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月の蘇る-2-  作者: 蜻蛉
第九話 虚言
37/60

7


見開いた目で、龍晶は兄を凝視していた。

今聞いた事が信じられない。我が耳を疑い、そしてこれが現実である事を疑った。

「陛下…今、何と…!?」

思わず聞き返して、そして猛烈に後悔した。

兄の非情な眼光に射竦められて。

「いえ…失礼致しました。桓梠殿、御無礼をお許しください」

桓梠は軽く躱したが、王の目は変わらなかった。

この場での手打ちにならないのは、朔夜が居るからだろう。

後に何が待っているか、あまりに判り切っている。いつもの事だ。

だが麻痺できぬ程の恐怖。龍晶は己の顔が青ざめているのを感じながら、どうする事も出来なかった。

「龍晶」

不意に小さな声で呼ばれて振り返る。

朔夜もまた、龍晶程では無いにしろ不安そうな顔でこちらを見上げていた。

「大丈夫だ」

眉根に皺を寄せる。

目線は桓梠へ。怯える小動物のように。

その桓梠は、見下した笑みで朔夜を見下ろした。

「久しぶりだな、月よ。とは言え、記憶を失ったというのは本当らしいな」

そうでなければ、憎しみに駆られて即座に斬りかかっているだろう。

だが今は龍晶の背に隠れるようにしながら見上げるだけ。

桓梠は二人に近付いていった。

朔夜が龍晶の腕を握る。その手から、不安が伝わってくる。

「大丈夫だ」

龍晶はもう一度囁いた。

殆ど泣きそうな顔で見てくる。龍晶に不安が過ぎった。

「思い出したのか?」

首は横に振られた。卑劣だとは思いつつも、龍晶は安堵した。

思い出さなくて良い。繍の事も、何もかも。

そのやり取りを間近で見た桓梠は、朔夜に手を伸ばし、顎を持ち上げて己の方を向かせた。

抵抗せず、微かに震えながらこちら見る涙に濡れた目。

「あの時と同じだな」

初めてこの瞳を見た、あの地下牢で。

己の罪も解らぬまま許しを乞う子供。

「お止めください、桓梠殿」

龍晶が朔夜を引き寄せ、桓梠の手が離れた。

「今こいつは記憶を失って、十にも満たない子供同然になっているのです。あまり怖がらせないで頂きたい」

初めて桓梠と正面から視線を合わせた。

兄の様な眼の冷たさに一瞬気圧されそうになった。が、今は負けられなかった。

朔夜が手元に居たから。

「これは失礼した。つい、まだ私の物だと思ってしまいましてな」

桓梠が皮肉な笑いを口に浮かべたまま言った。

「…私の物でもありませんが」

龍晶は呟くように言った。

桓梠は踵を返し、王に笑いながら告げた。

「実に愉快な趣向でした、陛下。私の月は随分と丸くなっておりますぞ」

「ほう?そなたの元にある時はもっと鋭かったのだろうな」

「少なくとも、今よりは。まぁ良いでしょう、今からどう形を変えてゆくかとくと見物させて頂きましょう」

「そやつがそなたより上手く扱えるとは思えぬが、力を貸してやってくれ」

「御意」

王は傍らの潘庸へ声を掛けた。

「悪魔殿を休ませて差し上げろ」

「畏まりました、陛下」

潘庸が朔夜へと向き直る。

「ご案内致しますぞ。こちらへおいでなさい」

朔夜がまた不安げに龍晶を見上げる。

潘庸に預けるのは気が進まぬし、共に行ってやれば良いのだろうが、龍晶にそれは出来なかった。

恐らく、兄はここに残れと暗に言っている。

朔夜一人をここから出さねばならなかった。

「大丈夫だ。お前の部屋へ連れて行って貰える。後で俺も見に行くから」

それでやっとのろのろと動き出した。納得はしていないだろう。

部屋を出る間際、あっ、と何か思い出して足を止めた。

その場に居る全員が朔夜を注視する中、彼は言った。

「王様、龍晶を家族に会わせてくれて、ありがとうございました」

皆が皆、呆気に取られる中、王だけが笑って返した。

「お安い御用だ悪魔殿。また何かあればそこの潘庸に言い付けると良い」

当の潘庸は一瞬ぎょっとした顔をしていたが、朔夜は首を横に振った。

「大丈夫。もう願い事は無いから」

