【八十五点】正義は転じても正義になる
――事実は小説よりも奇なり。
嘗てとある国の詩人が残した古の言葉を、悟は脳裏に思い起こした。
過去の人間が残す名言は多くの人間に当て嵌まることがある。それは訓戒であったり、慰めであったり、激励であったり。
悟の場合は様々な可能性を考慮させる名言であったが、人によっては絶望の言葉になっていたことだろう。
結局、悟はあの場にて従う道を選んだ。四家のある程度余裕のある生活を捨て、彼は敵側と言えるだろう勢力に与することを選んだのである。
勿論、部下達を家に帰すことを彼は怜達に頼んだ。必要なのは悟一人であって、他の部下達は関係無いだろう。このまま帰し、皆が逃げるだけの時間を与えてはくれないだろうかと悟は頭を下げ続けた。
本当に部下達が逃げ切れるかは解らない。何せ彼等は本家の場所を知らないのだから。
ただの人間が多くを占める集団は、その殆どが本家が所有する別の家で育てられた。
彼等は兄弟であり、姉妹であり、家族である。例え歯車としての役割しか有していない存在であれど、双方の間にある感情は嘘で塗り固められていない。
故にこそ、襲われれば家族を救う為に彼等は抗うだろう。それが無謀の極みだとして、だから見捨てても良い訳ではないのだと逃げ切れない仲間を救うことに尽力する。
悟の決断は部下達を失望させるには十分な理由にはならない。そもそもが現状の四家が自分達の都合によろしくないと思っていたのだ。
勢力を変えて四家を滅ぼすとするなら、寧ろそちらの方が都合が良い。
『従うか。 なら、後は彼の承諾を得ろ。 彼女がそうしようと言っても、私が許可を下しても――やはり彼の許諾が無ければ我々は最後にお前を殺すことになる』
「……桜・俊樹殿ですか」
『彼女は理で彼を説くだろう。 それでも、あの子は感情で生きている。 理不尽に晒された人間が元凶の家の仲間を許すかは、お前の誠意次第だ』
言って、怜に変われと東雲は告げる。
差し出した端末を受け取った彼女は、東雲から現在地を聞いた上で回収に向かうと告げて通話を切った。
周辺は静かで、言葉一つも無い静寂は耳に痛い。まだ深夜に至っていないにも関わらず、静かな公園周辺に人影は見受けられなかった。
と、そこで氷床の上で最後の気絶者が身動ぎを見せる。痙攣し、眉を寄せて、夜空が見える位置でたっぷり時間を掛けて瞼を開けた。
瞳に光は差し込まず、復帰の遅さに死に掛けの弊害を皆は感じる。微睡んでいるようにも見受けられない様子は、一種異様な状態であるとも言えた。
「起きろ。 怪我は治したぞ」
「…………」
悟は若干の驚きに包まれた。
冷酷無情な氷の女帝。その肩書故の冷たさを、彼に対して向けられていない。言葉自体は先程と変化は無い筈なのに、明らかな優しさが滲んでいた。
瞳に理性の火が灯る。肉体に力が巡る。上体を起こした俊樹は、首や腕を回して自身の状態を確認してからぼやけた思考を戻す為に頭を軽く自身の腕で小突く。
あー、あー、と寝起き特有の低い声を調整していると、怜が氷のカップを彼に差し出す。
中身はなんてことのない水であるが、喉の渇きを覚えていた彼は一気に水を全て飲み込んだ。――そして、そこで漸く悟達に視線を向けた。
「状況の説明をしてもらっても良いか」
「端的に言えば、君とそこの男は相打ちになった。 私は下から彼の部下達を無効化しながら様子を伺っていたが、中々に良さそうな思想を持っていたのだよ」
「あんたが言うと何処か怪しく感じるな」
「こればかりは真実だ。 その上で君に尋ねるが、彼と戦ってどう思った?」
「どう……どう、か」
腕を胸の前で組む。
あの時、戦いの中で不快感は無かった。そもそもそんなことを考える余裕が無かったとも言えるが、悟が向けた視線には同情が宿っていたのを覚えている。
悟は俊樹に起きた出来事を理不尽だと理解しているのだ。理解した上で、それでも自分の未来の為に生贄に捧げることを良しとした。
