【五十点】馬鹿は死んでも治らない
「――……ッフ!」
短い呼気。
それに合わせて足に力を込め、俊樹目掛けて飛び込んでいく。
語っていたお蔭で最初の激痛は多少は和らいだ。我慢出来る程であれば、彼女が突撃しない理由は何も無い。
怜は今度は何もしなかった。容易く無力化が出来るのに、彼女は敢えて俊樹に対応を任せるように腕を組む。
俊樹からすれば冗談ではないが、飛び込む彼女の短剣を再度掴むように動く。
だが今度は、それを見越した上で襲撃者は仕掛けていた。反対の袖からもう一本の短剣を取り出し、空いた片方の手で彼の胸を狙う。
片方を防いだとて、もう片方が対象を刺す。僅か一瞬の出来事で別の動きを見せる彼女は、成程常人には防ぐことは難しい。
咄嗟の判断だった。
反射的に飛び出たもう片方の手が下から何かを掬うように持ち上げる。
勿論、それで起きるのは本来微風だ。だが俊樹がした場合、それは風ではなく炎となって対象を襲う。
彼の炎の出現地点は肉体全てだ。何処からでも出て来るのであれば、足先から炎を出すことも可能だ。
さながら地面から生えるように出現する炎の壁。迫り出したそれを前に彼女は跳ねながら下がり、相手の次の挙動に注意を向ける。
「妻になるとか嫁になるとか言っていたクセに攻撃をするのかよ」
「愛情表現だよ。 互いに殺し合った方が本音で語れるでしょ?」
「狂ってやがる。 そこは普通に食事でもしながら話せよ」
「嫌だよ、そんな真似。 行儀良く座ってべらべら話すなんて、まるであの男の女と一緒じゃないか」
壁越しに言葉を送り合う。
彼女にとって、殺し合いこそが唯一の表現方法だ。全力こそが最大の敬意であり、手を抜くことこそが侮辱に当たる。
彼女は生まれた時点からまともな扱いを受けていなかった。教育は最低限で、残りは全て技術の向上に次ぐ向上ばかり。
倫理も常識も無視した生活では歪むのも自然だ。今の彼女に俊樹の求める常識的対応はまったくと期待出来ない。
彼女が愛情を知っているのは、死に逝く母親が無償の愛を注いでくれたお蔭だ。牢の中で糞尿を垂れ流しながら僅かな食料で生を繋いだ母親を、彼女は本当に大切に思っている。
故に、西条家を憎んで何時かは当主を殺そうとしていた。散々に罠に嵌め、なるべく情けなく死んでもらおうと考えていた。
されど、結果として彼女の努力は終わってしまった。
もう西条家の当主は居らず、正妻が生んだ子も死んだ。後継者と現当主を短い期間で喪失した今のあの家は、襲撃者達の存在が無ければ他に荒らされていただろう。
実験は襲撃者である彼女や、腹違いの子供にある。
ならば、実権を握る機会もある筈だ。正当な子孫とされる俊樹の番になれれば、妻として虐げてきていた者達を虐殺することも問題無くなる。
嘗ての父親がそうしてきたのだ。ならば、今の己が同じことをしても問題あるまい。
短絡的な考え方だが、少し前までであればそれは実際に出来ていたことだ。
「私は、君と一緒になって頂点になる! そして、私と母を虐げてきたあの家の連中を皆殺しにするんだ!!」
「――――そうかい」
咆える女。内に抱える嚇怒は俊樹にも解らないものではない。
あるいは、あの四家の誰かが自身の母の命を奪っていたとしたら。その時はきっと、彼は彼女に協力していたことだろう。
炎の壁が消える。女は目を瞠り、俊樹の纏う鮮烈な赤に思わず見惚れた。
絶対的な炎のパーカー。フード部分は無く、太腿までを隠す丈の長さを持った服は、女の求める極致を形にしたようだった。
勇気の象徴、万象の先導、紅蓮の大英雄。
その全てが女の胸を擽る。自身が抱く憎悪が酷く小さく思えてしまう程、彼の放つ炎は威風を持っていた。
「お前、自分が本当にしなきゃいけないことが解らないのか?」
「…………」
「俺を襲うより、求婚するより、先にやることがあっただろ」
端的な話だけで、ある程度女の人生を俊樹は察した。
察した上で、彼は優しく諭すことを選ばない。襲って来た相手に対して優しくする必要などないという常識を振りかざし、彼は常と変わらぬ態度を通す。