出て行く二人を見ながら、龍晶はぼんやりと朔夜の願い事を考えていた。

本当は自分の家族に会いたいと言いたかっただろう。だが、願ってはならない事だと決めてしまっている。

それ以上の願いなど無いから、他にどんな望みも持てる筈が無い。

出来る事なら、もう一度記憶を全て無くさせて、両親に会いたいと無邪気に言わせてやりたかった。現実に会う事は無理でも、せめて望みを持つ事くらいは。

「本当に犬猫同然ですな。大したお人だ」

桓梠が薄ら笑いながら龍晶を見て言った。

龍晶にとっては皮肉でしか無かった。

「…御無礼を致しました」

心にも無い謝罪をして頭を下げる。

早く、ここから解放されたい。

だがそうはいかない。予想通りに。

「それで許されると思うのか?」

兄の声が近付く。頭を下げ続ける龍晶にそれは見えない。少し視線を上げて見る事も出来なかった。

王の足が視界に入った。その瞬間。

膝で、強かに顔面を打たれた。

続けて刀の鞘が腹部にめり込む。仰向けに倒れ、脇腹をまた蹴られた。

「少し褒められて良い気になるな。目障りだ」

足が、首を踏み付ける。

気道が塞がる。息が出来ない。殺される。

薄目を開ければ、真上に狂おしいまでに冷酷な肉親の顔がある。

自由になる手で足を押し退ける事も出来る。が、龍晶はそれをしなかった。

意識が遠退いた時、横へ桧釐が走り寄ってきて王に向け膝を着き頭を地面に向けた。

「どうかお許しください!どうか…!」

首にかかる重みが無くなる。

噎せて、何とか息をして、龍晶は桧釐へ声にならぬ声を発した。

「やめろ…!」

目を見開いて見返す従兄には構わず、龍晶は態勢を直して桓梠へと土下座した。

その頭を、王が踏み付ける。

痛みも屈辱も感じなかった。何もかも麻痺していた。

それで良かった。

「もう宜しいです。お手をお上げ下さい」

素っ気ない桓梠の言葉で漸く解放されて、ふらふらと立ち上がる。

「さっさとその汚い顔をここから出せ」

叩き付ける兄の言葉を受け、桧釐を伴って部屋を出た。

回廊を歩き、後ろの扉が閉まる音を聞いて。

足が崩れた。

「殿下!」

桧釐に支えられる。その支えだけでは足りず、その場に座り込んだ。

膝が笑っている。膝だけではなく、全身が同様だ。

意に反して涙がぼろぼろと落ちた。

怖かった。ただただ怖かった。この恐怖だけは麻痺してくれない。

桧釐は何も言わず龍晶を抱え上げ、人目に付かぬ建物の陰へと運んだ。

壁に背を凭れ、壊れた人形の様に手足を投げ出して。

何の感情も無く、涙だけ垂れ流しながら、放心した。

「殿下」

穏やかに桧釐が呼び掛ける。

それに視線を向ける事も無かった。

構わず桧釐は続けた。

「あなたの言う通り、確かに怖いお方でした。よくこれまで我慢されましたな」

瞳が少し揺らいだ。

漸くそれだけだが正気が戻ってきた。

「だけど、あのまま本当に殺されるおつもりだったので?」

問いにも反応は無く、流されたかと桧釐が思った頃、小さな、聞き逃してしまいそうな程小さな声で反論が返ってきた。

「あの人は俺を殺さない。まだ利用価値があるから。殺されそうだったのはお前の方だ」

「そうなのですか?」

驚いた風を作って見せる。

自覚はあった。確かに怒りがこちらに向いてもおかしくなかったし、この首を刎ねる事など王には羽虫を殺す程度の事だろう。

そうはならなかったのは、客人の手前だったという事もあるだろうが、桧釐にはそれ以上察し難い。

そういうものを全て引っ括めて龍晶はやっと桧釐を一瞥し、袖で顔を拭った。

「あーあー、子供じゃないんですから。お召し物が」

「どうでもいい」

袖は涙と血で汚れた。

桧釐は呆れ混じりの優しい溜息を吐いて、懐紙を差し出した。

龍晶は俯きながら受け取り、それで顔を覆った。

鼻と口の中を切った傷の出血が止まらず、懐紙の下半分はみるみる赤くなってゆく。

紙から血が溢れ滴り出しても、俯いたまま顔を覆って動かなかった。

「ずっとこうして来たんですか?」

全てを失ったあの瞬間から、こうして黙って独りで耐えて。

それ以外にどうしようも無かった。

