざの絶えない御厨と評判になったってわけ」
「ほう」
「で、おそらくそのもう一軒の御師の家が、君の先輩の家、印旛家というわけさ」
煎餅をポリポリと囓っていた櫻子の表情が急変する。
「えええーっ?」
春夫は「驚きすぎだ」という表情で笑う。
「私、ロミオとジュリエットじゃん!」
「君たち、そんな仲なの?」と驚く春夫。
「ううん。私の片思い」
「それじゃあ、まだジュリエットじゃないね。まあ、頑張れ。お父さんは別にできちゃった婚でもいいよ」と笑う。
櫻子は『あーしをふざけた態度でギャル呼ばわりする割には、お父さんの方がよっぽど性悪だ。順番逆でも良いってか? 真顔でスルッと道理を軽んじるこというなあ、このおやじ』と思った。
「そして弓と銅鏡のことなんだけど」
「ああ、それなあ。めっちゃイミフなヤツ」と櫻子は不思議な顔だ。
春夫は笑顔で「ちょっと付いてきて」と櫻子を玄関先で手招きする。表に出ての説明らしい。
この家の広い庭の奥、そこからは大きな河跡湖が眼下に広がっているのが見える。
その芝生のジュータンが敷かれた庭の中央には大きな山桜がある。人一人がすっぽりと入れるような大きな木の洞があり、その胴部には注連縄がかけられている。
「なんなの? 庭に呼んで」と櫻子。
春夫は木の横にある石蔵から四枚の銅鏡と母が織ったであろうテーブルクロスともタペストリーとも言える布片を持ち出してきた。布片は二重丸の大きなデザインがされており、まるで弓道の的のようだった。その布片を春夫は山桜の洞の上にある突起にかける。ちょうど洞の入口に暖簾のように垂れ下がっている。
「木の穴の前にかけるんだ」と櫻子。
「そうだよ。下準備だね」
春夫はそういうと今度は四枚の銅鏡を抱えて運ぶ。
「古墳時代に我が国で鋳られた銅鏡のレプリカなんだ。とっての柿の蔕のような部分を覆うように太陽の光輪が描かれているんだ。一説では伊勢神宮とのご縁もある形状なんて言われているんだよ。学術的には傍製内行花文鏡(註 下記参照)といって内行花文鏡の一種らしい」と春夫。
「ないこう……?」
あまり歴史に詳しくない櫻子は父の暦人としての知識に驚きを覚えた。初めて家庭的で、子煩悩な父ではない、別の面を見た感じだ。
「まあ、名称などどうでもいいよ。この四枚の銅鏡は魔法鏡とも言われている我が家に代々伝わる家宝なんだ。これらをね、庭先の山桜の老木の周りに囲うように四隅に配置する。山桜の洞にはお母さんが織った的の布。そして最後に香澄流家に伝わる祝詞を唱えるんだよ。僕は空で暗唱できているけど、君には後でその書き写しをあげよう」
「我が家に……祝詞?」
そう言っている間に春夫は既に、山桜の古木の前にある儀礼用の石畳みの上に立つと、太幣を手にしながら、「かけまくもかしこき あまてらすのおおかみ このはなのさくやひめのみこと……」と祝詞を奏上し始める。
「何? お父さん、神主?」
そして祝詞が終わると驚くことに、桜の花が、まるではや回しのビデオ映像を見ているかのように、つぼみをつけて、やがて一輪、又一輪と開き始めた。そして五分後には満開となった。
「秋に花見? マジ、すげー」
「これが香澄流家に伝わる季節を操る暦人のガジェットだ。他のゲートに植えられている大木の四隅でやれば別の季節の花も咲かせることが出来る。今の祝詞は春用だけど、季節にあった祝詞を奏せばいいだけなんだ」
「本当に季節を操れるなんて、名前通りの暦人だね」と素直に驚く櫻子。そして「でもこの力って、何のために?」と尋ねた。
春夫は『よくぞ、訊いてくれました』と言わんばかりに、「あの山桜の木の洞を見てごらん」と指さす。
暖簾的の後ろ、木の洞の中央では、渦巻くように七色の光が回っている。
