【百二十五点】極星に到達している者
――その感覚は、突如として怜を襲った。
背筋を巡る悪寒。普段から他者の悪意を塵屑と断じる彼女にとって、悪寒をそのまま感じることが出来てしまう事態は異常だった。
場所は鳴滝家。俊樹が最初に訪れた家々は、全てが氷の世界に閉ざされている。
特務部隊も、仲間である偉人も、総じて全員が白い息を吐きながら出来上がった結果に戦慄を覚えた。
ただし、両者の間には明確な差が存在する。
特務部隊は畏怖を、偉人は歓喜を。共通するのは敵ではなかったことに対する喜びであり、鳴滝家は何も出来ずに全てが破滅によって終わってしまった。
生き残りは居ない訳ではない。当主である鳴滝・空茂は唖然としたまま、氷結に囚われた生家を見つめる。
筋骨隆々な肉体に傷は一つも無い。
両腕を偉人二人によって拘束され、膝は破壊されている。着ていた衝撃吸収素材の白の格闘着は、あちらこちらが土に塗れて破れてもいた。
口元からは血が流れている。今もなお粉砕骨折による激痛が肉体を巡っているというのに、彼は家から目を離さない。
いや、正確に言えば違う。彼が目を離さない理由は、家の中に居る彼の家族だった者達の姿だ。
女も男も、自身の子供も妻も含めて全ては氷に閉ざされた。
小山の如き氷は一瞬の内に出来上がり、最初はそれはただの柵としてしか機能していなかった。
勿論、これが敵の攻撃であったことは間違いない。
空茂を筆頭に武闘派の者達で氷の破壊を実行し、その悉くが無駄に終わった。
寧ろ、触れた箇所から氷は拡大を始めたのである。拳を打ち付けた者は肌を潤す水分を伝って氷漬けにされ、武器は周りに漂う水素を用いて流れるように最後には氷漬けにされた。
武器を手放して逃れることが出来たのは空茂を含めた極少数。
実力的に上位の者だけが生き残り、しかしそれが幸福に繋がることはなかった。
最初は柵として機能していた氷は徐々に内部も凍らせ始め、次々に領土を侵しては止めることを許さない。
氷の内部では悲鳴が上がっていた。助けてと懇願する声がしていた。空茂に救いを求める者が殺到して、けれど彼本人ですら氷を突破することは出来なかったのである。
彼は一生分の絶望の声を聞いた。
赤の他人の声であれば幾らでも我慢出来た声を間近で聞き、心中の過半が焦燥と恐怖に支配されていたのだ。それでも僅かに冷静だった部分が、人類である自分達を殺すことはないと思い込んでいた。
それは楽観であり、逃避だ。彼は確かに同じ人類であるが、偉人達が人間を絶対に殺さないなど有り得ない。
殺人が許容されたのであれば、彼等は容赦無く殺す。全てが終わった後に、空茂は氷に閉ざされる瞬間にそれを覚った。
「な、何故……このような仕打ちをするのですか」
震える声が、まだ彼の体温が元に戻っていないことを伝えている。
氷に閉ざされた彼は、暫くの後に引き摺り出された。目覚めた直後に足に激痛が走り、腕を動かそうとして拘束されていることを彼は理解し、目の前に映像で出て来た女が二本の足で立っている様を視界に収めた。
そして、彼女が横にズレた瞬間に全てが静止した家を見ることになる。
誰も動かず、意識を喪失し、やがて体温の低下により彼等は死亡することになるだろう。
走り寄って氷を殴りたい。例え無駄に終わるとしても、せめて自分が足掻いたことで自分を慰めてしまいたい。
情けない話だが、彼の心は折れている。
折れているが故に、口から漏れ出た声もまた弱弱しい。とても俊樹が会った頃のような強さは感じず、特務部隊はこれが過去に会った人物と一緒なのだろうかと困惑すら抱いた。
強い者は、その強さこそが心の拠り所になりやすい。愛する者が居ればそれを心の拠り所とするだろうが、空茂によっての芯はやはり強さだ。
彼は優しい人間だった。権力を振りかざすことを良しとせず、同じ苗字を持った親族達にも当主として情けない様を見せるなと日々厳しく告げていた。
