嵐!
「その前に、俺のことを知らないってことはないだろうが自己紹介、必要だろう?」
いつの間にか、本当に気がつかないうちに、その男はこの場にいた。話に夢中になっていたとは言え、こんな人の気配が他にない場所で、足が触れあう距離まで第三者の侵入に気がつかないなんて有り得ないだろう。突然現れたとしか表現の仕様のない男の登場を、二人は上手く頭の中で処理できなかった。
情はその人物を見て身体を強張らせ、殺戮因子は彼の在り方に呆然とするしかない。
「『終始』『暴風雨』『唯我独善』『神殺し』『嵐の後の静けさ』表す単語は数あれど、俺が俺たる証明は俺にしかできないわけで、この時間は絶対必要だ。良いだろう?」
寝転がったまま動こうとしない二人の足元に腰を下ろした男の歳は、恐らく二十代の後半。少なくとも三十代には見えない若々しいその彼は、殺戮因子の目には異常に映った。
「至極当然な結論だけいえば、他者の評価する自分なんてものは結局自分とは絶対異なる他人でしかないからな。本人が名乗りをあげた場合のみ、その人間をその個人だと認識できると思わないか?」
無精髭をはやす男の顔は、野性味に溢れていて粗暴。しかしニカッと白い歯を見せるその笑い方には、何処か愛嬌があって可愛らしい。ライオンが猫科であるのに似ているかもしれない。
「お前が《殺戮因子》。そうだったら返事しな」
男の声は自信に満ちていて、反論を許さない力強さを持っている。殺戮因子は彼の正体なんて微塵も考えず、素直に頷く。
「ああ、《殺戮因子》だけど…………」
「だよな」
答えが合っていたことに喜ぶ男の上半身は、鍛え上げられ、研ぎ澄まされていた。無駄な贅肉は一切ついておらず、戦う為に存在しているようなシャープな身体で、タンクトップ一枚で身を隠すのには無理があるほど力強い。下半身も同様で、彼が力を込めれば丈夫そうなジーンズは一瞬でその形を失うことが安易に想像できた。
「じゃあ、この譲ちゃんが《蛇腹》?」
そうだけど?
その五文字を殺戮因子が言い終えるより早く、情が動いた。
「盃嵐!」
殺戮因子の胸倉を右手で掴みあげると、そのまま一足飛びに男から距離を取る。ずっと殺戮因子を枕代わりにして触れていたおかげか、情の《蛇腹》は絶好調。飛び退くついでにカッターナイフで男を切りつけるのも忘れない。それは関守と戦った時には及ばないが、それでも人間の反射神経を凌駕するのには十分な速度だった。
しかし、
「自己紹介ぐらいさせろよな」その攻撃を男は胡坐を掻いたまま後ろへの体重移動だけで避けると、少しも動ずることなく不満を呟く。「確かに俺は、盃嵐さんだぜ? でもよ、それをお前らみたいな、挨拶もしたことない人間に言われるってのはなんとなく納まりが悪いんだよな。なんでだろうな?」
髪の毛を掻き混ぜながら、盃嵐が苦笑する。その髪の毛の一本一本でさえ覇気に溢れ、闇の中でさえその黒髪は黒々と輝いて見える。
そして、その瞳を。
その黒瞳。今まで見てきた日本人となんら変わりないその瞳が、彼の異端を物語っていた。
何のフィルターもなさそうな、純粋とすら呼べる不純。赤ん坊も年寄りも。健康も病人も。死人も生者も。偶然も必然も。総てを飲み干した瞳。何モノにも価値を見出さない、全てを俯瞰する絶対的な自分主義。殺人鬼と同じ透明なクロイロをしながらも、その瞳には未来が映っていた。全てを肯定する絶対の力が満ちていた。
それだけで盃嵐と言う男の全てを物語っていた。
「…………《絶対強者》」
話に聞いた、《絶対強者》。彼こそがそうだと、理屈ではなく心で理解ができた。
「おいおい、だから自己紹介もしてないのに人を名前で呼ぶんじゃあねーよ。話し聞いていんのか?」少しだけ不機嫌そうに、それでも明確に嵐は笑う。「でも、その言い方はギリギリセーフだ。今の俺はもう《絶対強者》を名乗っていないからな」
大袈裟に手を広げて嵐はようやく邪魔をされずに自己紹介できることに感謝を示す。
「俺が向かうは『終始』。突き進む姿は『暴風雨』。その生き様は『唯我独善』。死神殺して『神殺し』。残るはただただ『嵐の後の静けさ』。《絶対強者》を名乗り《脆弱無強》に助けられ、強さを見失った超能力者。《人生不敗》の盃嵐とは俺のことだ!」
ポケットから取り出したカンペを見ながら、座ったままの自己紹介を済ませると、嵐はやはり豪快に笑った。
「なんか、予想していた人物と違うぞ…………」
絶対にやらなかった方が良かった自己紹介を聞いて、殺戮因子の中の《絶対強者》像が崩れ落ちる。その存在感は圧倒的だが、まったく威圧感がない。世界がナイフだとすれば、関守が日本刀、目の前の嵐は、誰にも持つことの出来ない伝説上の武器だ。その存在は誰もが知っているのに、危害は絶対に加えることの出来ない、想像の産物。
正直に言えば、弱そうに見えた。数秒前は《絶対強者》だった男が、今はただの変なおっさん程度にしか感じられない。
「これ、勝てるんじゃないか?」
がーはっは! と名前に相応しい勢いで笑う嵐を指差し、殺戮因子は貧血でふらつきながらも立ち上がり、情の肩に左手を乗せる。
「…………り」
「情?」
そこで、情が震えている事に初めて気がついた。小刻みにブルブルと全身を震わせ、うっすらと汗を浮かべたその表情は、激しい絶望が覆っていた。
「無理、無理だよ。絶対にそいつには勝てない」
ガチガチと噛合わない口を動かし、情は簡潔に殺戮因子の間違いを訂正する。
嵐は強い。それは太陽が東から昇るくらい、覆しようがない事実だ。
絶対に強い者。《絶対強者》。間違いようがないほど単純で、疑いようがないほどの事実。
この世に存在する全ての事象を軽々と飲み込む暴風雨。
