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《地獄期間》と《十本刀》③

 少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。

 世界が時間を確認すると、後三十分で日付が変わってしまう時間になっていた。あまりに早い時間の進み方に、世界は人を探すと言う難しさを改めて実感せざるを得ないだろう。

 意外と言うか、当然と言うか、件の殺人鬼らしき人間は見つかっていない。

「この国には、人が多すぎるんじゃあねーのか?」

 どの道にも人だ。お前らは他に行くところがないのか、と突っ込みを入れたい気分にもなる。

 何処へ行っても、信号には律儀に人間が停まっているし、バイクを預けようと駐輪場に行けば、何処もかしこも満員御礼。道を歩けば後ろには人の影が付きまとい、人を探しているのに、人の姿も見たくなくなってしまう。

 いくら関守だろうと、流石にこの中から見つけるのは不可能だろう。関守からの連絡が一切ないことからも、それが窺える。

「全く持って、住み辛い国だよ」

 思わず、弱音が漏れる。

 道行く人を捕まえて、写真を見せて聞き込みをしようとしたのだが、銀髪や緋瞳と目が合うと、殆どの人間は気づかないフリをして世界を無視してしまう。やっと話を聞いてくれる人間を見つけたら、チンピラまがいの男や、「なんのコスプレですか?」と鼻息を荒くして近寄って来る少女達。他にも無数の自分を眺める不躾な視線。

 人と違う。平均からはみ出すと言うのが、そんなにも珍しいのだろうか? 平均値に収まっている限り、なにか飛びぬけた才能が芽生えるわけがない。人よりも幸せになれるわけがない。ならば、他人と同じという事実に、恐怖を覚えないのだろうか? 誰よりも幸せになろうと思わないのだろうか? 他人と同じという平均以下の幸福に不満を抱かないのだろうか?

「っと、弱気になってるな」

 自分らしくない。と、世界は頭を振って、雑念を払う。こう言った終わりのない疑問をつらつらと語るのは、どちらかと言えば世界の姉である鈴音の仕事だ。

「そうだな、気分転換にバイクで街の外れの方まで行ってみるか」

 弱気を振り払うように、これからの方針をわざと口に出す。そして少しだけ悩んだ後に、一応関守に連絡をいれることにした。薄い最新(だと思われる)の無線をポケットから引っ張り出す。ボタンとダイヤルが一つずつ付いたシンプルなデザインは、機械嫌いな世界にはありがたかった。

「おーい。聴こえるかー」

『……聴こえるぞー』

 少しだけ間を置いて、関守の声がクリアに無線から飛び出す。世界は周囲に人の気配がないのを確認すると、若干大きめな声量で通信を再開する。

「俺はもう少し町の外に行ってみる。で、廃ビルとか建設の止まった施設を中心に探すよ。この街は、そう言うのも多いからな」

『おお、それはいい判断だの。拙者は今しばらく情報を…………お! それロン! リーチ! メンタンピン三色ドラ二! すまん、世界! 拙者はもう少し情報を集めてみるぞ!』

 すると、無線機の向こう側からはクリアな音声で、楽しげな声が飛んで来る。じゃらじゃらと麻雀牌がぶつかる音も。

「お前が集めてるのは点棒じゃねーか! おーい! 無視すんな! てめー! 何やってんだよ! って、通信切断すんじゃねー!」

 返事がないまま五秒が経過した頃、世界は怒りに任せて無線をアスファルトに叩きつける。以外にも丈夫に出来ていた、カードの通信機は欠けもしなかった。それがますます、世界の怒りを煽った。

「あー! これだから人の為になんか働きたくないんだよ!」

 深夜の町中で奇声を上げ、右足を真っ直ぐに夜空に向かって伸ばすと、世界は攻城追のような踵落としを無線に捻じ込む。

「だああああ! しゃあ!」

 怒りのままに叩きつけた右足は無線機を粉々に砕くだけでは飽き足らず、アスファルトの道路には世界の踵よりも少し大きなクレーターを出現させた。周囲にはその残骸が飛び散って、雨のように破壊音が響いた。

 しかし陥没した道路と、壊れた無線を見ても、世界の気が治まることはない。銀髪を激しく掻き毟ると、唸り声を上げる。

 今すぐにでも、向日葵と話がしたかった。が、携帯はまだ購入していないし、公衆電話も見当たらない。そもそも電話番号を覚えていないので、公衆電話を見つけても何の意味もない。この苛立ちを癒してくれる存在は、少なくとも手の届く範囲にはなかった。と、言うか、未だに公衆電話と言うのは存在しているのだろうか?

