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《殺戮因子》と《十本刀》②

 一時間後。殺戮因子はやはり自分の運命を好きになれそうになかった。

 二人は出合ったコンビニから直線距離で十数キロ程離れた私有地の山中で、お互いに向かい合っているのだから、最悪としか言いようがない。

「まさか、こうも簡単に誘導できるなんて思いもしんかったぞ」

 終わりの見えない持久走に精も根も使い果たした殺戮因子は、自分の膝に手を突きながら浅い呼吸を何度も繰り返し、息一つ切れてない関守の言葉になんとか首を振って答えた。

「やっぱり…………この山に誘導させたがっていたんですね」

 息も絶え絶えにそれだけを言うと、スーツの裾で乱暴に額の汗を拭い、呼吸を整えながらゆっくりと周囲を見渡す。視界を遮るのは、まばらに生えている杉の木だけで、山の谷間で山道からも離れたこの空間に、関守の援軍らしき人間は一人もいない。いざとなった時、適当に人質を取ると言う手法もこれでは難しい。

 逆を言えば友軍がいないと言うことだが、最後の最後に殺気に障られた味方同士で争わせると言う奥の手も期待できないと言うことだ。

 人気のない場所で一対一の戦闘。

 それは、カテゴリAに属する《殺戮因子》を封じる、単純で強力な状況だと言えるだろう。殺戮因子は知る由もないだろうが、東が取り付けたと言う発信機を頼りに、闇雲に追いかけるふりをしながら、徐々に徐々に関守はこの場所へと殺人鬼を誘導していた。

「…………《四真屋敷》や《地獄期間》はいないんですね」

 能力を封じられた殺戮因子など、まな板の上の鯉にも等しい。自らの窮地に、せめて呼吸だけでも整えようと、二人の名を口にする。

「世界は、お主の攻撃に精神をやられていての。今は自宅で静養中じゃ」

 ギターケースを開けながら、関守が苦笑する。それは決して油断ではなく、余裕から来るものだと言うことが痛いほどわかる喋り方で、殺戮因子は唾をゆっくりと飲み込む。

「そりゃあそうじゃ、あの子は普通一回しか経験できん……いや、一回も経験することの出来ない死を幾千幾万と体験してき取る。その心の傷は、誰にも計り知れん。ちょっとしたことでバランスを崩しても何もおかしくはなかった。誰もそんなことにも気が付かなかったのが悔やまれる」

 深紅のギターケースから、関守は怒りに声を震わせながら獲物を取り出す。

 元々は白色だったことを想像させる手垢で汚れた灰色の柄に、傷だらけの蒼い複雑な紋様の入った鍔。刀を収める以外の使用を繰り返したであろう、へこみが目立つ鉄ごしらえの鞘。

 《十本刀》の名に相応しい、無骨な刀。

「拙者は私的な復讐の為に、お主を切り捨てる。人の道を外れたことだとは重々承知」

 中身のなくなったギターケースを藪の中に投げ捨て、関守が打刀を腰に帯びる。

「しかし人道や正道、道徳や法律よりも体切な義弟の為のこの復讐。拙者は微塵も恥かしい等とは思わん」

 そして、ゆっくりと鞘からその刃を解き放った。剣道剣術に疎い殺戮因子にさえ、その抜刀は美しく思えた。何人もの人間を斬り捨てたであろうその魔刃が、一人の殺人鬼を向けられる。薄暗い山中でもそれは妖しく光り、肉を切り裂くのを今か今かと待っているように見えた。

「殺人鬼、《殺戮因子》。貴様は惨めに死ね」

 想像もできない鍛錬の果てに辿りついた剣の境地の開陳に、殺戮因子は手袋を外し、ジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを緩める。

「どうやら、あなたは好きにも嫌いにもなれそうにない」

「《十本刀》の多鞘関守。参る」

 言葉と同時、関守が木々の間を一陣の風を纏いながら駆け抜けた。

 世界が見せた『縮地』よりも疾く、心が見せた『落葉』よりも多彩に、関守は殺戮因子に迫る。残像とでも呼べばいいのだろうか? そこにいると認識した瞬間には次の場所へ。空間を泳ぐように飛び回る関守の姿は二人にも三人にも見えた。

