【三十五点】残影との対話
奇妙な浮遊感が俊樹を包む。
周りは暗黒で、彼はその中で唐突に意識を取り戻した。
顔を身体に向けても光が無い所為で確認が出来ない。感覚が有ることを教えてくれるが、それならば此処は何処なのかと視線を彷徨わせる。
何も無い。此処には本当に、僅かな光でさえも無い。人が暮らしていくには致命的なまでに不可能な世界は、それ故に現実性を持っていなかった。
夢。これは紛れもなく、俊樹自身が見ている夢に過ぎない。
脳が見せる夢幻であり、ならばそこに意味が無いのは当然。世界が暗闇であることに何の不思議があるだろうか。
そも、俊樹には平穏を求める以外に壮大な夢が無い。目標とすべきものが目の前にあるのに、態々穏やかな生活を夢想することなど有る筈がないのだ。
だからこそ、再度唐突に差し込んだ光は不思議だった。
徐々に徐々に、熱を伴いながら世界を照らしていく光。太陽が如くに全てを陽の世界に引き摺り込む様子は、些かに尋常ではない。
もう一度身体を確認すると、そこには確かに自分の姿があった。シャツにカーゴパンツの服は大学に行く際に着ていく服の一つであり、今更そこに疑問が湧くことはない。
横になっていた身体を漂う中で立ち上がらせていると、視線の先に何かが居た。
「……人?」
自然と前へ前へと向かうと、それは人の形を有しているのが解る。
赤いメタリックなパーカー。フードを被って背中を向けた状態は、それが誰であるかを教えてはくれない。
ブーツと僅かに覗くズボンは黒く、使い古したような汚れが伺える。
知らない人物だった。体格で男だと解りはするが、このような恰好をする人物を俊樹はまるで知らない。
もしもあるとしたら、それは彼の望まぬ因縁からだろう。
自然、顔を強張らせた俊樹は男の目の前で位置を止める。いきなり殴り合いになっても死ぬことはないであろうが、それでも気を張っておくに越したことはない。
「あんた、誰だ?」
『――――』
尋ねる声に、答える声は無い。
ただ、無視をされているようにも感じられなかった。相手は答えるべき言葉を考えているのか、暫く沈黙を維持する。
『……まさか、こんな形になるとはな』
そして漸く出て来た言葉は、俊樹の答えではなかった。
己への呟き。あるいは、現状への驚愕。静かな声は低く、年を重ねた者特有の渋さとでも言うべきものがある。
「おい」
『――ああ、すまない』
振り返り、相手の顔に俊樹は驚く。
フードを被った人物はマスクを付けて顔を隠していた。もうそこまでいくと不審者にしか見えないが、言葉にし難い謎の圧が男をただならぬ存在のように思わせる。
怪しいは怪しい。けれど、恐らくその怪しさは普通のベクトルとは異なる。
「もっかい聞くけど、あんた誰だ」
『この恰好で解らないか?』
「解らないな。 有名なのか?」
『俺の時代じゃ有名だったんだが、それだけ時代が過ぎたってことか。 ……あいつめ、ミスったな』
男は自己紹介をしなかった。
だが、推測が付けられる言葉を残した。俊樹にとって時代という単語は最近特に聞くようになったもので、それを言うのは大抵が厄介事を運ぶ者達だ。
であれば、彼もまた五百年前の人物なのだろう。当時の状況を然程詳しく知っている訳ではないが、件の人物が当事者であると考えるべきだ。
仮にそうでないとしても、あの時代を知る人物が居るのは貴重である。もう無くなってしまったデータばかりの世界は、あまりにも不足している箇所が多い。
だが、そうだとしても何故此処にそんな人物が居るのか。脳内に住み着くにしては、あまりにも接点と呼べるものが――――ある。
思い出す接点。創炎の二文字は、容赦無く俊樹の現実を歪めていく。
『今何年だ?』
「2×××年だ。 ……やっぱりあの頃の人物なのか?」
『もう五百年も経過したのか。 そりゃ覚えている奴の方が少ないな。 納得だ』
腕を組んで何度か首を縦に振る。
納得をしているところ悪いが、俊樹としては聞きたいことの方が多い。どうやら当の本人も予想外だったみたいであるものの、そんなことは彼には関係ない。
