【百三十四点】世界が凍る
「今更来るなんてね。 正直面倒臭いだけだよ」
管理部屋を抜け、一番近い汚染された部屋を開ける。
彼女は自分が暮らし易い環境を構築する過程で無数の部屋を作った。そのどれもが将来何に使うかも決めていない空室であり、相手は管理部屋を目指す最中に占拠している。
汚染された内部は黒い汚泥に染まり、ゆっくりと次の部屋を目指そうと浸食を続けていた。彼女が来たことで浸食は一時的に停止したが、相手は先に彼女を潰そうと考えたのか泥の矛先を怜に絞り始める。
隠す必要が無くなったことで勢いは増すが、やはりその速度は遅い。力が戻っていないのは瞭然で、何故もっと待てなかったのかと彼女は素直な疑問を覚えた。
屈辱的に感じたのか、そうすることを本能が求めたのか。星の意思に本能や理性といった概念が存在するかは不明だが、少なくとも相手の行動はおよそ理性的とは言えない。
「会話も出来ないなんてね。 尚更なんで来たのか解らないよ」
管理者権限を行使。
その手に氷の息吹が纏わり、彼女は相手に対してそれを払う。侵攻する汚泥は次の瞬間には凍結し、自身から解除しようとする素振りも見せない。
しかし彼女は真剣だ。普段の口調に戻しながら手抜きを止め、敵の挙動を全て視界に収めている。
管理者になったことで彼女の出来ることは増えた。
地球という星の範囲に絞られるが、その中で出来ないことは基本的には無いと思っても良い。
魂の管理でさえも今の彼女なら出来るのだ。故に、網膜に敵の侵攻状況を投影して遠隔で氷結させることも造作も無い。
相手は浅く広く足を広げている。深く犯そうとすれば制御事態を乗っ取れたのだろうが、やはり権限を喪失状態ではあまり旨味は無い。
真に奪取して全てを改竄するには、どうしても彼女が持つ資格が必要だ。
それを手にする為には、星は自身の手で彼女を撃破する必要がある。殺し、精神を破壊し、奥底の鍵を手にしてこそ有資格者として再度君臨出来るのだ。
やっていることが四家と何も変わりは無い。己の目的の為に他者を容易に殺そうとする様は、正しく人間味に溢れていた。
「お前、暫く見ない間に随分人間味が溢れるようになったじゃないか。 汚泥の底で人間に負けたことを反省でもしたのか?」
凍結させながら嘲笑を送る。
星はその発言を――――まったくもって容認する訳にはいかなかった。
凍結した部分が爆散する。熱量を伴わず、単に衝撃だけで凍った部分を粉々にして脱出した。
脱出した泥は融合し、そこから浮かび上がるように物体が形成される。
出来上がったのは骨の巨人。髑髏の頭を持つ人型の姿は全長にして二十mを軽く超えている。
全身は黒く、泥が滴り落ちては腐臭を放つ。
化け物の粘性の悪意は人間の悪意に酷く近い。千人分の悪意を煮詰めて整えたような姿に、彼女は口角を吊り上げてこれまでにない素を露にする。
「ははは、学習したくもないのに学習したのか! そうするしか他に方法が無いと考えて! それで真似をしたのか! 怪獣の姿をさぁ!?」
『――――ッ!!』
髑髏が声無き雄叫びを上げる。
同時に全身の骨という骨から黒い線状の物が彼女目掛けて殺到した。
十、百、千、万。数えるのも馬鹿らしい質量の暴力が迫り、されど彼女は笑みを深めるだけで回避も防御も選択しない。
解っているのだ。目前の怪獣を、嘗て彼女は倒した覚えがある。
その時は怪獣なりの意思を有していたが、目前の存在はガワだけの張りぼて。威力そのものに変化が無いとしても、積み上げてきたものがまるで存在しない。
生存競争の中で磨かれた技術はそこに込められてはいないのだ。あるのはただ、外側から取り込んだ情報を再現した事実のみ。
座に甲高い音が鳴る。