 先日見た抜刀術ばかりを警戒していた殺戮因子に取って、予想の斜め上を行く洗練された業は文字通りの速攻。その瞬撃は何よりも速すぎる。

 縦横無尽に狂喜乱舞に迫り来る刃は、既に目視で捉えることが不可能な領域にすら達していた。幾ら超能力者と言え、狂気と殺意の権化たる殺戮因子と言え、これをかわす術は持ち得なかった。

 人知を超えた能力と、それに対抗するべく生まれた技術。その二つの融合。

 無敵の超能力者であった殺戮因子と、より強くなろうとした多鞘関守。

 才能や努力や運命と戦い続けた関守は圧倒的で、殺戮因子の人生はただただ絶望的で、二人の実力の差は決定的だった。

 戦闘開始から五秒にも満たない時間で、勝敗は決するだろう。

「こんなん剣術じゃあねーよ!」

 彼我の実力差に嘆きを上げながら、殺戮因子が目の前に現れた関守の首目がけて手を伸ばす。が、それは瞬きをするよりも早く消えうせ、

「終わりじゃ! 殺人鬼!」

 背後から勝利を確信した関守の咆哮が響き、残像煌く刃が殺戮因子の死角を捉え、

「隙有り」

 木の上から飛び降りた情のカッターナイフの鈍い刃が、武人の左腕を微かに切り裂いた。

「なっ……」

 意識の外からの不意打ちに、関守は殺戮因子を捉えるよりも自らの安全を取った。攻撃を諦めると、素早く転がりながら突然現れた情から距離を取る。達人のそれには不恰好な回避を見て、

「完璧だ、情」

「あなたの計画通り」

 二人の鬼が哂う。

「《蛇腹》の情?」

 その様子に、関守は驚きの表情を取る。殺人鬼殺しに取って、彼女の存在は予想外も予想外であるのだろう。

 それも当然だ。徹底的な排他主義である殺人鬼が、徒党を組むなんて聴いたこともないし、有り得ないことだ。殺人鬼殺しとして名を馳せる関守の経験が、目の前の現実を否定し、合理的な答えを導こうと動き出してしまう。

 それは百戦錬磨の彼らしからぬ行動だった。本来であれば、問答無用で戦闘を継続するべき状況だと言うのに、関守は間抜けな言葉を口にする。

「何者だ、貴様!」

「あなたの想像通り。《蛇腹》の姉ヶ崎情」

 淡々と事務的な口調で答える情の右手には、やはりカッターナイフ。その凶器を見るや否や、関守は直ぐ様に切りつけられた自分の左手を見た。分厚い道着が綺麗に切り裂かれてはいたが、所詮は銃刀法違反にも引っかからないような小さな刃。逞しい彼の腕は引っ掻き傷が一筋刻まれただけ。とても勝敗を分けるような怪我とは言えない。

「問題はないの」

 依然変わらず、自らの有利を確信して、関守が強気に笑う。殺人鬼二人を相手取るのは初めてだろうが、彼程の実力者であれば、殺戮因子と情の二人を同時に相手する程度造作もない。

 現に、関守は情の不意打ちを見事に回避して見せたのだ。今ので仕留め切れないのであれば、もはや殺人鬼達に勝ち目はない。

 膝に付いた落ち葉や土を払いながら、関守は呼吸を整え、愛刀を強く握りしめた。

「ふん。殺人鬼のつがいか。拙者も長いこと殺人鬼を屠ってきたが、初めて見…………」

 その瞬間、「どくん」と関守の心臓が激しく鼓動した。

「!?」

 どくん。どく。どくん。どくん。どくん。どく。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。

 早鐘のように脈打つ心音。その違和感は直ぐに痛みへと変わる。関守はその突然の体調の異変に堪らずにその場に片膝をついてしまう。右手で胸を強く抑え、顔から余裕が消え去る。それでも流石と言うべきか、左手は打刀を離そうとはせず、視線は殺人鬼を鋭く睨み付ける。

