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《殺戮因子》と《地獄期間》①

 一瞬の膠着状態も作らずに、世界が真っ先に動き始めた。雄叫びも上げず、静かに、身体を沈ませて、アスファルトの上を駆ける。

 深い考えはない。先手必勝だ。

 先程まで二人の間にあった距離を、世界は一瞬で縮める。端から見ればそれは瞬間移動したようにさえ見えるであろう。俗に『縮地』と呼ばれる瞬速の歩法。名前の通り、地面を縮めるような速度で、世界の拳は殺人鬼を射程距離に捉える。

 捉えたのなら、後は単純。世界の能力は、複雑怪奇さはない。《地獄期間》ができることは、いつでも一つ。拳を握って、叩き込む。それだけだ。

 それだけのことを、十九年の人生え練り上げてきた。

「オラァッ!」

 一直線に殺人鬼に向かったそのスピードを、そのまま攻撃に変換する。『縮地』からの連続攻撃。幾万と繰り返して来た動きに淀みはなく、速度と体重を十分に乗せたその左の拳は、容易くマフラー越しに男の首を吹き飛ばすであろう。

「気が短いね。まあ話でもしないかい?」

 しかしその必殺の一撃を、殺戮因子は何事もないように右腕で払い跳ばす。力の向きを逸らされた左拳は、大袈裟に向きを替えて空を切る。

 が、それは計算の内。というよりも、予想の範疇だった。拳を払われたとしても、近付くことができるのならば、世界に取って何の問題はない。彼が最も得意とする、拳と拳の間合い。小手先の技術を挟む余地のないブルファイト。泥臭い殴り合いこそが《地獄期間》の真骨頂だ。

 間合いに捉えた相手をもう二度と逃がさまいと、世界は緋色の瞳で殺戮因子を睨みつけた。

 二人の視線が交差し、

「――――っ!」

 その瞬間、世界が思わず零れそうになった悲鳴を押し殺しながら、大きく飛び退いた。有利な距離は一気に広がってしまい、拳の間合から再び遠ざかってしまう。

「どうしたんだい? 肉弾戦が得意じゃあないのかい?」

「いや? 話って何を話してくれるんだ?」

 不適に薄く微笑む殺戮因子を見ながら、世界は払われた左手を結んでは開いてを繰り返す。

「そうだね。君は、《地獄期間》は好きなものとか、嫌いなモノとかある?」

 大した興味もなさそうに語る殺戮因子が、腕の調子を確かめる世界にゆっくりと迫る。二メートル程まで互いの距離が詰まると、殺戮因子の細い右腕がゆっくりと伸ばされ、凄まじい威圧感と共に世界の太い首を狙う。

「あるに決まってんだろうが!」

 欠伸が出る攻撃を乱暴に震える左手で払いのけ、世界は叫び声と共にローキックを殺戮因子の右足目掛けて放つ。

「そうか、ぼくにはないんだよ」

 が、その蹴撃が殺戮因子の足を砕くことはなく、寸での所で世界は蹴りを止めてしまう。

「どうしたんだい? 今のは絶好のチャンスじゃあなかった?」

 その様子に、可笑しそうに殺戮因子が余裕を見せて笑う。先程の女と比べても隙だらけな男を見て、世界は苦々しく舌打をした。何故だか、いつものように攻め入ることができないようだ。

 いや、理由はわかっている。わかっているのだが、しかしそれを世界は認めたくなかった。

 答えは単純で、世界は殺戮因子が怖いのだ。この男に殺意を向けると言う行為が、恐ろしくて堪らない。その言葉の一つ一つが、その挙動の全てに血が凍りつくほどの恐怖を覚える。直接触れた左腕は、未だに震えが止まっていないほどだ。

「ああ、で、君の好きなものを教えて貰えるかな?」

 それはやはり、目の前の男の《殺戮因子》と呼ばれる能力が原因だろう。世界はその能力が『毒』ではないかと、症状から適当に当たりをつける。毒ならば、町一つを一晩で滅ぼすことも不可能ではないように思えるし、震える左腕の理由も毒の効果と言うことで説明がつく気がする。肉体が敏感にその毒を感じ取り、攻めあぐねているのかもしれない。先程の掴もうとした動きも、直接触れるだけで相手に毒を移すような能力から来る攻撃なのかもしれない。