「あの場所は『念動隧道』と言って、かつては江戸まで続いていた異空間の通路なんだ。この我が家の入口は春にだけ入口が開くんだ。だからそのほかの季節にこの入口を使いたいときにこの香澄流家の者が、銅鏡の内側だけ今のように季節を変えて、ゲートを開けるのさ。そうすれば他の暦人たちが御厨間を自由に往来できるようになる。いわば裏方のお仕事をする暦人御師なんだ。だから我が家は大昔から『念動隧道』のゲートキーパーって訳だ」と言う。
「江戸までって、この道で東京に行くのお父さん?」
「いや大昔の話で、今は何処まで続いているのかは分からない。とりあえず鎌が台のゲートまでは行ったことあるよ、昔にね」と笑って答える春夫。
「じゃあ、いまは?」と櫻子。
「今はお父さんとその知り合いがたまに掃除がてら使っているだけだよ」と笑う。だがそこには裏がありそうに見えた。勿論、櫻子の天真爛漫な性格では、そんな春夫の態度は読み取れてない。しかし春夫は何かの理由でこの隧道を今も使っているようだった。
ひとときずいどう、かちよりもうでまいる
夏見と歌恋を先頭に念動隧道を歩く一行。生暖かい洞窟内は不思議な妖気に満ちていた。
トンネルのように壁が整備されていて、とても古の飛鳥時代に作られたとは思えないダンジョンのようだ。その後の修復のクオリティの高さに感服といったところだ。
横の路地から時折、老婆が手招きをしているのが見える。
「あれ、おばあさんが」と舞衣香。
「見てはダメ。そして行ってはダメよ。多分邪悪な者だから」と歌恋。
「はい」
厳しい表情で頷く舞衣香。
「どこにいるの、そんなおばあさん」と目を細めて路地の横丁をのぞき込む栄華。
「ほら、あそこです」と袴姿の麿緒が教えると、
「ええ? なにも見えないわ。池の畔に縁台が置いてあるところよね」と首を傾げる栄華。
「まさにそこに座っているんですけど……」という麿緒に、栄華は「縁台に人なんていないけど」と返す。
その様子を見ていた歌恋は納得して頷くと、
「栄華ちゃんは心が清らかで、綺麗すぎるの。そう言う汚れのない人には念動隧道の物の怪の類いは見えないわ」と麿緒に諭す。
「そんなことあるんですか?」と麿緒。
「希に居るのよね。汚れなく無垢な心で大人になっちゃう人。ピアノ一筋、旦那様だけを信じて、周りの人には嫌な気分にさせない配慮。そんな人に邪悪な者は見えないわよ」
「ある意味凄いです」と舞衣香。
「うちのお嫁さまはピアノ馬鹿なので、当然のこと。純粋培養なのです」と笑う夏見。
「またそうやって粟斗さんは、私が何も知らないような言い方をする」
少しむくれる栄華。斜め四十五度の下目遣いで不服そうだ。
「褒めているのに」と残念そうな顔の夏見。
「本当ですか?」と懐疑的な顔で尋ねる栄華に、「本当です」と夏見は自信を持った口調で言う。
「あのそういった二人の世界は、どっか他のところでやって頂けますか?」
二人のやり取りに飽き飽きしたのか、歌恋は少し不機嫌に止めに入る。
「別にそんなんじゃ」と栄華は赤くなってそっぽを向く。
夏見も照れ隠しに偏光グラスを直す仕草。変な夫婦である。
皆の行く手に階段が見える。
『↑水分け』という立て札、案内板が上にのぼれと催促しているようだ。
「ここ、きっと鎌が台だね」と夏見。
歌恋も頷いて、
「私も分水嶺の場所という意味なので、おそらくそう思います」と続く。
「一体鎌が台の何処に出るんだろう?」と麿緒は地元だけに興味津々のようだ。そして弓を持ったままずっと歩いてきたので、ようやく休憩できて、楽になると思った。
夏見は「行ってみるか?」と皆に尋ねた。
一斉に「行こう」と言う声が皆から返ってきた。
