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前編

※三部とも、残酷なシーンが散らばっています。苦手な方は御注意ください。


※登場人物の行為や作品世界は設定上のものであり、作者はこれらの行為等を推奨していません。


その年は、雨がなかなか降らなかった。



結衣(ゆい)は、手にした枝を無造作に振り回しながら山から駆け下りた。

真っ黒な髪は鳥の巣のよう、頬は鬼灯色に染まっている。足や着物の裾には泥のはねがあちこちに点々と散らばっている。特に足の甲は、皮膚がほとんど見えないほど汚れていた。

母の(りつ)の言うことを聞かず、山で走り回って遊んだ結果である。


結衣が、家の木戸を開け放して山へ向かった時は、太陽はまだ中天にあった。しかし今はもう西の山に沈みかけており、空を真っ赤に染めている。


----このままかえれば、おっかさんに おこられる。


律は洗濯をしてこいと結衣に命じた。だが、結衣は頬をふくらませて首を横に振った。


----ねえちゃんばかりあそんでる。ずるい。もぉやだよぉっ。


結衣の姉、美代(みよ)は、明後日の婚礼のために10日ほど前から家事を一切禁じられていた。嫁ぎ先は村の庄屋。村の水の管理も担っている豪農である。

庄屋の息子は、花嫁になる美代の手が、婚礼日までにあかぎれのない綺麗な手になることを望んだ。

豪農の大切な息子、ましてゆくゆくは村の大切な水を直接管理する者からの言である。

律は渋々承知して、美代に家事を一切させなかった。

美代の指はだいぶ綺麗になった。


家事ができない美代の代わりに、律は結衣をこき使った。

結衣は今まで手伝をしたことがなかったわけではない。

だが、美代がやっていたことの中には、結衣にはまだ荷が重いものがある。律はそれでも容赦なく結衣に振り分けた。婚礼の支度の忙しさもあって、そこまで気を配れなかったのだ。


結衣はとうとう癇癪を起こした。




日が落ち始めたと分かって慌てて山から戻ったのはいいが、家に近づくにつれて結衣の足取りは重くなった。


----どうしよう。おこられる。


律は怒ると、口だけでなく手も出す。お尻だけでなく、頬や頭をぶつこともあった。一刻も早く帰らなければいけないのは結衣にも分かっているが、帰ってからのことを想像すると、なかなか先に進まない。


家が視界に入った途端、ついに結衣の足が止まった。


----はやく かえらなきゃ。


そう思うのに、足は動こうとしない。


鴉の鳴き声が結衣の頭上でやかましく響いている。律の怒声が重なる。結衣は怖くてしかたなかったが。


----かえって あやまらなきゃ。


遅くなればなるだけ律の怒りは凄まじくなる。ぎゅっと目をつぶり、結衣は足を動かそうとした。




「もっとこちらにも水を引いてほしいんです!お願いですっ!」


結衣は目を開け、辺りを見回した。

目に入るのは稲の苗を植えた田んぼ。畦道。山へ続く獣道。家へ続く道。家。家の後ろにそびえる大きな山。

田んぼは乾いてひび割れており、苗は萎れていた。



家に帰ろうとしたことを忘れ、結衣は辺りをもう一度見回した。


「……も…………が……てくだ…」


今度は小さい。


----だれ?