 考えをまとめる為に、世界は取敢えず殺戮因子との会話に言葉を返す。

「…………料理とか? こう見えて、得意なんだよ。コーヒーは上手く淹れられないけど」

 本当のことを言うと、頭には真先に向日葵の笑顔が浮かんだ。が、こんな危険な奴の記憶に彼女の名前があるというのは耐え難く、世界は無難な趣味を口にする。左腕の震えはまだ止まらない。

「料理か。素敵だね」

 まったく心の籠っていない声と同時、殺戮因子が抜き手を繰り出す。威力よりも当てることを目標としたような素早く、腰の入っていない一撃だ。普段ならダメージ覚悟でカウンターを狙いに行く程度の攻撃を、世界は危険だと判断して、身体を捻ってそれを回避する。

「そりゃどーも。あんたには作ってやらねーけどな」

 二発三発と矢継ぎ早に飛んで来る抜き手を、なるべく身体に触れないように避けながら、世界は反撃の機会を窺がう。幸い、関守の特訓で跳んでくる竹刀と比べれば、かわすことは容易い。むしろ、遅すぎて回避のタイミングに若干戸惑う程だ。

「でも、ぼくは料理を好きだと思ったことはない。だからと言って嫌いと言うわけでもない。わかるよね、この世は単純な二元論では割り切れないってこと」

 好きでも嫌いでもない。どうでもいい存在。世界にも、そんな物は幾らでもある。一体、この男がそんな当たり前のことを話して、何を伝えるつもりなのだろうか?

「ぼくは、好きなモノなんて一つもないし。嫌いなモノも本名以外思いつかない。名前を思い出すたびに、ぼくの心は嫌悪に震える。この名前だけがぼくの存在理由なんだ」

「なるほど、あいつと違ってピーマンも食べてくれそうだな」

「そうだね。好き嫌いなく食べれるよ」

 軽口を交わし合いながらも、殺戮因子の攻撃は徐々に激しくなっていく。最初は細波のようだった攻撃が、今は更に早く、より鋭くなり、全てを飲み込む波濤と化していた。ここまで来ると、かわした方が危険だと判断した世界は、渋々両腕を防御に回す。幸い、左腕の痺れはなくなっていた。

「……君は、中々持つんだね。会話をしてもう三分は経つっていうのに」

「この程度だったら、寝ながらでも捌ける奴は沢山いるぜ」

 二人の攻防は次第に速度を増して行く。秒間に最低でも三回はお互いの腕が交錯し、既に常人には、何をやっているかす理解できないであろう領域にまで達していた。

 しかし、世界にしてみれば、眼を剥くほどのことではない。早いだけで一撃の威力は低く、世界を殺すには例え十倍の威力があっても遠く及ばない。それに、懸念していた腕の痺れは動かなくなるような症状にまでは到らない。毒ではないのか、それとも世界の能力によって既に耐性ができてしまったのか?

「そろそろ、こっちも行くぜ?」

 なんにせよ、痺れる症状が出ないのなら、攻めあぐねる理由がない。遂に相手の攻撃を喰らう覚悟で、世界は自らも攻めに出る。相手のレベルを鑑みるに、乱打戦になれば、勝つのは自分だと言う絶対の自信が有った。

「それは止めた方がいい」

 命乞いとも取れる台詞を、世界は鼻で笑う。何が、《殺戮因子》だ。噂が一人歩きしたか、目の前の男は偽者なのだろう。そう思うと、ふつふつと身体の底から力が、殺意が沸いてくる。

 もう、終わらせよう。右手の拳を握る力が強まり、突き出された殺戮因子の腕をかわし、交差法でその拳を叩き込むタイミングを見計らう。

「ぼくには勝てないよ」

 二秒も立たないうちに、それは訪れた。ダメージ覚悟で抜き手の波の中を突き進み、思い切り世界が勝負を決めることのできる距離へと踏み込む。裂帛の気合と同時に世界の右拳が唸り、その会心の一撃が世界の顔面を思いっきり殴り飛ばした。

「!!!????」

 駐車場の骨の折れる鈍い音が静かに広まり、それと同時に世界の視界が歪む。不意のダメージに立つことすらままならず、全ての意識を手放しその場に崩れ落ちてしまった。

 そしてその一瞬後に意識を取り戻した頭の中を、大量の疑問符が埋め尽くす。何故? 何故? 何故? と思考が空回りし、決定的なまでに隙だらけの格好を晒してしまう。

 が、アスファルトに伏せ、折れた骨が薄い頬の肉を貫通している世界を見て、殺戮因子は「怖い怖い」とおどけるだけで追撃してくる様子はない。

 気まぐれにより命拾いした世界は、頬の骨が元に戻るや否や、すぐさま距離を取る。接近し過ぎたことが原因だろうか? それとも幻覚系の能力で神経を狂わされた? とにかく不用意に近付くのだけは悪手だと決め付ける。