 いっそもう帰ってしまおうかと、街の外れにある有料駐車場へと足を向ける。

 辿り着くまでの十分程の間、以下に関守を『闇討ち』するかを考えていたが、どんな手段を用いても、自分が切り捨てられる悲惨な結果しか想像できなかった。正攻法でも外法でも勝てないとは、想像力が貧困なのか、関守の強さが異常なのか。

「っと、やっと着いた」

 人工の光で照らし出された駐車場には、やはりまだ沢山の自動車が停まっていた。一体、この駐車場のオーナーは一晩で幾ら設けるつもりなんだろうか? 愛車である肉食獣から盗難防止用のチェーンを外し、シートからヘルメットを取り出す。そう言えば、向日葵の分のヘルメットがない。脳内の予定表に『ヘルメットの購入』を追記しておく。

「でも、向日葵にやるって言っちまったからなー」

 向日葵と言えば、世界は彼女の前で堂々と殺人鬼を捉えると宣言してしまったことを思い出す。しかも散々渋った末に、嫌々だ。そんな世界が『何もなかった』なんて言って、向日葵は信じてくれるだろうか? 逆の立場だったらサボったようにしか思えない。

 それに、関守も次に会った時に何を言って来るかわかったものではない。麻雀をやっていた奴に、何を言われても説得力がないような気がするが。

 世界は溜息を吐くと、学生服のポケットからキーを取り出し、ゆっくりとそれを差し込んでエンジンを回す。

 と、同時。

 世界は背中に微かな違和感を覚える。

 気になって、キーから手を離して違和感のある背中に手を伸ばす。違和感の正体には直ぐに気が付き、「おいおい。学生服、買ったばっかなんだけどな」嗜虐的に歯を見せて、獰猛に微笑む。彼の背中には、奇妙な突起物が一つ生えていた。

「尾行されてるとは思っていたんだよな」

「!?」

 その台詞に、世界の後ろに音もなく近付いていた男が、困惑に表情を奪われる。

「いやー確信はなかったんだが、大当たりだな。バイクのエンジンをかけるときの騒音に紛れて俺を殺すつもりだったんだろう?」

 突起物は握りやすいように指の形に加工されている。恐らくは自作のグリップだろう。メリケンサックの代わりも平気で行えるような、所々傷が見えるフィンガーガードも備わっている。

 世界の背中に刺さっていたのは、人間の殺傷を目標としたナイフの取っ手だった。

 勿論、ナイフの取っ手だけが学生服にくっついているわけがない。

 それは世界の身体の中に、ナイフの刃が入っていると言う、他ならぬ証明だ。

「びっくりしただろ? エンジニアじゃあねーから細かいところは知らねーが、最近の動力ってのは、殆ど音がしないらしいぜ? それに何の意味があるのか、俺には全くわからないけどな」

 ナイフを心臓に突き刺された世界は、血の一滴も苦痛の一言も洩らさずに、口から弾んだ声を吐き出す。その様子は何処までも陽気で、楽しそうだ。

「尾行は上手だったけど、流石に、殺しに来る瞬間は気配や音を殺しきれないみたいだな。だから、バイクの音に乗じてやる算段だったんだろ? もっとも、気付いた所で避け切れなかったんだけどな」

 言葉と同時、世界はバイクから飛び降りると、背後の襲撃者の姿を確認する。

 年齢は四十歳くらいだろうか? 頭には直射日光もないのに野球帽を乗せていて、世界の記憶が正しければ、関守に見せてもらった写真と同じものだ。ただし、コートではなく大き目のTシャツにジーンズを身につけていて、体形は若干写真よりも太めにみえる。

「お、お前は、何だ?」

 その何処にでもいそうな中年の親父の顔は恐怖に凍り付いていた。

 理由は単純明快だろう。

 世界が死んでいないからだ。

 背中に突き刺さったナイフは、確実に心臓を捉え、致命傷と呼ぶべき裂傷をあたえた筈なのに、目の前の世界はニヤニヤと笑いを堪えるだけで平然と生きている。

 それが男には理解不能だった。恐ろしかった。

 動く死体を生き物と呼べるだろうか? 心臓を必要としない人間がいるだろうか?

