後編
結衣は自分に伸ばされる腕を見た。目をこれ以上はないほど大きく開く。
小さな乾いた音のあと、続けて「結衣っ?!」と怒鳴る声。そしてやや大きな音。
結衣は庄屋の息子の手を力いっぱいはねのけて。
律は結衣の仕草を目にして頭を平手で打った。
結衣は律にぶたれても泣かず、律の足にもう一度しがみついた。
律は途方にくれた。こんな結衣は初めてだった。気は強いが、ここまで頑なではなかった。律がぶつとしばらく寄って来ないのに、今はひたすら律にしがみついていた。
旅の商人が律達のところへやって来た。
「よかったら私と一緒にいるかい?」
結衣は律の膝から頭を離した。声をかけた人を見上げる。
----こわくないひとだっ。
結衣は駆け寄って旅の商人にしがみついた。勢いがつきすぎていたのか、旅の商人の体が少し揺れた。旅の商人は笑みを浮かべると、両手で結衣を抱き上げて左腕にのせた。
結衣は旅の商人の肩にべったりと顔をくっつけて、誰も見ようとしなかった。
「あの、すみません。うちの娘がとんだ御迷惑を…。いつもはこんな甘えん坊ではないんですが」
律が決まり悪そうにしていた。
「子供は好きですから。お気になさらずに」
「さ、お義母さん。美代も探しに行きました。早く行っていただけませんか?」
庄屋の息子が優しく促す。しかし律は迷った。いくら懐いているとはいえ、見知らぬ人間、それも旅をしているらしい男に娘を預けるのは怖い。
「結衣ちゃんなら大丈夫ですよ。おれも一緒ですから」
娘の夫が一緒。その言葉が、律の背中を押した。
「…では、よろしくお願いします」
律は旅の商人に深々と頭を下げると、歩いては振り返り、歩いては振り返り、を繰り返し、やがて姿を消した。
*****
庄屋の息子と、結衣を抱えた旅の商人は、来た道を戻っていた。山で待つより村で待つ方がいいと旅の商人が言い、庄屋の息子が賛同したからであった。それに旅の商人は、隣国へ早く行きたいと庄屋の息子に再三告げている。山で待つ理由はなかった。
結衣はいつの間にか眠っていた。旅の商人の抱っこはよほど安心できるらしかった。
「ちょっとここで休憩しませんか?」
庄屋の息子が意外なことを言い出した。
太陽は既に傾きかけており、西の空は薄紅になりつつあった。旅の商人は反対した。
「日が落ちてきています。休憩すればそれだけ山を降りる時間が遅くなります。お疲れでしょうが、麓まで一気に戻りましょう」
「少しだけです。水を飲みたいのですよ。確かこの近くに小さな湧き水があるはずですので、そこに行きたいのです」
旅の商人は少し考えたあと「分かりました」と頷いた。
湧き水の場所へ到着したあと、2人はそれぞれ思い思いに行動した。
庄屋の息子は清冽な湧き水で喉を潤し、旅の商人は結衣を抱っこしたまま岩場に座っていた。
しばらく2人とも無言だった。
「おいしい水です。あなたもいかがですか?」
庄屋の息子のすすめに、では、と旅の商人は従った。結衣を抱えたまま、湧き水へ近づき、ごくごくと飲んだ。
そして、荷から竹筒を2本取り出し、まず1本目に湧き水をくんだ。満杯にした竹筒を適当な場所に置き、2本目に取りかかった。
旅の商人は背中に衝撃を感じた。
続けて焼けつくような痛みが背中に広がり、胸部へ浸透する。息がまともにできなくなった。
旅の商人は後ろを振り返った。
庄屋の息子が真後ろにいた。背中に密着している。
何か熱いものが身体をすり抜けたのを感じながら、旅の商人は膝をついた。
上体を支えていられなくなり、うつ伏せに倒れていく。無意識に結衣の頭を両手で庇い、結衣が深刻な怪我をするのを防いだ。
旅の商人の目に映った庄屋の息子は嗤っていた。
旅の商人の意識がなくなっていく。薄れゆく意識の中で、結衣がまだ目を覚まさないことに気づいて微笑んだ。
この子は大物だな。
旅の商人の意識はそこで途切れた。
*****
庄屋の息子は狂喜していた。
お気に入りの女を嫁にした。
水のことでうるさいやつはいなくなった。
嫁に横恋慕する男もいない。
金を見つけた。
金の場所を知っている余所者はいなくなった。
おれはもっと金持ちになる。
もっとおもしろおかしく過ごせる!
さあて、金を見つけたら何を手に入れるかを先に考えておこう!
