決闘者たちはカードを食べて生きています~食堂編~(前)
全2部、17000字程度のオリジナルカードゲームバトルモノの短編です。
「はぁ~~~」
塔の下層に存在する食堂で、女将は頬杖をついていた。
ここは通称「塔」と呼ばれている高層建築物の内部。塔は外部と隔離されていて、自由に行き来をすることはできず、その内部には5万人近い人々が暮らしている。
そして、塔の住人全員がTCG"3D6"で闘うことができる決闘者であった。
カードを入手するためのパックチケットはそのまま塔内部で流通する通貨となり、決闘者たちは自らのランキングに応じた報酬を得ることができる。
この塔という場所では"3D6"の実力がそのまま「力」であった。
決闘者たちは自らの力を恃み、戦いを求めて塔へとやってきた無頼者ばかり。
しかし、勝つ者あれば負ける者あり。どうやら、塔へとやってきた決闘者全員が向う見ずなままではいられないようで……。
「はぁ~~~」
女将は再度溜息をついた。
食堂の暖簾は裏に仕舞ったままで、まだ客は入っていない。
しかしここ最近は、営業時間中もあまり客が入らず、食堂には閑古鳥が鳴く有様であった。
「お客さんは水物とはいえ、どうにかしないと」
「そう思うなら暖簾を表に出せばいいのよ」
ため息が止まらない女将の後ろから、男物の臙脂色のコートの裾をはためかせた大柄な女性が声を掛ける。
「エブさん、まだうちは開いてないんですけど」
「あら、そうだったかしら。もうとっくに営業時間かと思ってたんだけど」
大柄な女性、エブは後ろの壁に掛かった営業時間案内のプレートを親指で指した。既に営業開始時間は過ぎている。
「今日のランチは臨時休業です。入口にも張り紙があったと思いますけど」
「私が食べたくなったのよ。ほら前に頼んでたジンギスカン、再現できたかしら」
「そうは言っても食材がないんですよ。羊肉ブレンドも全滅です」
女将の言葉通り、食堂の入口には「仕入れに問題が生じたため、一週間ほどランチを取りやめ、夜間のみの営業となる」旨の案内が貼り出されていた。
滞っている仕入れは、塔の中層から食堂がある下層へと送られてくる分であり、その中にはエブが好む珍しい食材も含まれていた。これらの下層では入手できない食材の仕入れが難しくなったため、食堂の営業は目下縮小中なのであった。
「どうやら輸送中の食材が略奪に遭っているみたいです。下層では珍しいモノも多いですから」
「ふぅん……。じゃ、ありあわせでいいから何か出してもらえるかしら」
「だから営業中じゃないんですけど」
文句を言いながらも、女将は調理場へと向かった。エブはカウンター席に腰を下ろす。
「チップスでもいいですか?」
「おまかせで」
「はいはい……っと、すいません。≪小手切り≫を切らしてたみたいで、他のものでも」
「≪小手切り≫ね。ちょっと待ってもらえるかしら」
エブは頭を下げようとする女将を制止すると、上着の内ポケットを探り始めた。
「運が良かったわね。ちょうど持ち合わせがあったはずよ」
エブは内ポケットの中身をカウンターの上にぶちまけた。それらは全てがカードであった。裏面には3D6のロゴがあり、表面にはそれぞれ違ったイラストと文字が印刷されている。カードゲーム3D6で用いられているカードだ。
エブはその中の一枚をカウンター越しに女将へと手渡す。渡されたカードの表面には≪小手斬り≫の文字が刻まれていた。
「助かりました」
「気にすることはないわ。私はあまり使わないカードだから」
エブがひらひらと手を振ると、女将は調理へと戻っていく。
塔に住まう決闘者たちはカードを食べる。いや、それ以外の普通の食事を楽しむことができないと言うべきだろうか。
カードは決闘のための道具だが、同時に、一般的な料理が喉を通らない彼らの食料でもあった。
そして、彼らはカードを食すことで、飢えを満たすことに加え、味のようなものを感じることさえできた。
食欲は人間の三大欲求の一つ。カードから感じる味を組み合わせ、料理を再現する「料理人」が現れたのも当然の帰結と言えた。
しばらくすると油の香ばしい匂いが漂い、それから間もなくカウンターには衣に包まれた揚げ物が並んだ。衣の中身は数種類のカードを混ぜたものだ。