情が以前見た時と比べ、その性格は丸くなり《人生不敗》と二つ名も変えたようだが、その芯が変わっていないことが、情には嫌と言うほどわかってしまった。
「一緒に逃げよう?」
目に涙を溜め、情は殺戮因子の左手に自分の右手を重ねる。先程の自分達のように大の字に寝そべって天体観測する嵐は、どう考えてもそんな大した人物には見えなかったが、情の尋常ではない様子に殺戮因子は「了解」と言って小さな情の手を取る。
血の足りない今、どれだけ逃げ切れるか不安も残るが、いざとなったら格好悪いが情に血を飲ませて背負ってもらえば問題ない。と言うか、嵐は寝転がりすっかり夜空に夢中。手を伸ばして星座の名前を叫んでいる。
そんな後少しで人間の道を踏み外しそうな嵐に背を向けて、二人は一緒に走り出す。
「本当に凄い人なのかな?」
情の怯え方が尋常ではないが、どう考えてもそこまで恐ろしい人物には見えない。今すぐ逃げ出したいと言う感想に変わりはないが、どうしても取越し苦労感が拭えない殺戮因子のボヤキが入る。
「残念ながら俺は、超凄いんだ」
殺戮因子が漏らしたその言葉に、情の横を一緒に走る嵐が唇の端を吊り上げながら答えた。
「え?」
いつの間に? 情の脳裏に疑問が浮かび、思考だけが空回りを起こし足が止まる。殺戮因子も有り得ない嵐の登場に身体を強張らせると、そのままバランスを崩して前のめりに倒れる。
繋いでいた手はあっさりと、切り離された。すぐさま、「情!」と殺戮因子が叫び、他にすることがあるだろうに、情は手の中から消えた温もりを求めて、殺戮因子が差し出した手を掴もうと手を伸ばす。
その手と手が後僅かで繋がろうとした時、
「たく、人の自己紹介綺麗に無視してくれやがって。普通拍手だろ? 寂しくて星と話しちゃったぞ。ってか、俺の話を聴け」
困ったように苦笑する嵐が、それを邪魔した。
「《殺戮因子》。取り敢えず、お前からか。楽しませてくれよ?」
台詞と同時、嵐はサッカーボールを蹴る少年のように、大振りの蹴りを殺戮因子の鳩尾目掛けて放った。オーバーな動作の蹴撃ではあったが、情の手を求めて腕を伸ばすがら明きの殺戮因子の胴体に、嵐の履き潰したシューズの爪先は簡単に突き刺さった。
瞬間、山中に爆音が響き、殺戮因子は嵐を体験した。
「っ!?!?」
蹴りの一つで、殺戮因子の決して軽くはないその身体が放物線を描いて跳んだ。
その距離、実に四十メートルを優に超えていた。
「う、がぁ」
背中から地面に叩きつけられ、撥ねられた子猫のように四肢を投げ出した殺戮因子の口からゴボゴボと血の塊で吐き出される。口内に広がる鉄の味と吐き気を催す臭いが、まだ生きていることを辛うじて彼に知らせていた。
(な、何が起き、た?)
身体が四散しそうな痛みに耐えながら、なんとか目を開けると、輪郭の歪んだ景色や、色や光の加減が狂った視界が殺戮因子の脳に再現される。その中に自分の狂気と殺意が土色の大地に赤黒いシミを造るのを見つけ、ダメージを受けたことを確認する。
しかし手を繋ぐほど近くにいた情が、表情もわからないくらい遠くにいる理由が検討もつかない。常識的に考えれば、蹴られた程度で大の男がここまで吹き飛ぶなんて有り得ない。一体、如何なる能力の成せる業だろうか?
答えはありえないほど、シンプルだった。
「おお、結構跳んだな。そういや、雀から聴いたんだけどよ、知ってっか? テニスボールで六十キログラム程度の男を吹き飛ばすには時速五万キロぐらいの速度が必要らしいぜ? 今の、一体全体何キロ出ていたと思う? 《蛇腹》の殺人鬼さんよ」
遠くで世界の支配者のように堂々と滑舌よく喋る嵐が、どうでもいい雑学染みた台詞を言い終わると同時に右腕を振り上げ、情の薄い胸部目掛けてその腕を振り下ろす。
それだけで情は地面と水平に吹き飛んだ。安っぽいワイヤーアクションの映画を思い出させる、間抜けで違和感だらけの有り得ない動きを、嵐はその右腕一本で実演して見せた。
「ははは……」
水面を切る石のように地面の上を猛スピードで跳ねる情。彼女が一瞬で視界から消えたのを見て、粘っこい血でべっとりと汚れた口から、乾いた笑いが漏れる。
新里世界は《地獄期間》で不死の身体を持つ。
姉ヶ崎情は《蛇腹》によって向けられた他者の感情を力に変える。
殺戮因子は絶えることのない殺意の奔流を《殺戮因子》と呼ぶ。
では、嵐の能力は? 今、何をした?
簡単だ。振り上げた右腕を振り下ろす。それだけしかしていない。
爆発による突風で吹き飛ばしたとか、超能力らしく念動力を使用したとか、もしかしたら幻覚系統の能力だとか、地球の自転をなんたらかんたらしたとか、そんな複雑怪奇は一切していない。
それはそうだ。小手先の能力に頼るようでは、絶対の強さなんて吹聴されない。無敗の人生などと自称できない。誰もが憧れる『絶対の力』は、もっと単純明快な物でなくてはならない。
圧倒的な暴力を持って、絶対の暴君として君臨する。
それこそが、権力や資産などよりも誰もが望む究極の力。
「おー! 飛んだね。殺戮因子より飛んだぞ。ったく、お前らもっと飯を食え、飯を」
要するに、盃嵐は本当にただただ、誰よりも強い。
それこそが目の前の嵐の能力なのだと、殺戮因子は理解できた。なるほど、それならば、確かに紛れもなく《絶対強者》で、疑う余地なく《人生不敗》だ。誰よりも強いのなら、負けるわけがない。痛みも忘れて、殺戮因子はその二つ名に納得する。
「ははは……」
「笑うか! 笑っちゃいますか? アレを喰らって笑うのか《殺戮因子》!」
規格外の存在に自分を卑下する殺戮因子の笑い声に、嵐が叫ぶ。本当に楽しそうに笑う。
「そうだよな! 笑わなくちゃお話にならねー。笑え笑え! それが生きているって意味だからな! 趣味は悪いが、笑こそが最高の贅沢だ! それでこそ俺の敵だよ!」
ぎゃーはっは!