 男の常識は決まりきった答えを導いた。そんなイキモノは人間とは呼べない、と。

 だから『誰だ?』ではなく、『何だ?』と世界に訊ねた。

 男の間抜けな問いを、世界が鼻で笑う。

 その訊ねか方は的を射てはいる。が、そんな質問は愚問中の愚問だ。

 超能力者達が住む、正しくない人間達が集う異端においては、人外の存在は珍しくもなんともない。質問一つで、プレイヤーのレベルがわかる。

 世界は余り楽しめそうのない相手に、いつも通りに包み隠さず正直に答える。

「《地獄期間》さ。イライラしてたんだ、付き合ってもらうぜ? 殺人野郎」

 どうやら、関守が追っている殺人鬼と同一人物かは怪しいが、問題はない。現在進行形で証拠が背中に刺さっているのだから、コイツを捉えれば一仕事になるだろう。

 世界は身を焦がす怒りに任せ、背中のナイフを力ずくに無理矢理引っこ抜く。背中と制服にピンポン玉程度の穴が空くが、不思議なことに出血は殆どなく、世界は少しも痛そうな素振りを見せない。

「《地獄期間》だぁ? 聴かない名前だな」

「死ぬまで忘れなくなるぜ? あと、舐めるんじゃあないぞ。一瞬で終わちゃつまらん」

 恐怖を抑え込むように強がりを見せる男の態度を気にする風もなく、世界は抜いたばかりのナイフを右のこめかみに躊躇なく突き刺す。ナイフは柄まで、ずぶずぶと頭に押し込まれて行き、十秒もしないうちに世界の頭に納まってしまった。ばかりか、笑いながらバイクのアクセルを吹かすように、何度も何度もそれを回してさえいる。彼の脳ミソは何の為に入っているのだろうか? もしかしたら、入っていないかもしれない。

「言っとくけど、俺を殺す気なら核弾頭でも持って来いよ?」

 地獄のような笑顔で余裕たっぷりに微笑むと、ナイフをゆっくりと引き抜く。背中と同じようにぽっかりと大穴が明くが、そこからは水圧の低い水道と同じくらい控えめに血が垂れるだけ。その異常さが世界の笑顔を引き立てる。なんと言うか、子供には見せられない。

 穴の空いた頭蓋骨も、流れ続ける血も気にすることなく、世界はナイフを男の足元に投げ捨てる。アスファルトにぶつかり、甲高い金属音が周囲に染み込んでいく。人体を二度貫いた刃は血に汚れてはいたが、刃が欠けた様子はない。恐らく、世界のバイクと同じく神知教の物だろう。こんな切れ味のナイフが一般に流通していたら堪った物ではない。

「な、何のつもりだ?」

 足元に放られたナイフを、怪訝な表情で男が見下す。

「あんたも人を殺すくらいなんだ、退屈なんだろう? 俺も暇なんだよ。だから、あんたがナイフ持ってないと、暇潰しにならないだろう?」

「馬鹿にしてんのか」

 その挑発行為が男の矜持に触れたのか、プルプルと小刻みに腕を震わせ、彼は世界を睨みつける。殺人犯にもプライドがあるのか。世界は少し感心する。

「良いから、かかって来いよ、おっさん。待っててやるからよ」

 世界のその言葉を合図に、男は足元のナイフを右手で拾う。そして、左手の隠しナイフを投擲。意表を突かれた世界は一瞬身体が硬直し、その隙に右のナイフで首を突き刺す。

 男の完璧に思えたその作戦は、一手目で躓いた。

「すっとろい!」

 ナイフを拾おうとグリップを握った瞬間、世界の右足がその手を踏み砕いたのだ。

 先程と同じく、砕け散ったアスファルトの悲鳴と、散らばったその破片が駐車場に一瞬で広がる。その騒ぎが人段落すると、今度は男の野太い声が都会の世闇に響く。痛みに仰け反ったせいで、帽子がズレ落ち、男の寂しい頭髪を顕にさせた。