 その様子が可笑しかったのか、殺戮因子の表情が柔らかくなる。

「《地獄期間》。君は今、ぼくを殺そうとしただろう?」

「あ……だた」

 それがどうした。そう言おうとしたのだが、口は上手く動いてくれない。確かに「殺そう」とまで積極的ではなかったが、死んでしまっても構わないとは思っていた。が、今やっているのは殺し合いだ、そんな当たり前のことをわざわざ確認する意図が読めない。 

「君は、ぼくの能力をどう定義した?」

 その言葉に、世界は自らを刺し殺した女の症状を思い出す。彼女は、狂ったように血を好み、殺人欲に溺れていた。アレは、毒だったのだろうか? それにあの時、女の傍に殺戮因子はいなかった。だいたいあの症状は毒で気が狂ったと言うよりは…………

「ばっ!!??」

 そこまで考えて、世界は突然息苦しさを覚える。空気が吸えない程度、世界の行動にはなんの支障もきたさないのだが、距離を取っても能力の正体がわからないのは非常にまずい。いくら不死に不老に不死身の矛盾を内蔵している《地獄期間》と言え、立て続けに不可視の攻撃を喰らって死に続けていては勝負にならなくなってしまう。

 原因を確かめようと、喉に手を回して気が付く。いや、回せないことに気が付いた。いやいや、既に回していた。

(馬鹿な!)

 他ならぬ自分自身の腕が、喉首を捉えていることに、世界は驚きの声すら上げることができない。まるで自分の腕ではないような奇妙に、自分が能力を見誤っていたことを悟る。

「やっと効いてきたみたいだね。ぼくの《殺戮因子》が」

 ギリギリと万力のように血色の悪い掌が、同じ色の首を絞めていく。酸素の供給云々よりも早く、世界の首がギシギシと不吉な音を立てた。

「ぼくの周りでは人が死に易くなるんだ。ぼくの力は『殺意』そのものを生み出し続けるんだ。以前殺した能力者がそう言っていたし、僕自身もそう思う」

 淡々とした台詞を聴きながら、世界は自らの腕の力にバランスを奪われ、その場に崩れ落ちてしまう。その視界の隅で、殺戮因子が先程死んだ女の元まで歩く。

「彼女は、君達と会う五分ぐらい前にあったんだ。大体、そのくらいの時間がボーダーラインだね。それくらいの間会話を続けると、体抵の人間は気が狂うんだ。殺したくなるんだ、何もかも。『殺気に障られた』そうぼくは表現するんだけど、見つめ合うと更に効果が高いし、直接障ればその場で首を掻き毟ってでも死にたくなる」

 殺戮因子は御丁寧に能力の説明をしながら、まだ暖かい女の首からナイフを抜き取り、女の着ていた派手な服でナイフの血を拭う。その表情は汚いものを扱う風でもないし、興奮している様子もない。

「君が、最初の一撃と次のローキックを止めたのは、直感でそれがわかったんじゃあないのかな? でも、君は凄いよ。ぼくの手と何度も接触したのに中々障られなかった。まあ、最後の最後には障られちゃったみたいだけど」

「……どー、いう」

 息も吸えずその場にうずくまりながらも、世界は会話を試みる。まだ負けてはいない。しかし五秒後はどうかわからない。油断し手いる今のうちに反撃の糸口を掴まなければ。

「殺気に障られた人間の特徴はたった一つ。殺人願望だ」

 頬の傷が回復したことに大した驚きも見せずに、殺戮因子はナイフの血を何度も何度も拭う。

「殺したくなる。それだけだよ。目の前のぼく以外の存在を殺したくなる」

 世界は、自分自身を殺したくて仕方がなかった? 《地獄期間》が死にたくなるなんて、性質の悪い冗談にしか聞こえないが、しかし事実だった。圧倒的な殺意が個を塗りつぶし、誰もが潜在的に持つ死への憧れや恐怖が表に出て来るようなこの感覚を、世界は嫌という程知っていた。