愉快さを隠し切れない様子で、嵐はまくし立てる。
「次は立つんだ! ほれ、早くしろ。そうでなきゃ面白くもなんともないぜ? この世界をもっと楽しくしよう! 一緒に面白おかしく歌って踊って笑おうぜ?」
それに。嵐がニヤリと悪い顔をする。
「《蛇腹》の方はもう起き上がっているぜ?」
ぐるん。痛みを忘れて、殺戮因子は大きく首を回した。歪みが少なくなった視界で、派手に転がっていった情を今更ながら目線で追いかける。と、ふらつきながらも俯きながらも、カッターを右手に握って立ち上がる彼女がそこにはいた。
「なるほど、妙に派手に吹き飛びやがったが、そういうことか。わざと後ろに吹き飛ぶことによって衝撃を逃がしたってわけか。ってことは、アレか? 地面に転がっていたのも衝撃を分散するためか?」
「……そんな、ところ」
息も絶え絶えな情の返事が、遠く離れた嵐に聞こえたとは思いがたい。が、ぱちぱちぱちぱちぱち、と、一人でやっているとは思えない大喝采が森中に響く。
「すげーな。漫画みたいなことしやがって。誇っていいぜ? 俺相手にそんなことを出来る奴はあの世にも千人もいねー。《蛇腹》の殺人鬼、姉ヶ崎情か。世界の話を聴いた限りでは、そこまでの腕じゃあねーと思っていたが、一ヶ月もたちゃあここまでになるのか、若いっていーね」
肩を回して、嵐がその足を前に踏み出す。二人が嵐の歩く姿を見るのはこれが初めてだった。自信なさ気に猫背になることも、チンピラのようにふらつくこともなく、真っ直ぐに堂々とその道こそが、自分の歩くべき道だと確信している歩き方だった。
その威風堂々とした動きに対し、情は身体を左右に二回振ると、無言で飛び出した。
「いいね、そう言うのは大好きだ」
情のその動きを見て、嵐は嬉しそうに唇を吊り上げる。情のそれは、殺戮因子に対して初日にやって見せた『落葉』と呼ばれる、落ち葉を思わせる不規則な動きで相手を翻弄させる、神知教のテクニックだ。
その動きは傍から見ている殺戮因子でさえ、完全に把握できないほど速く、木々を死角として利用した動きは次の予想も難しい。殺戮因子の血を飲み、腕枕による補正が入った情の動きは正しく落ち葉の如し。
「その歳で大したもんだな、世界よりも実力では上ってところか?」
そんな、自分の全力以上に駆け回る情を無視して、嵐は真っ直ぐに歩を進める。足を止めようとは決してしない。まるで障害物等何処にもないと言わんばかりだ。
「でもよ、『落ち葉』が『嵐』に敵うと思うか?」
それは、誰が考えてもこじつけとしか表現できない台詞だった。しかも短く溜息を付いて、肩を竦める姿は完全に隙だらけ。腕は無防備に胸の前で組まれ、自分で自分を拘束している。
情がその油断を見逃す理由はなかった。
音もなく嵐の真後ろに一瞬で近付き、カッターナイフをその背中目掛けて突き出す。これ以上ないと言えるほど完璧な奇襲を見ても、
「駄目だ! 情!」
殺戮因子には、その刃が嵐に届くとは思えなかった。
「その通り。それじゃあ駄目だ」
振り向きもせずに、嵐は情渾身の力の乗ったカッターの刃を、右手の人差指と中指で白刃取りしてみせる。
「本当に、筋は悪くないんだけどなぁ」
「っうううああああああアァ!!!!」
それだけで、情がどれだけ力を込めようと、カッターはピクリとも動かなくなってしまった。
「殴った時の回避行動。俺を殺そうとする気迫。それにさっきの『落葉』。どれをとっても神知教の改造強化や人造強化されたプログラム兵の数段上の高レベルの動きだ。でも、足りない。圧倒的に不足している。つーか、俺とやるには絶望的な欠乏状態だ」
カッターを背中に突き刺そうと喚き声をしている情には目もくれず、何とか立ち上がろうと膝に力を籠める殺戮因子に対して、嵐は楽しそうに話しかける。
「その程度の力で、関守が殺人鬼を殺すのを諦めるわけがねー」
「関守――――?」
近くの木に背中を預けながら立ち上がる殺戮因子が、この数日ですっかり聴きなれてしまった名前を復唱する。それは、忘れもしない殺人鬼殺しの名だ。
「そ、関守だ。お前が撃退した、今世紀最後の武士。僅か二十七で『刀聖』とすら謳われる鬼殺し……ってか、お前片手がねーぞ! どうしたんだよ! 落としたのか? おい!」
「あーらーしーッ!!」
今更片手がないことに驚愕する嵐の背中で、情が吼える。もうカッターナイフは駄目だと判断した情は、それを手放すと右膝の裏目掛けて蹴りを放つ。背中と言う絶対的な死角を利用した蹴撃は、先程の『落葉』と違い事前の行動からの予測は不可能なはずだ。今度こそ、それは不可避の一撃となるはずだった。
「隻腕で関守を退けたのか! っははは! そりゃあすげー!」
その攻撃を、嵐は右足を上げる動作だけで回避して見せた。
「良い! 凄くいいぞ! やろう! 早く楽しもうぜ!」
そして、上げた足を下ろすことによって情の右足の膝を踏み抜いた。
すると。
グシャ。決して人体から奏でられたとは思えない鈍い音と、情の甲高い悲鳴が月明かりに照らされる。
「情!」
「違うだろ! お前の台詞はそうじゃあないだろ?」
見るに耐えない惨劇に、情けない悲鳴を上げる殺戮因子の目を見て、嵐は喜劇の主役のような芝居がかった声を出す。