「ま、待ってるんじゃあねーのかよ……」

 そう言いたくなる男の気持ちもわからなくはない。が、世界には通用しない。泣き言を漏らす男の薄い髪の毛を掴んで逃さないようにすると、容赦も躊躇いもなく男の顔面に膝を炸裂させる。拍子に、左手に隠していた投擲用のナイフが、男の手からするりと落ちた。

「頭脳が間抜けか?」無感情に言って、世界が自分のこめかみをノックする。既にナイフで空けたあの大穴はなく、垂れていた血すらその痕もない。

「待つわけねーだろうが!」

 ナイフを手の届かない位置に蹴飛ばして、世界は髪の毛ごと男の顔面を引っ張り上げ、握り締めた拳を顎にぶつける。顎を砕く一撃に、男の頭皮と髪の毛が今生の別れを果たす。別れたのが、首と胴体でなかっただけ、まだましだろう。

「俺は今、最高にイラついてんだ! 向日葵にジト目で見られるし、駐車場は見つかんねーし、写真一枚で人探しさせられるし、町の人間は冷たいし、わけわかんねー女に写真迫られるし、関守の野郎は麻雀だし、無線は壊れるし、制服に穴は開くし、ナイフが頭蓋骨貫通するし! どれもこれもお前が悪いんだよ! お前を一回騙したくらい、閻魔様も許してくれるんじゃねーの! ってか、地獄に招待してやろうか?!」

 男には殆ど関係ない事柄をつらつらと世界は並べ挙げ、

「さーて、どう料理してやろうかな?」

 病人と見間違う顔色で、悪人と間違えてしまいそうな台詞で、世界は悩ましげに腕を組む。それこそ、地獄も裸足で逃げ出す恐ろしさだ。

「た、助けて」

 その様子に男がなんとも情けない声を洩らす。びくびくと怯える小動物みたいなおっさんに、世界は銀髪を掻き混ぜた。流石に、こんな様子を見せられて戦おうと思う程、彼も戦闘狂ではない。適当に縛って、関守に引き渡すのが適当だろう。

「あ」そこまで考えて、関守と連絡を取る手段がないことに気がつく。「どうしようか」

「ひぃ!」

『どうしようか?』その一言が、男の恐怖を煽ってしまったらしい。勿論、『連絡手段がないから、どうやって連絡しようか?』の意味だが、どうやら悲しい勘違いがあったようだ。

