【七十一点】出て来てはいけないもの
炎の質が変化した。
紅蓮の業火は青の鮮烈な色に染まっていき、しかしてパーカーの色だけは元の赤の状態を維持されている。
氷の槍は青の炎に触れた瞬間に溶け、元の形状に戻ることはない。
それだけに留まらず、彼の服を貫いて直接肌に接している剣も一気に融解が始まった。咄嗟に咲は剣を引き抜こうとするが、それは俊樹が左腕で掴むことで抑えられる。
掴む手は異常に強かった。素手であるにも関わらず、刀身は肌を傷付けることが出来ずに役目を急速に喪失させていく。
強い、強くないという次元ではない。これはもう強さを語る領域にあらず、進化や覚醒とは別種の変質性だ。
創炎に同様の力は無い。炎を出すことがまず有り得ないのだが、強さの加減を操作することも創炎には無い。
順当な強化ではないだろう。
咲は全てを手放して距離を取り、その間も噴き出る砂で彼をドーム状に包み込む。
殺すような真似をしているが、要は一時的な窒息状態による意識の喪失を狙ったものだ。
砂によるセンサーは今も生きている。これを使えば相手の生存状態も微細な動作で感知可能で、油断無く埋められた彼に意識を向けた。
暫くの静寂が続き、彼は微動だにせずに沈黙を貫く。その間にも考えるのは、やはりあの変化に対する結論。
――炎の質が変わった。あれはなんだ?
質が上がっているのは解る。より出力の高い、高火力の炎となっていた。
あの炎に迂闊に接触すれば氷はその存在を維持出来ない。相性による力関係が順当な形となり、逆転の目を失ったのだ。
あの氷は大英雄の嫁であった偉人の氷。本物であるとはいえないが、間違いなく力の一端を持つ強力な能力である。
その氷が破られた。考えられるのは、更に炎を引き出して強引に突破したことだ。
彼の保有する炎は大英雄の炎と同一だ。件のパーカー然り、嘗て彼が振るっていただろう証拠が随所に確認することが出来る。
「なら、今のは瞬間的な結果?」
呟き、脳は警鐘を鳴らす。
そうではないと本能は危機を今も発し、即座に今居る場所から離れろと叫ぶ。理性は勝てると囁くものの、この状況でどちらを信じられるかは明白だ。
戦いとは理性だけで進むものではない。同様に、戦いとは本能だけで進むものではない。
どちらも合わせ、適宜切り替えながら戦う。それをスムーズに行える者が戦上手であり、勝利を掴む者だ。
爆走するだけの車に回避など出来る筈もない。選択肢を増やし続けて対処を考えるだけでは攻撃にまで大きなラグが生じる。
そして彼女が選択するのは、常に理性。この状況で、この段階で、この条件で、彼女は自分が負ける確率は低いと思っている。
絶対とは言えない。必死になっても届かない可能性は十分にあった。
それでも、この状況で彼女は有利を取れている。幾分か手抜きされた条件とはいえ、言い出したのが敵側であれば文句を言われる筋合いは一切とない。
勝てる、と胸の何処かが判断した。それを果たして、理性的な判断によるものだと断じた咲は更に砂を集めて内部に到達するだろう空気の道を塞ぐ。
「これで私の――勝ちです」
勝利宣言。
その声を聞き、ハジュンは顔を顰める。
白い靄はもう殆ど消えようとしていた。換気口は今も全力で靄を外へと追い出し、周辺の視界を元に戻そうとしている。
状況は絶望的だった。周囲は破壊痕が目立ち、俊樹の姿は無い。
ハジュンが予想する限りは土のドームに埋められたのだろうが、脱出出来なければ人間は土の中で生きていくことは不可能だ。
呼吸が出来ない、身動きが取れない。人が人として生活していく上で欠かせない要素を排除された時、その末路は常に死だ。
彼女はそのギリギリで解除するのだろうが、彼が気絶している時点で勝敗は定まる。
その後で怜やオームが取り返しても問題は無い。これはルールの定められた戦いではなく、愚か者を捕縛する戦いなのだから。
一対一で戦わせたのは経験を積ませるのが目的だ。