前方に人影が現れた。人影は2つ。

既に陽は山の向こうに沈んでいるが、結衣は頑張って、その人影が誰なのか分かるまでじっと見つめた。

結衣の目に映ったのは、2人の男だった。

1人は庄屋の息子だ。毎日美代に会いに来ているのですぐに分かった。

もう1人の男は誰だか分からなかった。

だが結衣は、若い男を知っているような気がした。


「これを見てください!今のままじゃ苗が育ちません!今夜1刻、いえ、半刻の間だけでもいいんです!うちの田にも水を引いてください!」

男は、そばのひび割れた田んぼをさし示した。


「あなたの所だけでなく、村全体が水不足なんです。それに他に、もっと酷い状態の所があります。そちらを優先させなければならないのです」


----むすこさま へんなこといってる。


結衣は、昨日村中田んぼを駆け回ったが、男が示している田んぼより酷い所はなかった。


「お願いです!このままじゃ年貢も納められませんっ!どうしたらいいのですか?」


----あのひと おっかさんとおなじこと いってる。


年貢が納められなかったらどうしよう。律の口癖である。


「それは困りますね………一緒に来てください。水を分けましょう」


庄屋の息子は、結衣の家の方向へ歩き出した。男は顔を崩し、庄屋の息子にひたすら頭を下げ、小走りになって追いかけた。


結衣は、若い男が誰なのかを思い出した。


----あのひと ねえちゃんが いつも おにぎり あげてたひとだ。


結衣は2人のあとについて行った。




結衣の家は村外れに近い。

だが2人は、結衣の家の近くを通過した。

結衣は慌てた。このままついて行ったら村の外に出てしまうかもしれなかった。

律は絶対1人で外に出るなと常々言い聞かせている。知らない人について行くなとも言っている。


結衣は2人とも知っているから、ついて行っても怒られないと思った。だからあとをついてきた。

しかし、村の外へ出るかどうかとなると迷った。

陽はすっかり落ちて、目を凝らさねば2人の姿は藍色に変化した景色と同化してしまう。


----どうしよう。くらいし もう かえろうかな。


引き返そうと結衣が足を止めた時、前方の2人も止まった。




「ここの水路から水を引いてください。ああ、その石をどけるといいですよ」


男が畦道に屈んだ。庄屋の息子は男の後ろに立っている。


「どの辺りですか?暗くてよく見えません」


「もう少し顔を近付けてみると分かりますよ」


男の上半身が更に水路に近付いた。結衣から見ると、水路に顔を突っ込んでいるようにも見える。


庄屋の息子の腕が伸びた。腕はそのまま男の頭を後ろから押さえつけた。水音が響く。


----そうか。あそこは みずがあった。


男は体を崩し、地面に倒れこんだ。両腕をばたばた動かしている。


----なにしてるんだろ。


庄屋の息子は身を屈めた。


----ねえちゃんが おっかさんのあしを ぎゅうぎゅうしてるときみたい。


美代は時々律の足を揉んでいた。結衣はそれに似ていると思った。


----おっかさん ては どっちも じっとしてるのに。


ガボッゴハアッという音が結衣の耳に届いた。初めて聞く音だ。


音はしばらく続いたが、次第に小さくなっていき、やがて途絶えた。


男の両腕は地面に落ちた。身動き一つしない。


「これだけ水があれば満足でしょう?」


庄屋の息子の横顔がくっきりと見えた。


庄屋の息子は結衣の方を向いた。




結衣の呼吸が数秒間止まった。




結衣はいつの間にか木陰に身を隠していた。




足が震え始める。立っていられなくなり座り込む。震えはやがて臍、上半身、腕、歯へと伝染した。


足音が聞こえてきた。だんだん大きくなる。

結衣は湧き上がってくる唾を必死で飲み込み、息を潜めた。

じゃり。じゃり。土を踏む音が大きくなってくる。


じゃりっ!!


