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「お客様にそういう言い方をするな、髪の薄い方とか言い方があるだろう」
「薄いんじゃなくて一本も生えていないんです」
チーフが俺への説教を諦めたのか、ホールの側に動き出す。
「ハゲがどうした」
「ホールにいる女の子を呼びつけているみたいで」
「わかったすぐ行く」
俺も確認しに行きたかったが、調理師に止められた。
チーフが低姿勢になって、やさしい言葉使いをしているのが聞こえてくる。
何度か同じことを言っていると、客も態度を軟化させてきたようだ。
「どうですか」
俺が聞くと調理師の人がちょっとホールを覗いてくれる。
「もう大丈夫だろう」
「良かった」
チーフが戻ってきたが、俺の説教のことは忘れていた。
ずっとその客の愚痴を聞かされたが、大して嫌ではなかった。それより皿を食洗機にセットしたり、食器を洗ったり乾かしたり拭ったり、いつもの単調で何度も繰り返される仕事が辛かった。
俺は、ゴミ出しの合間に、スマフォで撮った映像を編集した。
「冴島さん」
俺は電話をしていた。
「ということで、映像を確認して欲しいんですが」
「じゃあ、今事務所だから玲香のメアドに動画送って」
玲香というのが、秘書の中島さんのことだと教えられ、俺はそのメールアドレス宛に動画を送った。俺がキッチンに戻った時に、メールが返信された。
仕事の合間を見て確認すると、冴島さんの代わりに書いています、ということで中島さんから返信があった。
この男は間違いなく降霊をしているが、映像が連続的に映っていないから証拠にはならない、ということだった。そして注意が付け加えられていた。これから先、この男に近づかないこと。
「……」
完全にあのおっさんが降霊師だ、と分かればここで捕まえなくともいい、ということなのだろうか。
けれどこの動画では証明できない、とも言った。動画では証拠足り得ないのであれば警察はまだ動けない、ということなのだ。もし一昨日の映像にあったおっさんの連れ、が昨日の殺人犯だったらこれ以上野放しにしていると被害が広がってしまう。さっきも降霊していたわけだから、その男も何か犯罪を犯してしまうかもしれない。
手の届くところにいる悪党に手出しできない歯がゆさで、俺はイライラしはじめていた。
降霊師へのイライラと仕事のイライラが重なって、本当に俺は爆発寸前だった。たとえチーフと言えど、いま突っ込んできたら言い返してやるところだった。
そんな雰囲気を察したのか、チーフは再びホールの方へ行ってしまった。
俺は、どこにもぶつけることが出来ないまま、店の営業時間が終わった。
一人一人、女の子は帰っていく。
「あれ、チーフ戻ってきました?」
調理師は黙って俺の方を振り返り、「いいや」と言った。
制服の女の子が立ち止まり、「井村さんとお客様がもめていて、チーフが中に入って収めようとしている」と言うだけ言って、更衣室へ行ってしまった。俺とホールの女の子は会話をしてはいけないのだから、一方的に情報を言うだけしかできないのだ。
「もめているって……」
俺はイヤな予感がした。井村さんが美紅さんと同じように霊を集めている組織の手下だとしたら、井村さんにも何か霊がついているだろう。降霊師が井村さんに憑いている霊に興味を持ったのだとしたら……
調理場を掃除しながら、井村さんが通ったら俺が帰るまで待ってくれ、と言う事に決めていた。今、まだそのハゲのおっさんがそこにいるなら、井村さんが一人で帰るのは危険だ。ここの規則をやぶってしまうことになるが、このさい仕方ないことだった。
だが、いつまで経っても、チーフも井村さんも裏に戻ってこない。
「あの、ホール見てもらえますか?」
調理師の人も、帰り支度を済ませていて、嫌そうな顔を見せたが、ホールを覗いてみてくれた。
「……いないな。チーフはそこで寝てるけど」
「えっ!」
しまった。降霊師に何か霊を憑けられたのかも知れない。
「だって、井村さん着替えてない」
「知らねぇよ。ホールに女の子は見えねぇぞ。チーフ寝てんだし、お前が確かめろ」
俺はホールに出て、チーフが真ん中のテーブルに突っ伏して寝ている以外、他に人がいないのが分かった。
そのままVIPルームを開けたが、そこにも誰もいない。
ホールから裏に戻ってきて、着替え終わった女の子に声をかける。
「井村さん。井村さんを知らない?」
何人かは首を振る。
一人が言う。
「チーフが寝ちゃった後、VIPから逃げ出したのを見たよ。制服のままじゃん! って思ったけど、それを追っておっさんが出てきたから、怖くて何も言えなくなっちゃった」
「ありがとう」
前掛けをはずして、チーフの机に放り投げると、俺は店を飛び出した。
どっちだ…… どっちに行った? 俺に霊感があれば……
俺は天を仰いだ。夜の空には、雲が垂れこめていた。
その時、雲の一部が明るく照らされた。
「ん?」
あの下で何か雲が明るくなるほどの光が放たれた、ということだ。
ビルか、車道か…… 俺は考えたがその雲の方向に、光を放つ建造物が思い当たらなかった。つまり、建物とかの光ではない。何の光かは分からないが、不自然な光であるということだ。
「一か八か、あの光ってる雲の下に行ってみるしかない」
俺は走った。
井村さんの電話番号を聞いておけば良かった。メアドでも、メッセージIDでも、なにか連絡方法を交換しておくべきだった。
俺は普通の男女が、始めにすることをしていないことを悔やんだ。
近づいていくと、そこはどうやら公園の中のあたりであることが分かった。
「あれっ?」
公園は、鉄製の高い門があり、それは既に閉まっている。
しかし、光は公園内でまだ光ったり、している。
登れば入って入れないことはないが…… すぐ近くに監視カメラがある。
「もし井村さんとあのおやじだったとして、どうやって入ったんだ?」
他に入り口がないかと、俺は塀沿いに走った。塀の上には鉄の槍のようにとがった先が付いている。
もう少し行けば、入れる場所があるのかもしれない。
しかし、ずっと入れる場所は見つからない。
光は強く、もう、すぐそばで光っている。
「ほら、もう観念してこっちへおいで」
「やめて、近づかないで」
井村さん、の声じゃないのか。俺は中を見つめる。暗くてよく分からない。
塀の槍のような先端を飛び越えて、中ににはいるしかない。
「こうなりゃ、やけだ」
勢いをつけて、走った。
塀の前で、俺の体は自分の予想以上に跳ね上がった。
「えっ?」
塀の槍のような部分を軽く超え、体をひねりながら着地する。
「俺、体操選手とかだったっけ?」
俺は飛び越えた塀を見つめた。身長の倍、はないにせよ、この高さを飛び越えたことなどなかった。
通りにはロイター板があるわけでもない。跳ねるように飛び越えられた理由がない。