念動隧道のインターチェンジといった感じなのだろう。
階段を一段、又一段とのぼると、日差しが皆の前に差し込んできた。
そして最後の一歩を出ると、驚くことに夏見の目の前には、麿緒の母、印旛霞が洗濯竿に衣類を干していた。
自宅の庭先からゲートが開いた上に、知人が顔を出す。霞は驚いたように、あんぐりと口を開ける。玄関も通らずにひょっこりとお邪魔したのである。想定外もいいところだ。
「こんにちは」
気まずさに誤魔化しも加わって、一行の先頭だった夏見はお辞儀をした。
「あら? 夏見さん。今日はまた、そんなところからお出ましになって」と笑う。
そして霞はぞろぞろと一行がトンネルから出てくるのを確かめる。その中に袴姿の自分の息子がいて、更に驚きだった。
「あら、麿緒。お帰りなさい」と声をかけると、麿緒も、
「ただいま」と返す。
そこに麿緒の父、印旛加太織が植え木ばさみを持って現れる。
「おや、その隧道を使ってきたのかい? 虹の国の皆さんだね」とさも当たり前のように皆に言う。
「うん、飯倉の紅葉沢からやって来たんだ。時巫女さんに破魔弓と破魔矢を頂いて」と麿緒はことの成り行きを父に話した。
「おお、多霧殿に会ったようだね。それで紅葉沢の出口の場所が分かったのか? 明治の末頃から何処にゲートがあるのか行方不明だったんだ。もし水中に出来ているとこっちから行ったら出られないから皆でどうしようと言うことになって、誰も使わなかったんだ」と言う。
普段着の着物、着流しで加太織は、「それでどうだい、使えそうか?」と麿緒に尋ねる。
「池の中央にゲートがあって、的を射ると踏み石と光の橋が出てくる感じ」
「ということは、こちらから行っても身体ごと『池ぽちゃ』になる出口か」と残念そうな加太織。
「そうだね。あちらから入るだけのゲートだね」という麿緒。
「良い情報をありがとう。仲間の暦人にも情報共有しておくよ」と言った後、
「念動隧道のまだこの先に。桜の花びらの絵が描かれた出口があるんだ。行ってみると良い。やはりひとときで行けるよ」と言う加太織。
彼は庭先の植木鉢を一つ抱えると、一礼してスタスタと植木台の並ぶ奥庭の方へと歩いて行ってしまった。
「仲間の暦人?」と復唱する夏見。なにやら彼の知る事実とは相反する記憶の齟齬があるようだ。
横で栄華は「何か不自然なことでも?」と夏見に問う。
「相馬御師は、仲間はいないし、作らないのが基本だ」
「そうなの?」
「だよな、麿緒君」
「はい。基本、父は僕と母以外には御師の仕事やアイテムなどは話しません」
「何かの言い間違いかしら?」
栄華の言葉に、
「いや、何か思うことがあるんだろう。大体、歴史背景を振り返れば、古代には御厨領域のほとんどが水中だったこの相馬御厨では、人間が生活していた範囲も少ない。ましてや都から離れた東国だ。彼の時代、水中だったため生活の痕跡が少ないこの地域に時空修正などの託宣が少ないんだ。船橋や柏などの当時から陸地だった場所にのみ、託宣の割り当ては限られる。そのひとつがここ鎌が台なんだ。でもオレたちは相馬殿の考えを詮索する立場でもないし、今は我々に与えられた託宣と思える『念動隧道』の復活をさせるための仕事をするだけだ」と夏見は返した。
栄華も「そうよね」と納得の相づちで終わらせた。
更に奥へと
「では道中お気をつけて」
霞の柔らかな笑顔で、閉じかけそうな念動隧道の入口に逆戻りをする一行。一旦閉まると、またゲートを開ける儀式を行わなければならない。どうにか閉じる前に本線復帰を果たした。暗い一本道をまた進む一行。
破魔弓を霞に預けて身軽になった麿緒の足取りは軽い。
物の怪が礼儀正しくお辞儀をしてきた。
「おにいさん、おにいさん。あたしのしっぽを触っておくれよ」