「俺をその殺意のままに殺すんだ! そのためにはまず立つんだ! お前が! 《殺戮因子》! 『呼吸殺人』! 『町殺し』! 『殺人鬼の中の殺人鬼』!『殺人記録』! 立って禍々しいその名の通りの力を俺の身体に刻み込むんだ! それこそがお前のやることだろう?」
「何が、望みなんだ」
近くの杉の木に縋りつきながら、殺戮因子が何とか立ち上がる。が、直ぐに膝は折れてしまい、その場に崩れてしまう。
「殺人鬼《殺戮因子》との殺し合いさ」
嵐は心底楽しそうに答える。
「あの関守が、『拙者には殺せん』ってお前のことを評してたんだぜ? 喜べよ。そりゃあ、すげーことなんだぜ? あいつがそんなことを言うなんてまずありえない。あいつはあの程度の能力で、七年前の戦争で俺に一太刀浴びせやがったほどの能力者だ。俺が認める『強者』だ。そのあいつが『切れない』奴なんてそうそういねー。そもそもあいつの出自を考えれば、殺人鬼を見逃すなんてありえねー。久々に血沸き肉踊るってもんだ! だから、殺しあおう、お前の全力を見せてくれよ」
「戦闘狂…………って言った所?」
「ああ、強過ぎるって言うのも困りモンなわけよ。なんせ、手加減しないと勝負にならないだろう? 同じ奴とばっかってのも冷めるし。だから、お前見たいのは俺の楽し…………」
「私と戦え!」
ペラペラと余計なことを喋り続けていた嵐の台詞に情の怒声が被さる。
「何だって? 《蛇腹》」
からかうような言葉と一緒に、嵐の視線が殺戮因子を離れて右足で縫い止る情に落ちる。
「まだ負けてない!」
その返事に、駄々をこねる子供のように、情が嵐の右足を蹴る。地面に完全に腰を下ろした姿勢からのその蹴りに威力と呼べるものは当然ない。誰が見ても完全な悪あがきと言い切れるだろう。
それでも、情の無意味な反撃は止まらない。痛みに顔を顰めながら、無意味な蹴りを嵐の右足に送り続ける。
「《蛇腹》。お前じゃあまだ無理だ。足の一本で許してやるから、静かにしとけ」
必死の抵抗に、嵐は情の右足を踏む力を強めて無理矢理に黙らせる。
しかしそれでも、情は「っぐ! まだ、負けてない」と声を荒げる。
嵐の姿を見るなり全身を震わせ、年頃の少女らしく恐怖に涙していたのに、その強さを知っているからこそ、真っ先に逃走を選んだのに、彼女は何故か諦めていなかった。
『私も嵐が来たら逃げる』
手を組む際、情は確かにそう言っていた。この『嵐』は今思えば、比喩でもなんでもなく、目の前の《人生不敗》盃嵐のことで間違いないだろう。情は過去の情報から嵐には絶対に敵わないと悟っていた。
殺戮因子だって、嵐を体験してしまった今、同じことを考えている。正しく、伝説上の不可侵の存在その物。勝てるわけがない。
なのに、何故情は逃げないんだろう?
嵐の攻撃を何とか受け流したと言うのなら、逃げればよかったのだ。わざわざ立ち向かう必要はない。どうやら嵐は殺戮因子が実力で関守を退けたと勘違いしているようだが、本当のことを教えれば、彼の性格上きっと見逃してくれただろうに
なのに、情はわざわざ挑発するようなことを言って、必死で嵐と戦おうとしている。
何故? が、頭の中を埋め尽くす。逃げればいいのに、右足まで踏み砕かれて、何故なおもその闘争心が湧き上がってくるのだろうか?
嵐の説得を無視して暴言を吐き散らす情に向かって這いずって移動する途中、その情と一瞬目が合い、
(逃げて)
確かにそう聴こえた。
情の涙を堪える瞳は確かにそう訴えていた。
まだ恐怖に震える情は、確実にそう叫んでいた。
情が逃げない理由はたった一つ。それは至極単純な答えだった。
「ぼくの為?」
殺戮因子を逃がす為に、姉ヶ崎情が犠牲になる。
どうしようもない殺人鬼の命のために、どうしようもない殺人鬼が進んで命を捨てる。
もう昨日になってしまった多鞘関守の時と同じように。
そのことを思い出すだけで心が締め付けられる。
「そういえば、あの時ぼくは何を言ったけ」
思い返せば、確かに自分はこう言っていたはずだ。
「『ぼくだって嫌さ』」
あの瞬間、殺戮因子は見つけていた。名前以外の嫌いになれるものを。失った右腕の包帯をぎゅっと握り締める。
「そうだ、ぼくは、情を失いたくはない」
疑いようのない、自分の思い。
「情が死ぬのは嫌だ」
恐る恐るその言葉を口に出す。その言葉に含まれた気持ちは、自分の身体を離れても変わらないことを証明したかった。
そして、その気持ちを理解した今、『逃げる』選択肢がありうるだろうか?
「あるわけがない」
止血用にぎちぎちに巻いてもらった包帯の結び目を、左手で強引に引き千切る。
「同じことを繰り返して何が楽しいんだ」
この四年間。楽しいことなんて全くなかった。自分の心を震わさないものを壊して捨てるだけの人生だった。好きにも嫌いにもなれないものばかりの肥溜めを彷徨う半生だった。
そして、情に出合った。
「同じことを繰り返して何が楽しいんだ!」
停滞し続けていた四年間を吹き飛ばすほど、この大型連休は楽しかった。
それは、間違いなく情のおかげだった。 情のいない人生を繰り返すことをよしとするのか?
