【百二十八点】オカルトが無い時代の信者
視界の全てが鮮やかな青に染め上げられていく。
何もかもに薄い青のフィルターが入り、俊樹が見えている世界が何処か幻想的な雰囲気を放つ。
場は鉄火に包まれているにも関わらず、彼にはそれが異世界の戦場のように感じられた。夢幻に足を踏み込み、現実との境界が曖昧となった感覚は――――されどこの場を鎮める効果を持ち得ない。
俊樹の身を包むパーカーは赤かった。だが、周囲に零れ出る炎の色は全て蒼く染まっている。
創炎に非ず。これこそが大英雄の真の蒼炎。目にした機会は過去に幾つかあったものの、自身で引き出した回数は皆無である。
俊樹本人が覚えていない状態では一度あったが、それとて赤に僅かな染みを作った程度。とても今程の量となっておらず、だからこそ周りの誰しもの視線を奪う。
女が見ていた。偉人が見ていた。撤退を始めた特務部隊の隊員達が見ていた。
より質を高め、高純度の領域で溢れ出す最強の矛。防御としても機能するが、今の俊樹には刃としての使い道しか思いつかない。
頬に走った罅からは外に溢れ出る蒼炎と同種の炎が僅かに漏れ出ている。
今この瞬間も内側から俊樹の肉体を焼く様は、正に命を削っているに等しい。
『逆鱗に触れられたとして、そう簡単に激昂するな。 操作がまるで出来ていないぞ』
不意に、蒼炎の波の中から男が現れる。
長身で、筋肉質な身体。黒のマスクを付けて紺のパーカーを羽織る姿に、カエやオームは一早くそれが誰かに気付いた。
「レッド様!」
カエの喜びに満ちた言葉に、大英雄が顔をそちらに向ける。
親愛の情の籠る視線にカエの胸は満たされ、自然と口元は柔らかな弧を描いた。
この場における、最強の援軍。偉人でどうにかならなかった場合に解決することが出来る、唯一の超越者。
人の身による限界突破者。極星に到達し半ば神も同然となっている彼は、肉体を持ち得てはいないものの炎と共に表に顕現した。
おお、と感嘆の声が出る。その声を出したのは、敵である女だった。
彼女は恍惚の表情で彼を見やり、一歩前に踏み出してから膝を付く。そして敬虔な信者かのように、両の手を頭の前で組んで祈りの姿勢を取った。
「お初にお目にかかります。 いと高き御方にこうして御会い出来るなど、望外の喜びで御座います」
『…………』
「貴方様のお蔭で私は今、目標へと手が届きそうになっております。 本来であれば自身の力で成し遂げるべきなのでしょうが、情けなくも力不足の矮小なこの身では全ての問題を解決することは不可能でした。 こうして御力を与えてもらわねば、私はそこらの小娘のように息絶えて屍を晒すことになっていたのです」
粛々と、先程までの強気な姿勢は何処に行ったのかと問い質したい程に楚々としている。
乱れた黒髪や着物でなければ清楚な大和撫子を想起させられる声に、それを簡単に出してみせる彼女に異常性を強く感じた。
相対すべき者の地位によって態度を変えるのは自然だ。社会で生きていく以上は、どうしたとて仮面を被る必要は出て来る。
だが彼女は、炎の性質を変化させる程の強い我の持ち主だ。そんな人物が自我を抑え込むなど、相手に対する並々ならぬ感情が無ければ不可能である。
この女は、間違いなく大英雄に強い感情を向けているのだ。それが何であるかは、女の態度で嫌でも解ってしまう。
「ああ、貴方様の御力は誠に素晴らしいものです。 絶対強者の名に相応しく、誰もがこの炎を前にして手出しが出来ない。 美しき黒の輝きも、全てを灰に変える無慈悲さも、新たな秩序を作る象徴として不足などない――いいえ、私如きがそんな言葉を募らせてはならぬ煌めきを感じます」
信仰だ。
彼女は大英雄という神を讃える狂気的な信徒であり、狂いに狂い果てたからこそ仮面を被ってこれまで普通の生活を送っていたのだろう。