美女の姿で、露出の多い服だ。麿緒は目のやり場に困り俯く。男性を襲う気満々の物の怪である。
ずかさず歌恋が、時魔女の聖水を一滴その美女の頭に垂らす。
『ポトッ』という音とともに、たちまち白煙がたちこめ、隧道内は見えなくなる。
やがて白煙が流れ去ると、そこには大きな化け物の残骸が横たわっていた。
「邪な心を餌にする魔物ね。特に男性は美女に弱いから、つけこむ隙が多いわ」と伝える歌恋。
そして「麿緒君、こういう亜空間の中にいるときは、異性と家族、金銭などの諸問題、特に欲しいと思えるモノがある時ほど、無言、不動、視線ずらしを忘れないでね」と優しく教える。
「はい、覚えておきます」
青年らしい清々しさで返事をする麿緒。
「今のような色気で誘うモノの他に、情で絆してくるモノや、助けるフリをして弱みにつけ込んでくるモノもいるの。まるで人間社会の縮図のような心の動きで私たちをはめようとしてくるのよ。気をつけてね」と歌恋。
そしてチラリと夏見の方を見て、
「この人は台詞だけ見ていると一見、魔物の罠にほだされそうに思えるのに、絶対に引っかからないのよね」と肘で突く歌恋。
「オレ?」
夏見は軽く笑う。
「オレはジョークで俗っぽい話題も出すけど、まず絶対本気にならないから。魔物のハニートラップなんて絶対に見向きもしない。女は奥さんが居ればそれで良いよ。いつまでも綺麗で可愛い人だし」とのろけが始まった。
「ああ、言うだけ野暮でした」と歌恋。
そして「加太織さんが仰っていた看板案内『✿』マークが出てきましたよ」と続けた。
「そうですね。ここで出ましょうか、生姜飴の残りも少なくなりましたし」と舞衣香が反応する。
「了解!」
皆の返事で『✿』マークの付いた低い階段を登ることにした。
「おや、出口になにか的のような図案で、暖簾のようなモノがぶら下がっているよ」と麿緒。
「めくって外に出ましょう。加太織さんが出ても大丈夫って言っていたから平気でしょう」と歌恋。
「じゃあ、行きます」
麿緒は暖簾を分け入って、出口に進んだ。
親子問答
「お父さんの言っていた弓はもしかして、あのお母さんの織った織物の的に矢を中ててゲートをオープンさせるってこと?」
櫻子の言葉に、
「お、我が娘は勘が良いね。そうだよ。すると『念動隧道』と呼ばれている亜空間の道への入口になる」と頷く。
「それが東京の方まで続くのね」
「うん。でも僕たちの仕事は開けるだけ、その先の仕事は別の暦人たちがやってくれるのさ」
そんな会話の最中だった。突然ガヤガヤと隧道の入口が騒がしくなり、暖簾のように的の布織物をめくって麿緒が現れる。
「きゃいん! 王子様じゃん」と思わず声に出してしまった櫻子。
その言葉、春夫が聞き逃すはずもなく、彼は麿緒の方を観察していた。
「あれ?」と辺りを見回す麿緒。そして目の前に櫻子がいることに気付くと、左手を挙げて「やあ」と挨拶を送る。
「こんにちは、いらっしゃい」とお辞儀の櫻子。
麿緒に続いて、ぞろぞろと皆が隧道の出口から香澄流家の庭に出てくる。
そして栄華は「なんで? 今の季節に桜が咲いているわ」と不思議そうに老木を見上げた。
すると最後に出てきた歌恋が、「それが香澄流家の暦人御師としての仕事だからよ」と答える。
夏見だけが「本当に香澄流家の敷地なのか?」と歌恋に確認する。
「ええ、出なければ今の季節に桜など咲いていません」と歌恋が答えると、夏見は、
「麿緒君、とりあえず君は隧道に戻ろうか」と彼の姿を隠すように肩を押して桜の洞へと誘う。暦人たちの暗黙の了解である香澄流家と印旛家の確執、対立を鑑みた夏見の配慮である。
その様子を見ていた春夫は、
「夏見さん、大丈夫だよ」と声をかけた。
