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「とにかく、今は消防隊の消火を待つしかありません」
松岡さんがそう言った。
車の中の全員がその言葉にうなずいた。
冴島さんの車で学校に来て、学校の中で降ろしてもらった。火狼が放った虫が食いちぎったせいで、ジーンズの前が破れていたが、上着を腰に結ぶようにして誤魔化した。大学はいつもと変わらない雰囲気で、返って自分は違和感を感じてしまった。おそらく、この大勢の学生のなかで俺だけが今朝火事にあって、今日帰る場所を失っている。
二コマ目の講義を受けるため教室を移動する。
しかし、いつもの教室には「本日工事の為、使用禁止」と張り紙がしてある。
慌ててスマフォで確認し直し、教室に走った。
教室につくと席がほぼ埋まっており、俺は空いている席を見つけて滑り込んだ。
「カゲヤマ……」
「あっ、蘆屋さんっ!」
座るまで隣の娘が蘆屋さんだと気が付かなかった。蘆屋さんは前を向きながら、俺に言う。
「(なんであんなところでバイトしてるのよ。引っ越したんじゃないの)」
授業は粛々と始まり、粛々と進んでいて、俺も蘆屋さんの方を向かずに小声で返した。
「(引っ越したけど、別にあそこでバイトしたっていいじゃん)」
「(じゃあ、あそこでバイトしてもいいから、あんた、戻ってきなさいよ)」
「(ちょっとまって、それなんのことを言ってるの?)」
「(前住んでいたアパートに戻ってきたら、って言ってるの)」
俺はケチな冴島さんが契約を残したままにする訳がない、と判断した。
「(無理だよ)」
「(あたしがお婆ちゃんに交渉してあげるから)」
「へっ?」
と、大声を出したせいで、教室の視線が一気に俺に集まった。
俺は銃を突き付けられたようにそっと両手を上げ、その手を振って否定した。
「いえ、何でもありません。ごめんなさい」
一瞬で大量の汗をかいてしまった。
「(なんで大きい声だすのよ)」
お前が驚かすからだろ、と言いかけたがやめた。
「(お婆ちゃんって、大家さん?)」
「(そうよ。空き室だとお婆ちゃん儲からないでしょ。お婆ちゃんが儲からないと私に回ってくるおこずかいも減っちゃうし。だから、別にあんたじゃなくてもいいのよ。部屋が埋まればね…… もちろん、あんたでもいいんだから、手っ取り早くあなたが帰ってきなさいよ)」
「……」
俺は冴島さん松岡さん、中島さん、そして俺の分の部屋を用意できないか、と想像した。しかし、まさかそんなに部屋が空いている訳もないだろう。例えば、俺と松岡さん、中島さんと冴島さん、の二部屋が空いていれば……
「(授業が終わったら話聞かせてくれない?)」
「(もちろん)」
蘆屋さんの横顔が、一瞬微笑んだような気がした。
微笑む? そんでもって、なんで俺をあの部屋に戻したい? あのコンビニに買いに来るってことは、蘆屋さんもあの周辺に住んでいるってことだろう。冴島さんの弟子になりたい蘆屋さんが、冴島さんの弟子である俺が近くにいたら苛立たないのだろうか。この娘が何を考えてこういう発言をしてくるのかが理解できなかった。
ひたすら眠い講義に耐え、バッチリノートに書き込んで、授業を終えた。
「話ってなによ?」
冴島さんが待っている車に蘆屋さんを連れて行きたかった。
「歩きながら話すよ」
「どこいくの?」
冴島さんの話をしていいか悩み、今は言わないことにした。
「……ねぇ。空き室って二つぐらいない?」
「ど、どういうことよ?」
「俺だけじゃなくて、他にも引っ越したい人がいるんだよ」
「なんだ。別にいくらでも用意するわよ」
「そうじゃなくて、すぐ必要なんだ。今、おばあちゃんに確認してくれない?」
「そんなに急いでるの? ちなみに、おばあちゃんの物件ってあそこの近辺しかないけど、それでいいの?」
まあ、あんな事件があれば、普通の人はあの周囲に住みたいとはならないだろう。
しかし、住む人間は俺と冴島さん、秘書の中島さん、運転手の松岡さんだ。別に屋敷の近くでも問題ないだろう。
「うん」
俺が返事をすると、蘆屋さんはイヤフォンを付けると電話をかけ、スマフォをかじるように持ってしゃべりだした。
喋り言葉は完全に、関西のイントネーションだった。
「おばあちゃん、空き室っていくつある?」
『ふたつかな』
おばあちゃん声が妙に大きくて、イヤフォンの外にも聞こえてくる。
「二つ、たった二つ? もっとあいてなかったっけ?」
『いつの話をしてるんよ』
「ああ、わかった。で、どこが空いてるの」
『お前の住んでるところと隣の部屋』
「私の部屋は空けないから」
『なら家賃払い』
「……」
『いいか。今はその二つしかない。お前が住み続けるなら、一つ』
「わかった」
蘆屋さんは通話を切った。
そして俺に向かって振り返ると、こう言った。
「空き部屋は一つよ」
音が大きくて聞こえていた、と気づいていないのだろうか。
俺しか引っ越せないのであれば、話はなかったことにするしかないか。
「そう…… 残念だ。この話はなかったことにしてくれ」
「どういうことなの? その知り合いはともかく、あなただけでも引っ越してくればいいじゃない」
「……よくわからないんだけど、どうしてそんなに俺に引っ越してきて欲しいの?」
急に目線があちこちに動き、指と指を絡め始めた。
「えっと。空き室が埋まればおばあちゃんの利益になって、利益があがれば、私におこずかいくれるからよ」
「そんな子供みたいな理由じゃないでしょ? それなら、自分の部屋も空けてちゃんと家賃払える人に貸せばいいんだから」
「……もしかして、私とおばあちゃんが電話してたの聞いてた?」
「だって…… 聞こえるだろ?」
俺は蘆屋さんとの距離がこんだけしかないんだから、当然だ、と主張した。
「ひどいよ。もっと距離とってよ」
「……ごめん」
「!」
「どうしたの?」
「あの車って、あの時にもあった…… 冴島さんの車ね」
駐車場に止まっている冴島さんの車を見つけてしまったようだった。
「ああ」
気づかれたか。
「もしかして、他に引っ越す人って、冴島さん?」
「うん」
蘆屋さんは走って車に近づき、窓を手で叩いた。




