閑話:雲の切れ間から・3
十三年前の夏。
あの日、じわりじわりと時間が経つほど効く毒リンゴをあの子は、自分でも気付かぬうちにのみ込んでいた。
_________________________
世間のちびっこ達は夏休みで、もちろん四歳の伊奈実もお休み。
近所に同じ年頃の子供が居なかったあの子の楽しみは、向日葵の水やりと観察。
大きな花がもうすぐ咲きそうだと笑顔で騒いでいた。
暑い暑い真夏日が続く、そんな夏の日だった。
「ミナミさんおかえりーっ!」
アパートの鍵を開けると、パタパタとかわいい足音で私の元へかけて来る伊奈実をぎゅーっと抱きしめる。
この瞬間に一日の嫌なこと全部吹っ飛んでゆくのよねー。
伊奈実パワーっていうのかしら?
「ただいま♪アイス買って来たわよ」
「ほ、ほんとぉ?」
パーッと目を輝かせて首を傾げる。
くーっ!かわいいな!!
「ほら、本当よん♪」
「ぃやったぁー!ミナミさんありがとお」
「ふふふ、よるご飯食べた?」
「んーん。おひるたべてないの…」
首を振り、グーと鳴るお腹を両手で押さえて俯いた。
「おなかへった」
お昼食べてない?!ってことはこの暑いのに私と食べた朝ご飯が最後っ?
十二時間は経ってるじゃない…馬鹿兄貴!
「わかった。すぐ作るから、とりあえずアイス食べてて!」
パンプスを脱ぎ捨てて伊奈実を抱えて部屋に入って自室へ向かう。
急いで着替えながら、今日は休みのはずの兄貴の気配が無いことに気付いて、伊奈実に尋ねた。
「兄貴はどこ?」
「んとね、いなみにはわかんないトコ?いくってパパゆってた」
「ん?いつ帰ってくるか言ってた?」
伊奈実には分からないって、また無いお金でギャンブルか?
「んーん。ミナミさんといいこでまってろって。パパおみやげかってきてきれるって〜!」
「おみやげ…?」
兄貴はどこへ出かけても、おみやげとかそういったモノに興味を示さないのに。
夏の虫がリンリン鳴く音が耳にやけに大きく響いた。
ざわざわと、どこから湧くのか分からない胸騒ぎが体中を巡って止まらない。
何この嫌な感じ…
アイスを食べている伊奈実を居間に残して、兄貴の部屋へ入る。
暗い部屋の片隅に、白く浮かび上がる四角いもの。
それは小さな、たった一枚の紙だった。
ーーーーーーーーーーーーーー
俺はダメだ
伊奈実を育ててやってくれ
頼む
兄
ーーーーーーーーーーーーーー
見慣れたはずの汚い字が、数分間、意味を持ったものとして読む事ができなかった。
「ミナミさん?おなかペコ…どっかイタイ、イタイしたの?」
「え…?」
いつの間にか膝が畳についていて、近づいて来た伊奈実は背伸びをしながら私の頭を撫でていた。
そこでようやく意識が現実をとらえて、伊奈実を抱きしめると涙が止まらなくなった。
「イタイのイタイのとんでけー!イタイのイタイのとんでけー!」
必死でなぐさめてくれる、優しい伊奈実。
何が”俺はダメだ”なのよ。……始めからダメだったじゃない。
でもダメなりにこの子と一緒に過ごしたじゃない!
なのに!
なのにどうして伊奈実にこんなひどい事できるのよ!
「大丈夫よ。さ、さぁご飯にしようね」______とっさに誤魔化す事を選んでいた。
でも感の良い伊奈実を誤魔化すのは、夏休みが明けるのと共に不可能になった。
「ミナミさん。パパ、いなみをおいていなくなっちゃったの…?」
あの瞬間、私は伊奈実を抱きしめることしかできなかった。
突然に絶ち切られたのは、”血の繋がった親”という重すぎる絆。
それは四歳の伊奈実にとって、彼女の世界の核のほぼ全てだったものが無くなってしまったと言うことだった。
それから伊奈実は変わってしまった。
はじめのうちは酷くて、保育園に行くことはおろか、私から全く離れようとはしなかった。
さらに眠る事も上手く出来ない状態で、ご飯も食べてくれなくてもうボロボロだった。
ようやく保育園に行ける様になっても、伊奈実は睡眠と食事が上手く取れないままでいる。
「遅れてすみません。九谷です~」
「あ、九谷さんシーです!」
先生が人差し指を口に当ててウインクした。
「今、伊奈実ちゃんようやく眠れたトコなんです」
見ると、遊び道具に囲まれて積み木を握りしめ、タオルケットをお腹に巻いて寝ている伊奈実がいる。
ちょっとでも周りが動くと眠りの浅いこの子が起きてしまうから、先生は気を使ってそのままにしてくれているのがうかがえた。
「すみません、よう子先生」
「いいえ~」
「今日は…泣いていませんでしたか?」
ここのトコ、突然泣き出す事を保育園で繰り返している様で、それを聞くのが日課になりつつあった。
「お昼前に一度…。それからお弁当もほとんど手をつけれなかったみたいで…」
「そうですか…。お世話になりました」
あんなに毎日楽しそうに世話をしていた向日葵は、花が咲く前にいつの間にか枯れ、隅のほうで小さく黒い固まりになってしまっていた。
_________________________
じわり、じわり。
今もあの子を蝕み続けている毒は、きっとあの向日葵のように暗い色をしている。