ふと手がべたべたしていることに気づいた。
手を見ると、赤い汚れがついている。
庄屋の息子は、旅の商人が満杯にした竹筒の水を使って、手についた赤い汚れを落とした。
竹筒に赤い汚れがついていたのを見て、眉をしかめた。汚れを洗えば竹筒はまだ使えそうだったが、面倒くさいので適当に投げ捨てた。
庄屋の息子は、旅の商人が持っていた2本目の竹筒に水を入れようとして、結衣に気がついた。
旅の商人の大きな身体の下で、結衣はすうすう眠っていた。
庄屋の息子は旅の商人を突き通した小太刀を手に取ろうとしたが、止めた。
また手が汚れるかもしれない。それに、厚みのある身体の下の、小さな身体を突き通すのは手間ひまかかりそうだった。
このまま放っておいてもいい。ここは大人でさえ迷う深山幽谷。この山の獣は凶暴だ。目を覚ましても、野垂れ死ぬ運命にある。
庄屋の息子は嗤いながら、旅の商人が指差した方角へ歩いていった。
庄屋の息子の周りの木々に、白い霞が生まれ、徐々に濃く厚みを増していく。
霞は霧になり、庄屋の息子の後ろ姿を覆い隠す。
霧は次々と草木や獣達の姿を隠していき、やがて山に広がり。
ついに山全体をすっぽり隠した。
*****
結衣は不思議な夢を見た。
こわくないひとと、見たことのない女性が、水のでる岩場のそばにいて、何やら難しい話をしている夢だ。
「水神殿、貴女の願いどおり、"門"と"道"を開きました」
「山神殿、我が願いをお聞き届けくださってありがとうございます」
「村民達は全員、我が呼び寄せに応え、罪有る者も無き者も"門"をくぐりました。あの"門"をくぐれば、現世に戻ることはかないません。村民は因果応報により"道"をさまよい行く末を選びますが、たとえ生まれ変わろうとあの村には決して戻れません。水神殿、もう一度聞かせてください。本当にこれで良かったのですか?」
----こわくないひと なんだか ないてるみたい。
「山神殿。村民の代表たる庄屋とその嫡男は、我が分身たる池に、よりにもよって怨嗟にまみれて水死した若者を投げ込んだのですよ。あのような者共を長といただいている村民を加護するなどできません。当然の報いです」
----あの おんなひとも ないてるみたい。
「貴女が好いていた彦一の魂も引き寄せに応えました。彼の魂は、いずれ冥界の王が引き受けてくださるでしょうが、今は私の開いた"道"で迷い苦しんでいます。残した両親が心配でならないのでしょう」
「あの子が殺されなければならない理由はなかったのに……水を大切にしてくれる、本当にいい子だったのに」
----やっぱり ないてる。
「そうですか」
「貴方には感謝しています。私の力が弱まった時も世話を焼いてくださいました。今回のこともそう。私が祟る力さえなくしてしまったから、貴方が代わりにやってくださった。ありがとうございます」
「………これで全て終わりました。水神殿、貴女はこれから何処へ行かれますか」
「我が分身を助ける術を探しに行きます。このままでは、我が分身は怨嗟に汚染されたまま永遠の苦しみを受け続けます。本体である私も然り。我が分身を浄化した折は、別の土地の守護をする所存です。あの儀式のおかげで、私はもう二度と、この哀しくて嫌な思い出のある土地を守護しなくてすみます」
「そうですか。水神殿、どうぞお健やかに」
「山神殿も、どうぞお健やかに」
----おんなのひと いなくなった。
結衣は夢の中で、こわくないひとが自分を抱き上げてくれたことが分かって、嬉しくなった。
山神は結衣を抱き寄せ、真っ黒な髪をすきながら頭を撫でた。
結衣はまだ"門"をくぐっていない。
"門"の手前で、庄屋の息子を怖がって一歩も動けなくなってしまったためだ。
だから、結衣はまだ生身の人間である。
さて、と山神は結衣の今後に思いを馳せた。
結衣は孤児になった。生身の人間である以上、近いうちに人里へ帰さねばならない。
結衣が住んでいた村には戻せない。
生きていく上で必要不可欠な水の神がいないからだ。次の水神がくるまで、数十年、いや数百年はかかるだろう。水神不在の土地は乾き、水は濁る。
そして山神たる自分もこの山から離れる。"門"だけでなく"道"を開いた山は、迷える魂がなくなるその日まで神の力を受け付けにくくなる。山の幸が減り、獣は飢えて死んでいく。庄屋親子は業が深い。冥界の王がその魂を引き受けるまで数百年以上はかかるだろう。
山神は結衣を見つめた。
腕の中で眠っている結衣は微笑んでいた。
今は、ゆっくりと眠るといい。
目覚めた時、現実は否応なく突きつけられる。
それまでは、深く安らかに眠るといい。
山神は結衣の頭を撫でると、ゆっくりと歩き出した。
結衣を抱えた山神の後ろ姿は、山の白い濃霧の中にゆっくりと溶け込み。
そして見えなくなった。
《終》
最後までお読みいただきありがとうございます。
このお話は、私が睡眠中にみた夢を元に書いております。実際にみたときはうなされました……アハハ(@遠い目)。
実際みた夢のボリュームは一部くらいなのですが、小説化にあたり、かなりお肉を追加しました。
なんちゃってホラーなものになってしまいましたが、御感想、楽しみにお待ちしております。
m(_ _)m