「あれ? オレを知っているんですか」と言うと、
「忘れちゃったかな? あなたが船橋御厨の御師やっていたときに、船橋の中部百貨店の朝日野書店で店長をやっていたんですよ」と声かけをする春夫。
夏見は暫く考え込んでから
「ああ本屋の店長さん!」と思い出す夏見。
「いつもいつも自然や地形の本をご注文頂いていましたよね」とお辞儀をする。
「ええっ? 霞さんの次は店長さんだ」と船橋御厨時代の知人が立て続けに暦人だったことに驚く。
「私の方はあなたが御厨御師で虹の国の住人と言うことは知っていたんです。ただこちらからは言うことは出来ないので、あくまでも店員スタッフとして接していましたけどね」
「なるほど」と夏見。
知らない中でもないことに機嫌の良くした夏見はとりあえず何故大丈夫なのか、の理由を尋ねる。
「どういうことですか? 香澄流家と印旛家は犬猿の仲というまことしやかな噂が暦人の間では通説になっていましたけど……。実際はそんなことはないと言うことですか?」
春夫は腕組みをしながら、少し言い出し辛そうにしていたが、ゆっくりと口を開いた。
「実は香澄流家と印旛家は、互いに櫻姫の妹宮である吉野姫の末裔と麿王の末裔と言われています。そして長い間、どちらが相馬時空御厨の御師の家かと言うことも論争の的にされてきました。しかしそれはカムフラージュのために使われてきた我々の作り話、フェイクに過ぎません。二つの家で分担し合わないとタイムゲートと念動隧道のメンテナンスを出来なかったのです。一つに絞ってしまうとどちらかの家が両方のメンテナンスを行うことになります。船橋を任された夏見さんならおわかりでしょうけど、あそこも船橋と流山のメンテがあって、東条御厨も兼務だったはずです」
「激務でした」と夏見。
「ただでさえエリアの広い相馬御厨の不安定な時空穴の安定化とメンテを掛け持ちでやりながら、タイムゲートと念動隧道を管理して、あげく他の暦人の隧道ゲートのオープンを手伝うといった重責を全うしなくてはいけない」
「確かに大変だ」
ため息交じりの春夫に、頷く夏見。
「そこに来て私の余命が出されてしまったのです。ここに居るまだ十代の櫻子を置いていけるはずがない。結構どうして良いのか決断と判断に苦慮しています」
無念の滲む春夫の台詞である。
「えっ?」と誰もが固唾を呑んだ。結構な重い話だ。
春夫のこの言葉。これはきっと素直な気持ちだと夏見は察していた。そして合わせて、今回のこの念動隧道と相馬御厨御師の両家の問題にいささか何かの企みのような匂いを夏見は感じていた。勿論陥れるような邪悪な物では無く思いやりのような柔らかいモノだ。
いつもの彼特有の勘である。そして既に鼻のきく夏見は事実のパズルを組み合わせていた。
横で栄華は少し嬉しそうに口元を緩ませ、『うちのダンナサマ、答え合わせの最中ね』と秒読みのポーズ、指折り数えて待っている。長年の寄りそいで、夫の習性などすぐに分かるのだ。
夏見のカーキュレーション。
一勘書房の島、多霧の時巫女が地図と破魔矢を提供、これで目的が作られる。櫻子と麿緒を浜松町で顔合わせる段取りは歌恋。香澄流れの家に行くことを示唆した誘導係は印旛加太織だ。そして全てをなしとげて今ここに存在している。あまりに出来すぎた行程である。通常、偶然だとしても、こんなにいっぺんに全てのパラメーターが並ぶように上手くはいかない。
『なら真の目的はなんだ?』
夏見は麿緒と櫻子が目にとまる。
この二人が婚姻すれば、両家はまとまる。表向きのカムフラージュにせよ、長年の両家の確執は解消されるとともに、名実ともに相馬御厨御師の家が一つになる。だが念動隧道の管理を一つの家で行えるのか、という不可逆的な状況も安易に想像できる。そうなると更にもう一人、隧道管理が行えるタイムゲート類に長けた誰かが必要になる。そんな人物が頭をよぎる。