「助けてくれー! 親父狩りだ!」

 男は恥も外聞もなく叫び声を上げた。その叫びは不運なことに、偶々通りかかったカップルの耳に届き、二人が足を止めたのを見るや、男の叫び声に生気が宿る。

「助けてくれ! 私は死にたくないんだ!」

「お前、プライドとかないの!?」

 思いもしなかった行動に世界は呆れたように突っ込みを入れる。

「助けて! 殺される!」

 剣呑な台詞に、派手な格好をした女と、もう後少しで五月だと言うのにマフラーと黒い手袋を身に着けたコート姿の男はわざわざこちらに寄って来る。

「騙されるな! こいつこそ殺人鬼だ! しかも、今までに四十四人の若い乙女を殺して耳たぶを冷蔵庫で保管している変態なんだ!」

 今殴ってしまったら逆効果なのは間違いがないので、世界は必死に口先を動かし、何も知らない二人を遠ざけようと負けずと叫ぶ。

「近くに来ればわかるよ! 見てくれ、右手は砕けているし、歯も取れた。オマケに髪の毛まで毟られたんだよ!」

「考えて見ろ! そんな重症患者奴がベラベラ喋るか? このおっさん、酔ってるんだ。ってか、黙れクズ!」

「聴いたかい? 最近の若い子は怖いよ! クズだのカスだのチリだの! 酷いよね! あ! 自分のことを言うだけだから簡単なのかな?」

「何! 人殺しのクズが何を言っていんだ! 警察行くか!」

 口達者でない世界の語彙は瞬間的に底を尽き、短気な世界の拳が強く握り締められる。

「いいよ! 行こうか。そうすれば逮捕されるのは君だろうけどね」

「ちょっとー酔っ払いじゃない?」

「まあまあ、人助けしとこうよ。情けは人のためにならず。って、言うじゃん?」

「何それー、知らないし」

「じゃあ、そんな言葉ないのかもね」

「あるよ! 助けてくれ!」

 遂にカップル二人も会話に加わり、馬鹿ばかり集まる駐車場なのかと、世界は頭を抱える。

「お前ら、早く帰れ。このおっさんは親戚だ。酔ってるんだよ」

 男の動向に目を光らせながら、世界は言葉での説得を試みるが、

「うわー、この人ほんとに凄い怪我だな」

「ナイフ落ちてるし! 危なくない?」

 カップルも酔っ払っているのか、話なんて丸で聴いていない。傷だらけの親父や、鋭いナイフを見てきゃっきゃと笑っている。

「あーあ、もういいや。関守が何とかするだろ」

 面倒なので、世界は大して考えることもなく、全員を気絶させると言う、強硬手段の実行を決めた。手始めに、一番危険な男を狙う。この男の場合に限り、最悪死んでも問題はないので、思いっきり右手を振り被ると、

「えい!」

 それよりも僅かに早く、頭の軽そうな女が殺人犯の喉下に、拾ったばかりの投擲用ナイフを突き刺すのを見た。世界が黒ヒゲ危機一髪ゲームに関する雑学を思い出すと同時、男の口からは血が溢れ出す。

「な…………」

 突然すぎる出来事に、頭の中を様々な可能性が通り過ぎる。

 誰? 仲間? 敵? 死んだ? 殺した? 何故? 口封じ?

 振り上げた拳の下ろす場所を求めて空中でピタリと止まる。

「今日は厄日かよ!」

 が、それも一瞬。

 素早く、尚且つ根拠なしに女を敵とみなし、安っぽい黄土色の脳天にすぐさま拳を振り下ろす。間違っていれば謝ればいい。そして何より、非常に嫌な予感がした。殆ど動かない世界の心臓が、焦りに脈打つ。

 風を切りながら世界の右手が、女の頭頂部目掛けて振り下ろされる。必中を確信するには十分なスピードだった。

「だった……んだけどな」

 女は尚早く、バックステップで、あっさりと世界の攻撃を回避してみせる。

「凄い! 噴水みたいに血が出た!」

 男の首元からナイフを引っこ抜くというオマケまでつけて。一瞬とは言え、やはり躊躇したのがまずかったか。

 世界を襲った犯人は断末魔も上げず、自分が何故死んだかもわからないまま、アスファルトに力なく転がる。その死体を見て女は息を荒くして興奮し、血が出る程に自分の輪郭を爪でなぞる。

「次は、誰にしようかな?」

 野花を摘み取るような声色で、ナイフに付いた血を舐め取る女に、

「俺にしとけ」

 世界は構わず突進した。

 今一状況を把握は出来てはいないが、気絶させた後に男と死体共々縛り上げた後、関守に回せばいい。

 疑わしきは斬る。

 そんな物騒な信条を守り続ける世界に、多少の躊躇はあっても、容赦と言う概念は基本的に存在しない。先程は一瞬の間を開けてしまったことが敗因だと言うのなら、もう油断も余所見もない。

「らあああ!」

 飛び出した瞬間から既に最高速度に乗った、世界のタックルが易々と女の華奢な身体を吹き飛ばす。

 悲鳴も上げられずに、駐車場のアスファルトの上を転がる女を、世界は注意深く観察する。ごつごつしたアスファルトに肌を削られ、最終的にフェンスに激突することで、ようやく女の動きは止る。女の肺が酸素を取り入れようと、本人の意思とは関係なしにその場で咳き込む。全身には無数の擦り傷があり、見るからに痛々しかった。