 息をするのも苦しいくらい滅茶苦茶に動く己の心肺に、意識の殆どを奪われながらも関守は冷静だった。過去の経験から、殺人鬼が神経毒のようなまどろっこしい物を使用しないことから、毒物を可能性から排除。となると、この身体の異常は何らかの能力に依る攻撃であると判断する。そして頭の中を埋め尽くす『殺せ』と自分が自分に命令する、強迫的な破壊衝動。

「貴様等、いつ拙者を障った?」

 その症状はまさに、世界に聞いた《殺戮因子》に障られた人間が陥るそれだ。死と言う極限の恐怖に、身体が狂ったように悲鳴を上げ、心が自らの崩壊を求める。

 既に『殺害』に対して一般的な倫理を持たぬ関守が、こうも易々と障られるはずがないことは、前回の戦闘で確認している。ならば、鬼ごっこが原因なのだろうか? それとも、戦闘前の会話? 姉ヶ崎情、二人の殺人鬼による共振作用? いや、これが本来の威力なのか?

 答えは出ない。『殺意を操る』と言うアバウトな能力故の、応用力の広さは、さしもの関守も舌を巻く。

 関守の表情に少なからず焦りの色が滲み出る。殺人鬼二人は満足げに笑みを浮かべる。

「おお、流石にアレは効くか」

 大分呼吸が落ち着いた殺戮因子が、ようやく感慨深く呟いた。アレと言う表現から、何かトリックを用いたことのだろう。

「どうする? 殺す?」

 自分達の作戦が上手く言ったことに、少しだけ自慢げな表情で情が問うと、

「情、攻撃は止めとこう。何をするかわかったものじゃあない」

 殺戮因子が首を横に振り、追撃を一旦止めさせる。関守の視線は多少弱くなっているが。それを生み出す瞳が彼に安全を優先させる。

 同じ黒瞳だが、殺戮因子と関守のそれは対極と表現してもいい程かけ離れていた。色こそ違えど、あの世界と同じ瞳。ギラギラと闘志を燃やし、常に最善を目指す、諦めを知らない瞳。迂闊に近づくなんて有り得ない。

「それに、もうチェックは済んでいる」

《殺戮因子》は無敵でもなければ最強の能力でもない。しかし絶対的だ。彼の放つ殺意は、有象無象の区別なく、誰も彼も殺人鬼へと変貌させる。効かないのは隣に立つ情のような殺人鬼。町一つだろうと、不死に不老に不滅の矛盾だろうと、問題なく殺し尽す。

 それが、歴戦の兵であろうと、どれだけ死に慣れていても、殺意は平等に降り注ぐのだ。

 その殺意は、手近な所から、命の目を摘んでいく。

「ば、馬鹿な」余りの理不尽に、関守が悪態をつく。関守の意思とは関係無しに、左手に握られた刃は、自らの担い手の喉元へと突きつけられていた。「拙者が、死にたがっている?」

「さよなら、《十本刀》」「ばいばい」

 死に行く侍に、鬼達が微笑みかける。

「ふざけるなよ? 殺人鬼共が!」

 その笑みが、関守を奮い立たせた。激しい怒りが、関守の中で溢れる殺意を焼き尽くす。

 関守の見たい笑顔は、あんな薄っぺらなモノではない。

 例えば、新里鈴音のシニカルなそれ。

 例えば、呆れたように笑う銀髪の弟。

 例えば、全てを吹き飛ばす豪快な嵐。

 自分が守る日常と、その日常で生きる関守の愛すべき隣人達。彼らの為にも、そして彼らと共に生きたい自分の為にも、こんな所で死ぬわけにはいかない。死ねるわけがなかった。

 多鞘関守が、多鞘関守である存在理由。死んでも曲げることのできない信念。

 それが死の淵から、関守を現世へと舞い戻らせる。

「まだまだぁ!」

 雄叫びを上げると、関守は右手で左手首を握り締める。左右の腕力は拮抗し、握られた打刀は、首にギリギリ触れない所で押し留められ、カタカタと小刻みに震えた。

「思い出したぞ。殺戮因子」

 その一言一言に、右手と同じくらい力を込め、ゆっくりと関守が歯を見せて笑う。その額からは大粒の汗が浮かび上がり、強く食いしばり過ぎたのか唇の隅からは血の混じった唾液が泡になっている。