「それに、殺意は殺意に反応するからね。ちょっとずつ君の精神を犯していたぼくの殺意が、君の殺意と一緒に燃え上がったんだよ」

「その能力でどうやって、町を潰すんだよ。吹かしこいてるんじゃねーぞ」

 今にも自分の首を砕きそうな腕を無理矢理地面に押さえつけ、世界が顔を上げて吼える。強がりの一つでも言わないと、あっさりと自分に殺されてしまいそうだった。

「ああ、あれね。単純だよ。殺意と狂気は増幅しながら伝播するんだ。生者が死体になるように、死体から生者へと。ぼくが殺した死体から、ぼくの殺意に障られた人間から。殺意と狂気が手を繋いで大行進する。それがぼくの《殺戮因子》さ」

 正しく《殺戮因子》の名に相応しい、究極な狂気。その説明が真実ならば、この目の前の青年は、歩くだけで死を振りまき、殺人者を作り出し続ける存在と言うわけだ。

「しかし、君は不思議だ。首の骨が折れても平気で生きているし、どういうわけか喋っている。いや、もう治ったのか? どっちにしろ、君の存在は激しく生を冒涜してるね」

「てめーのことを棚に上げやがって」

 一歩二歩と近付いて来る殺戮因子を視て、世界は何とか勝利への道筋を考える。『状況が負けに向かうことはない、そう感じる心が既に敗北に跪いているだけ』とは姉の弁だが、その通りだ。必ずしも敗北以外の道がないわけはない。なにしろ、世界は絶対に死なないのだ。

 だったら、何か道があるはずだ。生きているのなら、前に向って歩けるのだから。

「違うんだよ、君を軽蔑しているわけじゃあないんだ。軽蔑したいんだけど、心の底からは、君を憎む気持ちが沸いてこない。おぞましい生命をみても、何も感じない」

 ぶつぶつと、最早独り言のように殺戮因子が喋り続ける。勝負は終わってしまったと言わんばかりに、マフラーの下から手を入れて顎を撫でながら、誰にも理解されない自分の悩みに酔っていた。

 チャンスなのか? 世界は乾いた唇を舐める。今なら、隙だらけなはずだ。だが、殺気を込めてしまえば、障られて文字通り自分の首を絞めるだけ。かと言って、殺意のない攻撃なんていくら隙があるとは言えかわされてしまう。そもそも、仕留め切れない攻撃をして何の意味があるというのだろうか? 

 片や饒舌に語り、方や黙りこくり、お互いが悩みにしわを寄せていると、

「ああ、ごめんごめん。どの道、君の事は好きにも嫌いにもなれそうにないんだった」

 友達に缶ジュースを奢るような気安さで、殺戮因子は綺麗に血をふき取ったナイフを世界の目の前に投げた。

「え?」

 どくん。どくん。

 それだけで、世界の心臓が張り裂けそうな速度で鼓動を刻む。

「なんで?」

 世界の意思を離れた手が、勝手に投擲用のナイフを拾う。まるで、映画のワンシーンを見るように、滑稽なほど他人事だった。

「そのナイフは、二人……もしかしたらもっと多くの人間に死を与えたナイフだ。ぼくの《殺戮因子》は、そういったモノが大好きなんだ。殺意は共鳴するらしい」

 そんな丁寧な説明も、世界の頭には入ってこない。

「なんで、こんなに殺したいんだ?」

 世界の中の殺意の炎が、ナイフと言う追い風を得て燃え上がる。

「ドラマチックに言えば、『人は皆、死にたがっている』んじゃあないの? 《地獄期間》」

「人は、誰でも死にたがっている?」

 気が付くと、世界は自分の腹を、分厚い制服ごと横一文字に切り裂いていた。

「違う? 俺は、《地獄期…………」

 言いながら、更に腹部に一本の傷が増える。ぼとぼとと赤黒い内臓と血液が零れ落ちるが、世界は悲鳴の一つもあげず、おぼろげな瞳ではみ出る腸を眺めるしかできない。

「違わないさ、《地獄期間》。駐輪場だろうと聖地だろうと地獄だろうと、人は死ぬんだよ」

 一心不乱に体中にナイフを走らせ、突き刺し切り取り続ける世界は、殺戮因子が自分から静かに目を離すのを見た。見るに耐えないとか、そんな可愛らしい理由ではない。単純に興味をなくした冷たい瞳だった。