 通常なら罪悪感すら覚える状況を見て、世界は追撃を決定した。

 女はそれだけの負傷を追いながら、ナイフを離すことはなかったのだ。そんな女に手加減は無用だろう。もっともタックルの時も手加減等していないが。

 先程の殺人犯と同じ様に、髪の毛を捕まえてしまえば、一回目のように素早い回避もできないだろう。

「君、何をするんだ?」

 世界が駆け出したのを見て、マフラーでくぐもって聞こえ辛い声で男が世界を呼び止める。妙に落ち着いていて、この場には不釣合いな物に思えた。

 が。

「お前の女こそ何すんだ? 人の親戚ぶっ殺しやがって」

 今の所は無害そうなマフラー男の言葉を無視して、世界はまだ立ち上がっていない女の顔面を爪先で蹴飛す。

「ぎゃう!」

 口からは悲鳴、鼻からは血を噴出させた女に素早く近づくと、世界は髪の毛を掴んで乱暴に引っ張り上げる。そして、男に変わり果てたその顔を見せつける。

「こいつは、人殺しだ。俺だってあんただって襲われるかもしれない。でもってこんな痛めつけたのにナイフを手放さない。こんな危険な奴を暴力なしで捕らえられるか?」

「人殺し。殺人犯ね」

 血塗れになった女の顔に、男は困ったように笑った。死体を見ても、暴力を振るう若人にも、男はまったく怯えるようすがない。

「どうだい? 人を殺した気分は?」

 更に、芝居がかった風にそんなことを問うのだ。

「人殺しは好きかい? それとも嫌いかい?」

「…………は?」意味のわからない問いかけに、世界の眉間にシワが走る。

「凄い、興奮する! 身体を貫く感覚が、相手を支配した達成感が! 病み付きになりそう」

 男の意味のわからない言葉に、女が喜びの声を上げる。折れた鼻も、砕けた歯も、千切れそうな髪も、女は全く意に介さない。

「殺したい! 殺したい! 殺したい! 殺したい! 殺したい! 殺したい!」

 叫びながら、先程できた細腕に刻まれた擦り傷をナイフで抉り、流れ出る血液にうっとりと溜息を漏らす。

 狂気。

 その女の言葉には、それが色を付いて滲んでいた。この世の汚いものをすべて掛け合わせた、醜悪なクロイロが。

「じゃあ、どうしたい」

「こいつを殺す」

 その台詞に、世界は思わず髪の毛を掴んでいた手を離し、男と女から急いで距離を取る。

 恐怖とは、生きる為に必要なシグナルだ。空腹や睡眠不足のように、恐怖を感じ取ることが出来なければ、人間はあっさりと死に到る。

 しかし恐怖は、空腹や睡眠とは違い、克服することができる。

 その為に世界は訓練を積んできた。そんな世界が、身の危険を覚え、恐怖する程、目の前のカップルは狂っていた。

「お前ら、生きて帰れると思うなよ」

 だからと言って逃避は、選択肢にはない。関係ない人間が幾ら死のうが心は痛まないが、自分の目の前で人を平然と殺すような人間を見過ごすほど達観もしてはいない。捻くれ者にも、捻くれ者なりに正義はある。

 二対一。数字の上での不利を感じ取りながらも、世界は笑う。

「やっと、面白くなってきたじゃねーか。大体、自分をナイフで刺すのは俺が五分前に実演済みだ、真似すんじゃあねーよ!」

 逃がしてはいけないという使命感と、実力から来る自信が世界の心を燃やす。不謹慎にも世界の口角は自然に吊りあがり、見るものを不安にさせる笑みを浮かべる。断頭台を思わせる笑い方は、暴力と紙一重。

「怖いなぁ。人殺しも辞さない気? 君、この銀髪君は強いよ。君じゃあ勝ち目はないねー」

 そんな処刑人の放つ威圧感を、男はなんとも思っていないのか、嬉しそうににやにやと笑う。コートに手を突っ込み、とてもじゃあないが、戦闘を目前に控えた態度ではなかった。

 となると、最初の相手は女。先程の一撃を回避したこともあるし、戦って苦戦するとなれば、恐らくこの女の方だろう。

 そう順番を決め、女の方に視線をずらすと、

「じゃあ、私を殺せばいいや」

 頬を染め上げた恍惚の表情で、女はナイフを自らの首に突き刺した所だった。

「は? ちょっと、なにやってんだ……」

 世界を刺した男を刺した女が、今度は自分を刺した。それだけのことが理解できなかった。崩れ落ちる女の身体を見ても、それを噛み砕いて現実として飲み込むことができず、開いた口が塞がらない。

