46:忘れ物と英語
し、しまった…
ただ今の時刻は十三時四十五分。
絶賛、授業中です。
ペンを手からポロっと落としてしまう程、彼女が何を”しまった”と思ったかはこの一文に隠されている。
[It was unnecessary for her to buy a new suitcase.]
彼女は新しいスーツケースを買う必要は無かった。
何て事無い英文だが、注目すべきはただ一単語。
suitcaseだ。
この単語から伊奈実はペンをポロっとする事を連想ゲーム的思考で思い出した。
suitcase=スーツケース=あ…私、自分のバッグを先生の車に置いて来ちゃった…。
すっかり忘れていつもの生活を楽しんでいたけれど、朝の怒りの叫びからそのままの勢いで車を降りて今に至る訳で。
三泊した分の着替えや、明日必要な数学の課題もあのバッグに入っている。
どうしよう…
もう一度先生に会わなくちゃならないなんて面倒だな。
でも荷物先生に預けたままは…何だかもっと面倒な事になりそう。
よし、こうなったら取りに行くしか無いよね。
「Miss Kutani, what's are you doing ?」
(九谷さん、あなた何しているの?)
「へ?」
机から落ちたペンを拾う途中の姿勢のままで考え込んでいたら、教科担当のMrs. Hiraokaに声をかけられた。
まずい…
「A~…I was trying to catch it had dropped the pen.」
(あー…ペンを落としてしまったので拾おうとしていました。)
「Hmm ... Read textbook to page 23.」
(ふーん…教科書23ページ読みなさい。)
「Yes.」
(はい)
*
「伊奈実さっき平岡女史に睨まれてたけど大丈夫だったか?」
授業が終わると真っ先に、カオがやってきてくれた。
Mrs. Hiraokaこと平岡先生は、漆黒という言葉が合う髪色のおかっぱ頭でキリリとした銀縁眼鏡が印象的なちょっと厳しい女性教師だ。
授業中以外はみんなに平岡女史ってあだ名でこっそり呼ばれている。
「うん、なんとかね。でもペン拾おうとして授業中に考え込んでた私が挙動不審な雰囲気醸し出していたかもだし」
「でもぉ伊奈実ん英語喋れるんだねぇー」
花もやって来て、空いている隣の席に座った。
「あ、それカオも思った!だから平岡女史も睨んだだけで引き下がったんだよ絶対!」
そう。いつも他のクラスメイトが注意されているときは、英語で何やら話しかけてから返事があったり無かったりの間合いをみて、日本語でガミガミ叱る。
そんなパターンだったから、私にも雷が落ちるかと思ったけど、今回は何故か怒られなかったから不思議だった。
「喋れるって言ってもミナミさんに向こうに連れて行かれそうになった時、叩き込まれたほんのちょっとだけだよ。多分色々文法とかあやしいと思うし…」
「ミナミさん、さすがだな!」
「叩き込まれたってぇ、具体的にどうやったのぉ?」
「…英語でしか話してくれなかったし、英語で話さなくちゃ返事してくれなかったからもう必死で…」
「わぁースパルタだねぇ♪」
「ミナミさんすっげーな。カオなら間違いなく家出してるよ」
そう。あの数ヶ月間、本当に言語がいっぱいあるこの世界が何度憎いと思った事か…
「うん。凄すぎて私…三時間だけ公園へ家出したよ」
「…」
「…」
ん?何だろうこの間?
カオと花が口をあんぐり開けていた。
「うゔんっ、伊奈実ん?それってぇ、全然外出の範囲内だよぉー」
「だなー…っぷ、ははははー!!!」
カオが机をバシバシ叩きながら爆笑し始めた。
花も肩をプルプルさせている。
意外と本気で三時間、家出したんだけどな…
「でぇ、伊奈実んどのくらい喋れるようになったのぉ?」
気を取り直したように花が尋ねてくれた。
「喋るのは、さっき平岡先生と話したくらいのがほぼ限界で、どっちかって言うとリスニングの方がもうちょっと分かるぐらいかな」
「へぇー。じゃぁ、外人さんの言ってる事わかるってことぉ?」
「んー…日常のやさしい会話くらいならわかるかな」
外人さんか…。
そう言えばサクラさんはたまに、OhとかHi〜!とかoh my God!とか感嘆詞的なのの他にも、たまにリーヤさんと英語でちょくちょく喋っているのに、先生からは一度もそれっぽい事聞かないな。
私とだけじゃなくて、お屋敷の皆さんとも完全な日本語で会話していたし…。
「すげーじゃん伊奈実!」
カオの興奮気味の声で思考が現実に戻って来た。
先生なんて、今はどうでも良いはずなのに。
「でも私が大して喋れなくてコミュニケーションが成り立たないから結局ダメだよ」
「ふーん?そんなもんか?」
「カオぉー、あんた自分に置き換えてごらんなさいよぉ?日本語分かるのに、自分で思ってる事をうまく喋れないって結構もどかしいんじゃなぁい?」
花の解説に腕を組んでカオは真剣に考え始めた。
「ぅん〜………」
「ほらぁ、例えば環ちゃんにいつものゲームでズッタズタに負けてぇ”カーオ、お前弱っ!”って言われるとするでしょぉ?」
「うむ」
「いつもならぁそこでカオは何て言う?」
「環兄ぃ、花にかまってもらえないからってどんだけゲームに打ち込んだんだ?暇人って環兄ぃのことだよなー」
わー。カオ痛いとこ突くんだな。
環南先輩の弱点を知ってるだけある。
さすが幼なじみ。
「って言う、今の返しができないんだよぉ?」
「えー!言われっぱなしって事!?それはカオ耐えられない!無理!悔しすぎ!!」
「でしょぉー?」
「おう。伊奈実も悔しいってことだよな?」
目の奥になにやら炎を宿して真っ直ぐこっちを見てくるカオ。
何か微妙にカオが思ってる事と違うような、合ってるような…?
「うーん…そ、そんなとこかな」
「でも今の話ぃカオの場合はぁ、馬鹿にされたのが悔しいってのが九十パーセントくらいは占めてそうだよねぇ?」
「おい、花さんや!君がその例えをカオにしたんだけど?!」
「カオにはこのくらいの例えじゃないと通じないからぁ、レベル下げたらちょっと方向性間違えちゃったかなぁ☆」
「ズゴー!!!」
カオが派手に転け技を披露した所で六限目のチャイムが響いた。