それをハジュンは知っているから、そろそろ動くべきではないかと隣で様子を見ていた怜に顔を向ける。
だが、彼女はその表情を変えていた。正確に言えば、オームもまた冷静な顔を変貌させている。
複雑だった。喜びを含んでいるような、悲しみを含んでいるような、驚きを含んでいるような。
驚きの要素が一番前に出てはいるものの、他とて少ないとは言えない。オームはその中でも喜びを前面に押し出していて、頬にも赤味が差している。
「どうかしたのですか、怜様」
「ああ……ああ。 いや、なに。 あんなに出て来るつもりはないと言っていたのに、やっぱり自分の子孫には甘くなるのだなと思っただけさ」
「出て来るつもりはない?」
『――おお、御方よ! 今日まで生き延びた甲斐があった! 再会の可能性など、万に一つでしかなかったのに!!』
オームはもうハジュンを意識の外に置いていた。問いを投げても言葉は返ってくることはないだろう。
だが、彼女が喜ぶ要素をハジュンは知っている。知っているから俊樹達を呼んだのだから、知らない方が逆に不自然だ。
更に言えば彼は俊樹が隠している情報も知ってしまった。その全てを集約して結論を出すとすれば、出て来てはいけない人物が表層に出て来てしまったのだということになる。
ハジュンは顔を青に染めた。そんな馬鹿なと驚愕を露にして、突然軋みを上げた胃を片手で抑える。
そんなことは有ってはいけない。そうすることは最善とは言えない。
彼は既に死人だ。死人が、過去の人間が、未来の若人にあれこれと口を出すような事態になるのは健全であるとは言い難い。
本人もこれが普通だとは思っていないだろう。そうすることが最悪手であると理解しながら、それでも彼を守る為に表に出た。
結局、この戦いの根本にあるのは利権なのだ。俊樹はそれを望んでいないのに、唯一無二の資格を手にしていたいたから狙われることになった。
超人にも心がある。言ってしまえば、所詮は簡単な話なのだ。
土のドームに衝撃が走る。
一回の衝撃だけでドームに罅が走り、咲が慌てて修正を行う前に二発目が内部から放たれた。
今度は罅だけは終わらず、側面が大きく崩れ落ちる。崩れ落ちた内側から青い印象的な炎が漏れ出て、赤いパーカー擬きの炎を纏った人物が歩み出た。
その男は俊樹だ。見た目は一緒で、咲も姿が変わったとは思わない。
それでも纏う雰囲気が異なっている。鋭さを持ち、放たれる微細な圧は静かながらに濃密な熱を感じてしまう。
強者。端的に表現するならば、今の彼にはこの二字が似合う。
俯かせていた顔を持ち上げ、そこで初めて彼女は俊樹の鮮烈な青の瞳と激突した。
『まったく、まったく。 出て来るつもりは無かったのだがな』
「……貴方は、どちら様ですか」
低く投げられた言葉。俊樹の声というには、強者としての貫禄に塗れている。
強いなどという言葉すら今の彼には当て嵌まらない。――これぞ正しく、絶対強者が如き世界の覇者。
誰一人並ぶ者など居ない、世界に唯一つの玉座に座ることを許された者。
偶然によって生き長らえた魂が、彼を守る為に表に出ることを選んだ。こうなったのは、一重に自分の身内の所為であるが故に。
『嘗てはレッドと名乗っていた。 今は、確か大英雄だったか? 過分な評価なことだ』
「――――嘘です」
『嘘なものかよ。 でなくば、お前はこの状況をどう説明する?』
俊樹の顔が笑みに彩られる。
爛々と輝く瞳に戦闘に対する忌避の心は無い。何処までも闇が似合わぬ男は、俊樹と似ていながらも致命的に似ていなかった。
人の性格はそう簡単に変わるものではない。ましてや、自身の掲げる思想を芯にしている者は余計に頑固な性格をしているものだ。
俊樹と目前の男は違う。直感がそれを確信させられ、言外の真実に背筋が震えた。
これが俊樹が隠したかった情報。炎を自由自在に生み出し、無限に強くなることが出来る理由。
諦めなければ、何時か絶対に勝利をこの手に掴むことが出来る。
言葉の体現者が今、彼女の目の前で敵として立ちはだかった。