「いつも不思議だったのだけど、どうしてわざわざ外の料理と同じような調理法を使っているのかしら。味はカードのブレンドだけで再現できるのよね?」
「はい、その通りですし、他のお店さんも食材はカードだけというところが多いと思います。けれど、味だけでなく、見た目や匂い、食感なんかはこの方が本物に近づくかなと思って、こういうやり方でやらせてもらっています。……おかげで原価が高過ぎる食材は使えないんですけど。外の食材はあんまり手に入らないですから」
女将の話を聞きながらも、エブの手は止まらず揚げ物をつまみ続けている。
どうやら、話を振られたことでスイッチが入ってしまったらしく、女将は料理へのこだわりについて喋り続けている。しかし、エブは女将のこだわりに強い興味を抱いているわけではなかった。この食堂と女将が美味しい食事を出している。その事実がエブにとって重要なことであった。
合成チップスが残り少なくなってきた頃合いで、エブはいよいよあらぬ方向へと逸れはじめていた女将の話を遮った。
「それで仕入れの話に戻るのだけど、護衛はどうしていたの?」
「え、ええと、二回目からは中層の決闘者の方にお願いしているんですけど、その方も……」
「案外、その護衛が犯人だったりして」
「それはないと思います。護衛の人はランキングが下がったらしいですから、護衛中に決闘になり、そこで負けてしまったのは確かです」
塔に住む決闘者は全員がランク付けされていて、その順位は照会すればすぐに分かる。このランキングによって、住める場所も、下層・中層・それ以上と区分けされていた。中層に住む決闘者というだけで、下層に住む女将たちよりも強い力を持っていることは確かであった。
「それに、中層に住めるだけの実力があれば、略奪なんかしなくても自力で食材も手に入りますから」
女将は困ったように苦笑いをした。女将は食堂の二階部分で暮らしている。そこはもちろん食堂と同じく下層に区分けされている。今の女将には先程までの溌剌とした様子はなく、どこか寂しさが混じっているようにも見えた。
エブは女将を一瞥して、席を立った。
空になった皿の隣にはお代のパックチケットが置かれている。
「そ、じゃあ、今日の所は出直すことにするわ。ごちそうさま。おいしかったわ」
「はい、またいらっしゃってくださいね。今度は暖簾が出ている時にお願いします」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
エブがふらりとやってきてから一週間、未だに食堂の仕入れ問題は解決していなかった。仕入れの実に四分の一近くが略奪の被害を受け、長期に渡るトラブルによって、夜間の営業にまで支障が出る事態となっていた。間違いなく味を占めている略奪犯とは裏腹に、女将は苛立ちを募らせていた。
そして今日、このままで埒が明かないと、痺れを切らせた女将はとうとう自ら仕入れに立ち会うことにしたのだった。
中層への行きは襲撃に遭うこともなく、無事に買い付けまで済ませることができた。折角なのだからと、少し買い込み過ぎて輸送料が高くついてしまったのが女将にとって予想外だったくらいだ。
ただし、問題は下層へと降る帰りだ。いつもこのタイミングで荷物と護衛が襲われている。
今日の護衛の決闘者は二名。決闘者が護衛を行う場合、単独で請け負うのが通例だが、今回は万全を期す意味で二名とし、二台の輸送車に分乗する形をとっている。二名とも信頼できる伝手からの斡旋してもらった決闘者であり、実力も確かだ。正しく準備万端であった。
「むしろ、これでも襲われたらもうお手上げですね」
そんな風に思う一方で、女将の中には予感があった。きっと、今回も略奪犯は襲ってくるに違いない。そんな半ばやけっぱちじみた予感があった。
しかし、女将の予感とは無関係に、二人乗りの小型な輸送車は走り出した。
塔がいくら広いとは言っても、あくまで建築物であり中で大型車が行き来するようには出来ていない。出来るだけ広い経路を伝っていくにしても二人乗りの小型車が関の山。それも途中からは荷車を人力で引かなければならない。
