【百三十五点】氷に消える
一体どれほどの時間が経過しただろうか。
十分、三十分、一時間、十時間、一日、十日。座に時間経過による風景の変化は皆無であり、地球時間を知りたければ時計を用意する他に方法が無い。
氷結の世界で響くのは闘争の撃音のみ。
氷像が砕け、汚泥が飛び散り、残骸は新たな兵となって再誕を果たす。
潰して潰されを繰り返した戦いは無限に続くように、けれど着実に天秤は怜の方に傾きを見せている。
容赦の無い力の投入。相手側が保有する炎の消失。
更に言えば、汚泥そのものにも怜はダメージを刻んでいる。星そのものに直接ダメージが与えられ、折角回復の進んだ意識が遠退き始めていた。
次に意識が断たれれば、その時点で星の敗北は必至だ。怜が生かすことは先ず有り得ず、二度目の復活を彼女は阻止するだろう。
星は必死だ。必死になって立ち向かっている。
過去とは異なる立場で、挑戦者としての己を余儀なくされた。その激突は常人の理解出来る範囲を大きく逸脱し、怪獣同士の食らい合いは弱肉強食のスケールサイズを一段階も二段階も引き上げている。
化け物を倒すのは何時だって化け物だ。その道理に沿う形で、二つの存在はある意味純粋な決闘を行っていた。
意識が千切れる感覚は恐怖を齎し、生み出したガワだけの怪獣が負ける度に何処かが削れていくような焦燥を覚える。
人間の負の感情は大きく深い。感情を覚えたばかりの存在に対し、負の要素に満ち満ちた感情の波は処理し切れるものではないだろう。
慣れ親しみ、負の海を前にバカンスが出来る怜を前にしては隙だらけもいいところだ。
悪感情の扱い方は誰よりも熟知している。日々膨大な悪意を受けていた彼女は、笑みを崩さずに冷静さを貫くことも可能だ。
「ほらほら、兵の間に穴が出来ているよ? 更に削られたくはないだろう。 頑張れ、頑張れ」
優しく慈しみを込めて応援を送る。
無論、それが煽りであるのは言うまでもなく。星は新たに苛立ちを獲得し、邪知暴虐の彼女を潰せとひとすら一直線に兵を進めさせる。
そうすることで自身の身の守りが疎かになるが、最早星には自身に気を遣うだけの余裕は残されてはいない。
倒せ、倒すのだ、何としても彼女を撃滅するのだ。
加速する兵の足。首を振るい、腕を回し、足を蹴り出して氷像を倒す。
先程よりも明らかに氷像の消費が加速するも、やはり怜に焦りは無い。そもそもこの世界は彼女のものであって、星の得意領域ではない。
あらゆる法則が彼女に味方する世界において、負けを考えるのは非常に愚かなことだ。
管理者であること。それ自体がイコールで世界の構築を可能になることを指している。
挑むには今の星は分不相応だ。偉人達であれば十分以上に戦えるであろうが、彼女を前にしては不足が多過ぎる。
結果、体感的には長く感じた戦争は星側の燃料の完全消失によって終わった。
怪物は力無き泥に戻り、氷像が小さくなっていく泥を囲んでいく。星としての力は極小にまで落ち込み、最早近くの人型兵士すらも倒せはしない。
「……えー、もう少し足掻いておくれよ。 折角出て来たのなら僕等を驚かせるくらいの脅威になってくれ。 ほら、よく言うだろ? まだだってさ」
――――――。
星は未だ言語を口から吐き出すことは出来ない。出来ないが、意思そのものを彼女に伝えることは出来る。
星として存在していたが故に、頭脳と呼ぶべきか定かではない部分は優秀だ。
元管理者として理論や道理を当て嵌め、彼女に向けて無理の二字を送りつける。
諦めず、気力を振り絞って限界を超越すること。それは本来有り得ないことで、人間は定められたスペックの中で無意識の内にセーブしているだけに過ぎない。
現界を超えるとは即ち、自身の本来のスペックを発揮しているだけ。決して限界の超越など起こらず、それを知っているから星は不可能であると断じた。
