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雨だれに傘を差す  作者: ニシザキ
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   05


 雨戸の向こうから、シトシトと静かに雨が降る音が聞こえた。

 頭が重い。昨夜のことを考えながら眠ったからか。

 スマホから機械的なメロディーが流れている。アラーム音ではない。

 智理は錆びついた腕をのばす。スマホを掴むと、霞む視界で相手先を確認できないまま通話ボタンを押した。

「……もしもし」

 聞こえてきたのは、涼しげで明瞭な声だった。

『あはは、ひどい声だ。さては、寝てたな』

 硬さの中に甘さが宿るテノールは、よく知った人物のものだ。

 智理の意識が急激に浮上した。声の主の姿を脳裏に思い浮かべる。

「……宮さん」

 智理は慌てて部屋の中を見回した。机に載った時計を見つける。十一時過ぎ。

 固まった筋肉に鞭打って即座に起き上がると、智理は背筋をのばした。無意識に髪を撫でつける。

『早速だけど、今日の午後に糸永邸に行く用があるんだ』

 宮の声は、智理の淡い期待をいつも否定する。

 慣れていた。ああ、やはり、と智理はいつもと同じ落胆を胸に灯す。


 宮白一郎(みやはくいちろう)とは糸永の屋敷で知り合った。展示会やイベントの制作をしている会社の人間で、瑞行の画展によく携わっていた。最初に会ったのは智理が高校生の頃で、宮はディレクター見習いとして瑞行の個展に参加した。

 瑞行に紹介されて挨拶すると、眼鏡の向こうの瞳が理知的に光って、笑った。目を奪われて感じたのは、後ろめたさだ。それから瑞行は宮たちと打ち合わせに入ったが、智理は瑞行と顔を合わせることができず、尚枝にだけ断って自宅へ帰った。

 瑞行と弟子の智理の噂を、おそらく宮も知っていた。奇異な目で見てくる者、あからさまな嫌悪を顔に出す者、智理は様々な大人と会ってきた。中には、自分にも抱かせろと迫ってくる者もいた。

 宮はそのどれでもなかった。智理に乾いた視線しか送らない。智理が小さな好奇と恋慕を持って宮を見つめても、宮は知らぬ存ぜぬというように端々に滲む感情を斬り捨て、拾わない。

 今と同じ。久しぶりの連絡に智理が心躍らせても、宮はすげない言葉しか吐かない。


『出てこないか?』

 けれど、手をのばしてくる。艶も色もない笑みで。

 智理は胸の下がきゅっと苦しくなった。それでも、その手を取るとわかっていたからだ。

 はい。

 そう答えようと口を開いた時、ふと昨日の木村が脳裏に浮かんだ。

 頬に触れる硬い皮膚の手のひら、照れたように歪む眉と唇。まろやかに垂れる目尻。

 喉が、詰まる。

『……智理?』

 スマホの向こうから問う宮に、智理はハッと顔を上げた。

「はい、行きます」

 通話を切って、智理はしばらくスマホのメニュー画面を眺めていた。

 どうして。

 木村の姿とともに見たのは、あの日、宮を見た時と同じ後ろめたさだ。

 そして昨晩、胸をざわめかせた罪悪感も。

 鮮明に思い出す。糸永の屋敷、玄関に飾られた絵画、アトリエの顔料のにおい、天井の色、窓から見えた塀をつたう蔓――

 懐かしさが鼻腔をくすぐる。嗅いでもいないのに、脳裏に蘇るだけで安らぎをおぼえた。

 それが、ただ恐ろしく、狂おしいほど恋しかった。


 都心へと走る特急で一時間と少し。途中で別の路線に乗りこみ、二十分。

 雨雲が垂れこむ空を見上げれば、天へのびるビルが群れをなす。けれど、そこから視線を下ろしていくと一戸建ての家々が静かに並ぶ住宅街だ。サラリーマンが往来する駅から五分ほど歩くだけで、車もほとんど通らない路地が現れる。そこに糸永家はあった。