「そんなのは嫌だ!」
心地いい否定の言葉が殺戮因子の心を震わす。
所々朱に染まった包帯をむしり取り、腕の切断面が顕になる。不思議なことに、血が一滴たりとも零れ落ちることはなかった。
その代わり、見えない何かがそこからは漏れ出していた。
それは見えないだけで、確実に殺戮因子の右腕から世界を支配していた。
それは太古から人々の心の隅に根付いていた薄暗い感情。
支配したい。見下したい。蹂躙したい。殺したい。
《殺戮因子》。
その悪意の坩堝が殺戮因子の切り落とされた右腕を補う存在感を放つ。
関守との戦闘で気付いた、《殺戮因子》の正しい使い方。情を守る一心で見つけた真髄。想像以上の殺意の奔流に殺戮因子の心臓は早鐘のように高鳴り、自分の力に心が踊る。
「盃嵐!」
咆哮にも似た殺戮因子の叫び。二人が一斉にその声に振り向く。
二人が見たのは、殺意を右腕として従え、堂々と自らの足で立つ青年。
「おお! いいね! やる気になったか! なんだなんだ? その腕は!」
「嘘…………」
嵐は笑いながらその未知の能力に歓喜し、情は泣きそうになりながらその殺意に慄く。
「お前の不敗は、ここで終わりだ!」
この力なら、不敗を破れる。絶対を否定できる。嵐を止められる。
何よりも、情を救うことができる。
自分の右腕には、それだけの力が有ることが十分に確信できた。
「その台詞は最高だ! いいぜ! 来い! 来い! 来い! 来い! 来い! 来い!」
両手を真横に広げ、殺戮因子が放つ殺意を全身に浴びながら、嵐は大声で歌うように笑う。
「いくぞぉぉ!」
「来いよ! 殺戮因子!」
二人の叫びが夜を震わし、その中を二人同時に駆け出す。全力で真っ直ぐに、自分を相手に刻み込むために。フェイントも作戦もない力と力のぶつかり合い。
「うおおォォ!」
その真っ向勝負で先に動いたのは殺戮因子だった。二人の距離が三メートルにまで迫ったと同時に、当たるはずのないその間合いで殺戮因子は不可視の右腕を真っ直ぐに突き出す。
右腕がまるで生き物のように唸りをあげる。
その腕は、全てを切り裂く刃だった。
極限の重さを誇る槌だった。
虚空を突く鋭い槍だった。
遠方を射抜く瞬激の銃弾だった。
全てを吹き飛ばす爆弾だった。
賢人の理性を奪う毒だった。
人類が長い年月をかけて造り続けてきた、ありとあらゆる『殺意』を持つ物全ての意味を含んだ一撃だった。
人が人を殺すのに必要なものは武器でも狂気でも兵器でもない。究極的に言えば殺意だけだ。その気持ちが路傍の石を、朽ちて落ちた木々を、変哲もない縄を、人を救うことの出来るものでさえ凶器に変えてしまう。殺意の塊の前ではどんな尊い存在だろうと、結局は殺すだけの狂気に成り下がる。
人を殺すという意味の真髄。触れただけで全てを殺せる究極の殺意の具現。無限に溢れ出る殺意を操る《殺戮因子》の真骨頂。殺意が持つ意味そのものの本質的な攻撃。
人を殺すと言う意味において、これ以上の効率の良い能力は存在しない。
その腕は、『死』という現象そのものなのだから。
「良いね! 最悪で、最高だ!」
予想よりも遠い間合いから真っ直ぐに迫り来る《殺戮因子》に、嵐は驚愕の声を漏らす。
が、流石は嵐。そこは《人生不敗》。やはり《絶対強者》。
咄嗟に迎撃をするべく、空間を巻き込むように捻じりながら右の拳を放つ。
「喰らえ!」
「言われなくても頂いてやるよ!」
究極の殺意と、絶対と呼ばれた拳がぶつかり合う。
刹那。衝撃の余波が周囲に飛散し、周囲の木々がその身体を強くしならせる。
しかし、その力の激しい拮抗は一瞬で終焉を迎える。
より強い力が相手の拳を打ち砕くことによって。
「馬鹿な!」
一瞬早くその結果を悟った、嵐が再び呟く。
ただし、今度は落胆を含んだ声音で。
「馬鹿な! こんな程度なのかよ?」
盃嵐は笑いもせずにそう言った。
ピシィ。形も質量もないはずの殺戮因子の右腕が悲鳴を上げる。
「こんな程度で、この程度で、関守を退けたのか? ああ? あいつ腕が鈍ったんじゃあねえのか? おい!」
明確に嫌悪を表した嵐が、握り拳を乱暴に殺戮因子の殺意の右腕に押し込む。
「ふざけんじゃあねえ!」
鼓膜を劈く声量で嵐が叫ぶ。空間その物が砕け散るような激しい振動と共に、《殺戮因子》の殺意で創り上げられた右腕がバラバラに砕け散った。
「………………………………………………え?」
「これが? これが! こんなものが《殺戮因子》だって言いやがるのか?」
意外なのか当然なのか、嵐の右腕には傷一つついていない。嵐が憮然と立ち。殺戮因子がその場に跪く。その結果だけが、二人の間には残った。
「マジかよ! こんな程度の奴二人にあの関守が? 《十本刀》が? 敵わない? そんなわけがあるかよ! 何だ? 何が駄目だったんだ? なあ、教えろよ!」
「ぐっ」
殺戮因子の究極とも思えた一撃を打ち破った感慨に浸ることもなく、嵐は殺戮因子の襟を掴んで顔がぶつかる寸前まで引き寄せる。今の攻撃に全身全霊を使い果たしたのか、されるがままに殺戮因子は引っ張られる。右腕からの出血がないのがせめてもの救いか。
「おい! 答えろ、糞殺人野郎。どうして関守がお前らを見逃したんだ?」
既に嵐の興味は殺戮因子にはなく、関守の撤退の真相だけが気になっているようだった。
その答えは、殺戮因子にも情にもわからない。何故だか突然やる気を失い、そのままさっさと一度も振り向くこともなく帰って行ってしまったのだから。そんなことを言っても、この烈火の如く怒る嵐には通用しないだろうが。
「あんたは、なんでそんな真っ直ぐなんだよ」
その怒りに、殺戮因子が不平を漏らすような口ぶりで言った。
「ああ? んなこたぁ、訊ねてないんだよ。殺人鬼」
質問に答えなかった罰として、殺戮因子の首の締まりが二割増す。
「ぐぅ、そんな、目を、しているのに」気道が詰まり、意識が少しだけ頭を離れるが、口先は空気よりも言葉を求める。「何で、あんた、は、そんなに、笑ったり怒ったり出来るんだよ」
嵐の瞳は殺戮因子や情と同じ、何のフィルターもなさそうな、純粋とすら呼べる不純を讃えていた。赤ん坊も年寄りも。健康も病人も。死人も生者も。偶然も必然も。有象無象の区別なく総てを飲み干した瞳だった。何モノにも価値を見出さない、全てを俯瞰する絶対的な自分主義を語っていた。
世の中を見切ったり悟ったりした瞳に移る世界で、そこまで無用心に怒ったり笑えたりできるだろうか?
ふと思い返した時に、その笑顔が辛くならないだろうか?
未来を一瞬でも考えたときに、怒りに振り上げた拳が滑稽に見えないだろうか?
殺戮因子はそれが怖かった。きっと情もそうだろう。
そんな程度のことに恐怖を覚えた結果が、殺人鬼だ。今の自分以外の何が正しいかわからなくて、でも過去の自分も未来の自分も殺せなくて、他人の持つ価値観が怖くて、誰も許せなくなって、何にも興味を持てなくなって、殺さずにはいられなかった。誰もが乗り越えていく矛盾と、知らないうちに身につく常識が許せなかった臆病者。
そんなはみ出し者のはずの嵐が、何故笑ってられるのだろう?
