【三十一点】継承の理由
全身が凍結するまで五秒と掛からなかった。
空気すらも利用して実次の身体は氷結し、その身を氷壁へと変える。意識は深い闇の底に埋もれ、細胞活動を強制的に停止させられた上で心臓を潰されてしまえばどんな生物でも生きていくことは出来ない。
彼が人知を超えた存在であれば別の話だが、幸運ながらも実次はまだ人の範疇に収まっている。複数のエース級ARに襲われれば負ける程度の実力しかないのだから、肉体的強度もまだ限界を超えたとは言い切れない。
死んだのだ、西条の当主が。こんなにも呆気無く、手足も出ずに。
半ば不意打ちだったとはいえ、それでも相手は実力として上位であるのは言うまでもない。他の人間ならいざ知らず、実次がこんな最後を迎えるとは誰にも想像出来なかっただろう。
『暫く氷漬けにしておくか。 さて……』
「ッ」
女の顔が俊樹に向く。
実次の傍で俯せの形で意識を喪失している彼は、今の状況を知りもしない。仮に此処で殺されたとして、当の本人は夢のまま死後の世界に連れて行かれてしまう。
女がゆっくりと歩を進める。父は彼女の前に出ようとしたが、その前にAIが睨んだことで強制的に止められてしまった。
迂闊に動けば殺される。本能的からも静止の声が上げられ、最早父は現在の状況を見つめることしか出来ない。
やがて女は俊樹の傍まで辿り着いた。そして腰を落とし、床に倒れた彼の頭を優しく撫でた。
大事に、大事に。宝物に触れるように、彼女は酷く丁寧に金糸の髪に撫でる。
初めて女の瞳に感情が宿る。
そこにあるのは慈母が如き慈しみ。実次が向けたものと同じ感情でありながらも、彼女が彼にそういった感情を向ける理由は異なる。
だがそれを、父は知らない。この中で他に知っているのはAIだけだ。
『お前がこの子の親で間違いないな?』
「!?、ああ。 そうだ」
俯せだった身体を仰向けに変え、彼女は正座の体勢を取って俊樹の頭を膝に乗せる。
その間に、女は父に問いを投げた。
問いに父は応と答え、そうかと彼女は短く返す。無味乾燥とした言葉であるが、先程までの冷たさを含んだ言葉と比べれば遥かに暖かみがある。
いや、最早天と地の差があるといった方が正しい。彼女は今、俊樹とその父親に確かな好感を覚えているのだ。
『この子には生産装置の権限を与えた。 そして四家と呼ばれる者達から権限を剥奪し、以降はこの子が決定を下さない限りは稼働することはない。 これでお前達の目論見通り、無闇に攻撃される機会が減るだろう』
「……あんたは、俺達のやろうとしている事を知っているのか?」
『無論。 この子と私は繋がっていたからな』
繋がっていた。その言葉に、父は確かな驚きを抱く。一体何処でと思考を回し――自身の息子の両目に視線が向いた。
『そう、それだ。 この子がその眼に覚醒してから、私の声が聞こえるようになった』
「聞こえるように?」
『ああ。 その子は隠していたがな』
父は子を見る。
そういえばと彼は過去を振り返り、最初に此処に行こうと言い出したのが誰かを思い出した。俊樹が全ての行動方針を決め、父はそれに合わせて動きを決めたのだ。
その全てに目の前の女が関わっていなかったとは考えられない。寧ろ、最終的な到達点を定めたのは彼女だと思う方が自然だ。
自然、彼は女を睨む。言ってしまえば彼女は、俊樹を地獄に送り込んだ張本人だ。彼女が何等かの助言をしなければ、俊樹がこんなにも危険な道を選ぶことはなかった。
今回の出来事は将来的には確かに必要だ。だが、こんな短いスパンでやるべきかと問われれば否と言うことも出来た。
『お前の懸念が解らないとは言わない。 私だって昔は親をやっていた。 我が子を愛する気持ちが無いとは口が裂けても言えはしないさ』