 しかしそれは殺人鬼にはすることができない、生きている人間の本気の笑みだった。

「お前さんの能力は、殺意に反応するそうじゃの」

 首に刃を突き付けられながら笑う関守に、殺戮因子は思わず一歩後退りする。二日前の夜、世界が見せたのと同じ種類の雰囲気を、もう面白いなんて微塵も思えなくなっていた。

 この笑顔を見せる男達の執念は、軽々と《殺戮因子》を克服してしまう。

「特に、人を殺したことのある器物は、その持ち主が持つ殺意と、お主の殺意を増幅させる」

 それはあの夜、殺戮因子が冥土の土産にと世界に教えたことだった。

「だったら、この症状も納得じゃ」

 謎が解けたことに、関守は雲ひとつない空を思わせる笑みを浮かべると、

「そして、対策も至極簡単」

 眉一つ動かさず、笑顔のまま、自らの左手首を、自らの右手で握り締め、粉砕した。

「呑舟を離せば良いだけの話じゃのう?」 

 関守の右手によって握り潰された左手首が悲鳴を上げる。物理的に刀を持つことが不可能となった左手から、呑舟と呼ばれた日本刀が落ちる。

「…………狂ってる」

 笑いながら自らの手首を砕いた関守に、情の笑顔が引き攣る。殺戮因子も言わずもがなだ。

 たった数秒で、鍛え上げられていた関守の左手の手首はアルミ缶のようにひしゃげ、砕けた骨が飛び出し、どくどくと血が溢れだす。

 そして目論見どおりに、関守の手は愛刀を手放していた。

「まさか狂気の化身たる殺人鬼からそのような評価を頂くとは思いもせんかった!」

 嬉しそうに笑いながら、関守は鞘も腰から外して遠くに放り投げる。関守敗れたり! と言う鬼は何処にもいなかった。

「さて、試合続行じゃ」

 ぐしゃぐしゃになった左手の存在を忘れたように、関守は片膝を付いたまま静かな動きで構えを取る。それは、折れた左手首を握り締めていることを覗けば、武芸十八般の一つ抜刀術の構え。先日、殺戮因子に死のイメージを抱かせた、関守と言う人間そのものとも言えるあり方。

「お主達の全力で来い。拙者は逃げも隠れも策も弄さん。全て、真っ向から切り捨ててやろう。左手を砕いてくれた礼じゃ。格の違いを知って冥府に逝くがいい」

 痛みに顔を引き攣らせるでも、怒りで声を荒げるでもなく、狂気も殺意もなく、関守の声は湖の水面のように落ち着いていた。

「情、引こう」

 その声を聴いて、殺戮因子は隣に立つ情に小声で言った。

「ぼくの血が効かないなら、勝ち目はない。《十本刀》は化物だ」

 関守の口上に間違いはなかった。が、しかし完全な正解でもなかった。一番重要な所が抜けているのだ。

『《殺戮因子》の血』その能力を凝縮した、狂気と殺意の結晶。

 今回の作戦は、それが全てだった。情のカッターに殺戮因子の血液を塗り、その刃で関守に傷を負わせる。そうすることで、殺戮因子の血液が関守と触れ、通常の何倍もの殺意に障らせることができる。それが二人が考えた、たった一つの勝ち筋だった。

 そう。『だった』のだ。現実は違った。関守は見事に策略に嵌り、殺意に障られ死を選んだ。しかし死ぬしかなかったはずの侍は、ただの精神力だけでそれに耐え、あろうことか自らを傷つけることによってそれを攻略して見せた。

 所持していた血に塗れた刀の呪縛に打ち勝ち、左手の機能を失い、武器を手放した上で、未だに殺人鬼二人を敵と認識して相対している。

 そんな相手に、最早勝ち目なんて探せない。見ているだけで、目の中に虫が蠢く違和感が広がり、受け付けない。こんな真っ直ぐな人間には一生をかけても勝てる気などしない。

 ここらが潮時だろう。殺戮因子は素直に負けを認め、再びの敗走を選んだ。幸いなことに、あの構えは待ち一辺倒、後の先を取る一撃必殺である。こちらから攻めない限り、危害を加えられる心配はない。言葉による挑発がそれを証明しているだろう。