その点だけで見れば業腹ものである。結局変わらないではないかと詰められても文句は言えない。
しかし、同情してくれている時点で他とは違う。彼は彼なりに、そうしなければならないどうしようもない理由の下で俊樹と戦った。
「あんた、どうして俺を襲った」
「私も襲われたが?」
「裏ボスと激突したようなもんだろ。 あんたは襲われる側じゃない」
怜の文句をさらっと突き返し、目を悟に向ける。
悟もまた俊樹の瞳を見た。数々の理不尽は人を人間不信に陥らせるには十分であるのに、俊樹の目に濁りは含まれない。
灰色の瞳は燃え尽きた灰のようで、しかしそれは再誕する不死鳥の瞳だ。
何度折れようとも尽きぬ炎がその奥で燃え盛っている。暗闇を照らす道標としての聖火は、今この瞬間にも存在を主張していた。
美しさすら伴う光に悟の目が焼かれる。数々の弱音が情けない戯言になり、肉体の性能に対する嘆きに自己の憤怒を覚えて仕方ない。
あの目を前にして、弱い己を見せることを激しく後悔した。
湧き上がっていく羞恥心に熱が上がることを自覚しつつ、悟は俊樹に正直に全てを語る。
嘘などつかない。つくことそのものが失礼だ。
彼を前に不忠者になることを選びたくはない。忘れるなかれと何度も何度もあの目の炎を胸に刻み、全てを告白した。それは後悔に塗れた悔恨者のようで、見捨てられたくない子供のようでもある。
部下もまた、初めて俊樹と顔を合わせた。悟程に彼の全てを見ることは出来ないが、それでも仄かに感じる覇者としての気配に頭を垂れる。
「――以上が、私が襲った経緯です。 御処分を望まれるのであれば、如何様にも下してください」
死にたくないと思いながらも、もう一つの意思が死を望む。
情けない男など死んでしまえ。お前のやったことは、この炎と顔を合わせる資格が無いないことだ。死をもって償っても負債は残り、死後にもお前は苦しみ続ける。
そうだとも、自身はそれだけの真似をした。激怒される程度であれば軽過ぎる程に、神聖なりし炎を穢したのだ。
もしかすれば炎が喪失していたかもしれない。その結論に至った時、彼の心に極寒の風が流れ込んだ。
一方、俊樹は全てを聞いて複雑な思いを抱く。
渡辺・悟と名乗った男は俊樹よりも三歳程度年上の人物だった。若さに身を任せて馬鹿な真似をしても良い年齢で、家の環境を改善しようとしている。
それがより上位に至って権力を得ることというのが何とも脳筋じみているが、正攻法として間違ってはいないだろう。
四家の人間は屑ばかり。そういった考えは、悟を前にして揺らいだ。
思えば以前にも性格は破綻していても四家の現状を嫌っている人物は居た。若草色の女は、およそ不幸な生まれと生活を強いられた人物だ。
彼女と目前の彼のように、四家の中にも現状に憂いや怒りを宿した者は居る。それでも自身を脅かすのであれば容赦はしないが――――目の前の真に悔恨を抱く者にまで刃を向けるのは正しいことには思えない。
「……決めるのは俺なのか?」
「無論。 後継者としての初の仕事だ。 したくないだろうがな」
「まったくもってな。 ――あんた、俺の為に命を捨てろと言われれば従うのか」
「無論で御座います」
悟は迷わなかった。
迷ったらその時点で自身の情けなさが増すばかり。男は何時だって強い自分を思い描くものだから、そうした自分に己はなりたい。
迷いなど言語道断。濁らせた言葉に真は無い。真摯に、誠実に、悟は俊樹に忠を誓う。その様に頬を引き攣らせる思いを感じつつ、俊樹も決断した。
毒をもって毒を制するのは最初からだ。ならば、新たに毒を増したところで誤差でしかない。
「なら、俺の為に何かしようと思うな。 お前はお前がしたいことをしろ。 その上で俺達の下で働け」
「――ッ、!」
俊樹自身、過剰な責任など背負いたくない。将来的には一般人としての生活をしたいが為に、逃げのように彼を仲間に加えることを選んだ。