一周回ればなんとやら。様々な時に用いられる言葉だが、彼女もまた狂いきったからこそ冷静さを保てた。
中途半端の無い、心底からの信仰心。神よ、我等が偉大なる父よ――このような難局において、斯様な力を授けていただけたことを感謝致します。
女は本当に大英雄が力を貸してくれているのだと信じている。僅かな疑いも入らぬ完璧な信頼は、人間味に乏しい。
それを俊樹は間近で見て、なんだこいつはと内心で驚きを抱いた。
信仰とは即ち、縋ることだ。
今の自分を救ってくれる誰かに縋ることを、俊樹は信仰であると思っている。
苦しい時、絶望的な時、どうしたって困難な壁に激突した時に人は何かに祈るのだ。
オカルトがまったくと姿を消した現在でも、漠然と神に祈る人間は居る。
助けてくれと切に願い、そして結局助けてもらえずに悪態を吐きながら自身の頭で解決策を捻り出す。
それが人間の普通の思考で、少なくとも女のようにここまで全力で大英雄に縋ることは稀だ。
洗脳された人間の方がまだ現実味がある。故に、彼女は化け物なのだろう。
落ちるところまで落ちて、掬い上げてくれる誰かが居ないまま暮らし、壊れた頭が神を求めた。
それが大英雄であるならば、彼女は全身全霊を掛けて縋る。
最早そうすることでしか生きることが出来ないのだから。何があっても、頭の中には無数の神に対する祈りの文言が蔓延っている。
そして彼を頂点とするからこそ、力を授けてもらえたと誤認しているからこそ、彼女は絶対の自信でもって他者を見下す。
お前達に寵愛は無い。彼の御方の愛を受けるのは、全てこの私である。
全てを擲って祈らないような塵共に生きる価値無し。須らく滅び去るのが地球環境の改善に通じるであろう。
「――気持ち悪いな、あんた」
女の様を見て、祈りを聞いて、俊樹は言葉を紡いだ。
盛大な嫌悪を剥き出しにし、炎を噴き上げながらただただ気持ちが悪いのだと告げる。
醜悪な女だ。
彼女は真摯に祈っているように思っているのだろうが、その目は情欲に塗れている。純粋な女として大英雄をモノにしたいと思って、それを本人が自覚していないのだ。
彼女がしていたのは、謂わば惚れた男に見合う女になろうとしただけ。
それ自体は普通であるが、その為であればあらゆるものを切り捨てて蛇の如く狙う様は醜いにも程がある。
鳥肌が立つ。背筋に冷たいものが流れる。あれを同じ人間だと認識したくはない。
それは大英雄本人も同様なのだろう。
眉を顰め、忌々し気に舌を打つ。一秒も視界に入れたくないと態度で示し、信徒に対して最大の爆弾を放り投げた。
『貴様、誰だ?』
「――――ッ、?」
大英雄は女を知らない。死んでからの記憶は無いのだから、この女がどんな名前でどんな役職に就いているのかも彼は知らないままだ。
接触など当然していないし、語り掛けた覚えも皆無。そも、彼女が纏う炎は全て信仰する彼の炎を奪って加工されたもの。
それを当人が自覚していない以上、全ては滑稽に下り落ちる。ただでさえ落ちている彼女が、更に叩き落されるのだ。
『俺はお前に力を授けた覚えなどない。 怜が管理の目的で炎を使うことは自由にさせたが、後継者でもない人間に俺の炎を与えるなど有り得ない。 ……お前は一体、何を言っている?』
「――ふ、ふふ。 御冗談を。 私を更に御試しになられているのですか?」
『いいや、真実俺はお前を知らない。 そも、その炎は今も俺から奪って使われている。 授けたと言うが、お前は俺の炎を盗んでいるのだ』
残酷に彼は女を処断する。
夢は何時か醒めるもの。縋ったところで、彼女の縋り先はただの案山子だ。
何も言わず、意思も持たず、彼女の妄想によって動くだけの木偶の坊に過ぎない。
ままごと遊びはもう御終いだ。彼女は現実に目を向け、そして何が起きているのかを正確に理解する必要がある。――例えその末路が一つと最初から定められているとしてもだ。




