【二十九点】諦めない、その恐ろしさ
拳の速度が上がっている。
蹴りまでの間に横たわるタイムラグが短くなっている。
視線に虚実が混ざり、炎の収束が自然と始まっている。
戦いの中、純玲は最初の時点と今の時点を比較していた。最初の時点ではまだ操作という基本すら拙かった筈の俊樹は、この激突の刹那で己を上のステージへと押し上げ続けている。
一つ上の段階に進む度に訪れる壁を悉く破壊し、如何な天才でも躓く地点を彼は容易に飛び越えた。階段を一段ずつ登る進化ではなく、二段三段と連続で飛んで行く様は才能のある純玲でも異常と思わざるを得ない。
基本スペックが違う。身体に秘められた才覚が違う。天性を超え、最早神性とも表現すべきものを彼は最初から搭載していた。
「らァ!!」
「ッ、これは……」
熱を周囲に放出していた火のパーカーは、今はより鮮明な形として纏まった。
無闇に他者を焼くのではなく、彼が燃やしたいと思った対象だけに焦点を絞って熱は引き出され、これまでとは違う勢いで彼女を追い詰める。
熱い。無視出来ていたそれが、今はどうにも無視出来なくなりつつある。
周囲に拡散されていた熱量が全て彼女に向けられ、肌に火傷の痕を明確に残す。現代の技術であれば綺麗に治すことは出来るが、そもそも生き残らなければ治療を受けることは出来ない。
自身の手が焼ける覚悟で俊樹の胸倉を掴み、再度彼女は投げる。
場所は自身の背後。円を描く形で彼は背中から床に激突し、肺に留めていた酸素を全て口から吐き出す。
しかし、吐いた次の瞬間にはもう行動を起こしていた。
確かに感じる激痛を無視して、彼は腕をバネのように跳ねさせて立ち上がらせたのである。
そのまま純玲の顔面に跳ねた勢いを乗せた拳を叩きこもうとするが、彼女が顔を僅かに逸らすことで頬を少し焼くだけに終わった。
だが、それでも成果だ。致命には至らずとも、彼女には攻撃が届き始めている。このまま更に集中していけば、何れは目前の女を殺せるだろう。
「さっさと、くたばれ!」
「残念ですが、それは承服出来かねますわ!」
一秒一秒で限界を超えてくる。
己の努力はなんでもないのだと彼の才能が嘲笑い、純玲はその時明確な怒りを覚えた。力で劣る女であろうとも、目の前の力だけは過剰にある男に負けるつもりはない。
彼は地獄を見ていないのだから。切り捨てられかねない世界を知らないのだから。
愛情を勝者にしか与えられない家で、彼女は今も生きているのだ。経験も覚悟も、目の前の男とは違う。
彼女の技術は、謂わば力の操作。他者の力を己の力へと変えて流す、体力の消耗や怪我が少ない戦い方だ。その分だけ基本的な肉体性能は頑健ではないし、一度でも直撃を貰えばそれが致命になりかねない。
限界を超越する相手と戦うには彼女は相応しくないだろう。
それは彼女自身自覚してはいる。このままでは何れ同列に到達し、その上で完全に凌駕されるのは明白。
放たれる焔が服を焦がす。既にあちらこちらが焼け、素肌を晒している形だ。
その肌も赤熱し、何れは皮も炭に変えて肉を焼く。避けたいのであれば、そもそも接近戦を仕掛けるべきではない。
周囲に肉の焼ける臭いが立ち込める。俊樹は依然として焼ける様子は無く、集中に集中を重ねて無意識のマルチタスクを成功させていた。
炎の操作、対象の観察、二つを束ねた上での自身の行動。
リアルタイムで更新されていく情報を使い、軽い拳打で四発を当てる。着物の帯に命中したことで幾分か威力を殺されはしたが、それでも衝撃は内部にまで浸透する。
胃の内容物を吐き出すまではいかないまでも、腹に走る激痛は尋常ではない。突き破って肉を壊してくる錯覚を思わず覚え、彼女は反射的に俊樹の足を払って転倒させる。
そのまま数歩後ろに下がれば、先程まで彼女の居た場所に火柱が立つ。
「下がったな……ッ!」
「ッ、それがなんだと言うのです!」
何時の間にか立ち上がった俊樹は、唇の端を歪める。
対して純玲は叫ぶが、それがただの強がりであるのは言うまでもない。蓄積されたダメージは確かに彼女を蝕み、生への危機を徐々に徐々にと引き摺り出した。
無意識の危険回避。それが選択された時点で、彼女の余裕は最早無いも同然だ。そうなった時点で、彼の敵にはなりえない。