嘲られるか同情を買うだけの、惨めで愚かな自分。

厭だった。嫌悪してもし足りない程に。

そしてまた殴られる。それが愚かな自分への当然の報いだと思わされるまで。

「何度もこのまま殺してくれれば良いと思った」

先刻の、あの瞬間だって。

ここで終わりにしてくれたら、どんなに救われるかと。

それだけを思っていた。

「だが解るだろう、あの人は甘くはない」

生きて、無限に続く地獄を味わえ、と。

それがこの血に掛けられた呪いだ。

「死んでは何もかも終わりですよ」

「終わらせたいんだ」

「そうはさせません。俺はあなたに誓いました。お忘れですか」

何があっても生かしてみせる、と。

やっと龍晶は顔を覆っていた手を取った。

綺麗さっぱり洗い流された感情は、差し出された希望にも半信半疑で。

しかし絶望だけしか見ない瞳では無かった。

「桧釐」

「はい?」

「仇敵に膝を折らせる真似をさせて済まなかった」

思わず桧釐は吹き出した。

むっとする顔を両手で包む。

「良いんですよ。あなたの辛さに比べれば、何でもありません」

また、涙が一粒溢れて、桧釐の掌の中に吸い込まれた。

これまでとは違う涙。

ずっと独りで背負ってきた、声にならぬ悲鳴だ。

もう独りではない。伝わるだろうか。

「ついでです。気の済むまで泣きなさい」

胸の中に頭を抱え込む。

噛み締める嗚咽。手は衣を掴んで握り締めていた。

ぎこちなく背中を摩りながら、桧釐は不幸が襲いかかる前の幼かった彼を思い返していた。

目前は希望で溢れていたのに。

突然に幸せな日常は崩れ去り、絶望と屈辱の谷間に蹴落とされて、上を見上げれば辛いばかりで。

ずっと目を閉じ耳を塞ぎ蹲って、ただただ終わりを待っていたのだ。

ならば、教えてやりたい。

谷底から這い上がる事が出来ると。そしてその先に、陽の当たる場所がある事を。

生きていても良いんだと。


いつもの光景。

厩に隣接されている、佐亥の小屋の、いつも自分が使っている部屋。

朝陽が窓から射し込んでいる。あまりに見慣れた、日常。

やっと、戻ってきたと思えた。

自分の足でここへ来た覚えは無い。桧釐が運んでくれたのだろう。酒も飲んでないのに理性も意識も吹っ飛ぶとは何とも可笑しい。

頭が様々な現実を理解する事を拒んでいたのだろう。疲れ果てた。考える事に。

だが現実は何も変わらない。起き上がればまた、背負うに重過ぎる問題が襲ってくる。

龍晶は暫くぼんやりと天井の穴を見詰めた。

昨日など振り返りたくなかった。明日など考えたくない。そして漠然と今がある。

八方塞がりの時間を揺蕩っている。

いつも、こうだ。

逃げたくて逃げたくて堪らない癖に、逃げる勇気は無い。

扉が開いて軽い足音が近付いてきた。

ほっと息を吐く。

他の誰でも無く、側に居て欲しいただ一人。

「祥朗」

半身を起こして弟を迎えた。

祥朗は真っ直ぐ、起こした体に抱き付いてきた。

体に顔を埋める。

腰に回された腕の力に、自分がどれだけ心配させたかを龍晶は知った。

「ごめんな」

祥朗が顔を向ける。泣きそうな、くしゃくしゃな顔。

その表情で不意に朔夜の事を思い出して、あいつにも会わなければと思い直した。気は進まないが。

もう暫し、何もかも忘れていたい。

祥朗の頭を撫で、それだけで癒される傷を感じながら、このまま時間が止まれば良いと思った。

その願いを破って桧釐がのっそりと顔を出した。

つい、あからさまに嫌な顔をしてしまう。

相手は苦笑いして戸口から声を掛けた。

「お邪魔して悪うございますが、そろそろご起床なさったらどうです?」

「余計な世話だ!」

噛み付くと、手元の祥朗が驚きで目を丸くしている。

あー!と額を押さえて呻き、祥朗を立たせて自らも寝台を出た。

「と言うかアレだ桧釐、余計な世話をさせた様で悪かったな。もう金輪際こんな事はしなくて良い」

思いっきり皮肉っぽく礼を言って相手の口を閉じさせたかったが、それで黙ってくれる従兄弟では無かった。

「俺も貴重な体験をさせて貰いましたよ。まさか泣き疲れて寝ちまったお子様をお家まで連れ帰るとはね」