「ばっかじゃねーの?」
手の力を緩めない嵐の答えは簡潔だった。
「俺が笑わなきゃ、俺が怒らなきゃ、この世界に意味なんかないじゃあねーか!」
口角泡飛ばしながら、嵐は楽しそうに怒ってみせる。
「世の中ってのは本当に下らない。見る価値もなきゃ生きる価値もない。人命と言う詭弁が! 社会と言う矛盾が! 道徳と言う堕落が! 些細が大事で、大事が些細で一切合財あほらしい! だからこそ、こんな下らない世界、この《人生不敗》の盃嵐が大いに盛り上げなきゃ滅亡しちまうだろうが! 俺が笑わなきゃ、この世界を素晴しいと勘違いしている馬鹿共が笑えないことで笑っっちまう! 俺が怒らなきゃ、この世界を美しいと感じる阿呆どもがどうでもいいことで怒っちまうだろうがよ!」
がーっはっは! と遂に嵐は豪快に笑い出す。同じイロの瞳で同じセカイを見ているはずなのに、嵐は一切躊躇わない。
勝てないはずだよ。いい加減酸素が恋しくなってきたブラックアウト寸前の頭は、嵐の言葉を聴いてそんな結果を叩きだした。殺戮因子は握り締めていた拳を解き、《殺戮因子》の出力を下げる。
「でよ、取るに足らない殺人鬼君。関守の野郎が何で見逃したか教えてもらえるかい?」
一通り笑い終えると、襟を持つ力を緩めて嵐がキャラクターを変えて質問する。どうやら、溜まっていた悪質な精神物質は声と一緒に出て行ってしまったらしい。
「いいけど、条件があります」
突然の酸素に驚いた肺がむせ返るのを我慢して、殺戮因子が穏やかな口調で答える。
「条件だ~? お前、立場わかってんのか?」
図々しいその申し出に、嵐は当然NOと答える。命を握られているのだ、そんな権利は殺戮因子にはないし、嵐にしてみても、言わないのなら後で直接関守に聞けば言いだけの話だ。
それでも、殺戮因子は同じ台詞を再び口にする。
「それぐらいいいじゃあないですか。《人生不敗》の名前が泣きますよ?」
挑発染みた物言いが効いたかどうかは不明だが、嵐は渋々「わーった」と懐の広さを見せる。
「良いぜ。武士の情ってやつだ。言ってみな。地球に来る宇宙人だって撃退してやるよ」
首から手を離し、肩を竦める嵐。殺戮因子はゆっくりと立ち上がり、嵐と目線を合わす。
「条件は簡単で……」
「あ、らし!」
「ん?」「情!」
話の腰を折った声に、二人は後方で折れた右足を引き摺って歩く情へと目をやる。出血で体力を失った顔は青褪めていて、どう見ても戦闘が出来るコンディションではない。
「まだ、負けてない」
それでも、情はまだ殺戮因子を逃がそうとしていた。その姿を見て、殺戮因子の決心は一層強まる。「情、もう良いんだよ。君は殺させない」
きっと自分は死ぬだろうが、情のその気持ちだけで十分救われた。死ぬには十分だった。
だから、殺戮因子は嵐にこの条件を守らせる必要があった。
「盃嵐。ぼくの首はやる。だから情を見逃してやってくれ」
「ああ?」「え?」
落ち着いた殺戮因子の声に、二人の口は疑問を素直に吐き出す。
「良いだろう? 《十本刀》が去った理由も教える。その代わり、情の命だけは取らないでやってくれ」
二人で話した他愛無い会話を思い出しながら、嵐の瞳を睨みつける。
「情が死ぬのは『嫌』なんだ。名前以外の何かが嫌いになったのなんて初めてなんだ。ぼくの人生の目標はもう達成されたようなもんなんだ! だから…………」
「そんなの嫌!」
自然と熱の入って来た言葉を遮る情の声もまた、必死さが滲んでいた。
「私が戦う! お願い。さっちゃんは逃がして!」
顔面を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら、禁じられた渾名を叫んで逃走を懇願する。
お互いがお互いの為に命を投げ出す光景を見て、
「だーッはっはっはっはっはっはっは!! こりゃあ、傑作だ!」
嵐は哄笑した。腹を抱えてその場に笑い転げ続けた。笑い終わってもまだその余韻が残っているのか、立ち上がろうと手頃な木に片手を預けながら肩を小刻みに震わせている。
「…………?」「…………?」
突然の大哄笑に殺人鬼二人は、嵐とは逆に阿呆みたいに口を開けて言葉が出ない。こちらは真剣に頼み込んでいるというのに、嵐は呼吸すら忘れて笑っている。一体、今の何が滑稽だったと言うのだろうか? もちろん、そんな嵐に質問するなんて恐れ多いことが出来るわけもなく、二人は笑い終わるのを待つしかなかった。月明かりしかない山中で、大口を開けて笑う男がここまで不気味だとは、誰も思いもしなかっただろう。
「マジか! ぷっはっは! おい! これは、くっくっく、本当に……」
そして、肩の揺れが収まると同時、
「笑えねーんだよ!」
咆哮した。喉が引き裂けてしまうのではないかと思うほどに、夜の帳を切り裂くと思ってしまうような、爆音だった。それは、破裂した怒りだった。自分に向けられた怒りでもないのに、殺人鬼二人は、とっさにお互いの手を硬く握り絞める。
何が、《殺戮因子》だ。思わず、自嘲が漏れそうになる。自分の能力なんて、嵐がただ単に怒っただけの気迫の前には、ないも同然ではないか。
「そーか、そーか! これか! これが理由か! あの糞野郎! あの侍かぶれは、この俺にこんなもんを見せるためにわざわざ勿体ぶった言い方しやがったのか!」
鬼気迫る大声を張り上げ、ここにいない関守に怒りをぶちまける。憎たらしい侍男の代わりに蹴飛ばした木の幹が、轟音と共に霧散した。折れるでもなく、砕け散るのでもなく、霧状になって木の一部が消えた。殺戮因子はその光景に目を剥くが、嵐は自分の作り出した結果は眼中にない。木屑を吸い込むことを気にも留めず、嵐は次々と木々に蹴りや拳をぶち込む。手身近な所から木々は文字通りの粉々と化し、柔らかな地面には足の大きさ程のクレーターがいくつも造り上げられる。折れた木を蹴飛ばし、木屑が周囲を覆う。絶句するような暴力を振り撒きながらも、嵐に目的はない。ただのストレス解消の八つ当たりで、嵐の周囲は更地へと変貌していく。
他人の予想のつかない所で生まれ、他人が予知できない進路を突き進み、他人の想像を越える爪痕を残す。その様子はまさに嵐だ。その通り嵐だ。悪魔のように笑いながら、神のように理不尽に、嵐は吹き続ける。