その思考には一定の理解があるのか、怜は頷く。確かに本気になったこともない人間が本気になれば、それは限界を超えたような錯覚を周囲に見せる。
俺にはこんな能力が。私は落ちこぼれではない。僕には才能がある。
そういった言葉の殆どは、実は人類全員が予め備わっている機能なのだ。才能の差異は人間の中にはあらず、あるのは物事に対するコンディションの振れ幅のみ。
管理者になったからこそ怜は知っている。人間の語る才能の差と呼ばれるものは、単なる認識能力の欠如が見せる幻影でしかないのだと。
――それでも、と怜は自身の思考に否を打ち込む。
「限界を超えることは人間には出来ないってのは、お前の傲慢さ。 現にお前は打倒された。 自身より明らかに劣る人間に。 おっと、私の後押しがあったってのは言い訳に過ぎないぜ? 与えられた物を十全に使いこなせるかは、本人の力だ」
怜は信じている。否、知ったのだ。
あるいは教えられたと言っても良いだろう。無理だとされる星を倒した男を、怜は確かに見ていたのだから。
そこに限界の超越があったのは間違いない。極限の願いが見せた焔は、神話に登場する聖火に勝るとも劣らぬ極光を放って消えていないのだ。
いいや、いいや、この言葉は違う。神話の炎など欠片も相応しくない。
あれこそ新世界を照らす真なる太陽。この時代に蔓延る悪を一掃する、青き清浄なる火。
あれを星が生み出すことは出来ない。あれを怜が人工的に再現することも出来ない。
唯一無二。故に最強。ここに疑問の余地は無い。
「あの人は僕等の規格を超えた。 人は誰かに操作されずに己を改革させることが出来ると証明した。 ならば、そこに応えるのが伴侶の務め。 男が気張っているのに、女が気張らぬ訳があるまいよ」
成程、怜は強いだろう。
管理者としての機能をフルに活用すれば、大英雄を相手に互角以上に立ち回ることは出来る。
だがそれでも、彼女が大英雄に勝てると思っていないのだ。如何な地獄の環境に放り込んでも、彼なら絶対に地獄から飛び出して来ると確信している。
その気概の強さを怜は愛していた。砕けることを知らぬ強靭な魂に恋をした。
ならば、男の伴侶として相応しい女になることの何処に疑問がある。暖かな陽の光を与えるのが彼ならば、彼女は極寒の氷界こそを与えよう。
「さて、君は感情を有したばかり。 爆発すべき燃料を多く抱えていたにも関わらず、結局爆発を起こすことはなかった。 これが君の限界で、君風に言うのなら限界だ。 ……もう君を生かすだけの理由は無いね」
氷の世界が浸食を進める。
星を目指して一目散に自身を伸ばし、触れた先から飲み込んで同じ氷に変えていく。
敵は僅かな力を振り絞って払おうとするも、手加減の無い氷の前には赤子が象に挑むようなもの。総じて無力に終わり、やがては全てが飲み込まれた。
動くことが出来なくなり、氷がゆっくりと泥を分解させていく。一度目は単純に打倒しただけだが、今度は真の消滅を彼女は与えようとしていた。
喪失の恐怖に星が声無き叫びを放つも、それを怜はするりと無視する。彼女にとって星など既に路傍の石。
他人が道路の脇で何事かを呟いていたとて、普通の人間は一切気にしないだろう。
消えて消えて、最後の星が抱くのは悲しみ。
どうしてこうなったのか、何が悪かったというのか。結局は全て人側の都合で、これを無視するということはゆっくりとした人類の破滅に繋がる。
星は生きたかっただけだ。肉体を健康な状態に治療したかっただけ。それを否定する事は誰であっても認められるものではない。
「君はやり方を強引にし過ぎた。 話の通じない相手が突然暴力を振るってくれば、誰だって防衛をしようとするだろ?」
最後の反論に答えるだけの力を星はもう持ってはいない。
氷が触れ、分解に分解が進み、意識は粉々に砕け散る。後に残るは何も無い氷の世界のみ。
あらゆる生物の存続を許さぬ空間は静けさに満ちていた。