倒せる。確信を込めて、胸中で彼は呟いた。
蛮勇に寄るものでも、謎の万能感が与えるものでもない。確かな現実として、進化を続ける今の彼なら倒せると解った。
総身に走る激痛は俊樹も然程変わらない。いや、被害の差で言えば俊樹の方が余程酷い有様だ。
骨折に至っていないのが奇跡のレベルで打撲痕があちらこちらに浮かび、内出血の量も無視出来ない。口からは絶えず血が外に出てきていて、肉体は軋みを上げて意識を絶つことを訴えている。
満身創痍。先程からずっと続く極限状態は、俊樹自身の精神を蝕んでいる。加速度的に意識を後方にまで引っ込めようとしている脳は、生存本能に実に忠実だと言えるだろう。
けれどそれを、彼はまだだと無理矢理に維持する。
勝つ。勝ってみせる。――――己の未来の為に。
安寧を求めて、自由を求めて、唯一無二の夢を燃やして青年は飛躍する。
おお、これこそ光。闇の中を生きるしかない者達の道標となる、ただ一つの篝火だ。
触れれば焼き尽くすとしても、人は依存せざるを得ない。明るい陽の世界でしか、人間は遠くを見ることは出来ないのだから。
足を動かす。普段よりも勢いの付いた速さは、彼女の創炎を用いても残像のように朧気だ。
明らかな超速。正面からの突撃に純玲は反射的とも言える速度で腕を掴もうとし――その手は虚空を掴んだ。
目を見開く。そして、背後からの濃密な殺気。
振り返った先に、されど俊樹の姿は無い。あれほどの濃密な気配を放出していたのに、彼は姿を消失している。
一体何処に。そう思った刹那、彼女の胴体から背中に掛けて爆発が起きた。
自身の意思とは正反対に身体が吹き飛ぶ。一度も高度が落ちることなく、吹き飛んだ身体はそのまま堅牢な建物の壁に叩き付けられた。
何が、と考える暇は彼女には無い。駆け上った血が勢いよく口から噴き出て、更に背中の布と皮が纏めて抉り取られている。
「い、っぱつ……」
揺れる瞳の先には、拳を振り切った俊樹の姿がある。
その位置は正面から突撃して殴った場合と同じ。即ち、彼は速度を維持した状態で往復した。
一度背後を取った段階で露骨とも取れる殺意を放出して、警戒している彼女が振り返った段階で背を落して元の位置に移動。そのまま彼女の背後を全力で殴り付け、一気に壁まで吹き飛ばした。
殴った際に骨が折れる感触を覚えた。この一撃は間違いなく彼女に甚大な被害を与えた筈だ。万が一にも再起は有り得ない。
無意識に安堵の息を吐こうとして、いいやと視線を別に変える。
腕を胸の前で組んだ状態の男。実次は微動だにせず彼を見つめ、その実力を正確に読み続けている。
余裕の表情はない。かといって脅威にも感じていない。至って平静なまま、実次はありのままの事実だけを口にする。
「侮っていた訳ではなかった。 だが、お前は我々の予想を超えた」
「……」
「見事だと、素直に称賛しよう。 お前は次の世代の中でも最も成長するだろう逸材だ。 後五年もあれば俺を容易に凌駕するだけの素質を持っている」
実次は前を行く者に対してだけ好意的になる。
諦めないこと。立ち上がること。振り返らないこと。およそ前進とも取れる全てに、彼は惜しみない拍手を送れる男だ。
俊樹の事は今では素晴らしい逸材だと認識している。もしも最初から西条の家に居れば、現在の段階で自分と並んでいただろうとも高評価だった。
やはり、と実次は確信する。
初代から続く血は枯れてはいない。まだ芽は残され、俊樹がその血を開花させた。
このまま成長に成長を重ねれば初代に並ぶのではないか。――その姿を間近で見られたのであれば、きっと己にとって幸福に繋がるだろう。
「考えを改めよう。 お前は、俺の意思でもって連れて行く。 拒否も拒絶も受け付けん。 これは決定事項だ」
「……だから、あんたらさぁ」
緩やかに組んだ腕を解く。
巨木がゆっくりと臨戦態勢になっていき、その姿を見た俊樹が呆れたように言葉を零す。
「俺が嫌だって言ってんのが聞こえてねぇのか」
「お前の素質は奇跡的とすら言える。 逃がす道理など有りはしないさ」
「あっ、そ」
なら、死ね。
飛び込む彼を、実次は真正面から見つめていた。




