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書いた紙が、生き物のようにピクリ、と動く。冴島さんが口に当てていた指をその紙に伸ばし、言った。
「……急急如律令」
紙が風もなくフワフワと浮かびあがると、俺の手のひらに向かって飛んできた。
手のひらにペタッと当たると、何かひんやりと柔らかい感触が伝わってきた。
手の甲にあった傷も肌色のパテで埋めたように無くなった。
じっくりと手のひらを見ると、当たった部分が少し盛り上がってはいたが、傷はなくなっていた。
傷口がふさがったせいか、意識がはっきりしてきた。
「これ、な、なんなんです?」
「後で説明するから。今はとにかく、蘆屋さんを包んでいる黒い煙、黒い粒、それらを除去して」
「どうやって?」
「手をつかってでも、なんでもいいわ。これはあなたしか出来ない」
「はい!」
俺が蘆屋さんの方に走り出すと、蘆屋さんを包んでいる黒い煙が再び黒くとがった物体を俺に突き立ててきた。
体を左右に振りながら黒い針を避け、近づいていく。
距離が縮むに従い、針の突き出されるスピードが早くなって、避けるのが難しくなる。
ただ、総量が決まっているのか、すべてが出されたままではなく、いくつか針が出ると、次の針を出すために別の針は引っ込む。
「無、無理です!」
「針避けてないで、叩き折れっ!」
その言葉を聞いて、一瞬、冴島さんを振り返ってしまった。
「影山くん!」
俺の顔面に向かって、黒い針が伸びてくる…… ダメだ…… もう、避けきれない……
無意識に手でそれを上に弾こうと手が動く。
俺の顔に針が突き立つ…… という寸前。
パキッ、と音がして黒い針は折れ、部屋の天井に突き刺さった。
「そうよ、その調子!」
今度はその声に振り返らなかった。
「早くあの煙を払って」
伸びてくる黒い針を、手で、足で折り、払いながら進む。
もう怖くない。
『くっ……』
蘆屋さんの体に付いている黒い煙のようなものを、手で拭うようにすると、煙はその方向にまとまっていった。
手を動かす度、蘆屋さんの裸が俺の目の前に姿を現していく。
「さ、さえじまさん、あの、これ……」
俺はさっきの命令が効いていて、蘆屋さんの身体の一部がはっきり見えなかった。
「なによ」
「命令を取り消してください」
「私が見てるから、見ないでやりなさい」
どうしても肝心な部分は見せたくないらしい。蘆屋さんのためなのか、セクハラ厳禁の除霊事務所の方針からなのか、冴島さんの個人的な感情なのかは分からなかった。
俺は必死に想像でてを動かし、煙を取り除いた。
「OK、全部払われたわ」
「……ふぅ」
とため息をつくと、蘆屋さんの二つの胸のふくらみに、まるで今頃気付いたように、急にドキドキし始めた。
まずい…… あそこが…… その…… あれだ…… とにかく…… やばい……
「なにやってるの影山くん。蘆屋さんを連れてきて!」
「えっ?」
払った黒い煙がどんどん寄り集まり、くっつきながらなにかを形づくり始めていた。
俺は蘆屋さんのお腹に肩を入れ、くの字じ折り曲げ抱え上げた。
こんなに力がでるものなのだろうか、と思いながらも、蘆屋さんを担いだまま、全力で冴島さんの方へ走った。
「かんな!」
「言われなくてもやってるんだケド」
払った黒い煙は、全身真っ黒で、二本の角を生やした、一つ目の人型を作り出していた。
悪魔、死神、あるいは鬼とでも表現したくなるような形だった。
パチン、と音がすると、橋口さんのムチがその真っ黒い悪魔を縛り上げた。
「あれ、俺じゃないとって」
だから、俺が蘆屋さんから煙を払ったはずだ。
「もう蘆屋さんがいなければどうってことはない。ただの悪霊よ」
「そ、そうなんですか?」
そう言いながら、近くにあったソファーに蘆屋さんを寝かせ、シャツを脱いで体にかけた。
「麗子、ムチがもたない。早くして欲しいんだケド!」
冴島さんは指を組み合わせながら言う。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
言い終わると、冴島さんは手刀で目の前の悪霊を貫くように突き出す。
「あっ……」
冴島さんの手の先から、何か光る波のようなものが振り出されているのが見えた。
もしかして、いままでも同じようなものが出ていたのだろうか。
その波のようなものが、橋口さんのムチで縛られた悪霊を切り裂く。
『……ぁ、わぁ、うぁ、あう、ああ……』
と言葉にならない声を出す。
そのまま真っ黒い悪魔は、あちこににヒビのような亀裂が出来て、そこから光が漏れだし始めた。
「んっ!」
橋口さんが、トドメと言わんばかりにムチを絞り上げると、粉々の破片になって散らばった。
黒い破片は裏返って光を放ちはじめ、また光が弱くなっていくとその破片は消え去っていた。
「消えちゃった」
と言った俺の声が部屋に響いた。
冴島さんはこめかみに指を添えて、周囲をぐるっと見回した。
橋口さんも、歩き回って霊圧を測っている。
それらが一通り終わると、二人とも安堵した表情を浮かべた。
橋口さんと冴島さんが、ハイタッチをかわす。
「とりあえず、完了したんだケド」
「ありがとう、おつかれさま」
そんな二人の様子をみて、俺はようやく除霊が終わったことが分かった。
「終わったんですね」
「う…… ん」
期待していた声のどちらとも違う声が下から聞こえた。
「?」
ソファーで寝転んでいる蘆屋さんが伸びをした。
「気が付いた?」
俺はソファーを見下ろす。
伸びをしたせいで、かけていた俺のシャツがずれ、胸が開けていた。
「影山くんっ!」
後ろから冴島さんが命令を入れた。
しゃがみかけた俺は、気を付けの姿勢に戻った。
「どうしたの、お兄ちゃん」
「!」
蘆屋さんの声ではない。まずい、まだあの悪霊が残って……
「麗子、蘆屋さんを!」
「分かってる」
部屋を調べていた二人がソファーの周りに集まった。