夏見は歌恋の顔を見る。
見つめられた歌恋は空々しくそっぽを向いた。何かある。そう踏んだ夏見はカマをかけた。
「誰か、もう一人役者がいるはずだねえ」とあえて歌恋に行った。
歌恋はゆるふわの髪をかき上げながら、「もう、すぐ真面目に答え探すから夏見さんはやりづらいのよ」と煙たい顔だ。
「分かっちゃいましたね。その役者はわたしですよ」
桜の老木の影から出てきたのは『時の翁』だった。紋付きの袴に杖をついて、今日は穏やかな笑顔だ。
「オジサマ」と歌恋。
「オジサマ?」
夏見と栄華は小首を傾げた。
時の翁は恥ずかしそうに、
「私は名前を捨てる前は勘解由小路克二郎と言いました。この子の祖父の弟にあたります」
「大叔父ってことか」と夏見。
「いまはもう人間界の時計では暮らしていないので、それも過去のことです」と軽く笑う。
「とりあえず説明と今回の目的をお聞かせ下さい。内容によっては、協力する場合と邪魔する場合があることをお許し下さい」
夏見の言葉に「相変わらず職務に忠実だ。暦人の鑑ですな」と時の翁。
「結論から参りましょう。香澄流春夫君はいま余命宣告を受けた身です。それを助けたいという時空のお節介じいさんがここにいます」
「ほう」
「一方で、そのお節介じいさんは、今現在、人の不幸、病を時間の流れを使って回避させることに注視しています。それには沢山の仲間の協力が必要です」
「うん」
「そこでひとつの提案を春夫君にお願いしました」
夏見はチラリと櫻子の表情を窺った。
『安堵の顔か……。娘は了承済みって感じだな』
「その提案の中身。お聞きしましょう」と夏見。
「もしも春夫君が、私の仲間として亜空間で働いてくれれば、時間の束縛から離れた世界、隠し世に身を投じる生活になります。すなわちこの現世で進行する病魔はストップして悪化しません。この世界に戻ったときに、少しだけ進行するでしょう。でもそれはほんのわずか年に十日足らずのこと。あとの時間は隠し世で生活するので病気の進行はないのです。私は人手が欲しい、春夫君は年に一、二回ではありますが、娘さんと一緒の時間も持てます。単身赴任と思えば、それ程辛い別れでもないでしょう。逆にこのままこの世界に残れば確実に一、二年で帰らぬ人となる。生きてさえいれば、また会えるのです。それを提案しました」
とても理にかなう避難方法だ。命の価値を重んじて、病気の進行を阻止して、しかも娘との定期的な交流もあるという、悪くない提案だ。大切な人を失うよりもどこかで生きていて、親子の立場からすれば、たまに会いに来てくれる方が親子双方ともに心の拠り所になるのは間違いない。
「約束は守れるのですか? 櫻子ちゃんと会わせることは確約できますか?」
「もちろん。私のプライドです」
『この男手段は選ばないときもあるが、約束は必ず守る男だ』と夏見。
「光栄です」と時の翁。
『しまった心読まれたか』
そう思って夏見は心を無にした。時の翁や時巫女は読心術の能力を持っている。下手に心の中で考え事をすると心中胸の内を知られてしまうのだ。
「櫻子ちゃんは?」と顔を向けて彼女の意見も訊く。
「あーしはメチャ良くない? って感じ。年に二回だけど、会えるって分かっていれば安心だもん。墓参り行くよりは、本人と話せる方が良いっしょ」
ギャル語ではあるが、実直な彼女の気持ちと思われる意見だ。
春夫は「うんうん」と頷くだけだ。確かにまだ十代の娘を残して永遠の別れをするのは心残りになる。年に数日でも元気を確かめられるこの選択は彼にとっては必須であり幸せだ。