「違う。攻め時。多鞘関守の負傷。これは空前絶後の大チャンス」

 しかし一時撤退を示す殺戮因子に対し、情の意見は真逆だった。

 今後有り得ないであろう、この好機をみすみす逃がすなんてありえない、と情は鼻息を荒くする。左手の負傷は、言うまでもなく殺人鬼達の多大なアドバンテージだ。使い物にならないだけでなく、移動時には邪魔にしかならないし、痛みは判断を鈍らせるだろうし、出血は体力を徐々に奪っていく。戦うとしたら、今しかない。

「それに、あなたの血が効いていないわけじゃあない。武器を放し、ああやって落ち着いているから押えられているだけ。はったり」

「そりゃそうだけど」

 確かに一度効いていたのだから、それも一理ある。それにあそこまで深手を負わせた相手から逃げると言うのは勿体ない。その点に関しても殺戮因子も認めざるを得ない。それに、相手は獲物を何も持っていない。砕いた左手首を握り締めた格好では、暗器の類も使用できないだろう。

 それでも、あの構えは不気味だった。

 その戦闘力は五指に入ると讃えられながら、能力の詳細は不明。それはつまり、関守の能力を見て生きているものはいない。そういうことではないだろうか?

 抜刀の構えは文字通り必殺を誇り、誰も知り得ない関守の能力《十本刀》を、最高に生かせる構えだと、殺戮因子は考察する。

「アレに突っ込むのは危険すぎる」

 殺戮因子は殺人鬼であって戦闘狂でもなければ殺人狂でもない。充実した生の為に、好きか嫌いになれるものを探しているのであって、殺人は必要のない塵を掃除する程度の意味しか持っていない。塵掃除の最中に死ぬなんて、そんな間抜けなことはない。

「生きることが何よりも大切だ」

「違う」安全か死か。選択肢になりえない二つを突きつけても、情は怯まない。

「私達の勝利」

 その言葉の前半に意識をおいて、情は呟く。『私達』それはなんとも背筋が痒くなるような台詞に思えた。確かに今は手を組んでいる。しかし、二人で一つに括られるほど付き合いが長いわけでもない。よく聴く音楽も知らないし、初めて実際に見た有名人についても語っていない。その言い方は甚だ不適合だと笑いたくなってくる。

 しかし、

「彼から逃げても、それは一時的な安全にしかならない。今回も、たった二日で追いつかれた」

 情の口からこぼれる説明よりも、

「あなたは一生あいつの影に怯えて暮らす気?」

 下手な挑発よりも、

「私達の勝利……か」

 その言葉の響きが殺戮因子に前を向かせた。面倒だった塵掃除が、初めて楽しく思えて仕方がない。顔には自然と笑みが浮かび、弾む声で殺戮因子は宣言する。 

「よし、やろう。あの鼻持ちならない侍かぶれを殺そう」

「うん」

「じゃあまず、カッター貸して」

 待っていましたと、情はカッターナイフの刃をキリキリと伸ばして手渡す。それを殺戮因子が一瞬の間を置かずに、左手の生命線に突き立てる。格好を付けて見たものの、関守を倒すには、小手先の小細工が絶対に必要だ。あの構えを踏み潰す、戦略が必要だ。

 関守と言う能力者と自分達二人の自力の差は歴然なのだ。先程の不意打ちで腕を切りつけるのがやっとだったことを考えると、関守を一撃で殺すことは愚か、隙を突いて傷つけることすら難しいだろう。勝つには《殺戮因子》の効果に関守が再びかかるまで、殺戮因子の血がついたカッターで斬り続けるしかない。唯一の武器であるカッターに新たな血を馴染ませるには、必要不可欠だった。

 そうやって、たっぷりと新鮮な血を吸った鉄の刃を情の手に握らせる。

 そして、

「舐めて」

 情の口元に真新しい傷口を運ぶ。

 決して舐めて治して欲しいわけでは当然ない。《殺戮因子》が情の《蛇腹》を強化するならば、この血は極上のエネルギー源だ。今一あの関守にはあまり効果がなかったが、掌から滲み出た人間と同じ色をした血液は間違いなく殺意の塊。ぶっつけ本番ではあるが、身体能力の向上を助けるはずだ。

