【三十点】当主の愛
獰猛な肉食獣を彷彿とさせる俊樹の形相。
叫ばず、爆発的な速度で実次の目前まで迫り、骨が折れんばかりに握り締めた拳を全力で振るう。
実次は見ていた。見ていた上で、両腕をクロスさせる形で防御の姿勢を取る。
殺人的な威力が宿った拳は実次の腕に迷わず直撃し、辺り一面に衝撃波を発生させた。
実次の髪や着物が後ろへと靡き、彼の腕には嫌な音が鳴る。だが、変化はたったそれだけだった。
一撃が終わり、俊樹は目を細める。相手は間違いなく直撃を貰った筈だが、それでも両腕を悠々と動かす程度の余裕を持っていた。
二つの腕には赤い痣があるばかり。折れていてくれれば万々歳であるものの、それはまったく望めないだろう。
「良いな、これまで受けた拳の中で一番のものだった」
「そう、かい!」
再度拳を放つ。
それを実次はやはり腕で防ぐ。一発では貫けず、ならばと二発三発と回数でもって相手の防御を貫く。それでも実次は怯まず、であればと鞭のようにしならせた蹴りを脇にぶつける。
そこで漸く身体は横に傾くが、直ぐに戻る程度の僅かなもの。少なくとも、これが致命傷になるということはない。
年齢的には六十台を超えているような老人なのに、その頑強さはこれまでの敵とは比べものにならない。さながら不動の山を攻撃しているような印象に、俊樹は口を噛み締めた。
「……ふむ、一先ずの限界点は把握した。 その力はやはり魅力的だ。 俄然、お前のことが欲しくなったぞ」
「爺に求められるとか寒気がするぜ」
「そう言うな。 これでもあまり物欲は無い方でな、久方振りの欲求に素直になってしまったのだ。 悪いが、直ぐに諦めてくれ」
「嫌だね――ッ!」
跳ね、横蹴りを放つ。
狙いは側頭部。如何に胴体が頑健であったとしても、頭部はどれだけ鍛えても弱点になりえる。
だがそれは、直撃の瞬間に空を切る結果に終わった。実次は身体を落して避け、そのまま身を低くした状態で腕を引く。
明らかな攻撃体勢。赤眼に意識を向け、相手の攻撃ルートを見つめる。
実次の攻撃は下から上へのアッパー。着弾場所は俊樹の顔面。
実次は湖が如き瞳を宿しながら、人類を遥かに超越した一撃を放つ。それは俊樹の成長した目でも残像のようにしか見えず、咄嗟に顔を横に傾けた。
瞬間、俊樹の真横で空気が切れる音がする。同時に俊樹の肌を切り裂く衝撃波が発生し、無意識で閉じた瞼にも切り傷が刻まれた。
振り切った右腕を蹴り、距離を取る。背筋に流れる冷や汗を感じながら、あの殺意に尋常ならざるものを感じた。
あれは決して不殺を目的とした攻撃ではない。寧ろ逆の、確殺の攻撃だ。
一体どうしてあの老人はいきなり殺そうとするのか。欲しい欲しいと言っているのに、あんなにも殺意に溢れた攻撃をあっさり放つのか。
「テメェ、殺す気かよ!」
「――いいや、そんなつもりはない」
「はぁ?」
文句に、実次は何を馬鹿なことをと反論する。
その言葉に今度は俊樹が困惑した。今間違いなく、相手は此方を殺そうとしていただろうに。
「この程度、お前であれば容易に踏破するだろう?」
「この程度、って……」
「お前は間違いなく対応する。 一刻一刻時間が経つ程に、お前が進撃を望む限り。 ――ああ、お前はきっと何度でも立ち上がってくれるだろう?」
「……何言ってんだ、あんた」
確かに俊樹としては負けを認める訳にはいかない。
しかし、この老人はそれを望んでいる。諦めることなく、不撓不屈の精神を燃やして抗ってくれよと。
開けた着物を直そうともせず、実次は久しい快に笑みを形作る。
それは深い深い、地獄の底まで続くような笑み。人が持ち得る狂気の限界点が表に現れ、身からは覇気と評すべきモノが滲み出る。
まともではなかった。以前に話した鳴滝の当主も決して普通ではなかったが、これはそれ以上に並の思考をしていない。
「お前はもしかすれば、俺の夢を叶えてくれる存在かもしれない。 あの初代と並ぶという、俺の夢を」
「本気で何を言ってんのか解んねぇな!!」
何処か興奮したような雰囲気を垂れ流す男の姿に、俊樹は本気の嫌悪を覚えた。
何だ、何なのだこの男は。捕まえると言いながら、相手は立ち上がるだろうと確信して殺す気で来ている。
殺さなければならない。あれが生きている限り、間違いなく自身の妨げとなる。
駆けた。迅速に、早急に、急速に。
殺せ、倒せ、生きろ。そうしなければ幸せなど掴める筈もないのだから。
身体は未だ応えてくれている。脳が発する伝令が四肢を駆動させ、創炎が彼の実力を何十倍何百倍と底上げさせている。
その分だけ身体に負担は寄るが、今此処で打倒せねば自由が無くなってしまう。
「そうだ! その意気だ!!」
「――――ッ」
超至近距離。
互いが互いの拳の射程範囲に入った時、俊樹も実次も同時に攻撃を放つ。