「不良青年、真夜中の凶事件」

 世界がアスファルトに沈むと同時、殺戮因子はそれだけを呟く。男の死体も女の死体も、自分は一切無関係だと、自分なんて人間の存在は何処にもないのだと、殺戮因子は寂しそうに遠くを見た。早く立去るべきだと思いながらも、五月になったばかりの夜空を見て物思いに耽る。

 アレから四年。

 自分は結局、何も変わっていない。名前を憎み続けて生きてきた。名前の代わりを探して生きてきた。

 今日もそれだけのことに三人の人間を殺してしまった。それなのに、この胸は少しも震えはしない。一体、心とは何なのだろうか? 精神とはどこにあるべきなのだろうか。

「そして、自分とはどこを目指すものなのだろう?」

 そんな誰にも聴こえないはずの独り言に、

「それは、地獄以外ないんじゃあないのか? 《殺戮因子》!」

 乱暴で思慮の欠片もない相槌が打たれた。この数分で既に聞き飽きた、まだ少しだけ少年らしさを残した、捻くれ者の声が。

「なんなら、招待してやろうか?」

 体中の臓器を体外に排出したと言うのに、指も半分以上が取れ、耳はもげていて、双眸があるべき場所は奈落の底のようになんの光も宿していないと言うのに、新里世界は生きていた。白いセダンに持たれかかりながらも、自らの良の足で《地獄期間》は立ち上がっていた。挑戦的な笑みを浮かべて、まるで地獄のようにそこに存在していた。

「まだ、動けるのか《地獄期間》!」

 その悍ましい存在に、初めて殺戮因子の顔が驚愕に染まる。

 幾度となく死体を造ってきた流石の殺戮因子も、死体になっても生きている人間は初めてなのだろう。自然と唾を飲み込み、汗ばんだ掌をコートの裾で拭う。

「……恐怖している?」

 自分の心情を冷静に分析し、今しがた口にした言葉を反芻する。目の前の青年が、自分の追い求めていた存在なのだろうか? 高鳴る心臓を服の上から握り締めるように、コートの胸の部分に手を当てる。

「そうだ、《殺戮因子》は地獄で恐怖するんだよ」

 怯えの一つもない堂々とした物言いと同時、その台詞を待っていたのか、一瞬にして世界の身体に刻まれた自傷の痕が全てが音もなく塞がる。ビデオの逆回しと言うよりは、傷付く前の世界を貼り付けたように、制服以外の全ての傷は見る影もなく修正される。セダンを汚していた赤黒い血液すらも消え失せていた。

 これが、《地獄期間》。

 墓場生まれの地獄育ち。百万回死ねない男。不死に不老に不滅の矛盾。新里世界。

 身体の完全修復に、にやりと世界が笑う。それは、反撃の狼煙か。

「さあ! 殺してやるよ。徹頭徹尾首尾一貫! 地獄と言う地獄の中で恐怖しろ」

 堂々たる啖呵を切ると同時、世界の右腕がナイフをしっかりと握り締め、世界の身体を再び縦に切り裂いた。ナイフは未だに欠け一つなく、綺麗に肉を裂き、鮮血が噴き出した。

「…………え?」「…………は?」

 開いたばかりの傷口から勢いなく流れ出る血液と、世界の腸。

 その様子には、二人が同時に間の抜けた声を上げる。状況を真っ先に理解したのは、世界の方だった。

「畜生。やっぱり精神論じゃあ勝てねーか」

 血と肉が身体を離れていく生々しい音と一緒に、世界の身体が前のめりに倒れ込む。それでも、殺意は止まらず、世界の右腕は別の生き物のようにナイフで体中を傷つけ回る。

 どうやら不死身の《地獄期間》と言えど、目に見えない殺気で受けた心理的な傷までは、そう易々と癒せないようだ。

「…………拍子抜けだな。《地獄期間》」

 その滑稽な姿に、殺戮因子の心臓は過剰な鼓動を止めて日常業務に戻り、手の汗もすっかり収まっていた。

「だが、興味が湧いた」

 それは、四年…………下手をしたら名前に対する嫌悪以来の感情だった。

「ぼくと対峙して死ななかったのは君が初めてだ。もう十分くらいはこうやって殺し合っているのに、君は生き続けている」

 勉強でも、殺人でも、放浪でも震えなかった心が、ようやく震えたのだ。もう少し、遊んでもいいだろう。彼はそう考えた。

「これから、ぼくは君を直に触る。さっきの攻防みたいにじゃあない。ぼくの血を君に触れさせる。血って言うのは、その人その物でもあるだろう? 僕の全てが、君に触れる。だから、一番効率的に殺気に障らせることができるんだ」

