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雨だれに傘を差す  作者: ニシザキ
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 雨は少し安心する。

 名前に『雨』という漢字が入っているからだろうか、と雨谷智理(あまがいさとり)は考えて、傘立てに置きっぱなしの雨傘を取った。

 梅雨の早朝は灰色の雲が空を覆い、水気が肌にまとわりつく。まだうすく残る冷気を感じるが、数秒経てば皮膚の下から汗が滲んだ。

 玄関の引き戸を閉め、砂利の中に置かれた飛び石を踏んで門扉を出る。

 不透明に濁る空を見上げると、傘の内側に描かれた風景が視界に入った。湖を縁取るすすきと夕焼け。憂鬱な気分が少しだけ和らぐ。


 智理が門から続く階段を通り、下り坂の舗道を大股で進むと、まだビニール袋が集積されたゴミ捨て場が見えてくる。

 いつもは収集車が来るギリギリで到着するのに、今日は早く目が覚めたせいで余裕がある。近所の主婦やサラリーマンが半透明の袋を手に、緑の網でできた箱へと集まっていた。智理もそれに続く。

 日常の作業、日常の場所なのに、時間が違うだけで、まるで別の世界に迷いこんだような感覚に襲われる。小さな緊張とともに、智理はビニール袋をゴミ捨て場の箱の中に入れた。

 つかの間の冒険が終わると、急に意識は現実へと引き戻される。寝不足の頭は重たく、体は怠い。智理は凝り固まった首を擦り、帰ったら仮眠をとろう、と決めた。

「あの」

 ハスキーな声が背後から聞こえて、智理は億劫ながら振り返る。ゴミの分別がどうだ捨て方がどうだと注意したいのかと予測して、視線は自然と棘を孕んだ。

 傘を上げて視界を広げると、そこにはダークグレーのスーツを着た男が佇んでいた。

 ジャケットがよく似合う上背と広い肩だ。柔らかそうな茶色の髪とゆるやかに丸い双眸は人が良さそうな優しい印象を受けた。

 見覚えがある。智理は記憶の引っかかりを懸命に辿った。

 目が合うと、男の顔がパッと華やぐ。

「やっぱり、雨谷先生だ」

 その敬称に、智理は小さな針を刺されたように感じた。男に他意はないようだが、痛く、むず痒く、掻きむしりたい衝動を呼び起こされる。

 そして、その呼び名で思い出した。男が差す、漆黒の骨の傘。骨数が多く、格子のように浮かび上がる姿が特徴的だ。布地の内側に描かれた海の青と飛沫の白は、智理が描いたものだった。

「あ、ええと、一月末の『NIHON-GA アンブレラ』でお世話になりました。早見總本店の木村全(きむらぜん)と申します」


 智理が今年の一月末に展示を行った企画だ。明治時代から続く傘の老舗・早見總本店から去年の晩夏にオファーをもらった。若手日本画家として注目されていた雨谷智理とのコラボレーション企画『NIHON-GA アンブレラ』。早見總本店は智理の作品をプリントした雨傘や番傘を販売し、銀座と青山で展示会を開いた。

 傘の内側にプリントすることで、早見總本店の特色である数の多い黒い骨とマッチし、購入者は差す度に雨谷智理の世界を堪能できる。他にも非売品の展示用に大小さまざまなサイズのもの、複数の傘を用いて一つの作品を表現したものもつくった。

 智理が差す夕焼けの湖がプリントされた傘は、その時に販売したものだ。たくさんもらったので、他に買うのが面倒で使用している。


「そう、木村さんだ。すみません……気付くのが遅くて」

 智理自身、面白い企画と思ったし満足しているが、もう記憶の中に埋もれていた。見ず知らずの人間と仕事で付き合うことが苦手で、当時関わった者も今では名前すら出てこない。

 木村を思い出せたのは、関係者向けのプレオープンデイに彼と会ったからだ。人に会いたくなくて平日の午前中に行くと、木村が展示された傘を熱心にチェックしていた。こちらに気付いて少し話した気がする。内容は憶えていない。ただ、輝いていた。漠然と、それだけが残った。

 今も、木村はどこか輝いている。瞳だろうか、表情だろうか。自分とは違う知らない世界に住んでいる、と智理は木村のはにかんだ口元を眺める。

 朝からスーツを着て髪を整え、社会の一員として出社する木村に比べ、着古したシャツとジャージにボサボサ頭で出てきた智理は、自分がひどくみじめに思えた。

 そのラフさすら芸術家だとでも考えているのか、木村は智理に眉をひそめるどころか高揚した瞳を向けている。

「いいえ。こちらもゴミ捨て場で会うなんて思ってなかったです! お住まい近かったんですね」

「うち、アレです」

 智理は傘を上げて、坂の上の自宅を示す。ああ、と木村は感心したように頷いた。

 都心から電車で一時間半ほど下った、県境の丘陵地にこの町はある。数年前に一駅先に大きなアウトレットができた影響か、再開発が進み、若い家族層の定着や二世帯住宅化が進んだ。

 真新しいタイルや漆喰の家が並ぶ中、智理の住む石垣と屋根瓦の家は珍しくなった。もともとは智理の祖父母の家で、昭和初期に建てられたものだ。智理も小さい頃からよく遊びに来ていた。祖父母が亡くなり、一人暮らしをする場所を探していた智理が相続人の父に頼みこんで譲り受けた。


「よくわかりましたね」

 傘で顔が見えないのに、と智理が驚いていると、木村は嬉しそうに傘を掲げた。

「お、ウチの傘だ、って嬉しくなって見ていたら、雨谷先生でした」

 そこはメーカー勤務だろう。自社製品は形を見ただけでわかるのかもしれない。早見總本店の雨傘は、風に強く、美しい曲線を描く骨が魅力の一つだ。

 智理とのコラボ作品は、特にシルエットや骨の形にこだわったという。機能的な面も考慮しているのだろうが、黒い線で区切られ、囲われた作品はまるでフィルムのようだと智理は思う。格子から覗く別世界とも取れる。そこは、智理も気に入っていた。

「たくさんもらったので、使ってます」

「ありがとうございます」

 テンプレートのように礼をしていると、木村がハッと顔を強張らせる。瞳が不意に下へおりた。智理はそれが何を捉えたかわかる。

「すみません、いろいろお話したいんですが時間が……」

 木村は慌ててゴミ袋を既定の場所に捨てると「また今度」と付け足して、肩にかけた鞄を直した。

「お仕事いってらっしゃい」

 智理が去りゆく背中に声を掛けると、木村は笑顔になって手を振る。手を振り返し、智理はスマホで時間を確認した。六時半。

 何もなければ起きてすらいない時間だ。『あれ』がなければ一生会わなかったな、と智理は皮肉に笑う。

「雨谷先生、か」

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