そして車は進み、中継地点。車両から人力に切り替わる場所で荷降ろしを行っていた時、女将は後ろから声を掛けられた。
「手伝いが必要?」
女将の後ろで臙脂色のコートがはためいた。そこにいたのはエブだった。
「どうしてエブさんがここに」
「嫌な予感がしたということにでもしておいて頂戴。そんなのはどうでもいいことだわ。私は手伝いが必要かと聞いているのよ」
「え、ええ、手伝っていただけるなら嬉しいですけど」
女将は戸惑いつつも、同じく積み替え途中だった護衛二人にも確認を取った。初めは訝しげだった護衛たちも、エブが女将の知り合いだと説明すると、首を縦に振った。積み荷のほとんどは体積がとても少ないカードとはいえ、量が量だけにかなりの重さとなっている。積み替えはなかなかに骨が折れる作業なのも事実であった。
積み替えが終わると再び荷車は走り出した。荷車は護衛の決闘者たちに任せ、女将とエブは荷車の後方で並んで歩いていた。
女将は隣を歩く大柄な女性の横顔を盗み見た。
輸送ルートは少し調べれば分かるとはいえ、逆に言うと、調べなければ分からない。女将には、エブのただの気まぐれがこの遭遇の理由だとは思えなかった。
「私の顔に何かついてるかしら」
女将は驚き、首を激しく横に振った。
「そう。てっきり私が下手人だと疑われているのかと思ったわ」
エブは隣を向かない。顔を動かさずに口を動かしている。突き放すような冷たい声だ。
「まさか、違いますよ。心配していただいたのかなと思っただけです」
エブは食堂の常連だ。略奪によって被害を受ける側なのだから、犯人の可能性は薄い。それに、女将としても彼女が略奪犯だとは思いたくなかった。
「ふん」
エブは一つ鼻を鳴らす。
「実際、襲撃はあると思う?」
「分かりませんよ。無いことを祈っています。お賽銭代わりに、護衛の方々には前払いのチップをお渡しました」
「その賽銭は無駄になるかもしれないわ。あたしの予想が正しければ、だけど」
「それはどういう、」
女将の言葉の途中で、突然荷車が止まった。次に聞こえてきたのは獣の咆哮にも似た大音量の声。声は荷車の前方から聞こえてきた。
「下がれっ!」
様子を見に行こうとした女将を、エブが鋭く制止する。
しかし、様子を確認するまでもなく、異変の元凶は荷車の影から姿を現した。
「獣……?」
それはまるで獣だった。あるいは獣のような男だった。
姿形は人間そのものなのに、両腕をだらりと地面に垂らし、前傾姿勢で積み荷に近寄り、地べたに座り込んでカードを貪り喰っている。あまりにもヒトからかけ離れたその様子に、女将には目の前に居る何かが同じ人間だとは思えなかった。
獲物の気配を察知したのか、獣はぐるりと後ろへ振り返り、女将を視界に収めた。その眼からは理性の光が失われ、代わりに獰猛な野生と餓えに対する渇望に満ちていた。
「おい、そこまでだ、止まれ!」
「ここから離れろ、早く!!」
護衛の一人とエブの声で、女将は我を取り戻した。エブの指示に従い、女将はエブの後ろに身を隠した。
あれが略奪者の正体なのだろうか。確かにまともな人間ではなさそうだが、お世辞にも決闘が強いようには見えない。あの様子なら、決闘にさえ持ち込んでしまえば取り押さえられると女将は感じていた。
『Gaoooo!!!』
『我が剣に――決闘を誓う!』
獣が咆哮する。それに応えるように護衛の男が決闘の前口上を宣誓した。すると、すぐに護衛と獣の間に決闘領域が展開された。同時に、獣の両手に一対の短剣、護衛の背には一振りの両刃剣と、それぞれの得物が現れる。外野からは見えないが、当人たちの視界には自分のデッキと手札が映っているはずだ。
決闘領域は決闘を行う際に自動で展開されるフィールドであり、これが展開されるということは決闘開始の合図になる。
そして、野良での決闘に敗北すると少しの間無防備になる。あの獣がこれまでの略奪犯と同一人物なのかは分からないが、少なくともアレを取り押さえることはできる。
そんな風に思っていた女将の耳に、ぎりりと歯を食いしばる音が聞こえてきた。音はすぐ前に居るエブから発せられていた。よく見ると彼女の肩や腕、全身がこわばっているのがわかる。
「エブさん?」