この大自然の驚異を前に、殺人鬼はやはりポカンと口を開けて動けずにいた。嵐の興味はこれっぽっちも二人に向いていないのだが、到底逃げる気にはなれない。台風が来た時は、外に出ない方が安全なのだから。場違いにもそんなことをぼんやりと考えていると、
「大体! お前らは何なんだよ!」
やはり突然に脈絡なく、ビシッと嵐の人差指が二人に突きつけられる。
「うお!」「ひぃ!」
急な指名に殺人鬼たちは悲鳴を返事にして、背筋を立たす。
「何でしょうか!」
取り敢えず会話を試みると、口からは、敬語が飛び出る。今の状態で情の命を保証してもらうには、とにかく下手に出るしかないとの判断だった。と、言うか怖かった。
「お前は、《殺戮因子》だ!」
もう聴きなれてしまった気がメキメキと倒れる音をバックに、五メートル前方で二位王立ちする嵐が叫ぶ。
「そ、そうですけど」
もう、そんな大仰な名前は捨てたい所だが、今現在はいい名前の代案もないので首を縦に振って肯定する。
「『呼吸殺人』『町殺し』『殺人鬼の中の殺人鬼』『殺人記録』全部お前のことなんだろ?」
「そう呼ぶ人もいましたね」
それは、確かに殺戮因子を装飾する名前達だった。四年前のあの日起こした惨劇に付けられた数々の悪名。町一つを滅ぼした伝説に対して贈られた称号でもある。
「お前はさ、それを聴いて何を思ったんだ?」
体中に付着した木屑と土を払う嵐の口調は、やけに穏やかだった。暴れまわったのが効いたのか、単純にそういう病気なのか、とにかく気性の変化が激しい嵐に、殺戮因子は慎重に答える。
「別に何も思いませんでしたよ」
「『別に何も思いませんでしたよ』ね」やけに上手い声真似をする嵐。「じゃあよ、何でそんなことしたんだよ」
『何で』なんて聴かれても、答えは決まっている。
「好きか嫌いになれるものが欲しかったんですよ」
それだけだ。あの日、進路が決まったことを報告しようと家に帰ったら、母の弟夫妻が死んでいて、見るもの全てに価値を見出せなくなって、価値のあるものを、好きか嫌いになれるものを探していただけだ。町殺しは本当にその過程で、他意はまったくない。悪いとは思わないし、後悔もない。
「『好きか嫌いになれるものが欲しかったんですよ』」しかし嵐は先程と同じく、殺戮因子の台詞をそっくりに真似ると、「あーあ」と溜息をつく。
「あー本当に、腹が立つなお前」
「うっ!」
ゆっくりと、しかし苛立ちが滲む言い方で、殺戮因子の胸倉を掴む。五メートルもの距離を一体どうやって詰めたのか、その片鱗すら殺戮因子にはわからなかった。
「お前さ、なんだかんだ言ってるけど。その親代わりの奴らが死んだのが悲しかったんだろ?」
「え?」と声をあげたのは情だった。殺戮因子は否定をしようと口を開くが、否定の言葉が何時までたっても思い浮かばない。
「図星だろ? そうでなきゃ、お前みたいな奴が家族ごっこするはずがない」
それは…………
「お前が、勉強ばかりしていたのは何でだよ? 意味があるんだろ?」
それは…………
「わざわざ、神知教のプログラム生なんて難関を選んだのは何でだ?」
それは…………
「そもそも本当にお前は自分の名前が嫌いなのか? 自分の嫌いなモノをわざわざ喧伝してどうするんだよ。違うんだろ? 死んだ両親がくれた唯一のものだから、大切にしたかったんじゃあないのか?」
それは…………
「違う! 両親の顔も覚えていない、写真も見たことすらない、その死に涙すら流したことがない。こんな名前なんて大嫌いだ! 家を出なかったのだって…………どうでもいいからだ。暇だったから、友達だっていらなかったから、暇で、勉強していただけだ! 進路だって教師が勧めたからで…………」
「あーーーーーー! 鬱陶しい!」嵐が殺戮因子の服から手を離し、自らの頭を掻き毟り身体を激しく揺らす。パンクロッカーを思わせる狂乱振りには殺人鬼も軽く引いた。《人生不敗》の怒り方は怒鳴り散らすだけではないらしい。「屈折した精神持ちやがって! 俺が叩きなおしてやろうか!」
言うが早いか、足を上げて殺戮因子の首を蹴り飛ばそうとする嵐を見て、殺戮因子の心臓が飛び跳ねる。そんなことをされたら叩き直すどころか、最悪粉末状になってしまう。
「やめて!」
手を繋ぐ殺戮因子の命が風前の灯よりも儚いものになった危機を感じ、情が嵐に向かって吼える。
「だーかーら! それが気に食わないんだよ!」
情の涙の訴えを躊躇なく却下し、嵐のシューズの裏面が、殺戮因子の顔面を貫いた。
「さっちゃん!」
叫んでももう遅い。風を押しのける轟音と同時、殺戮因子の首から上が消えうせ、無理矢理引きちぎられた首の不揃いな切断面からは、日の目を見たことのない脊椎が黒い血に染まるのが見え、周囲には弾け飛んだ顔だったものの残骸が散らばるようなことは起きなかった。
「ぐあっ!」
惨劇の音と悲惨な光景の代わりに、鼻から血を流した殺戮因子が小さな悲鳴をあげる。鼻を押えながら、何故自分が生きているのかがわからずに、嵐と情の顔を交互に眺める。嵐はイライラと眉を潜ませ、情は殺戮因子を同じように不思議そうに瞳を涙潤ませている。
二人の『なんで殺さないの』と書いてある顔が、嵐の傷もシミもない綺麗な額に、青筋を浮かばせる。怒りを蓄積させていく。
「殺せるかっつーの!」
殺さない理由は単純明快。殺せるわけがなかいのだ。
盃嵐も、多鞘関守も、超能力者であって殺人狂ではない。嵐はその力の誇示の為に、関守は自分よりも弱い人の為に戦い、最終的に命を奪うことがあっても、笑いながら人を殺すような人種でもない。彼らが殺すのは、人外の鬼畜や、外道の悪党達だけだ。
だから、関守は二人を殺すことを諦めた。故に、嵐は二人に対して激しく苛立った。
彼らは、殺人鬼を殺しに来たのだ。
殺人鬼。それは、単に大量殺戮犯に付けられる蔑称ではない。
日常的に人間を殺さなくてはならない超能力者の区分のひとつで、理由もなく生まれ、必要に駆られて人を殺す存在。奪う為でも、生きる為でも、他人の為でも、自分の為でもなく、殺人鬼は人殺できる。殺さなくては生きていけない、異常体質中の異常体質。どうしようもなく天災で、紛れもなく人類の天敵。
では、目の前のお互いを助け合おうとする青臭い少年少女は殺人鬼なのだろうか?
