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「ほらっ、そういうのいらないって言ったろ!」
顔の正面に入ってくる足を、すこしだけ頭をずらして受けた。
もう目もほとんど開かなかったが、入道の声が聞こえた。
「ってぇな…… タフなのは分かったがよ。こっちはどうよ」
歩きながらしゃべっているらしく、入道の声が俺の足の方へ行ったのが分かる。
「さあ、こっちをつかいものにならなくしてやる」
ヒュン、パシン、と軽い音が聞こえた。
「いてぇ」
「痛いのはこれからよ」
という、橋口さんの声。俺は手を床に付いたまま心で手を合わせた…… さっきの音は、鞭が入道を捉えた音だったのだ。
「ほらっ!」
『うわっ!』
と、入道が言った声と、俺の声が完全にシンクロした。
入道は倒されて俺の背中に頭突きをかましてきた、ように思える。
「ぐぁ……」
俺の背中に入道の頭が押し付けられて、背骨が折れそうだ。
橋口さん、入道を俺の背中からどけてくれ……
「は、橋口さん……」
「自分で作った結界に自分で嵌る気分はどう?」
いや、そんなばかな。さっき入道は結界の中に蹴りを入れてきた。自らの結界に嵌るのならば、なぜ足蹴りが出来るのだ。
ヒュン、と音がして、バシッ、と何かが弾けるような音がした。ムチだ。
「な、なんで俺が結界に嵌るんだよ、嵌るわきゃねぇだろ」
「……なに馬鹿なこといってるの? この結界には決定的な書き間違えがあるわ。ほら、ここ。ここは『ただし所有者をのぞく』といれるべきよ」
「バカな…… 何度も同じプログラムを実行していて、そんなことに気付かない訳が」
入道は俺の背中で体をねじった。
「まさか、お前か……」
俺は血だらけの顔面で何も見えなかった。
「何、この霧みたいな…… 違う、霊ね! 一体何を放ったの?」
「放ってねぇ…… 放ったなら、こいつだよ」
「きゃっ!」
橋口さんが、怯えたようにそう言った。
ふっ、と結界の力が消えてなくなった。
俺が慌てて達がると、床に石かなにかが落ちたような音がした。
「入道?」
見ると入道が床に倒れている。固まったように瞬きをしていない。
橋口さんは右手に鞭を持ち、左手で開いた口を押えていた。
「何があったんですか?」
しゃべると、顔について固まった血がぽろぽろと床に落ちていく。
橋口さんは一歩、後ずさりした。
「ねぇ、何があったんですか?」
「……」
橋口さんが、俺の顔を見ているのに気付き。自分で顔に触れた。
まるで層になっているように血が顔中についている。
撫でるようにはらっていくと、鼻の感覚も戻ってきた。
「えっ…… えっ、えっ?」
俺が少し近づくと、橋口さんは後ずさりした。
足もとの入道はさっきからピクリとも動いていない。
「いやぁ~~」
張り裂けるような大声に、俺は耳を押さえた。
橋口はやってきた冴島を呼び止め、ひと気のない通路の奥に連れ出した。
「どうしたのよ、こんなところに」
冴島は腕を組んで視線をそらした。
「さっきはカゲヤマがいたから話せなかったのよ」
「だから何よ?」
「さっきの入道の死因、そしてカゲヤマの体のことよ」
「……」
冴島は橋口の顔を見つめる。橋口の顔は冗談を言っているようには見えない。
「カゲヤマから出た霧のような霊が、入道の口から侵入していった。そして、すぐ後には死んでいたわ。検死は心臓発作と判断しているケド」
橋口は体が冷えたかのように自身の腕を手でさすった。
「あれは、人の仕業ではないわ」
「そう、ね」
「それに、顔を上げた時鼻が曲がって血だらけの顔が、手で撫でているうちに回復したの。わかる? 傷一つのこらないなんて信じられない」
冴島は人差し指を伸ばして何か言いたげだった。
「それ…… ね」
と、ゆっくりと口を開くと、話始める。
「影山くん居酒屋でがバイトしていた時に店長が刃物を持って暴れる事件があって」
「あっ、それ知ってる! それ。まさか、それ止めたのって、カゲヤマ…… なの?」
冴島がゆっくりとうなずく。
そのまま、おもむろに手で口元を隠す。
「火狼と戦った時も、あいつ変だったよ。だって、全身が光ってたじゃない」
橋口は必死に訴えかけるが、冴島は動じない。
「けど、人よ」
「霊圧が高すぎる。すくなくともあんな霊圧を出す人間は知らないんだケド」
「彼はそういう人間なのよ」
橋口が自身のおでこを手で抑えて疲れたような表情を見せる。
「……」
冴島が手を広げ、言う。
「だって何度も病院に入っている。レントゲンもCTも受けてる。点滴も。調べる限り、ちゃんと人間なのよ」
「麗子。気を付けないと、あなたカゲヤマにやられるかもしれないわよ」
「……」
その日のバイトは休むことになった。
なぜなら、俺は病院に入れられたからだ。以前、冴島さんの事務所で気を失ったときと同じ病院の同じ個室だった。病院で、警察の質問に答えることになった。なぜ男が死んだのか。その時、俺が何をしていたのか。何もしなかった、俺はそのことを繰り返した。本当に男の結界に嵌められ、一歩も動けなかったのだ。
警察関係者が去っていくと、病室には誰もやって来なかった。
俺は今日あった出来事を思い出しながら、退屈になって寝てしまった。
そして再び目を覚ました時は、朝になっていた。
「どうですか〜」
看護士が入ってくるなり、そう言った。
なんどかこの病室に入った時にも、俺に付いてくれた看護士だった。なんとも不思議な縁だ、と俺は思った。
「ええ。お腹が空いたくらいで、他は特段何もなく、非常に快適な朝です」
「お腹すいてますか。けど、食事はもう少し待ってくださいね〜 今からお熱測りますから」
体温計を病衣の胸元から入れて脇の下にはさんだ。
「俺、入院する必要あったんですか?」