無数の骨が地面に到達したことを知らせる音に、髑髏の顔が歪む。これで倒せたとは思っていないが、少なくとも手傷は負わせた筈だと。
髑髏の巨人は過去に偉人達を滅ぼす為に誕生した個体だった。それが持つ力に星が残り僅かとなった炎をぶちこみ、情報よりも強靭に仕上げている。
きっと相手には前と変わらない状態だと認識させただろう。ぎりぎりで防御するか回避するかの二択を与え、当たるまでの最後の瞬間にわざと速度を上げた。
高速で動く物体が更に速度を加速させても、意外に人間の目では同じ様に見える。
人間にとってその速度が認識可能な限界点であり、加速しても上が解らないのだ。計測上では上がっているとしても、体感で速度の差を認識するのは不可能なのである。
今、星はそれを使った。人類を嫌悪しているにも関わらず、人類が使う常識を利用した攻撃を仕掛けた。
「ふふふふふ、良いね良いね良いね。 好奇心が疼く、検証したくて堪らない、お前は一体何処まで人に近付くことが出来るんだ?」
刹那――世界が凍る。
過程を超え、結論が座の空間に顕現した。汚泥は脆い氷柱と化し、それらは急激な冷却に耐え切れずに罅を走らせ折れていく。
崩れ、崩れ、無数の骨はただの残骸となってその場で転がる。
その中に、怜は居る。パーカーから溢れ出す冷気、灰色に輝く零度の眼。
水等必要とせずに全ては氷に覆われ、覆われた世界に彼女は自身の手駒を放出する。
凍える氷を切り出して生まれるのは、巨象に獣に騎士と様々。
全てが透明な氷から誕生しては怪物を屠る為に前進する。全てはただ、この世界に君臨する女王の為にと。
「下の方は炎を回収されたようだね。 なら、もうあの塵が足掻いても負けることはないだろうさ――じゃあ、ゆっくりと調べても良いよね?」
泥は上を見上げた。
女王である怜は、何時の間にか構築された獅子の頭の上に座っている。
獅子は眠っている体勢を貫き、彼女を振り落とそうとする素振りは微塵も無い。その四肢は全長二十mの巨人よりもなお大きく、わざわざ計測するのも馬鹿らしく感じるサイズを有していた。
咆えただけで髑髏は吹き飛んでしまうかもしれない。髑髏そのものに明確な意思は存在しないが、操る側の星は彼女の意図を察して恐怖という感情を認識する。
恐れ、怖がり、不安になって、遠ざけたいと思うもの。
目前の女は、星という概念に人としての情や言動や備わるのかを見てみたがっている。
何よりも忌避すべき変化を彼女は起きるのかと調べたいのだ。
最終的な結論を導き出す為ならば幾らでも時間を使いかねない。彼女の好奇心が強く表に出る時は、往々にして最悪な未来を引き摺り出すことになる。
それが今回は星に向けられただけの話で、他の人間が相手でも彼女は一度気になったら必ず調査する。
「暴れて良いよ、藻掻いて良いよ、必死になって良いよ。 汚泥を集めて軍隊を作って、そして僕を襲ってくれ。 その全部を……僕は壊そうじゃないかぁ!」
狂気の光を灯し、氷の怪物が一斉に汚泥を駆逐せんと動き出す。
その光景に汚泥は恐怖しつつも、彼女の言う通りに状況を脱する為に周りに広がっていた他の泥達の回収を始めた。
目前の相手に対して手抜きなど不可能。全身全霊を傾けて排除しなければならない。
生きろ、生きろ、ただただ生きろ。
荒れ狂う意思はまともな造形も出来ずに泥の軍隊を形成して噛み付く動物と激突させる。
そこに核は無い。
そこに人は無い。
そこに武器は無い。
白と黒の世界で彼等は何時終わるかも定かではない戦いを始めた。
さながらそれは最終戦争。万を超える存在が両者の間に誕生しては消滅し、強烈な食らい合いを生み出す。
彼女はそれを上から見ていた。見て、見続けて、神が如くに指を振るうのだった。