「お前らが、殺人鬼だ? 笑わせるぜ!」嵐がひたすらに、怒鳴り散らす。憎むかのように、哀れむかのように。「何が『好きにも嫌いにもなれそうにない』っだ! 結局はお前、誰でもいいから愛して欲しかったんだろ?」
今まで一度も考えたこともない言葉が、素手で鼻血を拭う殺戮因子の頭に響く。
「結局、お前は愛に臆病だっただけじゃねーか。『好きにも嫌いにもなれない』だ? ただ単に『寂しく』て、『孤独』で『悲しかった』んじゃあねーのか? それをお前、『好きにも嫌いにもなれない』ってか? これだから、最近のガキは! そうじゃあねーだろ、気持ちってのはよ! 言葉ってのはよ!」
ふざけた名前をつけた両親は、自分を愛してくれていたのか? この新しい家族は自分を認めてくれているのだろうか? どうすれば、自分を愛してくれるんだろうか? 最初は、それだけだった?
「愛を知らず、愛を感じず、愛を貰わず、愛を与えず、愛の意味も知らずに生きてきちまっただけじゃねーか」
くだらない世の中にある、大切な言葉の意味も知らずに生きてきて、わがままを振り回す馬鹿な二人組みを殺せるほど、嵐も関守もプロではない。
だから、二人が殺戮因子と情を殺せない理由は単純だし、私情しか挟まれていない。
「愛し合う男女の仲を死で切り裂くなんて、これじゃあどっちが悪人かわかりゃあしねーよ」
二人が戦うべき相手は、人の皮を被った悪魔でなくてはならない。人の肉を食う悪魔でなくてはならない。
それだけのことだった。
好きな人のために命を投げ出す馬鹿を、殺してしまえるわけがなかった。
「情…………」
一通り言いたいことを言い終わり、頭に血が上って来た嵐が再び暴風雨と化す。そんな「うがー!」「むきー!」と叫びまわる嵐から、視線を隣にへたり込む情に向ける。
「…………何?」
返ってきたのは、いつものように平静な声。しかし闇に浮かぶ情の顔は、信じられないくらい真っ赤に染まっていた。きっと、自分もそうなんだろうな。殺戮因子は何かを期待しながら、左手で情の右手を握り締めた。ゆっくりと情の握力を掌で感じ取りながら、殺戮因子はゆっくりと伝えたい気持ちと言葉を捜す。
四日前、新里世界は『愛は一人ぐらいなら救ってくれるんだぜ?』とのたまっていた。
この三日間、情に感じていた違和感はそう言うことだったのか。
この四年間、殺してきた人間達に、殺戮因子は何を期待していたのだろうか?
この一生背負っていくと思っていた重荷は、何故もう感じなくなってしまったのだろう?
その答えは簡単で、伝えるには少し難しい。
「……晴れたら、旅行にでも行こうか」
だから、散々迷った末、殺戮因子の口から出た台詞は、素直になれなかった。
それでもその言葉は、誤魔化しきれない思いを十分に最愛の人に伝えてくれた。
「うん。絶対だよ」
「ああ、絶対だよ」
殺戮因子は自分の置かれた状況も忘れ、返事の笑顔にうっかり見惚れてしまう。
あの公園で殺し合った時から、もう殺戮因子は彼女のその瞳に惚れていたのだと気が付く。
「いろんな所を巡ろう」
右手のない殺戮因子が、右足の動かない情を引っ張りあげる。
「うん」
ちぐはぐな二人が、手を繋いだまま、互いの身体を支えあう。お互いが倒れぬように、お互いが一人でも立てるように、
「「盃嵐!」」
同じ場所に立ち、見詰め合うのではなく、同じ場所を見据える二人が、声を合わせる。
「何だ! 気安く呼びやがって! さっさと帰りやがれ」当然ながら、二人に何の恐怖も畏怖も畏敬もない嵐は、自分を呼ぶ声を邪険に扱い一瞥さえくれようとはしない。「アレだ、もう人は殺すな。そうすれば少なくとも俺は何もしないからよ。それよりも、あの馬鹿侍にどうやって……」
「「盃嵐!」」
「なんだよ! くどい……っ」
二度呼ばれ、振り向いた嵐が今夜初めて言葉に詰まる。が、それも一瞬で、嵐の口が獰猛に吊りあがる。「なんだ、いい目をするようになったじゃねーか」
嵐は、素直に二人をそう評価した。片腕はなく、片足は動かず、最高の一撃は破られ、良い所なんて一つもない二人を見て、怒りの感情を違う感情が上書きしていく。
哄笑するでも嘲笑するでもなく、見下すでも見上げるでもなく、威圧的でも高圧的でもなく、嵐は目の前の殺戮因子と姉ヶ崎情と言う人間に笑顔を向ける。
初めて見せる嵐のその表情に、二人も満面の笑みを返す。
「「バラバラに愛してやるよ」」
「いいぜ。さあ! やろう! 徹頭徹尾首尾一貫して、楽しませてくれそうだ」
その言葉を合図に、三人の殺気が山中を覆い、夜の静謐な空気を凍りつかせる。先程までの戦闘が面白く思えてくるほどの緊張感だと言うのに、三人の顔には笑みが絶えない。
激しい戦闘の幕が開けたと言うのに、殺すことしか知らなかった鬼の瞳には、心が宿っていた。
そしてこの戦闘が嵐の勝利と言う当然の形で終わるまでの二十三時間と三十一分の間、繋がった殺戮因子と情の手が離れるということは一度としてなかった。
長々とお付き合いありがとうございました。