【百三十九点】我々は最初から出会うべきではなかった
「……」
「……」
和の雰囲気漂う食事処。風格のある高級料亭と評すべき店の一室は、今正に恐ろしいまでの沈黙に支配されている。
個室であったのが奇跡的だったというべきか。いや、そもそも両者はこうなることを見越した上で個室を予約していた。
片方はアラヤシキに移住することが決定した俊樹。艶のある黒の机を挟み、対面には黒の和服に身を包む黒髪の女――早乙女・美玲が居る。
彼女は顔を俯かせていた。表情は暗く、折角御馳走が並んでいてもまったく見向きもしていない。
それは俊樹も同じだ。彼は視線を彼女の背後の壁に向け、さてどうしようかと思案を続けている。
この場は当然ではあるが、俊樹が用意したものではない。
用意したのはヴァーテックスであり、東雲だ。
生き残った四家はアラヤシキの艦内に向かうことが決定され、そこに彼女達の希望は一切叶えられないことが決められていた。
表立っては流刑扱いであり、裏で彼女を含めた四家の人間は各々様々な仕事に就くことになる。
その中での美鈴の役割は純粋な仕事ではない。ヴァーテックスが提供する優秀な男の種を胎に収め、偉人の血を継続させることが彼女の責務だ。
それが果たされるのであればヴァーテックスは金を与えるし、偉人達は積極的に彼女に他の仕事をさせようとはしない。
用意される予定の家は四家の格に劣らず、巨大な和風の長屋だ。
事前に子育てに必要な道具が用意され、彼女はそこで最低でも二人の子供を産み落とさなければならない。
美鈴は最後には寝返ったが、だからといって彼女には容疑がある。
裏切る前には俊樹と何度も接触し、最初期には彼と彼女は戦場で向かい合っていた。それは最終的には戦闘にならなかったが、その時点で彼が覚醒しなければ彼女は何の期待もせずに連れ去っていただろう。
結果論ではあるものの、彼女が反抗したのは最後だけ。それだけで今後も大丈夫であると判断するのは難しい。
よって、罰則ではない形にされた。そこに別の誰かの意思が無いとは言わないが、少なくとも彼女が子供を産めば死ぬまで平穏無事に過ごすことが出来る。
「……あの」
沈黙に耐え切れず、最初に言葉を発したのは美鈴の方だ。
俯かせていた顔を上げ、血色の悪い顔で彼女は俊樹を静かに見やる。声を掛けられた彼も壁に向けていた目を彼女に向け、視線で続きを促す。
「……ありがとうございます。 私を生かしてくれて」
「勘違いをするな。 俺が決めた訳じゃない。 移住の話が出た段階でお前達も移住するのは既に決まっていた」
彼女の感謝は筋違いだ。俊樹が選択をする前に、既にヴァーテックス側が彼女達の問題を解決する方法を見つけ出している。
しかし、彼女は首を左右に静かに振るった。長い黒髪が揺れ、流れるような様子に不遇な扱いを受けていないことが示されている。
「話は決まっていても、貴方が否を突き付ければきっと私は生きてはいなかったでしょう。 この感謝は当然のものです」
「……」
閉口するしかなかった。
俊樹は確かに、この決定に口を挟む権利を有している。生産装置の管理者として資源を理由に脅せば、容易く政府もヴァーテックスも四家を根絶やしにしていた。
目前の彼女が生きている理由はただ一つ。その血が偉人にとっても大事であったからというだけだ。
彼女本人に価値は無い。偉人が嫌悪するだけの理由が、彼女自身には無い。
オームだろうが怜だろうが対面すれば普通に接されるだろう。彼女に何の魅力も無いからこそ、表面上は好意的に扱われる。
攻撃をしていなかったのは幸運だった。攻撃をしていれば俊樹は間違いなく口を挟んで否を告げていた筈だ。
害さなかった。
俊樹の人生に明確な邪魔をしなかったことで彼女は敵と味方の中間になったのである。それはきっと、彼女が別れた同世代のあの男でも一緒だ。