「やって見やがれ、殺人が趣味の糞野朗」

 アスファルトに身を預け、秋刀魚のように腸が飛び出ている世界は、困った様子も怯えた顔も見せずに悪態をつく。

「何が殺気だ。何が好きにも嫌いにもなれないだ。言っておくが、愛は一人ぐらいなら救ってくれるんだぜ?」

 戯言を吐きながら、世界は再び立ち上がろうと両腕に力を込める。わき腹にはナイフがつきささり、ふとももは皮一枚で繋がっているといった所だが、そんなことが立ち上がれない理由になるはずもない。

「君の言葉じゃあ、ぼくは震えないんだ。ごめんね」

 微塵も謝罪の気持ちが篭っていない言葉を口にして、立ち上がろうともがく世界の顔を殺戮因子が踏みつける。その重さに耐えられず、世界の身体が再度地面に這い蹲る。

 同時に身体が完全に修繕されるが、人体の構造上、首を押えられては流石の世界も身動きが取れない。動けたとしても、最早殺意を抱くことすら危険な状況では手も足も出ないだろうが。

 そんな世界を愉快そうに見下して、殺戮因子は親指の腹を噛み切る。真っ赤な血がぷくっ、と膨れ上がって珠の形になる。

「さあ、《地獄期間》。ぼくの心を震わせておくれ」

 ゆっくりと、真っ赤な狂気が世界の唇に触れる刹那。

「そこまでじゃの、殺戮因子よ。まったく。今回は世界に正義の心を学んでもらうだけのレクリエーションだったんじゃが、まさか実演する破目になるとは」

 片方の手でぼさぼさと散切り頭を掻き混ぜて、ただし目つきは日本刀より鋭く、多鞘関守が殺戮因子の肩を強く掴んでその動きを封じた。

「おせーよ」「いつの間に!?」

 二者二様に、侍の様な格好をした小さな男の登場に驚きの声をあげるよりも早く、

「悪いが、そいつは未来の義弟なんじゃ。薄汚い足をどけてもらえるか?」

 関守は形だけの疑問文を投げかかける。返事も待たずに殺戮因子の腕を取り、変形系ではあるが、そのまま一本背負いで投げ捨てる。後ろを向く人間を投げ飛ばす技があるとは思いもしていなかった殺戮因子は、受身も取れずに地面に叩きつけられ、肺の空気を一気に吐き出す。

 今夜初のダメージに驚愕と戸惑いを隠せない殺戮因子を尻目に、関守は世界の身体を起こすと、優しくその身体を抱きしめる。

「ようやった。後は任せろ」

 世界の頭を二度撫でると、ニッコリと微笑み、能力によってナイフが刺さっている以外、目立った外傷のない事を確認して世界をアスファルトに戻す。

「痛たたた。何? 今の。柔道でそんな技あったっけ?」

 その様子を見終えた後、咳き込みながらも、殺戮因子は立ち上がり、軽口を叩くことで交戦の胸を示す。ダメージは正直に言えば少なくないだろう。なにしろ、アスファルトに正面から叩きつけられたのだから、痛くないわけがない。が、関守はコート越しとはいえ直に触れたのだ、後一分もしないうちに殺気に障られる。それならば条件は五分。むしろ殺人鬼が有利か? 更に言えば、既に障られている世界に触れている。不死身の青年は、二度死ぬほどの狂気に犯されている。その事実の持つ意味は明白だ。

「関守、すまねえ」

 その余裕の意味を理解したように、世界が情けない声で謝る。彼は立ち上がると脇腹のナイフをゆっくりと抜き取って言った。

「俺は今、猛烈にお前を殺したい」

 何も、殺意は自分にのみ向けるものではない。むしろ、他人に向けるものだ。殺戮因子はその例外であるが、他に人がいれば、殺意は容赦なくその者を襲う。そこに躊躇いや本人の意思は一切とない。