彼女は俊樹と番になることを優先した。それによって底辺から頂点に登り、上から負け組となった西条家を見下したいのだ。
蹴落とし、惨めな生活を送らせてから皆殺しにする。随分と呑気な復讐であるが、それだけ彼女の内側にある怨嗟は深い。
だがだ。俊樹からすれば、彼女は権力欲も高く見えた。
目的を遠くに設定してでも、彼女は上を目指している。それは結局、実次のように犠牲者を増やすことに他ならない。
「先ずは殺せ。 倒すべき者を、自分の親を殺した者を、今後自分の障害になる者を」
前へ、ひたすらに前へ。
彼女が胸の内に抱えた憎悪を消すには西条家を滅ぼすしかない。虐げた者達を纏めて虐殺して、最後に母親の為に墓を建てて真っ当になろうと努力するのだ。
それをせずに、先ず権力を求めるなど言語道断。己が真っ当に生きる為の基盤作りと考えることは出来るが、やはりそれは理性が先行している。
頭が回る時点で本気で怒ってはいないのだ。何処かで諦めを抱えて、妥協案で何とかしようとしている。
――なんだそれは。身内を殺した相手に、何故本気で怒らないのだ。
「俺が言ったところで説得力は無いだろうが、それでも言わせろ。 お前は、本当にこんな場所に居るべきだと思ったのか?」
覇気と共に投げ渡された問い。
それは精神的に歪みを持つ彼女に、一種恐ろしいまでに真っ直ぐ突き刺さった。
虐殺をする理由が自分にはある。そして今、虐殺をするに丁度良い機会でもある。この混乱が渦を巻いている時分であれば、内紛を引き起こせば味方となる家も居るだろう。
それらを率いて打倒に向かえば、あるいは西条家を滅ぼすことも出来るかもしれない。確率として決して高い訳ではないものの、やっても良いと思える程に現状は勝算がある。
自覚し、次の瞬間には胸の怨嗟がより深まった。
これぞ自分が求めていたものぞと本心は彼女に囁き、そうかと彼女も受け入れる。
どだい、彼女という人間を証明する資格は無い。
戸籍が無く、当主を除いて誰も彼女の名前を覚えず、混乱期に入った今でも放置される形になっていた。
西条家に復讐することを彼女を含めた他の子供達は目標としている。であれば、他の三家が滅ぼそうとする真似を許しはしない。
殺すのは自分だ、お前達は御呼びじゃないと。結果的に彼女達が西条家の壁としての役割を果たしていた。
なんという無様。なんという愚か。馬鹿は死なねば治らないと嘗て誰かが言った通りではないか。
「――流石、未来の旦那様。 こんなに簡単に道を示してくれるだなんて、器が違うね」
「馬鹿が。 誰もお前の旦那になるとは言ってないぞ」
「ううん、なるさ。 なってみせる。 恩には確り報いたい質なんでね、これでも」
彼女は二本の短剣を袖下に戻した。
そして胸元に穴の空いたローブを翻し、背中を向けて最後にフードを被る。
彼女は笑顔を浮かべていた。晴れやかで、迷いの霧を抜けた旅人のような表情で、それでも心の底から暗い闇を噴出させながら。
手をひらひらと最後に振って、彼女は唐突に建物の壁を登りながら消えた。
その姿を視界に収め、俊樹は創炎を解除して溜息を吐く。
「あれ、生き残ると思うか?」
「死ぬね。 そう簡単にあっちが負ける筈ないでしょ」
怜の確信の籠った言葉を聞き、これで彼女の未来は決まったのだと俊樹は思ってしまった。
今日この日、もしくは近い日、一人の女がこの世から消える。
それは世界から見たらちっぽけな話であり、西条家からすれば大問題になるだろう話だ。
されど、そんなことは彼女には関係が無い。勝っても負けても、彼女の復讐は間違いなく果たされる。全てが死に絶えるという、およそ最悪な結末で。
「皆馬鹿だよ。 ありゃ、死んでも治らんだろうな」
「そういう人種も居るってことを学べた良い機会じゃないか。 ――でも、君はあの子に道を示した。 それによって彼女は一番幸福な結末を迎えるよ」
「まったく嬉しくないな」
夜闇の中、彼等二人は家へと足を動かし始めた。




