【4】
ノルにとって『生』とは、『できれば生きていたいけれど、死んでしまうのなら仕方ない』程度の執着だ。
しがみついてでも生きようとは思わないが、痛覚は正常なので痛いものは避けたい。
ノルにとっての行動範囲は与えられた部屋ではなく、手が届く部分だけ。手が届くところに誰かのぬくもりがあり、会話がある。ノルにとって『客をとる』のは誰かがやってくる機会でもあるので、嫌ではなかった。
『厄介』な客を多く宛がわれる中、痛くされないようにと相手を導いた。それ以外は苦痛とは感じなかった。
ノルにとってはそれが居場所。そうしていれば生きていける。
持っているのは自身のみ。この身で生きていけるのならば、差し出すのは当然なのだ。
この感覚が少しおかしいのかもとも気付いていたが、幼い頃からそう思い、育ってきたノルにとって、どうやって変えていいかもわからない。
この身には価値がある。
カニーンが言っていた。価値を見出してもらえるから、客もノルを指名してくれる。
娼館の女将も言っていた。追い出さないのはノル自身に利用価値があるからだと。厄介な客を嫌がりもせずに受け、年のわりに成長が遅いので子を産める胎もまだ持たない。
ここで優しくしてもらえるのも、そうやって利用価値を育てているのかもしれない。
(――それなら、とてもいい付与価値ではないかしら)
そっと目に触れる。
あれもこれも、きっとノルの持つものを把握していないから、主人はノルをただ放置しているのだ。良い服、良いご飯、暖かな場所。どうあれここは幸福で、このままではノルの身に余る。
ならば幸福の価値は、この身に持つものでしか払えないのだ。
本当は、ノルは知っている。名前も姿も身分もわからないけれど、自分を買った主人が誰かがわかっている。けれどノルには知られたくないようだから、ノルも気付かないフリを続けているのだ。
この人は大丈夫だと、心が無意識に安心している。
あたたかくて大きな手を覚えている。あの手に触れたくて偶然を装ったが、男はノルには触れてこなかった。
そういう事をする為にノルを買ったのだと思ったのに。
主人が何を考えているかわからない。メイドに『様』をつけて呼ばせて、こんなに好待遇にもてなして。
わからないけれど、ノルは安らぎを感じている。
何かしたい。だから、必死に相手を務めたい。そう思うのに、やっぱりノルは楽しんでばかりいるのだ。
ポン、ポーン。と音が鳴る。ノルが話して、相手が返事代わりに音を鳴らしてと、不格好だが共に音楽を奏でているようで、二度と聞けない旋律を楽しむ。
(ああ…心も弾むわ)
「え…?」
つい、うっかり瞼を開いていた。目を開いても閉じても真っ暗なので、うっかりは今までもあった。目元のレースはその際に焦点の合わない瞳を見せない為だった。
けれど、何かが浮かんでいる。ポン、ポーンと音がするのに合わせるように、何かが視界に少しだけ浮いて見える。
「……?」
戸惑ったような音が聞こえた。
「あ…ごめんなさい。なんでもないんです…」
瞼を下ろすとしっかりと暗闇が落ちた。ならばあれは目を開いていたのだろう。
(何かが見えたという事なのかしら…)
だがノルは『視る』事がどういうものかがわからない。心臓が高鳴る。けれどもう少しちゃんとわかるまでと思い、秘密にする事にした。
イエスは音を一つ。
ノーは音を二つ。
ノルは喋れても書く事が出来ない。だから単語でもうまくわからない。毎日の日向ぼっこの時、お世話係にせがんで単語を教えてもらった。
こういうもの、を説明し、単語を教えてもらう。書けないので記憶力に頼るしかなく、一日で覚えられるのは数個が限界だ。その単語を、今度は主人に伝えて音にする。単語を覚えて、音を覚える。
使えるのは圧倒的にイエスとノーばかりで、しゃべるのはノルだけだが、大変だが楽しい。勉強なんて始めてだから、相手がいなくなってもノルは音を弾いて復習した。
脳が煮えてしまいそうなほどにフル回転している。大変だ。間違えってはいけないと言うプレッシャーもある。けれど、やはり楽しいのだ。
そしてもう一つ。ノルを心弾ませた事がある。
そっと目を開く。すると、ふわふわと浮かぶ何かがある。暗闇しか知らないノルの中で、初めて訪れた色。
見続けると疲れてしまうのですぐに目を閉じてしまうが、音と共に目を開くとやはり暗闇に浮かぶ何かがある。
(きっとこれは妖精だわ)
ここに来て幸せな事が訪れていた。浮かれた思いが妖精眼を授けてくれたのだとノルは解釈した。
音が弾むたびに気持ちも弾む。
(これで私もこの方の役に立てる)
それが嬉しくてたまらない。
(妖精眼を持つものはとても貴重だから、)
ポーン。と一層浮かれた音が出た。
(この方も私で、たくさんのお金を手に入れられるわ!)
ノルはそうして生きてきた。
だから、そうして生きる以外を知らない。