 一瞬、殺戮因子の意図が掴めずに、頬を爆発的に赤く染め上げる情だったが、その血の意味を理解すると、恥かしそうに舌を掌に伸ばした。

 最初は恐る恐る傷口を軽く舐めていたが、その舌使いは次第に激しくなっていく。一度顔を離し、血が延々と滲み出てくる傷口を再確認すると、情は両手で殺戮因子の腕を固定し、薄い唇で傷口を囲う。血を求め傷口の中にまで舌を入れ、口端からは呑みきれなかった唾液と錆臭い殺戮因子の血が混ざりあった、ピンク色の液体が溢れ落ちた。

「…………お主ら、何をしとるんじゃ」

 そのマニアックなプレイのような光景に、関守が引き攣った表情を取る。この技を前に、怯え逃げる者、甘く見て挑んでくる者、口先での挑発を試みる者は腐る程いただろう。しかし夢中で男の掌にしゃぶりつく人間は初めてだった。

「あなたを殺すんだよ。《十本刀》」

 関守の台詞を待っていたわけではないだろうが、殺戮因子は掌を情の口先から無理矢理離す。情の口元から伸びる淡い桜色の唾液が、未練がましく手の平の傷口に繋がっていた。

「いい。最高にいい気分だ。《殺戮因子》と《蛇腹》、二人の殺人鬼が《十本刀》を殺す。今日は殺すにはいい日だとは思わないか? ぼくは今日と言う日が好きになれそうだよ」

「自分の命日が好きになれるとは、殺人鬼に相応しい……三度目はない。全力で来い!」

「行くぞ!」

 まるで少年漫画の主人公のように、殺戮因子が掛け声と同時に駆け出す。その速度は世界の『縮地』にも及ばない、ただの疾走でしかない。野球で言うならど真ん中ストレート。関守の抜刀の餌食になるしかないそのスピードが、今の殺戮因子には限界だった。

 だが、殺戮因子はそれで良いと考える。何故なら、一人ではないのだから。

「情! 合わせてくれ」

 相棒の名前を叫び、殺戮因子はさらに強く大地を蹴る。

「なるほど。これは厄介じゃのう」

 微塵も厄介と思っていない、頬が緩んだ表情で関守が嬉しそうに呟く。

 返事をしない情の動きが、殆ど目で追えないのだ。先程、関守が行った『旋風』と同等の高速移動。本来なら何とでも対応できる速度ではあるが、殺戮因子の愚直な動きと合わさってより早く、不規則な動へと感じられる。

 一+一の答えを二以上に変える、コンビネーション。

 先程まで格下と思っていた二人の妙技に、関守は歓喜を覚える。敬意を抱く。この構えにして正解だったと、真正面から飛び掛る殺戮因子を見て改めて思う。遙かに劣る力しかもっていないのに、その力を最大限使い、力を合わせて向かってくる。そんな強者には最高の技で応えなくては、多鞘関守の名が廃ると言うものだろう。

 そして、二人が走り出してから約三秒後。その勝敗は決した。

 拳を振り上げ、正面三歩の間合いに入った殺戮因子。身体を低くし、右側からカッターを煌かせる情。事前に綿密な打ち合わせをしたような、絶妙なタイミングでの同時攻撃を見て、刹那にも満たない時間に、関守は確かに小さく笑った。

「見事!」

 そして、関守が動きだす。

「さらばじゃ、好敵手共よ」

 かちん。

 台詞の直後、乾いた鍔鳴りの音が三人の頭の中に広がる。

 それが、瞬きの間に全てが終わってしまったことを物語っていた。

 倒れているのが殺人鬼で、立っているのが殺人鬼殺し。勝敗は問う必要もない。

「拙者もまだまだ…………いや、見事とお主達を褒めるべきか?」

 座った姿勢の攻撃から、いつの間にか立ち上がっていた関守が残心を解き、右手の方に転がる殺人鬼を見下す。

「まさか、二人とも生きておるとは」

 落ち着いた関守の声は、何をされたか微塵も理解できていない殺戮因子に敗北を理解させるには十分だった。ただ、敗北者と成った殺戮因子の頭に真っ先に浮かんだのは、関守の能力でも、鍔鳴りの正体でも、元通りになっている関守の左手首でも、肘から先がなくなった自分の右腕の存在でもなく、意外なことに情の安否だった。