女将の声は聞こえていないらしく、エブは微動だにせずに前方を凝視していた。
そして、決闘領域は解除される。
「随分と早いですね。護衛の決闘者の方は優秀で」
「逃げろ、早く逃げるのよ!」
「え? でも決闘は終わって、獣は」
「勝ったのは護衛じゃないわ、レゾレスの方よ!」
「れぞ……何ですか?」
「とにかく逃げるの! もう一人の護衛もすぐに喰われるだろうからね!!」
エブは女将の背中を強く押す。前方では残った護衛の男がレゾレスと呼ばれた獣と決闘を開始し、再び決闘領域が展開されていた。
「でもエブさんは」
「あたしのことはいい、早く」
強い語気でエブは女将を促した。
エブの声色は冗談を言っているようにも思えなかった。促されるまま、何が何だか分からないままに、女将は走り出した。今、自分には理解できないことが起こっている。それは女将にもわかった。今はただ、エブの言葉と態度を信じることしかできない。
走りながら、言いようのない不安が背中を伝った。けれど、後ろを振り向いた時にはもう、彼女の大きな背中は見えなくなっていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
女将を見送った後も、エブはその場に残り、遠目から護衛の残りと獣との決闘に目を凝らしていた。
偵察あるいは下見。それが彼女が今日ここへとやってきた目的であったからだ。
「獣か……確かにそうだな」
既に敗北した護衛は、腰に提げていたデッキを丸ごと喰われている。中層の決闘者であれば中身も相当に値が張っていたに違いない。豪華な獲物にありつけて、あの獣もさぞ満足だろう。あるいはそれでもまだ喰い足りないほどに餓えているのか。
エブはあの獣に類する何かが略奪の主犯だと推測していた。しかし、あくまでそれはただの推測、実際に自分で確認したわけではない。
自分の目で確認して、改めて思う。あの獣は恐ろしい。
エブが獣を目撃したのは初めてではなく今回で二回目になるが、それでもなお恐ろしい。
限界を超え、理性を無くして荒ぶる力の化身。それが獣だ。おまけにヤツの力は決闘領域の決闘者保護機能までも超越しているらしく、決闘を通して実際に傷を負ってしまうこともある。
自分がヤツとこの場でやり合えば、5ターンと保たずに完膚なきまでに打ち倒されてしまうのは間違いない。それは、前方で地面に這いつくばっている、エブよりランクが高いはずの決闘者がその身で示している。むしろ、離れた場所から確認できるほどの目立った外傷はなく、本人は気絶しているだけらしいのも運が良いと言っていいだろう。
『Uahhh』
『くそっ、短剣使いか、ちょこまかと邪魔ばかりしやがって!』
エブの目は獣に対する恐れと敵意に満たされていた。
それはもしかすると、昔、彼女の友人が獣との決闘で命を失ってからずっとそうであったのかもしれなかった。
あの獣を許してはおけない。
だからこそ、今は自分の仕事を果たさなければならないと、エブは決意を強くした。
エブは目を凝らして、決闘の行方を見守っている。決闘は相対する二人の間で行われるもの。他人が横槍を入れることはできない。今、エブに出来ることは目を凝らすことだけだ。
やがて、獣が一際大きな猛り声を上げ、逆手に握っていた短剣を、動きが鈍っていた決闘者の胴を目掛けて斜めに振り抜いた。その軌跡を合図に、再度決闘領域が解除される。つい十分足らず前の光景の焼き直しのように、護衛だったもう一人の決闘者は地に伏せた。
そして、その光景を最後まで見届ける前に、エブは後方へと走り出していた。獣が飢えを満たすために食事を取るのか、それとも、さらに力を振るうべく新たな獲物を襲撃するのか、それは誰にもわからない。
エブは全力で足を動かしながら、前者であるように祈った。まだ準備はできていない。今は。
◆◇◆◇◆◇◆◇
獣の襲撃を受けた翌日。
前日は急遽全日休業となってしまい、普段よりも格段に片付いている食堂のフロアを、女将はそわそわと落ち着かない様子で歩き回っていた。
そこへ、入口の扉を叩く音が聞こえてくる。
女将は正面へと飛んでいき、そのまま、がしゃんと勢いよく引き戸を開けた。
「すいません、ランチってやってますか」