結衣がいる木陰の前で音は止まった。

結衣は息を止めた。目をぎゅうとつぶり、唇を噛んだ。

どくどくどく。心の臓が割れんばかりに脈打つ。胸を破って今にも飛び出てきそうだ。


どくどくどく。


どくどくどくどく。

結衣の世界は心の臓の音だけが占めていた。



じゃり。じゃり。足音がまた聞こえる。結衣は眉間に力を入れてさらに強く目をつぶった。


足音は…………だんだん小さくなっていった。





辺りはすっかり闇一色となっていた。


結衣は立ち上がろうとして失敗した。手足や体の一部が痛みを訴えていた。

お尻が地面に激突し悲鳴をあげそうになったが、庄屋の息子の顔が浮かび……口を両手で押さえて必死に声を押し殺した。



もう一度ゆっくり立ち上がる。よろめいて、尻餅をつきそうになり……まっすぐに立てた。



結衣は、1歩、2歩、3歩、とゆっくり足を前方に踏み出し。

唐突に走り出した。何度か転んだが、それでも懸命に走り続けた。






*****


結衣が洗濯をしている傍に、女が盥と洗濯板、着物を抱えてやってきた。

隣家に住む女で、歳は律と同じくらいだ。


「おはよう結衣ちゃん。一昨日は美代ちゃん、綺麗だったわねぇ。ありゃあ、三国一の花嫁ってやつだねぇ」


結衣は黙って洗濯を続けた。

雨はまだ降らない。水は貴重だ。うまく使わないと大人達はひどく叱る。結衣のことを聞きつけた律の怒りもひどくなる。

女性は結衣の返事を待たずに喋り続けた。


「お姉ちゃん嫁に行ってしまってさびしいかい?まあ、あの息子さんなら、結衣ちゃんが会いに行っても喜んでくれるんじゃないかねぇ」


結衣の腕の動きが鈍くなった。


「どうしたのかい?手が痛くなったのかい?」


結衣は首を横に振ると、荒々しく洗濯物をまとめて走り出した。


「そんなに走ったら転ぶよぉ」


結衣の速度がゆるむことはなかった。

結衣が走る方向から、別の女がやって来ている。結衣はその女にぶつかったが、そのまま駆け抜けた。

女は立ち止まって結衣の後ろ姿を見送ったあと、隣家の女の傍に膝をついた。


「結衣ちゃん、どうしたんだろうね。まあ、洗濯物は落とさなかったから良かったよ」


結衣とぶつかった女は、鷹揚に笑うと洗濯を始めた。


「まあ、律さんは結衣ちゃんに厳しいからねぇ。ところで聞いたかい?」


「何を?」


彦一(ひこいち)のことだよ。今朝、水神様の社の池で見つかったってさぁ」


「水神様の社で?」


「そう。多分、雨乞いのための覚悟の入水じゃないかって噂さ」


「雨乞いのための?」


話に花を咲かせてかけているが、2人とも手は休めない。


「そうさ。雨乞いの儀式の生贄は、あそこの池に入水…ごほん、入るだろ?それを真似たんじゃないかってねぇ」


「儀式を真似た?」


「そうなんだよ。働き者で気の優しい男だったからねぇ。庄屋さんガッカリしてたよ」


「庄屋さんが?」


「自分がもっと早く気付いていれば、早まったことはさせなかったのにってさ。息子さんも悔し涙を流していたよ」


「彦一の親は?」


「半狂乱になっていたよ。孝行息子だったからねぇ」


隣家の女は散らばっていた洗濯物をかきあつめ、よいしょと立ち上がった。


「まあ、お天道さんの気持ち一つとはいえ、ここで雨が降らなきゃ、彦一は死に損さね」


隣家の女は、じゃあねと家へ戻って行った。






*****


美代の婚礼から約1か月後。村に旅の商人が訪れた。

珍しい品々を持った旅の商人は、身なりも体格もよい男で、名のある者またはいずれ立派になるであろう品格があった。

宿を探していた旅の商人は庄屋の家に招かれ、手厚くもてなされた。



酒の席で旅の商人は、村の外れの向こうに見える山を超えて隣国へ向かう途中だと言った。


「それにしても、こちらは随分と雨が降っていないようですね」

そうなのですよ、と庄屋の息子は頷いた。

旅の商人の傍では美代が酌をしている。旅の商人が逗留の礼だと振る舞った酒だ。


「こうも水不足では、さぞやお困りなのでは?」


「何とか上手くいっているのですよ、息子のおかげで」


庄屋は皺だらけの顔をより一層皺くちゃにした。


「息子のおかげで水争いも起きませんでな。いや、身贔屓と言われようと、うちの息子は大した男ですわい」


旅の商人は勢いよく盃を傾けた。そのはずみで、旅の商人の袖から何かが落ちた。


「あら、こちらは?」


美代はたおやかに腕を動かした。あかぎれがほとんど消えかかった細い指が、黄色に光るものをつまんでいる。


「こちらは商人様の持ち物でございますか?」


庄屋の息子の問いに、旅商人は頷いた。