そのような振舞いは、将来的に身の破滅を招くことになる。俊樹の手により死んでいった者達がその証拠だ。
「答えてくださいッ。 ……私は、私は何もしていません! 誓って何もしていないのです!!」
鳴滝は積極的に仕事を続けてきた。
過去の方々の行いを継続させ、一度の間違いも起きないよう真面目に終わらせている。社会との繋がりを深める目的で様々な企業と会食を行い、本意ではないが政略結婚という形で援助の約束を取り付けることもあった。
なるべく身内の結婚は盛大にしてやる。作れるだけの二人だけの時間も用意させた。
互いが納得する形での結婚になるよう進め、それでも後悔が湧くことばかりだ。
家長として、尊い者の血縁者として、人類の守護を担う代表者として、彼に圧し掛かる負担は大きい。
問いには怒りが込められていた。
何故、こんなにも当主として働いていたにも関わらず丸ごと殺されることになったのか。
それに対する答えを、怜は発しない。それどころか、彼女はもう既に目の前の男や氷漬けにされた家を意識に入れていなかった。
疑似脳が満たすのは通信と、並行で続く確認作業。
通信相手はカエだ。切羽詰まったような内容に、怜は嫌な予感を覚えずにはいられない。
『怜様ッ、突然の通信失礼致します。 予想外の敵が侵入しました!!』
『管理者権限で確認をしている。 ……だが、これは』
『星です。 あの時倒したと思った星が、復活してあの方の炎を奪っているのです。 その炎を西条家の新たな当主に与え、現在は私とオームで戦闘を継続しています』
網膜に映るのは地球という惑星に蓄積された情報の履歴一覧。
その中から人類の項目のみを引き出し、更に四家内の西条家のみに絞る。個人個人の来歴の一切を見ず、現在出力されている創炎の出力を彼女は見た。
そこには、明らかに限界以上の出力を発揮している女が一人だけ存在している。
限界を百とすれば、二百にまで引き出している女こそが件の人物だろう。加え、その限界は一秒毎に更新されている。
『迅速に用事を終わらせる。 それまでは周囲の者達だけを殺せ』
『既に開始されています。 孤立させ、時間稼ぎをしつつ更なる情報を取ります』
『そうしろ。 情報はリアルタイムで送ってくれ。 此方も迅速に向かう』
『畏まりました』
通信が切れる。
今度は怜が他の偉人全員に通信を繋げ、西条家で起きている出来事を端的に説明した。
途端、偉人達の中に動揺が走る。表情には出さないものの、予想外の事態は最悪の中の最悪と評すべき内容だ。
空茂の主張を偉人達は一切聞かなかった。ただ一言、偉人は特務部隊に殺せと命じるのみ。
この隊の隊長となった男は、偉人からの命令に否を唱えることはない。
ただ静かに拳銃を空茂の米神に当てた。
「お答えください! どうして、どうしてなのかと!!」
「――それはあんたが何をしなかったからだ」
答えない偉人達の代わりに、拳銃を持った男が短く答えた。
引き金が押され、発砲音が辺りに響く。肉体的強化の無い者は普通の人類と変わらない。
彼は最後に驚愕を顔に張り付け、横に倒れた。
更に追加で心臓にも銃撃を与えられ、地面には空茂の血が染み込んでいく。
確かに、空茂は何もしなかった。悪意ある行動も、彼等を止める勇気ある行動も。
ストッパーになれるだろう人物がストッパーとして機能しないのであれば、何の役にも立たない。
この男の罪を並べるならば、本当に何もしなかったことが罪なのだ。
「特務部隊は後始末を頼もう。 先程、西条家で想定外の事態が起きた。 我々はそちらに向かう」
「っは! お気を付けください」
怜は一足先に全速でもって空を翔けた。
パーカーが分解され、新たなスーツが新造される。光沢の強い、白の装いはサイバネティックな光を放っていた。