 住宅街の中にぽつんと存在する神社を通り過ぎる。神社の裏には都心にしては珍しい森があり、その森沿いに舗道を進むと糸永の屋敷が見えてきた。

 館のグリーングレーの外壁が視界に入ると、智理は傘の手元を強く握る。

 もう二年は来ていない。玄関を開けて家のにおいを嗅いだ時、果たして自分にどんな感情がわきあがってくるだろうか。

 宮が応接間の低いソファーに腰かけて、長い脚を持て余している姿を想像する。

 ――先生は、その向かいに腰かけているだろうか。

 手足が、体が、緊張で痺れる。

 弾みそうになる息を整えて、智理は傘に描かれた風景を見つめた。

 夕暮れの赤が、爆発しそうな智理の胸を宥める。

 中学生の智理が描いた、当時住んでいた家の傍にあった湖だ。すすきが揺れる音が聞こえる。近くの水辺の、磯のようなにおい。夕方になると放送されるメロディーが反響する。

 智理がカンバスに塗った鮮やかさのまま、早見總本店は傘の内側にその景色を閉じこめた。もう戻れない過去を、今の智理が格子から覗く。呼吸は自然と穏やかになっていた。


 智理は、糸永邸の門扉にとりつけられたインターホンへ指をかざす。

 深呼吸をして、押す。インターホンの音が途切れると、静けさが智理の心臓を強く圧迫した。

 ほどなくして、尚枝が扉を開けて出てきた。

「智理」

「お久しぶりです、尚枝さん」

 挨拶のために出した声は想像以上に幼く、智理は咳払いをする。

 瑞行の娘である尚枝と智理はちょうど親子ほど年の開きがある。世話を焼いてくれる尚枝を、智理も母親のように思い、家事の手伝いをした。

 瑞行との関係を、尚枝が知らないはずなかった。尚枝が何も言わないので、智理も言わない。必要以上に甘えなかったのは、深く関わって尚枝の口から瑞行とのことを訊かれたくなかったからだ。

「わざわざありがとうね」

 尚枝が門を開けて智理を招き入れる。ここ二年会っていなかった尚枝は、痩せていた。

 もう齢五十だ。どこか悪いのかもしれない、と智理は尚枝の化粧っけのない肌を窺う。もともと飾り立てる方ではなかったが、まっすぐの黒髪を梳き、糊のきいたシャツを着ていた印象がある。

 いつものように尚枝が取り仕切ればいいのに、と思っていた智理は、自分が呼ばれた理由に合点がいった。疲弊した尚枝の顔を見て、どうして自分が呼ばれたのかと問うことはできなかった。


「智理」

 低い声に智理はハッとする。玄関に宮が立っている。

 たった二年会っていないだけなのに、三十を越した宮は落ち着いた魅力を増していた。細いフレームの眼鏡も、ダークベージュのスーツも、懐古主義な装いがひどく似合っている。

「……宮さんも」

 智理の中に、急速に糸永家での生活が蘇ってきた。憧憬、郷愁、思慕――

 吐き出そうとした息が、喉につっかえる。弱く出せば、ふるえた息になって、全身に伝わった。

「ほら、入って」

 尚枝に促されて、智理は玄関で傘を閉じ、屋敷に上がった。

 久しぶりに訪れた邸宅は、随分と散らかっていた。前から物が多い家ではあったが、整然としていた廊下には新聞紙が乱雑に積まれている。

 玄関のすぐ隣にある応接間は片づけられていたが、棚には埃が溜まり、あまり掃除されていないようだった。前々から二人暮らしには大きすぎる家で、掃除機の前と後ろに尚枝のため息がついていたことを思い出す。瑞行を待っている時間に、智理もよく手伝っていた。

 低いソファーに宮が座り、中央に置かれたローテーブルに資料を広げている。瑞行は参加しないらしく、姿を見せなかった。

 作品を描くことを何より優先し、自分の展示会にはあまり関心を示さない人だった。庭に建てられた小さなアトリエにいるのだろうか。いつ現れるだろう、という不測の不安に、智理は苛まれる。

 宮の向かいのソファーに腰かけ、智理は二年ぶりに入った屋敷をぐるりと見回した。


「あの傘」

「え?」

 突然、宮から出た単語に、智理の肩が跳ねた。

「智理のデザインの、だろう? 記事、見たよ」

 コラボのことを宮が知っていてくれたことに嬉しくなる。

 木村の瞳が浮かんだ。傘のことを話す、きらきら輝いた瞳。まっすぐに自分の作品を愛する、智理には手に入れられない美しさ。

 智理はその声音を真似てみた。

「はい。傘屋の人が近くに住んでるんですけど、せっかくだからと持ってきてくれて」

 展示会が終了した時、智理のもとに全種類の傘が送られてきたが、愛用していると知ると、木村は会社に保管していた新品をさらに持ってきた。

 一生分とはいかないけど、と笑って手渡され、懸賞のバナナ十年分と似たようなものだな、と智理はため息を吐いた。腐らないだけマシだ。

「へえ」

 やけに抑揚のついた相づちは、宮の職業病らしかった。眼鏡の奥の目を細めて、薄い唇を持ち上げる。

「コラボした早見總本店、僕の幼なじみもいてね。いい傘屋だよね。種類もたくさんあって」

 具体的な名前が挙がり、智理は内心驚いた。本当に企画について知っていた。気にかけてもらえたのだと思うと、智理は気持ちが浮つく。

「コラボ商品のデザインをしてくれた人も、俺の作品を大事にしてくれて、こだわってつくってくれました」

 そう報告することが、瑞行や宮がいなくても独立した一画家として生活しているという証だと思った。丸い目を見て、胸がすく思いをしたいという、復讐だった。

 宮は、うん、と小さく首肯する。

「智理が順調そうでよかったよ」

 甘く冷たい宮の声は、十代に聞いた時と同じだ。智理に何も示さない機械的な口調が、揺らぐまいと踏ん張る智理の足元を崩す。

 応接間の大きな窓の外から、庭が見えた。細い糸のような雨が降る。あの奥に、瑞行がいるのだろうか。

 体にまとわりつく湿気のにおいが、智理の瞳を俯かせた。

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