その時麿緒がスタスタと櫻子の前に飛び出して、予想外の行動をした。
「櫻子ちゃん、よかったらウチにおいで、一緒にこの先の暦人の生活を頑張ろう!」
両手を握って、熱い視線で彼女の瞳を見つめる麿緒。暦人同士の心意気だ。
「熱血だな」と夏見。
夏見の横に自然と並ぶように立つと栄華は、
「男気ね」と微笑んだ。
「わかるの?」
夏見の言葉に「もうあなたの妻を何年やっていると思っているの。男の人の優しくて、馬鹿な部分よ」と頷く。
「そうだね」と顔を赤らめる夏見。
「じゃあ、決まりだね。春夫君。櫻子ちゃんはウチでお預かりするね。立派な大人になって、暦人として独り立ちできるまでちゃんと見守っていくから」
なんと桜の洞からスーツ姿の麿緒の父、加太織が出てきた。
「加太織君!」と春夫。
「お父さん!」と麿緒。
「弓も、機織りも我が家で教えるよ。大丈夫。ピアノは妻の知人でもあるそこのピアニストさんにお願いしようかな? 時巫女と思川家の分離作業で有志が集わなかったときは我が家で面倒見るから」
加太織は台詞とともに栄華にお辞儀をした。
「ピアノ?」と栄華。
「櫻子ちゃんのお母さんは、ウチの妻の従姉で、生前、陽河紅葉というステージネームで活躍したピアニストなんです」と加太織。
「陽河紅葉……。あのシューベルトが得意だった、アメリカ帰りのですか?」
「はい」
「うそ? お母さんってそんな有名人だったの?」と櫻子。
「ええ、多分、演奏者名鑑にも名前が載っているくらい有名な演奏家よ。確か、全米コンクールで受賞しているはず」と栄華。
「そんな凄い人だったのに、私、どうしてこんな何だろう?」と半泣きの櫻子。
知らぬ間にギャル語を話さなくなった櫻子がいた。
春夫はおちゃらけるように「僕に似ちゃったんだね。でもお母さんに似たのが外見で良かったよ。僕にルックスが似たら悲劇だ」と櫻子の頭をポンポンと撫でる。
「それなあ」とおちゃらける櫻子。
「そんな訳で夏見さん。香澄流の家と春夫さんは私がお預かりします。これは多霧の時巫女にも了承を取っています。いま娘さんにも了承を頂けましたのでよろしいですよね」と時の翁。
「よろしいも何も、時間管理人と身内のOKが出ているのならオレが口を挟む必要はないですよ」と納得の口調で返す夏見。
「それは良かった。では近日中に春夫さんをお迎えに上がります。その旨は追ってご連絡いたしますので」
そう言うと時の翁は霧がたちこめる中で姿を消した。
「良かったね、櫻子。大好きな王子様と一緒に暮らせるよ」と春夫は意味深だ。
「えっ?」と麿緒。
春夫はひそひそ話をするように、「実はね、君に一目惚れだそうで」と麿緒に耳打ちをした。ただし意味深に櫻子にわざと聞こえるようにだ。
「お父さん! マジ、イミフだし」といつもの口調が戻る櫻子。しかも赤ら顔だ。
春夫は櫻子の肩を叩くと「櫻子、お父さんは順番が逆でも怒らないから。むしろ麿緒くんなら歓迎だ。ぜひおやんなさい」と笑った。
「何をだよ」と言ってから、櫻子は赤面したまま俯く。そして「普通、親が言うか……そいの」ともごもご口ごもる。
「新しい生活が始まりますね」と歌恋。
その言葉に象徴されるように紅葉沢の紅葉も色を変え始めるだろう。紅葉の花言葉は「美しい変化」。新しく始まった二人の生活と印旛家の変化。それを噛みしめながら全てがハッピーエンドに収まった今回の念動隧道探検旅行だった。
(了)
註 銅鏡に関する情報の一部は【伊勢神宮の成立と内行花文鏡】(https://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/1606/index.html)の画像を参考にさせて頂きました。