(1)
三日前のことだった。
俺は居酒屋の店長に呼び出された。
「すまん近くでイベントがあったのか、滅茶苦茶忙しい。ヘルプをお願い出来ないかな」
確かに今日はシフト外だったが、金が無くて遊べなかった。腹を空かしてじっとしているだけよりは、『まかない』もあるし、確か今日は由恵ちゃんも入っていたはずだ。そう考えるとバイト先に行った方が自分にとっても都合が良さそうだった。
「はい、よろこんで」
「おう。ありがとうな」
電話を切って、俺は直ぐに支度をした。
バイト先に付いて挨拶した段階で、今日が忙しいのがわかった。
挨拶すれば顔ぐらい振り返るだろうに、今に限っては誰も振り向きもしない。ひたすら自分の作業に没頭しているのだ。
俺はオーダーを取って、テーブルを片付け、食器を洗い、出来上がった料理を運んだ。
その合間にレジ打ちし、とそんなことをグルグルと繰り返し、本当に目が回るほどの二時間を過ごした。
お客が減ってきて、バイト同士、少し立ち話も出来るぐらいになったころだった。
突然、奥から由恵ちゃんの悲鳴が聞こえた。
俺は奥のキッチンに向かった。
「かげやまくん、鈴木さんが大変なの。店長に…… 店長に刺されて」
「えっ」
血で濡れた床に鈴木さんが倒れていた。
助けようと手を伸ばした時、店長の姿が目に入り、体が止まってしまった。
「かげやまか…… いいんだよ。ほっとけよ」
お腹を押さえて苦しんでいる鈴木さんの体をまたいで、店長が俺の方に近づいてくる。
エプロンを付けた店長は、両手に包丁を持っている。
「て、店長、あなた、自分が何したか分かってますか?」
俺は鈴木さんがうなりながら倒れているのを指さす。俺の背後で、由恵ちゃんがスマフォで警察を呼んでいる。
「知らねぇよ。指図すんじゃねよ。みんな死んじゃえよ」
そう言うと、俺に向かって両方の包丁を振り下ろした。
「うわっ」
反射的に手でそれを押さえようとした。
……死ぬ。
右手を突き抜けている包丁を見て、俺はそう思った。
やばい。何も考えられない。
ショックの為か、出血のせいか、視野が白くぼやけて、意識が遠くなっていた。
気がついた時には、俺はバイト先の居酒屋の畳の客室に寝かされていた。
警察が入って、あちこち写真にとったり、一人一人話を聞いたりしている。
俺は客室からその様子をみていた。
手がズキズキする。そうだ。俺、店長に手を…… 店長の突き出した包丁が、手の甲を飛び出して……
俺は慌てて自分の手を目の前に持ってきた。
俺の手には雑に包帯がまいてあった。
「ちょっとまって。俺、手が…… 手に包丁が刺さったんだ。救急車を呼んでくれ」
俺が叫ぶと、警察の人が何人かやって来た。
「手に包丁?」
「ちょっと包帯取ってみるよ?」
「え?」
俺は客室で座った状態で手を突き出して、警察官に包帯を外された。
「ほら。なんともないみたいだけど」
「指は動くかね?」
親指から数を数えるように折った。指はしっかり曲がった。そして、手を握ったり、開いたりした。
「ほら、どこにも外傷はないようだけど」
奥から、白い手袋をしたスーツのおじさんが、若くて髪の長い女性を引き連れて俺の方にやってきた。
「このかた?」
俺の目の前にいた警察官が返事をして、場所をあけると、スーツのおじさんが来て警察のものだ、と言った。
「影山くんだね? 今回の件で少し話を聞きたいのだそうだ」
すると、後ろをついてきていた女性が俺の前に立った。
肌が透き通るように白く、髪は胸元あたりまであり、少し内向きにカールしていた。女性は警官とは違う上等そうなジャケットとスカートをまとっている。
目鼻立ちは整っていて、モデルだ、芸能人だ、と言われれば信じてしまうような雰囲気だった。
その女性はスーツのおじさんに耳打ちした。
すると、周りにいた警察官が散っていき、最後におじさんもいなくなった。
俺の目の前にその女性が一人立っている、という状況になった。
「あなたが、店長を取り押さえたんですって?」
「え?」
「……もしかして、記憶ないかな?」
俺は手の平に包丁が貫通した瞬間、意識がなくなっていたのだ。店長を取り押さえることなんて出来ないだろう。いややったかもしれないけれど、そこから先は一切憶えがないのだ。一年以上前の記憶がないのと同じような感覚だ……
「そう」
女性は俺の手を握ってきた。
手のひらや甲に、何か傷がないかを確かめるように指で押したりなでたりしている。
「ここに包丁が刺さった、って言ってたわね」
「聞いてたんですか」
女性はうなずいた。
「もしそれが本当だったとしたら。これは直ったとかそういうレベルじゃないわね」
「お、俺が嘘ついてるって、そういうことですか? ウソなんかついてないです。あなた、精神科医かなにかですか? 俺がなんかしたって思ってるんですか?」
女性は首を振った。
「心配しないで。私は嘘だとは思ってないから。それと……」
そして、上着のポケットからメモ帳を取り出し、何か書き込むとピッと破って俺の手に握らせた。
「なんですか?」
「しー」
女性はそのまま軽く手を振って去っていってしまった。
この、三日前の事件が俺にとって最悪だったのは、最初のバイト代が出る直前に起こったことだった。
店長が警察に捕まってしまった事で、バイト代の支払い手続きをする人間がいなくなってしまったのだ。いや、正確にはいるのだろうが、支払いが遅延しているのだ。
学生の俺は、いや、計画性のない俺は、というべきか。その入金がないと飯が食えない状況だった。
とにかく誰かに金を借りてでも飯を食うべきだったが、残念なことに夏休みのせいで金を貸してくれたり、飯をおごってくれる友はいなかった。
こんな事件後だと、普通ならショックでバイトなどできない気分だったが、生きていくため、俺はとにかく次のバイトに就かなければならなかった。
時間が遅いせいか、あたりはすっかり暗くなっており、街には、食べ物の良い匂いが溢れていた。
「ここか……」
空いた腹をおさえながら、スマフォが指し示したビルを見上げた。
俺は新しいバイトの面接に来ていた。
このバイトを知ったきっかけは居酒屋の事件で、女性に手渡されたメモだった。
このバイトが良かったのは、バイト代が高い点もだが、俺にとっては契約時に手付金があることだった。
今思えば、そこで気づくべきだった。『そんなに美味い話はない』と。
「うわっ、列になってら」
やっぱり前金が出る高額バイトには人が集まってくる。