昔話
あれは、私が五つの頃だったか。
夜、私は部屋でぴぃぴぃ泣いていた。はっきりとした理由は覚えていないが、体質のことだったのは覚えている。泣いてはいたけれど、天井にいる人の気配に気がついた。幼いとはいえ、グランヴェロー家に生まれた者は皆武人。隠密見習いの気配くらいはわかる。
そこで私は懐に忍ばせていた短剣を天井に向けて投げた。丁度天井の板が外れる箇所に気配が来たのを見計らって。狙い通り、天井板が外れて隠密見習いは無様に私のベッドへ落下することとなった。年は私とそう変わらなかった。背中を踏みつけてしまえばもう抵抗はできない。
「降参! 降参だよ!」
やつは叫んで両手を上げた。私に踏みつけられながらだったため、カエルが道端で伸びたような体勢になった。
「私が子どもだと思って、油断しましたね? どこの手の者ですか。キリキリ吐くのです」
脅すと、めくれたベールの下から覗く口元が笑んだ。
「……うん! 無邪気な子ども特有の怖さがあるね! 先生に習ったのかもしれないけど、そんな物騒な言葉を使うもんじゃないたたたたた!?」
私は踏まれたら確実に痛いところをぐりぐりと踵で踏んだ。
「適当なことを言ってはぐらかそうとしてますね? 今、あなたがしゃべらなければならないことは、情報か命乞いです」
「怖い怖い怖い! わかったから! その代わり、情報吐くけど殺さないでね! 僕ってば将来超有望な若者だからさ!」
彼はまずナインと名乗った。明らかな偽名だが、本当の名はわからないという。拾われた時に欠番になっていたのが九番目だったから、ナイン。年も正確にわからないが、少なくとも私よりは上だと言った。
「零って名乗るやつに拾われて、ここへはテストとしてやって来たんだ。情報を掴んで帰れば一人前ってこと」
「なら失格ね。対象に姿を見られて情報を吐かされているのだもの」
「だって、君、泣いてるんだもん」
思わぬ返しに足の力を緩めてしまった。その隙にナインはバネ仕掛けのように跳ね上がり、体勢を戻した。私は足を跳ね除けられてひっくり返ったが、すぐ起き上がりもう一度拘束を試みた。だが、逃げることに全神経を費やした隠密に見習いとはいえ追いつけるものではない。紙一枚分の距離を指先が掠め、ナインは天井裏に引っ込んでしまった。
「じゃあね」
気配はあっという間に遠ざかっていく。私は目元を擦って天井を睨みつけた。
私にとって、一人で泣ける場所というのは自室くらいしかなかった。体質ごときでめそめそ泣いているなんて、母が絶対に許さない。しかし耐えられる程私は強い人間ではなかった。
次の日から、こっそり泣く場所を屋敷の隅っこに変えた。物置になったまま放置されている部屋だった。誰にも気づかれない場所のはずだった。
「あ、また泣いてる」
天井からナインの声がした。びっくりして天井を見上げると、忍び笑いが降ってきた。私は目元を擦ってまた天井を睨みつけた。
「失格にされたのでしょ。私に雇ってと泣きつきに来たのですか」
「いや? 合格だったよ。ここに来たのは泣いてる女の子をそのままにしておけないから」
「馬鹿にしているのね。今すぐ降りてきなさい。記憶が飛ぶまでぼこぼこにしてあげる」
「え、ひどい。この言い方で正解だって先輩は言ってたんだけどなぁ」
能天気なやり取りをしているうちに、涙は引っ込んでしまった。慌てるナインを残して私は部屋を出た。
「あ、ちょっと」
声がめげずに追いかけてくる。
「よその隠密と交わす言葉なんてないわ」
「え、やだ。僕達友達じゃないか」
「………………は?」
思わず立ち止まってしまった。
「君は僕のことを誰にも言ってない。僕は君が泣いていたことを報告していない。秘密を共有する友達じゃないか」
開いた口が塞がらない、とはこういうことを言うのだろう。私は別に、自室に侵入した隠密を逃がしたと知られるのが嫌だっただけなのだ。ナインはそれを都合よく解釈してしまった。
けれど、ナインの声がやたら嬉しそうだった。否定したら泣いていたことをバラすとでも言いたげな。
「……勝手に言ってなさい」
「うん!」
こうして、奇妙な友達ができてしまった。基本、一人の時に突然話しかけてくるから驚くし、私は大体無視を決め込んでいた。それでもナインは構わずしゃべる。私の代わりに愚痴を言うように。
「もっとさぁ、クレセリアは言い返していいと思うよ? 僕だったら問答無用でぶちのめしてるけど、騎士的にそれはダメなんでしょ? なら口で徹底的に心を折ってあげたら? 例えばさぁ」
などと、どこから調達してきたのかわからない言葉を提案してくるので、私の口撃はかなり上達してしまった。
このよくわからない友達ごっこは、ナインの一人称がオレに変わり私が母の愛剣を引き継ぐまで続いた。