「あーあ、やっぱり死んじゃうか。好きにも嫌いにもなれそうになかったから良いけど」

 連れ合いが死んだと言うのに、残った男は少しも取乱さずに肩を竦める。

「そもそも、殺人はただ単に人を殺すと言うだけであって、そこに好き嫌いを挟むものじゃあないと思うんだ。好んで殺人するような、殺人そのものを目的とした殺人なんか、下劣だよ。そんな行為を好きにも嫌いにもなれるわけがないんだ。そう思うだろう? 銀髪君」

 男の声は、酷く和やかで、ここに死体さえなければ話し込んでも言いと思えるような優しい。しかしその内容は理解不能で、言葉をどう返せば効果的なのかは、まったくわからない。ついでに言えば、自分を刺した男が殺された理由も、女が自殺した理由も、一切合財意味がわからない。

 世界がわかることは二つ。

 先程からの怒涛の展開に、頭が痛くてしかたがないこと。

「こんな脆弱な世界に、ぼくが好きか嫌いになれるようなものはないのかね?」

 そしてこの男が、全ての元凶だと言うこと。

 年の頃は世界より若干上だろうか? 身長は高くも低くもない、体形はコートに隠れてわからないが、中肉中背と言ったところ。顔立ちはどちらかと訊かれれば、整っている。短めにカットされた黒髪と相まって、好青年と言った風貌だ。優しそうに微笑めば、きっと魅力的なんのだろう。

 が、その黒瞳が、彼が異端だと物語っている。

 何のフィルターもなさそうな、純粋とすら呼べる不純。

 赤ん坊も年寄りも。健康も病人も。死人も生者も。偶然も必然も。総てを飲み干した瞳。何モノにも価値を見出さない、全てを俯瞰する絶対的な自分主義。

 世界が超えなくてはならない、嵐の瞳。

「君は、ぼくが好きになるに値するかな? それとも、嫌いになるべき存在かな?」

 その目には、値踏みするような気配は微塵もない。彼の中で格付けは既に終わっているのだから、今言ったことは全て飾りのようなものなのだろう。

「必要ないのだったら、片付けなきゃね」

 ポケットから手を出し、黒い手袋を外す。出てきたのは、何の変哲もない、美しい男の手。

 そのピアニストのように洗練された手だけで、世界には十分だった。

「あんたが、関守の探していた殺人鬼か」

 きっと、この男は殺し続けるだろうと、世界は確信する。

 目の前の男にとって、他人の生死なんてどうでもいい。死んでも構わないのではなく、殺しても構わないくらいどうでもいい物だ。だから、躊躇いも逡巡もなく殺し続けるだろう。

「殺人鬼? よく言われるね。他にも、『殺人記録』『町殺し』『呼吸人殺』。物騒なのばかりさ」

 困ったように諸手を上げて、男は首を振る。

「でも、君には一番のお気に入りを教えてあげるよ」

「そいつは光栄だな、『便所の滓』とかか?」

「《殺戮因子》」

 と言っても、この名前も別に好きでも嫌いでもないんだけどね。

 男の台詞に、その名前に、恐らく今まで出合った敵の中で最も邪悪な存在に、世界は歯を見せてニヤリと笑う。

「上等だ、この墓場生まれの地獄育ち。百万回死ねない男。不死に不老に不滅の矛盾。新里世界を、この《地獄期間》を、あんたは殺しきれるかな?」

 見得を切る世界の台詞に、殺戮因子が声を出して笑う。冗談と取られたのか、喜びを隠し切れないのか、判別はつかないが、その笑顔はやはり素敵だった。

 一通り笑い終えると同時、世界の腕時計が短い電子音を鳴らす。

 血塗れの四月が終わり、日付が五月へと切り替わる。

 駐車場の人数も、変わり行く。一人から二人。二人から四人。四人から三人。三人から二人。

 そして今、一人になろうとしていた。

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