俊樹は右を、実次は左を。共に全力を込めて、相手を打倒するつもりで急所を狙う。
互いに攻撃のみに意識を向けていた。防御に割く思考は無く、神経を腕に集中させて確殺の意思だけを持ち得ていた。
共に思考が一致したからなのか、激突はほぼ同一。どちらが遅い訳でも速い訳でもなく、故に周りを全て吹き飛ばす勢いで極大の衝撃波が発生する。
遠目に見ていた父には何が起こっているのか解らなかった。自身の息子とあの男が何をしているのか、僅かな残像ですらも認識出来ていなかった。
だから、全てが終わった時の光景しか彼は見ることは出来ない。轟音が収まり、抉れた建材が周囲に舞う中で父は二人を見た。
二人は微動だにしていない。だがこの二人の身体には明確な傷がある。
実次は胸に腕が突き刺さっていた。心臓目掛けて放たれた腕は埋まり、周囲の肉を炎が焼いている。
傍目からして致命傷。仮に生きていたとして、後遺症が残る怪我なのは間違いない。
だが父は、俊樹にしか目が行っていなかった。――なにせ、彼の怪我はあまりにも甚大だったのだから。
「と、しき……」
俊樹の左側が喪失している。
正確に言えば、左肩から先が完全に無くなっているのだ。断面は抉れたような形をしていて、内側からは鮮やかな桃色の肉と赤黒い血が露出している。
垂れ落ちる血液の量は多い。数分も流し続けていれば、直ぐに出血多量により死亡する。
父は飛び出そうとした。何としてでも助け出さねばならぬと隠れていた生産装置の外に足を出し、けれどそれは二人の言葉で止められる。
「天晴。 やはりお前は、限界を超えるな……」
「う、せぇ……」
静かな実次の言葉が、今の俊樹には遠くに聞こえる。
激痛は最早感じない。視界には終始ノイズが混ざり続け、視界は容赦無く暗黒へと沈む。
意識が保てないのは明らかだった。無理に無理を重ね、最後に左腕の完全喪失を招いたのだ。どう足掻いたとて、まともに意識を繋ぐのは不可能だった。
それを解っているのか、実次は首を縦に振る。心から感嘆の息を吐き、尊敬する者を見るような眼差しで俊樹を見つめた。
「今は眠るが良い。 お前の怪我はお前が眠っている内に治してやろう。 目が覚めたら、その時は飯でも食いながら語らおうではないか」
「や、な、こった」
身体から力が抜けた。自然と身体は前のめりに倒れ、実次は彼の身体を片腕で支える。
優しさすら感じられる所作は、あるいは父と子のようにも見えるかもしれない。
右腕を胸から引き抜き、実次は破れた着物の内側を漁る。そこから二粒の丸薬を取り出し、一粒をそのまま呑み込んだ。
もう一つは俊樹の口を強引に開けて呑ませ、うむと呟く。
「素晴らしい逸材だ。 これほど心躍る相手は今後生まれては来ないだろう。 ――――桜よ、お前の行動を俺は讃えるぞ。 見事な成果だった」
実次の視線が父に向けられる。
足を出した状態のまま硬直していた彼は、大きく息を吸っては吐いて歩み出す。
実次の前へと出て、金髪をオールバックに再度整えてから挑発的な笑みを浮かべた。
「あんたを喜ばせるのが目的じゃない。 そいつは俺と怜が望んだ子であって、お前が望んだ子じゃないんだよ」
「解っている、解っている。 これは予想の外の出来事だ。 本来、四家と外の人間との間に生まれた子供にこれほど強力な素質は生まれない。 だというのに、この子は俺のようになれる素質を備えて誕生した」
実次は視線を胸元で眠る俊樹に向ける。
慈しみを込めて。愛情を込めて。
「奇跡の子だ。 神話的に表現するのであれば、正に神の子。 この子であればあるいは、初代と同等の存在になれるかもしれない」
それは直感だった。実次が抱く、戦闘とは無関係な部分で発動した未来予知だった。
あの神とも時に表現される男に、俊樹はなれるかもしれない。
そうなれば、この世に二人の初代が誕生するのだ。自分と俊樹という、圧倒的とも取れる武の頂点に二人は立つことになる。
頂点の景色とは果たしてどんなものなのだろうか。華やかなのか、寂し気であるのか、それは到達した時でなければ解らない。
「この子は西条の子供にする。 次代の当主として教育を施す」
「いいや、それは俺の子だ。 お前達の子供じゃない」
「お前の罪も今ならば帳消しにしてやろう。 俺が宣言すれば、その瞬間からお前は自由に人生を謳歌出来る」
「ふざけんな」
はっ、と父は鼻で笑った。
「怜が居なくなって俺は死にたくなるくらい泣いた。 あの当時は、奪われた気持ちがこんなに惨いなんて解っていなかったんだ。 ……だから、次は奪われるつもりはない」
「此処で死ぬとしてもか」
「諦めるなんて論外。 そうだろ?」
「同意だな。 ならばここで――」
『死ぬのは君だよ、西条・実次君』
刹那、世界は凍土に包まれた。