「いえ、今日の営業は夕方以降のみになっているんです。すいません」
「ええっ!? ここのお店は安くて美味しいと聞いて期待してたのに」
扉を叩いていたのは二人組の一見さんだった。
ランチは取りやめていると説明し、女将は頭を下げてお客さんを帰した。
「エブさんもそうだけど、入口の張り紙くらい読んでほしいわ」
「読んではいるのよ。気にしていないだけで」
背後から急に声を掛けられた女将は、若干の既視感を感じながら、後ろを振り向いた。
「エブさん! もう本当に心配したんですからね、連絡先は知らないし、そっちから連絡もしてくれないし」
「あらそう? 嬉しいこと言ってくれるわね。あ、そうそう、護衛の人たち、身体は無事だったみたいよ。デッキはまるごと食べられちゃったけれどね」
「それは良かった……と言ってしまっていいのでしょうか、とにかく無事でよかったです。そうだ、何か食べていきますか? 昨日はお世話になりましたし」
「いいえ、今日は遠慮しておくわ。その代わりちょっと頼みたいことがあるのよ」
そう言ってエブがにやりと口の端を歪める一方、女将の頭には疑問符が浮かんでいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そして、さらに一週間後。
女将はエブの頼みで、積み荷と共に仕入れの荷車を引いていた。
ただし、今日は護衛を雇っていない。同行するのは積み荷を運ぶ荷夫一人だけで、それも襲撃予想地点の少し前のポイントで引き返してもらっている。
そして積み荷は、女将が一人でも引けるように量こそ少ないものの、貴重で高価なカードばかりを選んでいる。これもエブからのお願いの一つだった。
『ヤツらは随分と鼻が利くから、高価で美味しそうな獲物を嗅ぎつけるのが上手いのよ。この辺りを行き来する獲物の中じゃ一等美味しい匂い、必ず喰いつくに違いないわ』
『あら、心配する必要はないわ。あの獣はおそらくまだ未熟。まるで敵わないわけじゃないわ』
「そんなこと言われても、心配するに決まってるじゃない」
お願いをされた時の言葉を思い出し、女将はため息を吐く。
警戒されないようにと、隠れて様子を窺っているはずの常連客の不敵な顔が思い浮かぶ。
いくら心配をしてもエブは聞く耳を持たなかった。
普段から我が道を行くタイプの性格なのは知っていたけれど、今回に関しては何かが違うと女将は感じていた。
(けど、私にできるのは神様に祈ったり、安いお守りをプレゼントするくらいしかないのよね)
荷車は前回襲われた場所にさしかかろうとしていた。
女将の額に冷や汗が伝う。
できる限りいつも通りに平静を保って、と指示を受けていたけれど、流石に冷静ではいられない。
現場には襲撃の痕跡は残っていなかった。もちろん護衛の決闘者はいないし、荷車も積み荷も、辺りに散乱していたはずのカードもきれいさっぱりなくなっていた。まさか、あの獣が後片付けをしていったわけでもないだろうから、この辺りの下層の住人の仕業に違いない。ジャンクカード拾いを生業としている者もいるし、それ以上に辻斬りや本物の野盗で身を立てている者もたくさんいる。彼らにとってあの荷車は宝の山だったはずだ。蟻が飴玉に群がるようにあっという間に消えていったことだろう。
そして、女将と荷車は前回の襲撃現場を通過した。
女将はホッと安堵の息を吐いた。もしかすると、エブさんはあの獣に何かの因縁があったのかもしれないけれど、こうして無事にヤマを越えられたのは素直に嬉しい。
女将が陰から護衛してくれていたエブのことを考えていると、脇にあった建物の陰から一つの人影が姿を現す。
その人影はトレードマークの臙脂色のコートを纏っていなかった。また、決して大柄でもなかった。
けれど、それから放たれる圧力や恐怖は強く、大きかった。
そこには獣がいた。
「エブさん!!」
一瞬息を呑んだ後、女将が示し合わせていた通りに声を上げる。
しかし、声を上げるより先に、エブは獣に向かって駆け出していた。
「私の盾に――決闘を誓う!」
『――Guooooo!!』
そして、決闘が始まった。
後半は明日投稿予定です(チェックが終わっていないので)。