要するにまんまそういう事なので噛み付きようが無い。

憤懣やるかた無い龍晶は、せいぜい擦れ違いながら桧釐の足を思い切り踏んでいくぐらいしか出来なかった。

尤もやられた方は良い迷惑である。

「痛っ…ちょ、本当にお子様じゃないんだから…っ殿下!!」

いくら叫んでも祥朗がけらけらと笑うだけである。

龍晶は佐亥に案内されて食卓へと着いていた。

昨晩佐亥と祥朗が作っていた料理が並んでいる。

二人は龍晶の好物をと思って作っていたが、龍晶にとっては二人の作る物なら何でも好物だ。どんなに金を懸けた馳走より美味いと思う。

「佐亥、済まなかった。これは昨日食べるべきだったのにな」

佐亥には当然、素直に謝る。

「そんな事は気にしていませんよ。何より殿下がお戻りになられて良かった」

「また余計な心配を掛けたな。重ね重ね済まなかった」

「また、謝らないでください。ほら、早くお上りになってくださいよ」

佐亥に勧められるまま箸を取る。

隣に祥朗がやって来て座り、にこりと笑う。

笑い返して、祥朗といただきますを言って遅い朝食を始めた。

桧釐もやって来て向かいに座り、湿気た顔で口を開いた。

「幸せな時間に水を差す様で申し訳無いんですがね殿下」

「なら黙っておけないのか」

「残念ながら黙っておける事じゃないから喋るんです。昨晩、桓梠殿が殿下を訪ねてここまで来ました」

龍晶は箸を止めた。

「何故?一体何用で」

「殿下はお休みになっているとすぐに追い返したので何とも言えませんが。しかし王が昨日したかったのは殿下を殴る事では無かった筈でしょう?」

「…まぁな」

あれは突発的な出来事で、王には他に目的があった。

龍晶に悪魔の使い方を習わせるという目的が。

「桓梠殿は王の命令を受けて殿下を訪ねてきたのでは?」

「そうだろうな」

「どうするおつもりです?」

「桧釐」

皿に料理を取りながら切り返す。

「どうして繍の人間が他所の王の命令を聞くのだと思う?」

桧釐は咄嗟に答えられず、黙々と口を動かす龍晶をまじまじと見つめた。

「答えられないか」

飲み込んで龍晶が責めた。

「いえ…どこまで口にして良いものかと迷いまして」

「ここに外聞は無い。思う事を言え」

「では…」

それでも躊躇いながら、桧釐は答えた。

「この国は、繍を属国とするつもりなのでは?」

「従わせるとは限らないが、それに近い状態なのだろう。水面下で、誰にも知られる事なく」

「周辺諸国には知られたくないという事ですか」

「兄はあの男を裏切る事にしたらしい」

「あの男?」

桧釐の疑問には応えず、龍晶は腕を組んだ。

「本人の知らぬ所であいつの立場が難しくなっていく。…まぁ、何も知らずに戦わされ続けるだけだろうが」

「朔夜ですか?」

龍晶は頷き、食事を再開させた。

「どの道、俺が兄のやる事に介入する隙は無い。俺はあいつを操らなければならない…その方法は訊かねばならんだろう」

「殿下」

堪らず桧釐は龍晶の言葉を止めた。

佐亥も祥朗も、不安気に龍晶を見つめている。

「…お前達の言いたい事は分かる。だけど皆が生き残る為だ。分かってくれ」

「分かっております、殿下」

佐亥が静かに応えてくれた。

祥朗はまだ心配顔で龍晶を見上げていたが、やがて俯いた。

「だけどね、俺の心配は殿下、あなた自身ですよ。佐亥殿も坊ちゃんもそれは同じでしょうよ」

桧釐がぶっきらぼうに肝心な所を告げる。

それも龍晶は分かっている。

だが、どうしようも無い所なのだ。

「俺が無茶をするからとお前は怒ってたろ?なら無茶しない方法を知って何が悪い?」

「…そりゃ反対はしませんけどね。ただ…」

命を落とすか、精神を殺すか、その二者択一。そんな事は彼を案ずる家族の前では言えなかった。

「食ったら今度は俺からお客人を訪ねよう。お前はどうする?」

先刻とは逆に尋ねられて、桧釐は溜息混じりに答えた。

「お供致しますとも」


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