「あんたに聞きたいことがある。 一人称が僕とか言ってる、妙に馴れ馴れしい女を知っているか?」
『……二人程思い当たるが、姿は解るか?』
「いや、姿は一度も見せてくれなかった。 でもなんか、何か企んでいるみたいではあったな。 あと、滅茶苦茶旦那を持ち上げてた」
『あの馬鹿……』
今度は頭を抱える男に、何だか奇妙な感覚が宿る。
知らない者同士の筈だ。でも何故か、他人の気がしないのである。なんというか、苦労する者特有の気配がした。
暫く頭を抱えていた男は最後に溜息を吐いて、再度俊樹と向き合う。
最初の頃から発されていた圧は何処かに消え失せ、俊樹自身の警戒度も下がった。
『変な所を見せたな。 そいつは多分、当時最強と言われてた三人の内の一人だ』
「最強って言ったら、超能力者も含めて?」
『勿論。 なんだ、そこは伝わってたんだな』
苦笑する男だが、俊樹としてはとんでもない話である。
世界を救った最強の三人。その内の一人で、且つ女性であるのならば。記憶に残る教科書のページを捲り、記載されていた情報を思い出す。
氷の女帝。名は解らず、氷の如き厳しさを持った女性だ。味方に対しては少々の優しさを見せるも、それでも辛辣な物言いが多かったと公的文書に残されている。
死亡時期は不明。死体は発見されず、当時の政府が時間経過によって死亡判定を下したことで死んだことにされている。
とんでもない存在だ。いや、最初から得体の知れない相手であることは解っていた。
解っていたが、そこまでの大物だとは思っていない。降って湧いたような事実に、目が驚愕に彩られる。
それを見て、男は深々と息を吐く。またやりやがったなと、言外にそれを語っていた。
『此処に俺が居るのは何かの手違いだろう。 出来れば出て行きたいが、現状どうやって脱出すれば良いかは解らない。 恐らく向こうもこの事態は予想の外の筈だ』
「此処は多分、俺の意識の中だ。 出て行ってくれるのは有難いが、そうなったらあんたはどうなる?」
『死ぬ。 俺はもう死人だ、魂だけとなった状態で生きるのは不可能だろうさ』
当たり前の如く語るが、ならば目の前の相手は幽霊的な存在であることになる。
世はオカルトが否定されている。にも関わらず、現実はやはり何処までも奇妙奇天烈に過ぎるのだろう。
今更な話だ。創炎ですらもオカルト的な概念なのだから、目の前の男が幽霊であっても不思議な要素は無い。
男も生きていこうとは思っていないようだった。そこにはある種、達観した老人のような雰囲気がある。
「生きたいとは思わないのか?」
『愚問だな。 俺はもう、生きていた頃に満足した。 満足したんなら、新たに満たされることはないだろうさ。 自分が満足している内に死んだ方が、きっと幸せってもんだろ?』
「……そう、なんだろうな。 理解は出来ないけど、納得は出来るよ」
俊樹はやはり奇妙に感じた。
目の前の人物の言っていることがある程度納得出来るのだ。勿論完全には出来ていないが、それはきっと重ねた年月が関係しているのだろう。
自分も年を重ねれば彼のようになるのかもしれない。過去の時代の人物を見ている筈なのに、その姿はまるで未来の自分のようでもあった。
故に悪感情が湧かない。終わりたいと願う者に、寧ろある種の親しみすら抱いた。
――そして、急に俊樹の身体が上へと浮上を始める。
突然の事態にバランスを崩し掛けるが、俊樹の意思など無視して身体は強制的に上へ上へと目指す。
意識が現実に引っ張られているのだと、俊樹は直感で理解した。
「俺はもう行くみたいだ! 例の女帝はきっとまだ居るだろうし、なんか言っとくか!?」
『ミスってんじゃねぇぞアホって言っておいてくれ!!』
「解った!!」
離れた両者は声を大にしながら別れる。
男の正体は結局解らないままだった。だが、今はそれで良いかと俊樹は前を向く。
これもまた直感であるが、彼とはまた会うような気がするのだ。その時に正体を暴こうと、浮上する意識に身を任せた。