「殺戮因子、《蛇腹》に感謝するんじゃぞ? お主一人じゃったら、右腕だけじゃすまんかった」

 そんな心中を察したのか、関守が顎で殺戮因子の後ろを指す。

 慌てて振り返ると、今まで気がつかなかったのが不思議なくらい近くに情はいた。

「重い……」

 と言うか、殺戮因子は情の小さく薄い身体の上に乗っかっていた。

「拙者の『一閃』の瞬間、攻撃を諦め、即回避に専念。オマケに相方まで助けるとは、これはやはりショックを隠せ…………」

「う、腕ぇ! が、取れて」

 関守のご丁寧な解説には耳もくれずに、意識を取り戻した情が殺戮因子の右腕を見て叫びを上げる。元殺戮因子の右腕は、関守の足元に転がり、本人の右肘からは止め処なく赤く黒い血液がごぼごぼと溢れていた。

「ああ、切り落とされた。まいったね」

 しかし当の本人のリアクションは薄い。情の上から転がるように身体をどけるその顔は、薄く笑ってさえいた。腕が切断され、その場に落ちたのをしっかりと自分の目で見てしまった殺戮因子は既に勝利を諦めていた。コマ送りの超スロースピードで、自らの腕が千切れ飛ぶ光景を見て、殺戮因子は生きることを断念していた。

「死んじゃう」

 表情から、殺戮因子が何を考えているのかわかったのか、情はカッターを投げ出し、止血をするために腰のベルトを外す。今にも泣き出しそうな、童女のような表情で。

「そうか、死ぬのか」

 必死にベルトを巻く情に、殺戮因子は諦観の混じった声で語りかけ、バランスの取れない身体をなんとか起き上がらせる。この傷はまず助からない。だからこそ、大慌てする程のことではない。身体も痛みを不要と判断したのか、むしろ頭の中には幸福な感覚が広がっている。

「じゃあ、その前に一暴れするか」

 それよりも今、最も重要なのは、関守の能力の片鱗を体験したことと、腕から噴き出した大量の血だ。関守が体中に浴びた返り血。その足元にある落された腕。そして自分の身体から零れる生命の残滓。

 それらを全て使えば、目の前の関守でさえ狂気に落せる自信があった。片腕を失うことによって、ようやく自分の能力の使い方が理解できた気さえした。精一杯我武者羅に、命一杯無茶苦茶にその力を自覚して行使すれば、自らの死と言う時間制限こそあるものの、目の前の殺人鬼殺しと同等に戦えるはずだ。

「だから、逃げなよ。情。時間くらいは稼いで上げるからさ」

 関守を睨みつけながら、殺戮因子は明一杯に虚勢を張った。

「最初からやばくなったら逃げるって約束だっただろう?」

 元々関守は殺戮因子だけを追って来たのだ。別に情が命を賭けて相手する必要はない。そんなことで、情のことを嫌いになったりするわけがない。

「でも、私のせいで、腕が」

 ベルトでの応急処置にもならない止血を終え、情は今までの落ち着いた性格から考えられない程に取り乱し「腕が、腕が」と繰り返す。

「情がいなけりゃ、ぼくはあの日本刀で斬られて死んでたんだ。情が気に病むことはないよ」

「でも、私が勝手についてきただけだし、私が勝手に攻め時って言ったから、腕が……」

「良いから逃げなよ。ぼくは今なら死んでもいい気分なんだ」

「わ、私は、あなたが死ぬなんていや!」

 今までで一番優しい最悪の殺人鬼の語り口調に、涙を流しながら情は反抗する。

「初めて会った同類なんだもん!」

 歳不相応の喋り方で駄々をこねる情は、まったく鬼には見えない。鬼の目にも涙か。下らない事を考えながら、「ぼくだって嫌さ」と、左手を情の頭に置く。

「《十本刀》、ぼくが戦うから、こいつは逃がしてくれ」

「…………」

 殺戮因子の懇願に、関守は目を閉じて無言。肯定とも否定とも取れないその様子に、

「わ、私が戦う!」

 情がスーツの袖で涙と鼻を拭いて叫ぶ。そこで、武器がないことに気がつき、投げ捨てたカッターに駆け寄ろうとして、ベルトのないズボンが下がって来た為、勢いよく顔面から地面に倒れた。