「あいつはどうなった? お前と学校で常に一緒に居た」
「真琴ですか? 彼なら最初期に死にました。 自分で選択出来ない人物でしたから、恐らくは最後まで父である当主の命令に従っていたのでしょう」
「……随分と冷めているな」
美鈴の顔に悲壮は無い。真琴に関しては強い感情など無く、彼女にとってはどこまでいってもただの同世代でしかないのだ。
望んだ繋がりではない。そも、彼女と彼の間にある感性には大きな違いがある。その違いが解消されることは生まれ変わらない限りは改善されない。
故に、彼女は戦場で彼が死んでもどうとも思わない。繋がりがあっても所詮は家同士の薄いもので、恋情も友愛も親愛も抱いてはいないのだから。
「元々仕事の付き合いのようなものです。 ですが、あのまま一緒に仕事をしていれば何かあったかもしれません」
「そうか」
そこで俊樹の興味は切れた。
別に深くまで詮索する気は無かったし、死んでいるのであれば所在を聞く必要も無い。
少なくとも、彼女もまた鎖から解き放たれた。完全な自由とはいかないまでも、彼女の求める生活を送ることは決して不可能ではない。
僅か数%が数十%にまで引き上げられた。ならば、彼女は絶対にその生活から逃げようとはしない。
例え自身が望まぬ子を産むことになろうとも。
東雲がこの場を用意したのは、最も母ではない瞬間を彼に見せる為でもあった。
これは俊樹に対する試練だ。お前が誰かと子を成さぬのなら、誰かが涙を流すことになる。それを受け入れることが出来るのか。受け入れられずに誰かと婚姻関係を構築するか。
「――俺は俺が行きたい道を行く。 そこに誰かが転がり込んでも、蹴り飛ばしてでも前に進む」
「……解っています。 貴方は最初から我儘な性格でしたから」
ある意味では見合いと言えるのかもしれない。
今此処で彼が彼女を哀れに思ったのであれば、あるいは美鈴に訪れる結末は変わった。
そこに本当の幸福があるかは定かではなくとも、少なくとも同情してくれる誰かが傍に居てくれるのだから。自身が孤独ではないのは他にも四家の人間が居るから知っているが、心にまで寄り添える誰かは今の彼女には居ない。
本当は、彼女は普通の女としての生活をしてみたかった。
普通の学校に通い、青春を過ごし、誰かと恋仲になって最後には結婚する。共働きでも専業主婦でも良いから同じ家で暮らして、子供を産んで旦那である人物と笑い合いながら人生を謳歌するのだ。
現代では有り触れた話。何処にでも転がっている未来を、彼女はもう成すことが出来ない。
唯一心の底を晒すことが出来る相手も、彼女を拒絶する意思を示した。
バットではない。かといってグットでもなければトゥルーでもない。謂わばビターと呼ぶべき人生に、彼女は確かな苦さを感じた。
「向こうに行っても会う機会があるかもしれません。 もしも新しい家に立ち寄ることがあれば、是非お茶を入れさせてください」
「……期待しないでおく」
「はい。 私も期待はしておりません」
二人は言葉を交わし、そして静かに料亭で用意された料理の数々を口に運んだ。
会話は無く、どちらがどちらに対しても遠慮せず、ただこの場を終わらせる為だけにまるで味のしない料理を食べ続けた。
俊樹は思う。始まりは最悪で、それからも決して友好的にはなれなかった。
もしも始まりで彼女が此方側に寝返ってくれたのならば、果たして今よりも明るい間柄になれたかもしれない。
結局はただのIFに過ぎず、彼はそっと視界の端に見えた女の涙を無視した。
最低なのは一体どちらなのだろう。まだまだ人生経験の薄い彼に、その言葉の答えは出てこない。
だから――彼は前に進み続けるしか出来ないのだ。