「こちらに向かう山の途中の沢で拾ったのです。何やら珍しそうなので、商いの話の種になるかと思いましてね」


庄屋と庄屋の息子の目が一瞬丸くなった。美代は口の端を持ち上げている。


「ほう。儂らも初めて見ますな。どの辺りでございましたか?」


「はあ。それが生憎と、うろ覚えでして。山中で迷い、意識が朦朧としている時に見つけた沢で拾ったものですから」


「そうですか」


庄屋の息子は美代に目配せをした。美代は旅の商人の盃に、なみなみと酒をついだ。






「結衣ちゃ〜ん、いっしょに行こうよ」


隣家の娘が結衣を誘いに来た。昨日訪れた旅の商人が、村の子供を集めて珍しい話をしてくれるらしい。

繁忙期が終わったので、子供がいなくても農作業の手は足りており、律も反対はしなかった。

しかし結衣は断った。


「ふうん。じゃあ、わたし行くね〜」


娘が去ったあと、結衣は草鞋あみを再開した。律は溜息をつく。

あの夜---美代の婚礼日前の、とっぷりと日が暮れてから帰って来たあの夜の翌日から、結衣の様子がおかしくなった。

律が言わない限り外に出ようとしないのだ。外で遊ぶことはもちろん、外に出てもすぐさま用事を済ませて家へ帰ってくる。

加えて言葉が少なくなった。

夫は「結衣もそろそろ年頃だから、おしとやかになっているんじゃないか」と言うが、それとは違う気がしている。

怯え。恐れ。そういったものに近い。ひょっとして、厳しくし過ぎたのだろうかとも律は思った。


「結衣、ちょっとお使いに行ってきておくれ。余ったら、何かおやつでも買っていいから」


結衣は頷くと、律から預かった銭を握りしめた。





お使いが済んで早足で家へ戻る結衣だったが、とある角で曲がった時、誰かにぶつかった。勢い余って、その誰かの体の上に乗っかってしまう。結衣は慌てて離れようとした。


「おや、この村の女の子だね?」


----きいたことない こえだ。


その人物は結衣の脇に腕を差し入れ、ゆっくりと立ち上がった。

結衣は、自分を片腕で抱っこしたまま立ち上がったその人物の顔を見る。

見たことがない男だった。そして大きい。

男は結衣と自分の着物についた砂を払うと、にっこりと笑った。


「お兄さんは今から、村の子どもたちに旅のお話をするんだ。一緒に聞くかい?」


結衣は首を横に振った。


----そと こわいよ。


「そうか。外はこわいか。何かおそろしいものでも見たのかな?」


結衣はびっくりして男を見た。口に出していないのに、男には結衣の気持ちが分かったようだった。この人は怖くないと、結衣は思った。


----あめがふれば そと でても だいじょうぶ。


「何故だい?」


----おみず たりない。でも あめがふれば おみず たりる。


「水があれば大丈夫ってことかな?」


結衣は大きく頷いた。


----おみず あれば だいじょうぶ。あのひと あんしんする。


「あの人って?」


----ねえちゃんが いつも おにぎり あげてたひと。


「その人は、どこに住んでいるのかな?」


----しらない。


男と美代が一緒にいる所を見たのは田んぼや畑だった。


「そうか。じゃあその人は、お姉さんの他に誰と会っていたか見たことあるかな?」




結衣の顔から血の気が失せた。体が小刻みに震えだす。


男は目を細めると、結衣の小さな体を抱きしめた。結衣の頭や背中を撫でて、赤ん坊のようにあやした。

結衣は男の首に縋りついた。


「大丈夫だよ。今のお話は誰にも言わない。お兄さんとの秘密だ」


男の声は優しく腕は温かい。結衣はこくんと頷いた。






隣家の女が畑へ行く途中、庄屋の近くに住む女とすれ違った。随分と急いでいるようで、隣家の女におざなりの会釈をする。


「あら、どこへ行くんだい?」


「美代さんに頼まれて、旅の商人さんの所へ行くのよ。見せてもらった珊瑚の簪を今すぐつけてみたいんですって」


隣家の女は眉をひそめた。


「美代ちゃんが?あの子、随分変わっちゃったのねぇ」


「変わった?」


「そんな贅沢するような子じゃなかったのに。まあ、庄屋さんとこはお金もあるし、美代ちゃんにとっては息子さんが正解だったってことなのかねぇ」


「息子さんが正解?」


隣家の女は辺りをキョロキョロ見渡した。運良く周囲には2人の他誰もいない。ささっと使いの女に近寄り、自分の口元に手をあて使いの女の耳元で囁く。


「美代ちゃんと彦一は付き合っていたらしいのさぁ。彦一が一方的に懸想してたって噂もあるけどねぇ」


隣家の女は言うだけいって立ち去った。



《中編に続く》



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