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雨だれに傘を差す  作者: ニシザキ
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「雨谷先生、か」

 久しぶりの呼び名に、智理は胸のしこりがまだあることを確認した。当然だ、消えるわけがない。停滞したままで、消えるわけがない。

 春になる頃から『先生』と呼ばれていない。智理がそう望んでいるからだ。

 自宅への坂道をのぼる。急勾配で足取りは重くなる。

 早見總本店とのコラボから、智理は作品らしい作品を生み出していない。いや、『NIHON-GA アンブレラ』だって、過去の作品を並べ立てただけだ。

 企画終了後、もう半年ほど個展や取材は全て断っていた。

 活動休止中。充電中。まるでアーティストのように、そんな触れこみが周囲に知れ渡る。

 傘に描かれた夕焼けを閉じて、智理は玄関へ駆けこんだ。傘を乱雑に傘立てにつっこみ、広い土間にサンダルを放りだして畳に上がる。

 湿気の高い空気に、いぐさのにおいが満ちていた。

 奥の勝手口まで繋がる土間から上がると、襖で区切られた客間と茶の間、そして仏間が広がる。その周りに縁側が巡り、洗面所や風呂場、智理が寝室に使っている和室へ続いていた。庭に池があるが、管理ができないため水は入れていない。池の向こうには離れがあり、一階の納戸を今は倉庫として使っていた。

 一人で住むには広すぎる家。


 すっかり作業場になった客間の座卓に、智理はおさまる。

 パソコンの横に放ったノートが目に留まった。ボールペンが何物でもない形を紡ぎ、完成することなく終わっている。

 視界に入らないよう、智理はそれを腕が伸びる範囲の外まで押しのけた。『先生』と呼ばれた後に見たくない。

 パソコンをスリープ状態から立ち上げると、開いたままのメーラーが全面に現れる。昨晩――明け方まで見ていた画面に、智理は再び対峙した。

糸永尚枝(いとながなおえ)

 最新のメールは、昨晩来たものだ。


『智理

 久しぶりです。元気にやっていますか。

 七月二十四日から瑞行(ずいこう)の個展が行われます。

 もしよかったら、智理にその制作を手伝ってもらいたいと思い、連絡しました。

 自分の活動もあると思いますが、ぜひ父の個展に手を貸してください。

 詳細お送りしますので、目を通してみてください。

 お返事お待ちしています』


 瑞行。智理が師事していた日本画界の巨匠だ。妻を早くに亡くしてから、娘の尚枝がマネージメントをしている。

 添付された資料を開くと、『(びょう)――糸永瑞行の視る世界』という文字が最初に大きく載っていた。

 糸永瑞行――

 ディスプレイに表示された、その名前を指で触れる。

 体に巻きついたいばらみたいだ。

 そこから、目に見えない何かが全身を支配していく気分になる。

 雨のように絡みつく。

 けれど、全てを包むように肌の上を滑っていく。優しく、体の芯がじわじわと燻される。

 瑞行のざらりとした舌の触感を思い起こして、智理は自分の体を抱いた。

 疼く。世界を塗りかえる行為を、今でも体はおぼえている。


 脚の内側、薄い皮膚をゆっくりと舌が這う。付け根を目指して。

「せんせぇ……っ」

 最初に触れられたのは、中学三年生の時だ。

 画展で賞を獲った智理は、瑞行からぜひ自分に教えさせてほしい、と熱望されて糸永宅へ通い始めた。

 それから半年ほど経ってからだ。瑞行の弟子となり、新進気鋭の少年画家として注目されるようになった智理は、思春期の羞恥心が顔を出して、持ち前の鮮やかで鋭い色彩が出せなくなった。

「もっと腹の底を暴き、本能と向き合い、対話するんだ」

 親身に叱咤激励する瑞行に、智理はおそるおそる頷いた。

 膝裏を持つ瑞行のしっとりとすべらかな手のひらを思い出すと、今でも智理の体の奥が反射的に熱くなる。

 瑞行の唾液で塗れた箇所に、ふるえが走る。その冷ややかささえ官能を引き出す要因になり、股まで舌が到達する前に中学生の智理は自分の精液で腹を汚した。


 尊敬する瑞行に体を預けることは、恥ずかしかったが嫌悪はなかった。

 瑞行の手や唇が触れると、今まで見たことのない世界の色が見える。今思うと、それはまるで羽化するような感覚だった。外を覆う殻を脱いでいく。絵の具で曖昧な輪郭を整えていくように、鮮明で新しい世界を迎える作業。

 瑞行は智理と性交はしなかった。手と舌で愛撫し、絶頂へと導く。智理がお返しに口や手で奉仕するとねだっても、瑞行は拒否した。

 その関係が噂として流れたのは、瑞行が智理をモデルにした絵を描いたからだ。『蕾』と名づけられたその絵は、少年の物憂げで悩ましい横顔を淡い顔料で表現していた。瑞行は智理の名前を一切出さなかったが、誰もが智理だとわかるほど酷似し、それから師弟間での艶めいた関係が囁かれるようになった。

 瑞行の弟子として才能を開花させていった智理は、同時に瑞行の弟子としての評価を超えることができない。賞を獲れば瑞行の口添えだと妬まれた。師の耳に入ることを恐れて、誰も智理の作品に本当の評価をつけない。

 画家としての苦悩は、瑞行に触れられることへの疑念も伴った。恋の高揚のように瑞行に持っていた憧れは、反抗と独立の心の中で薄れていった。

 この人から、離れたい。


 中学生の頃から通い続けていた瑞行の家と距離を置き、自分の感性と技術を頼りに作品をつくるようになって二年。

 それでも、瑞行の弟子だという冠が智理の名前のまえにいつもついてまわる。

 ほとんど他との交流を持たなかった智理は、唯一師と仰いでいた瑞行のもとを去り、全て自分で創造も管理もすることの厳しさを痛感した。

 それでも。

 休眠中だと揶揄されようと。所詮はその程度の才能だと呆れられようと。

 やめることができない。

 戻ることもできない。

「は……」

 暴かれる時の淫らな熱だけ持て余す。鮮やかさはどこにも見えないのに。

 智理が虚ろに目をやると、縁側のガラス戸をポツ、と雨粒が叩いた。

 梅雨はまだ明けないだろう。

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