「謝ることはござらんよ」

 殺意を抑えきれずにナイフを振り上げる世界に、関守は優しく微笑むと、

「取り敢えず、右足をもらうかの」

 世界の右膝に腰の入った蹴りを放つ。それは真っ直ぐに膝を襲い、世界の膝は音を立てて砕けた。予想外の攻撃に、世界も殺戮因子も、思わず「えー?」と間抜けに叫ぶ。

「いやー。一応拘束用に手錠を持ってきて正解だったの」

 そんな二人を尻目に、関守はお気楽な声を上げながら世界の指をマッチのように折ってナイフをもぎ取り、懐に仕舞い込む。そして裾から取り出した二つの手錠で両手と両足をそれぞれ繋いで動きを封じる。

「すげージンジンするんだけど、指先が」

「治るから大丈夫じゃろう?」

「君たち、ぼくより脳ミソやばいんじゃあない?」

 拘束されながら楽しそうに笑う世界と、膝やら指を折っておいてにこやかに笑う関守に、殺戮因子も流石に思うところがあるらしく、引いた様子で声をかける。

「それに、なんであなたはナイフに触っても平気なんですか?」

 何より、それが不思議だった。三人の血を吸った、殺したという意思と狂気の塊であるはずのナイフ触れたばかりか、胸の中に仕舞い込んだと言うのに、関守はからからと笑っている。

「平気? なんじゃ黴菌でもついとったんか?」

 世界の学生服で急いで関守は指先を拭う。全くもって効いていない様子に、殺戮因子は喜びを隠し切れない様子で笑い出す。

「はは! 何て素晴しい夜だ! ぼくは今日と言う日を好きになれそうだよ」

「ロマンチックじゃのう、お主」

 関守は欠伸を噛み締めながら、呆れたように殺戮因子に対する視線を少しだけ弱め、

「自分の命日が好きになれるとは、殺人鬼に相応しい」

 構えた。

 足を前後に開き、姿勢はやや前傾。和装に相応しい、抜刀とも居合いとも呼ばれる構え。

「――――っ!」

 その構えを取った瞬間。殺戮因子の顔から薄っぺらい笑みが消し飛ぶ。

 刀を下げていないため、自らの左手を刀に見立てて握ると言う、間抜けとすら思える関守自体が、一本の日本刀を思わせる。

 その構えだけで目の前の人間の強度が一瞬にして理解でた。いや、理解できない程の実力差だけをなんとか理解できた。先程まで戦ってきた世界との攻防は愚か、この四年間全てを合わせても足りないスリルに、自然と足が後ろに下がる。

 殺戮因子は殺人鬼であって戦闘狂でもなければ殺人狂でもない。充実した生の為に、好きか嫌いになれるものを探しているのであって、殺人は必要のない塵を掃除する程度の意味しか持っていない。塵掃除の最中に死ぬなんて、そんな間抜けなことはない。

 戦う理由はないのなら…………

「逃がすと思うか? この拙者が」

 逃げようとした気配を察したのか、関守が平坦な口調で死刑宣告のように呟く。

「ですよね」

 《地獄期間》にはこんな化物が住んでいるのか。良くできた冗談だと、もう笑うこともできない。頬を伝う汗を感じながら、とにかく殺戮因子は逃げ道を探る。背中は見せられないし、後ろに下がるだけでも関守の攻撃が始まるだろう。

 状況を打破する方法が浮かばないまま、関守から放たれる圧力は徐々に濃くなって行く。世界とは違い、無闇矢鱈に攻める気配はなく、殺戮因子が少しでも不信な動きを取れば、方法はわからないが、文字通りの瞬殺を体験することになることが安易に想像できた。

 自分の心臓の音がうるさく聞こえ、一秒にも満たない時間がひたすらに長い。そして思考は一向に進まない。

「どうやら、打つ手なしのようじゃのう」

 そして、遂に手札がないことがばれた。最も、手札は今までずっとエースのフォーカードだと思っていた、最高の手札に変わりはないのだが。相手がキングのファイブカードと言うならばしかたもない。

「ならば、ここで成敗してくれよう」

 何処にもジョーカーがない殺戮因子に、勝ち目はない。精々、奇跡が起きるのを待つのが精一杯だと、死を目前に現実逃避なことを考えていると、

「やめてくれ! やめろ! 俺はもう戻らない! 殺してくれー!」

 銀髪の道化が突如叫んだ。

 手錠で縛られたままの状態で、唯一自由な口を動かし、世界が涙していた。先程までの強気な姿勢が嘘に思えるほど、弱々しいその泣き顔には、はっきりと恐怖が浮かんでいた。

「嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 助けてくれ! 姉ちゃん! 姉ちゃん!」

 この場にいない者の名前を叫ぶ子供のように泣きじゃくる世界を見て、殺戮因子は首を捻る。

「フラッシュバックか!」

 一方、関守は自分の名前を呼ばないことと、『姉ちゃん』と言う、今は使わない呼び名を聴いて、すぐに世界の置かれた状況に察しが付いたようだ。慌てた様子で構えを解くと、殺戮因子に背中を見せるのも気にせずに世界の横に膝をつく。