女は父の気持ちを解っている。
自身の愛した男との間に出来た子供を、彼女は確かに愛していたのだから。
それは愛した男に関与しているからであるが、身を削って生み出した存在である。成長するまでは一喜一憂をしたものであるし、嘗ての夫とあれやこれやと相談もした。
当時他に子供を作った者達と子育ての難しさについて話したこともある。故に、子を愛する気持ちに対して彼女は真摯だ。
『私とて理由が無ければ管理者の座を離れることはしなかった。 だが今は、腐ったあの四家を是正しなければならない。 そうでなければ、あれと同じ血が流れているこの子が不幸になってしまう。 だから、せめて納得だけはしてくれないか』
「……一つだけ教えろ。 なんでこの子をそんなに優遇する。 あんたにとって都合の良い駒だからか」
彼女は心からの気持ちで父と顔を向き合わせた。
一人の親として、子を産んだ女として――愛した男の子孫が腐ることを阻止する為に。
未来を守る。それはもう居ない人物と交わした約束だ。
人とは愚かであれど、決して腐った奴だけではない。きっと探せば真っ直ぐな志を持った馬鹿な奴等に出会えると、彼女は過去の男の穏やかな顔を思い出す。
その顔は皺が増えて、白髪だらけになっていた。枯れ枝が如き老人の言葉は、確かな重みを含んで彼女に伝えられていたのだ。
だから、人類を滅ぼす真似を彼女はしない。その代わり、彼女は彼女の理想を求め続ける。
『その子が私の夫に似ていたから。 それだけだよ。 願わくば、彼が次の代を引き継いでほしいとは思っている』
「似ているから、か。 それを聞くととんでもねぇ話だな」
彼女の夫と言えば、やはり救世主その人。
世界を救った大英雄の子孫であり、彼の振舞いに救世主を彷彿とさせる部分がある。
直接歴史の偉人から語られると、酷く運命的な響きを父は感じた。過去から今に掛けて、様々な血が混ざりながらも意思が俊樹にまで伝わったように思えたのだ。
素質があると、父とて確信している。そして彼女がここまで話したのであれば、やはり彼には相応の資格があるのだろう。
他に頼れる人間も居ない。父は妻である怜との結婚の際に、親戚の全てと絶縁した。なるべく関りを断ち続けた結果として、孤立状態に最も近くなっている。
情けない話だが、彼女達と行動を共にするのが一番の最適だ。
「納得しきれるかどうかは解らない。 だが理解は出来た。 んで、これからどう行動する?」
『一先ずは私の存在を関係者達に周知させねばならんな。 丁度良く隣に渡辺の組織がある。 あそこの頂点で座っている男と話をするか』
「ヴァーテックスの頂点は渡辺家の人間じゃなかった気がするが……」
『実質はあれの支配域になっている。 今玉座に座っている人物はただの傀儡に過ぎん』
「……だから、あんな簡単に動かせたんだな」
ヴァーテックスの影響力も大きいが、やはり一番は四家のままなのだろう。
国家に影響を及ぼす大名家。改めてその脅威に身が冷える思いである。もう遅いのではあるが。
俊樹を横抱きにして女は立ち上がる。父に任せようとしないのは体力的な問題か、それともやりたかったからなのか。
依然として柔らかい表情のまま彼女は行くぞと発する。
『繝「繧カ繝ウ……ルリ、お前が先導しろ。 周辺地理は集め切っているのだろう?』
「あ、そういう名前になるの? 僕達はどうそっちを呼べば良いかな」
『そうだな……っふ、じゃあ』
――玲。
父を見ながら女は悪戯気に便宜名を口にした。父としては眉を寄せてしまうような名前であるが、反対をする理由は思い付かない。
歩きながら、怜と隣同士になった父はぼやく。せめて文句くらいは受け付けてくれよと。
「悪趣味だぜ、まったく」
『似てるだろ?』
「似てるから困るんだよ」




