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あの恰好の女の子が、店の外で、メニューとかを張ってある掲示板を拭いたり、ドアを拭いている。高いところを拭こうとすれば、足が伸びるし、低いところを拭こうとすれば、お辞儀するような恰好になったり、足を曲げねばならず、腰が落ちたりするだろう。色々と想像すると、突然『えげつなっ』と思った。
おそらくこれは掃除させているのではない。単に掃除のフリをして、新人を外に向けてアピールしているのだ。客寄せだ。キャ〇クラの客引きと一緒なのだ。
俺は自分の想像によって、よだれが出ていることに気付き、慌ててハンカチでぬぐった。
俺は急いで残りの清掃を済ませた。
VIPからチーフが出て来る時には、店内の清掃を終えていた。
「カゲ、ちょっと」
「はい」
俺はさっきの杏奈とかいう娘が見れるかと思って急いでチーフのもとに走った。
ちらっとみると、もうVIPには誰もいなかった。
「明日、午前中から入れるか?」
「えっ……」
俺は今日も朝から入っている、と言いかけたが、冴島さんが手を横に振る動作が頭に浮かんだ。
「そっか。入れるよな。お前は優しい、良いやつだもんな」
「は、はい」
チーフはジェルでべったり後ろに流している髪に触れた。
「俺はちょっと店来れないけど、女の子に話しかけたりするなよ。厨房の監視カメラちゃんと見てんだからな」
「えっ、音声も入るんですか」
ぐいっと、胸ぐらを掴まれた。
「って、お前話す気満々じゃねぇか」
「いえ、違います。違います。普通監視カメラって音声抜いてあるんですけど、ここのは違うのかなって」
「音はねぇけど話しているのはすぐわかんだよ。黙って仕事してくれな。頼むよ」
「……はい」
冴島さんに頼まれた仕事があるのだ、簡単にクビになるわけには行かなかった。
明日も朝から入らなければならない、となると結構早く起きねばならない。早く起きるには早く寝ないと。もうこんな時間だ、俺はGLPを見て時間を確認すると、チーフに頭を下げた。
「では、お先に失礼します」
「おう。早く帰って身体を休めてくれ。おつかれさん」
俺は前掛けを自分用のフックに掛けて戻すと、最後のゴミ袋を作ってゴミ置き場に持っていった。
ビルのトイレによって手を洗い、ついでに顔を洗った。
薄暗い通路を通って、ビルを出ると、駅に向かった。
駅の改札にICカード乗車券をタッチしようとすると、背中を突かれた。
「いてっ」
振り返ると、店の面接を受けていた女の子がそこにいた。
「帰るの一緒の方向ですね」
「ああ、うん……」
なんだろう、この態度は。人なつっこいだけなのか、俺に気があるのか。しょっちゅう自分に気があるのでは、と思って失敗してきている割には、その考えを捨てられない自分がいて嫌だった。
ホームで待っていると、電車が入ってきた。
「この時間の電車ってちょっと怖いから、一緒にいてくださいよ」
車内にはそんなに人が居るわけではなかった。確かに日中に比べると乗客の質が違う。酔っぱらい、チンピラ風、女の子も居るんだが、優しい雰囲気はない。
「いいけど、キミ、どこまで行くの?」
「神宿までです」
都庁のあるところだ。そんなところに若い女の子が一人で住めるのか。それとも、いいところのお嬢様なのだろうか。
「えっ、そんなところにすんでるの? 家賃高くない?」
「シェアなんで」
その言葉で、ちょっと印象が変わった。ただ、シェアと言っても、同性とのシェアハウス、なのか、同棲の言い換えなのか。その違いはかなり大きい。俺はそこまで突っ込んで聞く気にはなれなかった。
「そっかぁ、若いっていいね」
「えっと、そうだ。名前聞いてませんでしたね。私は井村って言います。お名前は?」
「へぇ、井村杏奈っていうんだ」
「あれ? 私、名前は言ってませんけど」
井村さんは急に腕を身体にひきつけ、警戒した様子を見せる。
「あ、ごめん。俺、店で立ち聞きしちゃったんだ。本当にごめん…… 俺は影山醍醐」
「ああ。だから、『カゲ』って言われてたんですね。聞き間違えてて『ハゲ』って言ってるんだと思ってました。さっきから頭見て禿げてるのかなって」
井村さんは無邪気に笑った。
「で、影山さんはどこまで行くんですか?」
「葵山だよ」
「えぇ…… そっちの方がびっくりです。葵山に住むって家賃いくらかかるんですか?」
「ああ、バイトの金じゃ住めないよね。……えっと、親戚の家に下宿してるんだよ」
説明するつもりは端から無かったが、それでも冴島さんをどう説明していいか分からなかった。
親戚、でウソを通せるだろうか。
「そうですよねぇ〜 いくらなんでもねぇ〜」
「まあ、お互い様ってことで」
そんなことを話していると、葵山の駅についた。
俺は降りると、電車が出発するのを見送った。
井村さんは、扉のところに立って、ずっとこっちを見て手を振ってくれた。
「いい娘だなぁ……」
電車が見えなくなると、俺はホームを離れた。
多くの店が並ぶ通りに、たくさんのトラックが並ぶように止まっていた。
朝のこの時間は、店のお客よりも店の商品を入れた段ボール箱の方が多い。
トラックを降りるとせわしなく段ボールを台車に移し、それを店に運び入れる。
通りに、また別のトラックがやってきて、店の前に止まった。
トラックの運転手が降りてきて、荷物を入れる戸口に近づいた。
「ん? あんた、大丈夫かい?」
戸口をふさぐように男が腰を下ろし、眠っていた。
上半身裸に黒のレザーの袖なしジャケットをひっかけ、下も黒い皮のズボンだった。
「なあ、大丈夫なら、ちょっとどいてくれないか?」
そう言って運転手が男の肩に触れると、急に立ち上がった。
「……」
運転手も小さい男ではなかったが、立ち上がった上下レザーの男はもっと大きかった。
二メートル、まではいかないが、それくらいの印象がある。精悍な顔立ちに、胸に七つの傷。
「おい。俺を起したのはお前か……」
運転手は思わずバックステップして、何も言わず首を振った。
あからさまに無視してやりすごそうとしていた。
「お前だなっ!」
腕が動いたかどうか、はっきりしないほど早く、上下レザーの男は突きを繰り出していた。
踏み出してとどくかどうか、という位置にいた運転手には何が起こったか分からなかった。
当人からすれば、おそらく瞬間的に目の前にいた男が消えた、ように見えたろう。正確には後ろを向いているのだ。しかも、顔だけが。
運転手が膝をついて前のめりに倒れたのに、顔は空を向いていた。
運転手が死んでいることに、周りが気づいて救急や警察が呼ばれた時には、上下レザーの男の姿はなくなっていて、だれもその行先を知らなかった。