 完全に戦闘を放棄したその姿勢は、殺戮因子に取って僥倖ではあったが、同時に自分がどれだけ取るに足らない存在かを示しているようで、屈辱的でもあった。

「どうした世界? もう、親父さんも下方もおらん。どうしたんじゃ。落ち着け。克服したんじゃろう? 強くなったんじゃろう?」

「無駄だよ。そんなことを言っても」

「なんじゃと?」

 殺戮因子は、感じた屈辱を悟られないように余裕たっぷりに口を開いた。

「何も、死ぬって言うのは肉体だけの話じゃあないだろう? 心も死ぬんだよ……見たくもない凄惨な場面、思い出したくもない記憶に殺される。人間は肉体が死ぬのを恐れて心を殺すんだ。《地獄期間》の強さが仇になったみたいだね」

「世界の心の、凄惨な場面……思い出したくない記憶」

 苦々しく呟く関守を見て、殺戮因子は心の中でガッツポーズを取る。

 今言ったことは、適当なことを並べた、それっぽい仮説に過ぎない。知る限りにおいて、殺気に障られた人間の心が死んだ場面など、殺戮因子は一度も見たことがないのだ。ビルの屋上から飛び降りた人間や、家族で殺しあった人間の心がどうなったかなんて確認の使用がないのだから、それも当然だろう。

 そんな嘘八百でも、関守の不安を煽るには十分だった。正義感で自らの命を張って危険な殺人鬼と戦うような人種だ、身内にはやはり相当甘い。

「彼は今、心を殺されそうになっている。心を直す能力者が知り合いにいれば別だけど、死んだ人間が生き返らないように、死んだ心は死んだままだ」

 さらに思い付きを口にしながら、殺戮因子は一歩後ろに下がる。関守は、最低限の注意を払いながらも、泣きじゃくる世界の頭を抱きかかえ、追ってくる様子はない。

「何が望みじゃあ? 言うてみよ」

「別に、ぼくはここを穏便に済ませられないかな? と思っているだけさ」

 あくまで余裕を見せ、殺戮因子は上下関係をはっきりとさせる。今は、自分が上だ。

「世界はどうなる?」

「治るよ。ぼくから距離を取って、心の休養を取れば。ああ、この場で争いごとなんてもってのほかだよ。お家に帰って、美味しいものを食べて、泥のように眠るんだ。ちなみに、この『泥』って言うのは『デイ』っていう虫だって言う説があって……」

「わかった。この場は一旦引こう」

 適当な殺戮因子の物言いに、関守は真摯に答えた。

「そこの二人の死体の処理も行ってやる。今すぐ拙者の目の前から消えろ」

「そこまで言うのなら」

 くるりとその場で踵を返し、殺戮因子は関守に見られないように安堵の溜息をつく。

「じゃあ、行くよ。《地獄期間》に宜しく言っといてくれ」

 上辺だけの余裕で身体を動かし、死体と狂気が渦巻く駐車場を後にする。勝った! なんて思えない。大敗北だ。敗者らしく一秒でも早くこの場を離れようと、足は落ち着きなく早歩きになってしまう。情けないが、問題もない。

 それでも、生きているのだから。

 まだ自分は世界中を探しきれていない。名前以外の生きる意味を得なければ死んでも死にきれない。

「言っておくが、これで終わりと思うなよ」

 焦燥に悶える殺戮因子の心を、先程までとは同一人物とは思えないドスの聞いた声が呼び止める。自然と足が止まり、首が油の切れた機械部品のように音を立てて回る。

「義弟に手を出したんだ、次に会うまで、精々腕を上げておけ。でなければ、貴様は死ぬ。俺が貴様を殺す」

 負け惜しみでは決して有り得ない、力強さに満ちた関守の表情に身が縮むのと同時、

「嫌だー! 殺してくれ! もう嫌だ! 沢山だ! 殺してくれ!」

 世界の絶叫に殺戮因子の悲鳴が掻き消された。


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