 戦闘中に似合わない可愛らしい下着と白すぎいる細い脚を一瞥して、殺戮因子は関守の説得を続ける。

「いいだろ? ぼくの首が欲しいんでしょ? 見逃してくれよ。それとも、こんなパンツ丸出しの女が趣味なのか?」

「…………」

「私が殺してやる! 多鞘関守」

 しなやかな猫科の肉食獣を思わせる動きで跳ね起きた情は、ズボンを脱ぎ捨て、カッターナイフを拾って腰の横に構える。下着が丸出しなだけに、迫力も何もあったものではないが、涙に滲んだ瞳だけは鬼気迫るものを湛えていて、言動の真剣さが嫌でも伝わってくる。

 だからこそ、殺戮因子は姉ヶ崎情を逃がす。そうすれば、ようやく何かを好きになれそうだった。

「さあ、かかってこいよ。《十本刀》」

「駄目! 私が相手!」

 挑発するような殺戮因子の声と、懇願する情の声。

「もういい」

 そして一瞬の間を置いて、関守の不機嫌そうな声。

「お主ら、もう人を殺すな。以上」

 投げやりにそう言って、関守は殺人鬼に背中を見せ、投げ飛ばしてしまった刀を拾いに行く。その際、殺戮因子の右腕だったものを、八つ当たりするように蹴飛ばしていた。くるくるとそれは螺旋を描いて森の奥に消えていく。

 呆然とその様子を眺めて動こうとしない殺人鬼に、関守はやはりイライラと早口で、「二人とも見逃してやる」と、ぶっきらぼうに言った。

「は?」「へ?」

 予想していなかった言葉の意味が理解できず、二人は間抜けに口を開く。その揃った仕草が余計に関守の癪に障る。

「呑舟を持ち出して、能力まで使って殺せなかったんじゃ。拙者の負けじゃ。何処にでも行け。ただし、二度と人を殺すなよ?」

 刀を拾い上げて、軽く撫ぜて汚れを払う関守の背中を見て殺人鬼は心中で呟く。

 そんなはずはないだろう。

 背中を簡単に見せているあたり、相手がどれだけ二人を軽んじているかがわかる。そもそも、『見逃してやる』発言と矛盾している。

 何を言いたいのか、何を考えているのか、殺戮因子には理解できなかった。関守は油断を誘う真似をする類の人間ではないと言い切れる。そして、殺人鬼を許すような人間でもない。彼の殺人鬼殺しの異名と、二日とかからずに居場所を特定した行動力がそれを物語っている。

「良いからはよう行け。もしお主らどちらかが人を殺めたら、その時は改めて殺してやる」

 状況の変化について行けずに愚図愚図とその場に居続ける二人に、関守は苛立った口調でそう言うと、鞘に刀身を収め、カモフラージュ用と思われるギターケースに突っ込む。それを背負うと、振り向くことも口を開くこともなく、侍は静かに山の中に消えていってしまった。

「…………」「…………」

 関守が去っていった方向を無言で眺め続けた後、殺戮因子は大の字に腕を広げ、真後ろに倒れ込んだ。まったく理由はわからないが、《十本刀》多鞘関守との戦闘は終わってしまったらしい。突然倒れたこと情が驚き、なにやら喚いていたが、貧血と痛み、それに緊張が解けた頭はその言葉を処理し切れなかった。

 それでも、情の必死さだけは伝わってきた。どうやら、傷の治療について話しているらしい。腕を拾ってきてくっつけるにせよ、そのままにするにも病院にいくとなると、殺戮因子には大きな問題が一つあった。

「……保険証がないから、凄い金額請求されそうだよ」

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