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静かにガラスが下がると、冴島さんが言った。
「蘆屋さん、どうしたの?」
「冴島さん引っ越しなさるんですか。なら、私の横の部屋が空いてます」
「ちょっと待ってよ、俺はどうするんだよ」
「あんたの住まいなんか知らないわよ。なんで冴島さんのこと隠してたのよ?」
「いや、こうなるんじゃないかと思って」
冴島さんが言う。
「確かに引っ越しはしなければならないんだけど、どういう話になっているの?」
「俺が前住んでいた部屋の大家さんが、蘆屋さんのおばあちゃんだったんです」
「……もしかして、おばあちゃんて、蘆屋霧羽さんというのでは?」
「なんで知ってるんですか?」
「そう…… それなら、そこに住むのが運命なのかも」
冴島さんは蘆屋さんの方ではなく、俺の方を横目で見ながらそう言った。さだめってなんだよ。どうしてまたあの屋敷に近づかなければならないんだ。
「私と玲香が影山くんが住んでいた部屋に住むわ。蘆屋さんの部屋は隣なのよね?」
「はい」
「じゃあ、そこに彼を住まわせてくれない? 寝泊まりは押入れでいいから」
「えっ、俺、蘆屋さんと同じ部屋で暮らすんですか?」
「あんたが住んでた部屋の大きさから考えて、さすがに三人は暮らせないし、蘆屋さんなら寝室に結界張れば男女に起こる間違いも防げるだろうし。大丈夫!」
「俺の気持ちは無視ですか?」
「蘆屋さんはどう?」
「……」
俺は蘆屋さんが両頬をそれぞれ手で押さえているのを見た。
「……」
蘆屋さんは手を降ろして前にそろえると、冴島さんの方に向かってゆっくりと頭を下げた。
向き直って俺の方を向き、同じようにおじぎをする。
「不束者ですが宜しくお願い致します」
ちょっと待て。頬を赤らめて『ふつつかものですが、よろしく……』だと? 大体、ふつつかもの、などという表現は、結婚式ぐらいでしか耳にしない。け、結婚式??? まるで夫婦になるみたいではないか。何をどう解釈するとこういう話になるのだ。
いつだったか、蘆屋さんが部屋着のままコンビニを訪れた時の姿を想像していた。けっこう出るとこてて、クビレもあったよな……
俺はカッとなって、次第に頭がボーっとし始めた。
「決まりね」
冴島さんはニコニコ笑っている。
「よくないですよ! 松岡さんは? もう一人大事な人を忘れてますよ。松岡さんはどうするんですか」
「松岡は車で生活するから」
「えっ?」
「駐車場は確保しました」
松岡さんが車のウインドウを下げてそう言った。
「めちゃくちゃだ」
「さっきも言った通り、導きだとおもうわよ」
「トウデクア、そうだ、奴らに俺の居場所がバレてるんじゃ?」
「そういう話もあって、元の部屋にもどるんじゃなくて、隣の蘆屋さんの部屋に置いてもらうんじゃないの」
「?」
蘆屋さんが分からない様子だったので、説明した。
「俺ある組織に狙われてるんだよ。蘆屋さんに迷惑がかかるから、やっぱり俺は一人で暮らした方が」
「私が助けます」
車の中で、中島さんが冴島さんの横に顔を出し、俺をちらっと見る。
「冴島さん、本当に良いんですか、いつもなら絶対に反対するような内容ですけど」
「蘆屋さんなら心配ないわ」
蘆屋さんは、シャツの裾を両手で引っ張るようにして、俺に体を預けるように寄せてきた。
中島さんが睨んだように思えた。
何か冴島さんに耳打ちする。
すると、冴島さんが、パッと手を俺に向けてかざす。
「一緒に暮らしたからといって、蘆屋さんと間違えを起こさないこと。いいわね」
体がぶるっと震えた。
「はい」
冴島さんは手を降ろすとニコっと笑った。
薄暗い部屋には、女が立っていた。
女の一重の瞳はすこし垂れ目で、唇は薄かった。顔はスッキリとほそい。しかし、バランスがいいのか、美人に見えた。
女の見つめる先には机も椅子もなく、ただ何もないスペースが空いていた。そこを見つめていると、床に赤く円形の陣が浮かび上がった。床に描かれているというものではなく、床面より少し上の空間に、光そのものが発せられ、円を、陣を描いているようだ。
「……」
女は不安げにその輝きを見ている。
止まっている陣が、外側が早く、内側がゆっくり逆向きに回転を始める。
「火狼さま……」
円形陣の内側で大きく開いている部分から、床が見えなくなる。そこは漆黒の闇。光がまっすぐ進まないのか、空間が歪められたのだろうか。
辺りに焦げ臭いにおいが広がり始める。
円形陣の内側の闇から、光が差し込む。
「まぶしい」
女が手で光を遮ると、いつの間にかその光は消えていた。
赤く光って回っていた陣もない。
そこには男が立っていた。
立っていたのは一瞬で、右目を押さえながら崩れるように膝をついた。
「ほろう様!」
女が言うなり、男の肩を支え、立ち上がるのを手伝った。
「大丈夫ですか?」
女が心配したのは手で押さえている右目の様子だった。
「許さねぇ」
男の声を聞いた女の体は、ブルっと震えた。
「誰に、やられた、のですか?」
「……」
男は答えなかった。
「教祖さまに助けてもら……」
言い終わらないうちに、男は手をはずした。それを見た女は言葉を失った。
えぐれたように窪んでいて、肌はやけどの跡のようにめちゃめちゃに溶けてつながっていた。
「……どうした」
女の様子をみて、男がそう言う。
女はその声を聞いてまた震えた。
「どうしたって、言ってんだろ!」
女は両手で顔を押さえ、静かに泣き始めた。
松岡さんの運転で、ショッピングモールに行き、当面の着替えなど必要最低限のものを買いそろえた。俺には金がなかったが、すべて冴島さんが払ってくれた。買い物をする間中、蘆屋さんが俺の腕にしだれかかっていた。俺はずっと頬が熱かった。
そこから蘆屋さんのおばあちゃんのところに寄り、鍵を受け取った。
俺は助手席から降りると、後部座席のドアを開けた。蘆屋さんと秘書の中島さんが降りてくる。




